インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~ 作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス
――空に昇らんとする月が見える。
現実のそれよりも青く輝く丸い月。妖精郷と浮遊大陸全土を照らすそれは妖精達に飛翔の恩恵を齎す。昼は陽光、夜は月光により翅に飛行の力を蓄える妖精にとって、無くてはならない存在だ。運営が変わって以来、飛行時間は撤廃されたが、光が届かないダンジョン内は未だ飛行制限範囲内のため、いやでも意識しなければならない。
いまは、そのシステム面の恩恵を除いても眺めていたい気分だった。
空都は《三刃騎士団》と鉢合わせるので除外したわたしは、なにかに誘われるように大樹イグドラシルの根元に足を運んでいた。
旧ALO時代の《グランド・クエスト》を受ける場所だった大門の広場。アルン市街地の最上部に広がるそこは、巨大な円錐形を為すアルンの表面を這いまわる世界樹の値が寄り集まり、一本の幹として屹立する光景が一望出来る。広場からは単なる湾曲した壁にしか見えない程に直径は太い。
その壁の一部には、プレイヤーの十倍はあろうかという身の丈の妖精の騎士を象った彫像が二体並んでいる場所があり、そこには華麗な装飾が施された石造りの扉が
いまはそれが救いに思えた。
申し訳程度に端に設置されている石造りのベンチに腰掛け、空を仰ぐ。
まばらに雲が流れる紺色の空。その中心でひときわ輝く青い月。お供のように煌めく小さな星々――どれも、現実の日本では見る事が難しい夜景ばかり。
仮想世界に囚われること二年。
現実に復帰してから半年が経とうとするが、未だ文明利器や勉学に触れてなお意識は今は存在しない浮遊城にあるように思える。
おそらく現実に良い展望を見出せていないからだ。
七色・アルシャービン。日本人の我が母と、ロシア人の父から生まれた、わたしの妹。生き別れの実妹。
……生まれながらの、天才。
彼女は
溜息が零れる。
七色の教育方針で意見が割れ、離婚してから十年。血の繋がりがあるとはいえほぼ他人に等しい時間を生きた。わたしが知っている幼い七色は――「
そう思うと、また息が零れる。
そのときだった。ひぃぃん、という振動音――飛翔音が、響いて来た。それはたちまち大きくなり、背後で途絶える。ぶわりと風が吹いた。
「――ずいぶん探した」
幼さの強い――けれど、子供らしくない落ち着いた声。
広場の石畳に降り立った黒尽くめの
りぃんと振動する翅が畳まれる。二枚一組が二対の羽はたちまち色を薄れさせ、殆ど見えなくなった。ちりりんと微かな音で翅が消えた事が知らされる。つい数日前まで補助スティックを使っていたと言われても困惑するレベルの随意操作。濃密な練習をしたのだろう。
翅が消えたところで、影妖精――キリトが、近付いて来た。
ベンチの右端へ寄る。空いたところに、彼は座った。
期せずして並んで座ったが距離感は絶妙の一言。近くは無いが、他人同士という程の遠さでもない。気遣っているのか、無意識なのか。
――話を切り出さない事から、どちらかなんて明白だった。
「キリト君」
「ん」
「七色は……どう、だった?」
少しのあいだ続いた無言を、わたしから破る。
二人して月を見上げながら、彼はぽつりぽつりと、ゆっくり話してくれた。
彼女が何故リアルバレなどしたのか。研究はどのように進むのか。アイドルとの関連は何か。《クラウド・ブレイン》の計画とスヴァルト攻略がどう結びついているのか。
――これから、どうなるのか。
「……そっか」
全てを聞き終えた時、わたしは一言、そう洩らした。
噛み砕きながらも順序立てて分かりやすく説明してくれた事は分かる。何を言っているかもなんとなく分かる。事実、どのように《クラウド・ブレイン》が作られるかを説明できる程度には、理解出来たつもりだった。
――だが、納得いかない。
彼女は頻りに『感情と理性を容易に割り切れない』と言ったという。なるほど、これがそれなのだろうなと、どこか冷静に思考が回る。
「ありがとう、キリト君、ここまで協力してくれて。『お願い』を聞いてくれて」
隣に座る少年に礼を言い、立ち上がる。
「――レイン、いったいどうするつもりだ?」
わたしの背に、そう問いを投げられる。
「決まってる。あのバカ妹を止めに行くの」
『月』を見ながら言う。
わたしの心は、計画の全容を知って
「一人でか」
「――ひとりだとしても、行かないといけないの」
強く――自分に言い聞かせるように、答える。
たったひとりでどうにか出来るとは思っていない。そこまで自惚れてはいない。相手は七色だけではない、彼女のアイドルとしての顔に惹かれ集った《三刃騎士団》と《セブン・クラスタ》達だ。根本的に正すには彼女を糾弾しなければならないが、そこまでの道のりを往くには、ことによれば万単位の人間を相手取らなければならない。
――それでも。
忘れられているとしても、彼女の『姉』として、わたしは妹の過ちを正すべきだと思っている。
かつて電子の闇の中で妖精が少年を正したように。
――一種の
だが、関係無い。
彼女の研究の価値は、とても大きく、重要なものなのだろう。研究チームへの援助資金や期待度を考えれば世間的にはわたしの方が悪かもしれない。
それを理解した上で、わたしは往く覚悟を固めていた。
「なら、俺も付き合おう」
石を踏む足音。傍らを見れば、とても小さな少年が立っていた。彼も月を見上げていた。
「もう『お願い』は済んでるよ?」
わたしがした『お願い』は、七色が何を目的にALOで動いているのかの調査。自分で《三刃騎士団》に入り込んで内部調査する傍ら彼は外部からの客観的視点を持つ側として情報を集めてもらっていた。それを今日の話で全て終えたので、わたしに協力する
しかし、隣に立つ彼は、首を横に振った。
「
そう、何時だったかにも聞いた言葉に、笑みが漏れる。
わたしは彼がALOで動いている『事情』を知らない。七色関連なんだろうな、という朧気な推測しか出来ていない。そんな前情報は少ない状態だが――いまの言葉の意味は、少しだけ読み取れた。
彼の気遣いに、わたしのケツイは満たされた。
「――ありがとう、キリト君……ほんとうに、ありがとう」
もう一度。巻き込んでしまう事への謝罪を含めて、お礼を言う。
――返事は無い。
『月』を見上げ続ける彼の無言。それこそが、何よりの返事だった。
*隣人からのやさしい気遣いに心が温まったことで、あなたはケツイにみたされた。