インフィニット・オンライン ~孤高の剣士~   作:黒ヶ谷・ユーリ・メリディエス

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 どうも、おはこんばんにちは、黒ヶ谷・ユーリ・メリディエスです。

 今話の視点はオールユウキ。

 ただ前半と後半で話の時系列が異なります。前半は特別編で描写した大晦日の回想、後半は現時点での話。

 あと、今話は後書きを敢えて書きません。

 文字数は約二万三千。

 ではどうぞ。




第九十二章 ~ユウキの危惧~

 

 

 最少数精鋭ギルド《スリーピング・ナイツ》が攻略組に最初期の頃から参列出来ている要因である自分には、自分が慕情を向ける少年にしか明かしていない秘密がある。双子の姉には勿論、大親友と言える【閃光】にも、今や《攻略組》随一となった槍使いの女性にも明かしていない秘密だ。

 その秘密が男女の仲に類する色気のあるものなら良かったのだが、残念ながらその秘密が出来たのは、デスゲーム開始から二ヶ月弱が経過した2023年の元日の事だ。

 その日、自分は仲間達と共に年を越す瞬間を共にしていた。

 最初は初日の出を迎えようという話になっていたのだが、間の悪い事に様々な事情や陰謀が渦巻いていたせいで第五層ボスを早急に討伐せざるを得なくなり、《ビーター》と呼ばれる少年が無茶をした。その無茶は、当時《攻略隊》と呼ばれていた最前線攻略集団の内部崩壊を防ぐためのもので、自分達も加担したものだった。

 故に誰もその無茶を責める事は無く、加えて彼の疲労も本当なら自分達も背負わなければならないものだったため、彼の眠気を考慮して初日の出は断念し、年を越す瞬間を拝む事になったのである。

 ――――とは言え、当時まだ九歳の少年が、深夜十二時を過ぎてまで活動し続ける事は些か難があった。

 ただ普通に過ごしていたのであればまだ起きていられただろうが、第五層ボスを倒す為に数日間睡眠時間を幾分か減らして攻略を押し進めていた事もあり疲労が蓄積していた。そのため少年は年を越すまでは何とか意識を保っていたが、互いに祝った直後電源が落ちた機械の如く眠りに落ちてしまう。

 つまり彼は当時誰も知り得なかった寝床である拠点に帰る事無く、年を越す為に選んだ人気の無い教会の中で寝こけてしまったのだ。

 第五層ボス攻略自体が非公式且つ普段のペースに較べて急ピッチだったので、最も速く情報収集とマッピングを行っている彼にとってここ数日は地獄のような忙しさだっただろう。

 だから寝落ちしてしまった事も無理からぬ話であった。そこにいた誰もが、微笑ましいものを見るように笑った。

 

『あらら……キリト、寝ちゃったね』

『ま、ここんとこずっと無理してたんだ、むしろこれでボス戦でもずっとダメージディーラーをしてたんだから大したモンだぜホント……ちっとは弱音を吐いたって良いのになァ、まったく』

 

 キリトがSAO正式サービスにログインして直後にフレンドになったという《風林火山》のリーダークラインはそう言い、壁に凭れ掛かって寝息を立てる少年を背負った。聞けば《風林火山》の拠点に今日は休ませるつもりらしい。

 普段であれば毛布を被せて教会で夜を明かし、人目に触れないようにしていただろうが、元旦元日という時期、そして第五層ボス攻略が唐突なものだった事が幸いした。

 第六層はアクティベート直後の《街開き》の影響で人通りはあった。しかし元旦に階層が解放されるとは誰も思っておらず、新年を迎える祝いは第五層で行われる予定となっていた。だから第六層は普段の《街開き》と比して人気は少なめとなっていた。

 第五層ボス部屋で、とある事情から抜け駆けしてLAボーナスを何が何でも手に入れようとしていた者達の対応をしていた彼を待つ場所も、当然自分達はそれを考慮して選んでいた。

 そういう事情があったから、クラインはキリトを連れて自分達の拠点へ連れて帰る選択をしたのだ。友人を見捨てられない性分がそうさせたのだろう。

 勿論自分達も同じ気持ちだった。というか、クラインが行動しなかったら宿屋へ連れて行こうかと考えていたくらいだ。

 時折『彼女募集中』とおどけた風に言う男性だが、事の優先順位や人情を優先出来るその人格は真面目にも思え、好ましく感じていた。

 無論それだけで心の底から信用を向けられる訳では無かったが。

 そうして寝こけたキリトを《風林火山》の六人が連れて行き、教会に集まっていた用事も粗方済んだボク達は、後は各々の好きなように解散となった。

 通常であれば攻略隊全体で行われるボス攻略だが、今回に第五層の場合に限っては『誰が攻略したか』をキリト以外では知られてはならない非公式なものだったため、大手ギルドのリーダー達も攻略隊への説明をする必要は無かった。むしろしたらキリトの行動を無駄にしてしまう。

 なので疲労した姉ちゃんやエギル、アルゴなどは早急に拠点としている場所へ戻る事にしたし、ヒースクリフさん達も一応と第五層の新年祝いに顔を出す事を決めた。

 自分も新年祝いに行ったが、目的はヒースクリフさん達のような挨拶回りでは無く、プレイヤーが出している露店の買い食いと見物。だからそこまで祝いの場に長居はせず、少し離れた場所へすぐ移動した。

 第五層の主街区は《カルルイン》。地上には遺跡風の街が、地下へ降りれば数層に渡って《圏外》の地下遺跡が広がり、第五階層には迷宮区へ繋がる道を守る中ボスが立ちはだかっている特異な街だった。

 つまり街の中に、《圏外》へ通じる入り口が存在していたのだ。

 とは言え、実際に《圏外》となるのは地下二階から。

 何故地下一階が《圏内》になっているのかについては、恐らく《カルルイン》の特徴に由来する。

 遺跡都市というコンセプトのせいか街中には《カルルコイン》というコルへ還元可能な遺物が散見され、他にも宝石や指輪などの遺物が転がっていた。それらは地下都市にも散見され、その量も地上の都市部とは比べ物にならない程多い――――らしい。地下一階が丸ごと《圏内》領域となっているのは、《圏外》へ出なくても《圏内》である程度資金稼ぎを行える《遺物拾い》を行いやすくするように、という運営の計らいという訳だ。

 実際第一層や二層で頑張ってMobを倒したりクエストを消化したりするよりは、まだ稼ぎは良いと言えた。故に《遺物拾い》はベータ時代も結構な人気を誇ったという。

 尚、姉はともかく自分は遺物拾い祭りには参加していない。なので遺物の量が地下に多いという話もアルゴの話で知ったものである。

 更に余談だが、キリトもこの《遺物拾い》はした事が無いらしい。

 正確に言うと拾う事をメインに行動した事は無く、攻略中に結構な量の遺物を拾ってコルへ還元してはいたという。あまり街に滞在せずダンジョンに潜ってばかりいたからこその量だったようだ。

 そんな人気度が鰻上り間違いなしの都市だが、他の街には無い絶大な欠点というものも持っていた。

 街中に《圏外》への入り口が存在するという点だ。

 通常であれば街や村の門を目印に《アンチクリミナルコード》の有効範囲が定められている。中世では城塞都市というものがあるが、あの壁のようなものの外に行けば《圏外》、内に居れば安全な《圏内》という意識を得られる訳だ。

 しかし《カルルイン》はそうでは無かった。朽ちた建造物と、滅んだ街を後に来た人が再建した事で出来たような建造物が入り混じる遺跡都市には、城塞都市にあるような壁が存在せず、つまり《圏内》と《圏外》の境界線の目印となるものが無かったのである。

 更に悪い事に、《カルルイン》という遺跡都市は内部に《圏外》領域が存在する。地下遺跡がそうだ。

 加えて先に挙げた通り、非常に《圏内》と《圏外》の境界線というものが分かり辛い。

 つまり犯罪者達にとってすれば、《カルルイン》という遺跡都市は非常に動きやすく、また行動を起こしやすい都市だった。

 当時まだオレンジへの危機感を然して持っていなかった自分はその危険性をよく理解していなかった。攻略隊が内部から崩壊する危機を乗り越えた事、同時に新年を祝う祭りの雰囲気で気が抜けていた事もあるだろう。

 自分はその時、誰とも行動を共にしていなかった。

 《圏内》だから大丈夫だろうと、そう思っていたのだ。

 新年を祝う祭りは、第五層フロアの南に広がる《カルルイン》の中央にある転移門広場で開かれていた。そこから《圏内》でのみ使えるという道具屋で売られていた花火が打ち上げられてもいたし、祝いの場という事でソードスキルを壁に当てて騒ぐ人達も大勢いた。

 自分は花火をよく見たいが為に、所謂《特等席》というものを探し、そこに居座っていた。街の東にある古城遺跡四階のテラスだ。

 その古城遺跡は幾つかのクエストの舞台になっており、内容によってはモンスターも出現する場所だった。

 とは言え《圏外》では無いためモンスターはポップしない。それを自分はアルゴが手掛ける攻略本で、また自分自身でクエスト時に確認してもいた。だから安全だと判断し、自分は露店で買い溜めた食料をテラスで一人消費していた。

 

 ――――《PoH》が襲い掛かって来たのは、その時だ。

 

 幾ら《圏内》だからとは言え死角の多い場所では何が起こるか分からないため、自分は常日頃から《索敵》スキルを使用し、周囲の警戒を怠らないようにしていた。

 また自分は姉よりも本能や直感的な感覚に優れるようで、所謂『イヤな予感』というものはよく当たる。SAOで過ごすようになってから二ヶ月弱の当時でも、その勘で命を拾った事は少なくなかったから自分はとても信用していた。

 その時も、食事と花火に意識を傾けていたとは言え、油断をしていた訳では無かった。

 むしろ露店で購入した焼き鳥に齧り付く寸前、背中を悪寒が走ったくらいだ。咄嗟に振り返ろうとするくらいにその悪寒は最大級の危険を知らせていた。うなじにすら走った辺り、事の重大さは明白だった。

 だが、自分は振り返る事は出来なかった。服越しに背中から鋭く尖ったモノを突き付けられたから。

 

『イッツ・ショウ・タァーイム』

 

 刃物を突き付けられるというそれまでの人生に無い経験と直面した窮地に凍り付いた自分の耳朶を、韻律に富み、それでいながら冷たく感じる男の声が耳元で打った。

 つまり自分の背後までその人物は忍び寄っていた訳だ。

 

 ――――ボクの《索敵》スキルをすり抜けるなんて……!

 

 ここまで距離を詰められ、更には鋭いモノ――距離的に恐らくは短剣――を突き付けられるまで勘付く事すら出来ず、更には常時展開していた《索敵》スキルをすり抜ける程の実力者を、自分はキリトとアルゴの二人しか知らなかった。

 姉を守るために、自分の身を守るために常に警戒心を先に立たせて《索敵》スキルを使い続けていた自分の熟練度は、当時ではかなり高い二五〇という値に達していた。

 キリトが三〇〇超え、アルゴが三〇〇目前、アスナや姉が一〇〇程度と言えば、この数値がどれだけ高い方にあるかは分かるだろう。だからこそ自分も己の《索敵》の精度を信じていた。

 だからこそ、すり抜けられた相手を即座に《危険人物》と認め、反射的に腰の剣帯から吊るしたままだった愛剣の柄に手を掛けた。即座に動けば反応は鈍るだろうと思っての行動だ。

 

『おっと、じっとしてろよ? じゃねェと背中のコイツをブスリといくぜ?』

 

 しかし剣を抜く事は出来なかった。存在を主張するかのようにトントンと刺さらない程度に軽く突かれてしまっては動こうにも動けない。

 否、思考が混乱していた。混乱していたから声を掛けられただけで体を硬直させてしまった。その声が、それまで聞いた事無いくらい冷たいものだったからだろう。

 過去の経験から冷たくあしらわれたり、人と見ない言動というものも耳にした事はあるが、それらとは明らかに質を違えたものだった。未知に対する恐怖心が体を鈍らせていたのだ。

 だが二ヶ月弱もの間ずっと命のやり取りをしていたからか、混乱している中でも冷静な部分もまた存在していた。

 

『……キミ、誰。いきなりそんなモノを突き付けて来るなんてマナーがなってないんじゃないの』

 

 少しでも恐怖を押しのけるためか、硬い声ではあったが威圧的に冷たい声でそう応じる。人からは『元気な女の子』で知られる自分の普段とは違う対応を見て動揺してくれれば、その隙を突こうと考えていたからしたらしくない行動だった。

 

『ククッ……言うねェ。この状況で強気なヤツは嫌いじゃない。噂や見た目の可愛さに反して随分とイイ女じゃねェか』

 

 だが、男は動揺せず、むしろ面白がるように低く喉で嗤うだけ。

 内心で舌を打った。

 体の方は、男の言葉にブルリと震えたが。

 

『そーいう事は、もっと大人な女性に言ったらどう』

『生憎と俺は中身に拘る方でね。育ってるからイイって訳じゃねェんだわ』

『ふぅん……ボクみたいな子供に『イイ女』って言うなんて、もしかしてヘンタイ趣味なの』

『……言ってくれんじゃねェか』

 

 少し挑発をし過ぎたか、不機嫌さを感じる声音で言った男が背中に感じる短剣の刃先を、僅かに押し込んで来た。もう少し力が強ければ刺されてしまうだろう。

 だが、それはあくまで《圏外》での話。

 《圏内》に居る限り、プレイヤーのHPを減らす事に相当する行為は全て阻まれ、同時に禁じられている。

 

『……此処は《圏内》だよ。最初は驚いて反応が遅れたけど、そんなモノ、もう脅しにもならない』

 

 《カルルイン》の都市部であれば有効的な手だっただろう。どこからが《圏外》かすら曖昧に過ぎる場所だ、何日も居続けて地理を把握し、幾度も行き来して漸く境界を覚えられるくらい曖昧である。

 しかし、同じ《カルルイン》内部でも、この古城遺跡という場所に関しなら問題無い。

 何しろしっかり直接的及び間接的に情報を集め、この遺跡内部は《圏内》である事を確認しているのだから。

 その事実があるからこその強気な発言だったのだが、そう言った途端、背後の男が溜息を吐いた。イヤな予感を覚える。

 

『オイオイ、しっかりしてくれよゼッケンさん。《圏外》なのは城の入り口や前庭までで、城内はこのテラス含めて《圏外》なんだぜ?』

『な……っ?! そんな、筈は……』

 

 実地で調べたからこその自信は、男のその言葉でアッサリ揺らいだ。

 それもこれも、《カルルイン》の《圏内》と《圏外》の境界線が曖昧過ぎる事が悪いのだ。

 また、クエストで訪れた時は、その内容ごとに《圏外》と《圏内》の領域が変わっていた。つまり一切クエストを受けていないフリーの時の状態は、アルゴの攻略本でしか知らないのだ。

 それにパーティー気分で浮かれ、花火を早く見ようと急いでいたから城内に入った時に《圏外》表示を見逃した、という可能性は決して否定出来なかった。

 

『いや……だとしても、実際問題、その短剣一本でどうするってのさ。仮令ボスドロップの超レア武器だとしてもHPは碌に減らせない筈。ボクにそれを刺した途端キミはオレンジになるんだ、反撃も出来るようになる』

 

 そう。仮にここが《圏外》だとしても、短剣一本でどうにか出来るほど軟な鍛え方はしていない。レベルだって攻略隊、ひいてはSAOでもトップランクに位置するくらいしっかり高くしているし、装備だって軽装ではあるものの強化は怠っていない。タンクはやれないがスピードで翻弄するライトタンク程度ならやれる程度の防御力を誇っている。

 対して短剣は、クリティカルポイントを攻撃した時のダメージを大きくする特性で戦う、ややトリッキーな武器。性能そのものは他の武器と比して低めなのである。

 どれだけレベルを上げていようと自分とそう変わらないだろうし、今突き付けている部分も心臓部とは言え一撃程度ならクリティカルも耐えられる。

 そしてその一撃の時間さえあれば、自分だって反撃を一撃入れる事は出来る。反撃が当たらなくても剣を構えられるだけで随分違うのだ。相手がオレンジになったなら問答無用で攻撃も出来るのだし。

 

『HA、流石はSAO一の女剣士と言われるゼッケンさんだ、威勢が良いな。確かに短剣一本じゃ碌に減らせねェだろう……――――だが、コレにそれぞれレベル5のダメージ毒と麻痺毒を塗ってあるって言ったらどうだい?』

『ッ……!』

 

 再び、自分は絶句させられた。そんなこちらをからかうように鋭い切っ先がつん、つんと背中を軽く突く。

 状態異常を武器に付与するという事は可能だが、しかしそのレベルがあり得ない。

 つい昨日で第六層まで進んだとは言え、モンスターが使って来た状態異常のレベルは精々が2だ。プレイヤーが《調合》スキルで作れるモノも素材的にまだレベル1止まりで、とてもでは無いが実戦的では無いという話はつい最近聞いたばかり。ベータ時代の情報も余さず掲載されている攻略本にもそう載っていたから間違いない。

 だが、今の《アインクラッド》に《絶対》が通用しないのは、それまでの二ヶ月弱で幾度も思い知らされてきた。

 それに状態異常のレベルというものは、同じレベルのものが二つ以上重複する事で、一つ上のレベルのものへと進化する。レベル1同士の毒に掛かれば、それはレベル2の毒に纏められ、効果も効果時間も増幅するのだ、これは生成されたものだとしても例外では無い。

 それでもレベル5ともなればあり得ない筈だが、頭ごなしに否定する事は出来ない。他人のスキルや装備の詮索をしない事がマナーであり、広めないという意志を持つ者が作っていたら、知られざる毒というものが作られていてもおかしくないからだ。

 もし脅迫者の男の言葉が全て本当であれば、自分は短剣を刺された瞬間この場に倒れて十分以上身動きできず、その間にダメージ毒によってHPは間違いなく全損するだろう。HPと状態異常回復ポーションは常にポーチに常備しているが、それを飲ませてくれる程優しいとも思えない。

 

『……目的は、何』

 

 恐怖と戦慄で固りながらもどうにか硬い声を発する。

 すると耳のすぐ後ろで、ククク、と抑えられた笑声がまた生まれた。音だけを聞けばとても愉快そうなのに、何故だか本心から嗤っているとは到底思えない、どこか演技的な響きだ。

 ぞぞぞ、と背筋にまた悪寒が走った。

 あまり人を信用しないタチではあるが、基本人好きする自分にとって珍しい事に、自分はとことんこの男を生理的に嫌悪しているらしい。短剣を突き付けられている以上好む要素は皆無だが、それに関係無く何かが忌避感を持たせていた。

 

『目的は、秘密だ。だが俺が行動している理由は教えてやる……俺はな、愉しみたいんだ』

『たのしみ、たい……?』

『そうだ。誰に邪魔される事なく異常なデスゲームを満喫出来るだなんて、ビッグ・ステージと言っても良い。だが、ステージを愉しむには、色々と準備ってモンが必要だ。愉しむ方が準備するってェのもおかしな話だが愉しむ為なら苦労を惜しむつもりは無ェ。つまるところ、色々と仕込んで、そんでこの世界を盛り上げたいんだよ、俺は』

 

 その言葉を聞いて。

 

『キミが――――お前が……!』

 

 ボクは漸く、背後の男が何者なのかを察した。名前も顔も知らないし、こんな人格の人間と会った事も無い。

 だけど、その行動理由を知って、察した事があった。

 不自然だと思ってはいたのだ。キバオウとリンドの双方がキリトに対し良い感情を持っていないが、しかしどちらもディアベルさんへ一定の敬意は払っている。それなのに彼を蔑ろにするような行動を取るのは不自然だ。

 けれど男の行動理由を知って、合点がいった。

 

『お前が、《アインクラッド解放軍》と《聖竜連合》の衝突を引き起こそうとした、黒幕か……!』

 

 声は掠れていたが、しかし芯はハッキリとしたもので、確信を以て問う。

 男は、くく、と三度喉の奥で嗤った。

 

『ますますイイ女だ。まさか平和ボケした日本のガキで、アイツ以外にもここまでの殺気を放てるヤツが居るなんてな』

『アイツって……仲間の事?』

 

 ふ、と背後の男が嘆息した。

 

『――――いや、違ェよ』

 

 その問いに対する答えは、これまでと違って冷たいものでは無く、どこか感情というものが込められたように感じた。演技などでは無く、偽らざる本音と感じるもの。

 

『アイツは俺を仲間と思っちゃいねェだろうし、俺もまた、アイツを仲間と思っちゃいねェよ……強いて言うなら、そう……――――『同類』ってトコだ』

 

 日本じゃこういうのを『同じ穴の狢』って言うんだろ? と軽く、しかしどこか深みのある口調で問うてくる男。

 自分はそれに応じなかった。

 『アイツ』とは誰なのか、どういう立ち位置の人物なのか思考を巡らせていたからだ――――後にそれが、自分が想いを向ける少年であると知った。

 

『――――さて、そろそろ場所を変えようじゃねェか』

 

 反応が無い事で興味を喪ったと見たのか、それとも偶然話を変えるタイミングだったのか、男がそう切り出してきた。

 無論、それに唯々諾々と従う謂われも無い。

 

『何処に……?』

『勿論、地下さ。猟奇的な殺人犯ってのは地下を好むモンだろ?』

 

 自分から言うのはどうなんだと脱力しそうになりながらも、思考は焦りと共に加速する。

 男が言うように、この古城遺跡にも地下は存在する。そこに入ってしまったが最後、どれだけ叫ぼうが誰かが気付く事はないだろう、更に地下はモンスターがポップするので《圏外》である事は疑いようが無い。

 言われるがままに移動するのは自殺行為に等しい。

 しかし短剣にレベル5の毒が塗られてあるという脅しを否定出来ない以上、今は従うしか……

 

 ――――いや、ちょっと待った。

 

 ――――此処が《圏外》だとすれば、何でこの男はまだボクを刺してない……?

 

 そこまで思考が行き着いた時にふと浮かんだ疑念。

 もし本当にレベル5の麻痺毒を扱えるのなら、短剣を突き付け歩かせずとも問答無用で刺せば済む話だ。筋力値さえ十分なら麻痺したプレイヤーを自由に運べるので地下に引っ張り込む事も容易い事である。

 であるなら、状態異常のレベルが異様に高いという不可解な点もあるため、麻痺毒はブラフと判断出来る。

 そして、まず間違いなく、このテラスが《圏外》であるという話も。

 どちらかが真実であるという可能性はあるが、両方成立していない以上、ここで自分を殺す事はまず不可能だ。《圏内》であれば勿論の事、麻痺毒が塗られていなければ対処のしようはある。

 目的は知らないが、キバオウやリンド達が争うように男が煽動した事はまず間違いない。そうするのに必要な道具や武器は情報などがそうだが、それらを上手く使う為の巧みな話術。この男はきっと卓越した話術を持っているのだ。

 事実自分は騙され、此処が《圏外》だと信じ込まされ、本当の圏外である地下フロアまで移動しかけていた。

 だが、種が分かれば話は違う。万が一という可能性はあるから命懸けだが、それでも自分の洞察力と勘に従うしか今は打開策が無い。

 

『……分かった』

 

 短く応じ、右脚を前へ出す。

 背中と短剣の切っ先の間に、僅かながら距離が出来たその瞬間、思い切り後ろへ跳んだ。

 当然短剣は背中に激突し、鋭利な刃先が贔屓にしている服飾職人手製の服とインナーを突き抜け、アバターの肉へ潜り込む――――が、刃が肉を穿つ寸前に紫色の閃光がテラスを染め上げ、衝撃が背中を叩いた。

 《圏内》でのみ出現する犯罪防止コードが発動し、自動障壁によって自分と短剣の双方が弾かれたのだ。

 

『うおォ?! くっ、ははァ……ッ!』

 

 てっきり苛立たしげに舌を打ったり毒づくものかと思っていたが、男は予想外な事にも喜びを見出しているのか喜々とした反応を見せた。

 それに自分の方が舌を実際に打ちつつ、衝撃に耐えて踏み止まり、振り向きざまに剣帯から吊るしている愛剣を抜く。

 

『ッ……――――はああああああッ!!!』

 

 抜いてすぐ袈裟掛けに斬り付ける構えを取る。立ち止まった状態でならその場で斬り付ける《スラント》になるが、突進しながらでは《ソニックリープ》になる構えを取った途端、狙い違わず薄緑の輝きが剣身から放たれた。

 《圏内》である事が立証された以上、ソードスキルを放ったところでHPを減らす事が不可能なのは百も承知。

 狙いは二つ。

 祭りに来ている人々へ異変を知らせる事が一つ目だ、先の紫色の閃光でも十分だとは思うが、念には念を入れてである。

 もう一つが、ノックバック効果によって増援が来るまで相手の足を止める事。あわよくばその顔を拝もうという計算も入っている。

 頭を上げた自分の視界に、跳び退こうとする黒い影が映った。

 男の身長はかなり高い。比較的痩せた体に、てらてらと光沢のある黒いフード付きショートコート、すなわちポンチョを纏っている。フードを深く下ろし目深に被っているので残念ながら顔の詳細は見えなかったが、日本人の顔に較べると彫が深めな印象を受けた。先の発言を振り返るに日本人では無い事はまず間違いなかった。また荒事を生業としているのだろうとも察せた。

 そう観察し、推察している間に、システムによって加速された薄緑の刃が男の胸に迫る。

 一旦転倒させられれば只管ソードスキルを打ち続ける事で、暫く疑似的なスタン状態に追い込める―――という打算は、しかし実を結ばなかった。

 空中にある男の体が、通常の跳躍ならあり得ないスピードを以て後退し、突進しながら振るった剣閃が空を切ったのである。

 

 ――――《軽業》スキルを取ってて、しかも結構数値が高い……!

 

『こんの……ッ!』

 

 着地と同時に、袈裟掛けに振り切った剣を今度は突き出しながら、左脚で地を蹴って男に追い縋るようにダッシュする。僅かに剣を握る右腕を突き出せば、システムが構えを感知し、青色の光が剣から放たれた。

 《片手剣》スキルの初歩に存在するもう一つの突進系スキル《レイジスパイク》だ。

 今度こそ胸を穿つと信じた剣尖は、しかし今度もまた、男が予想を超えるアクションを行った事で空を切った。

 男は着地する寸前に、右手から何やら小さな球体を床に転がした。球体は瞬時に炸裂して真っ黒い煙を噴き上げる。テラスから黙々と吹き上がり空へ消えるが、城内へ続く回廊は黒煙で満たされ、闇夜と相俟って全くもって先を見通せない。

 それで狙いが定まらなくなり、見事自分の突進突きは空を切った訳である。何かを掠めたような手応えはあったものの貫いた感触は無かったので、空を切ったと判断した。

 そう判断してから、全力で視覚と聴覚に全神経を集中させる。技後硬直が解けてから《索敵》スキルも全開にした。

 しかし影一つ、足音一つ捉えられなかった。

 

 ――――今度は相応しいパーティーで会おうぜ、ゼッケンさん。

 

 そんな声が聞こえた気がして目を凝らすが、薄暗い回廊には、薄れ始めた煙が自分を嘲笑う様にたなびいているだけ。

 視界の端には、あの男が捨てて言った中型のナイフが落ちていた。全体が真っ黒でシンプルなデザインのそれは、拾い上げてみれば驚いた事に、日頃マメにレベリングしてレベル19になった自分の手にもずっしりとした重みがあった。

 毒など勿論一切塗られておらず、やはり嘘であった事が分かった。

 製作者の銘も無く、装備者の名前を閲覧する場所を元々設定されていない以上、手掛かりも無し。

 

『――――くそぉ……っ!』

 

 顔すら拝めず取り逃がしたと認め、歯噛みした自分は、八つ当たりで壁を左手で思い切り殴った。

 犯罪防止コードの紫色の光が虚しく発生するだけで、苛立ちが紛れる事は無かった。

 

 *

 

「最っ悪」

 

 ぱちりと、特に切っ掛けがあった訳でも無く瞼を開けたボクは、ついさっきまで見ていた夢にそう感想を漏らした。

 

 ――――久し振りに違う夢を見たと思えばコレとか……

 

 ここ二年近く、特に良い事が無ければ夢見が良かった訳では無い、直近ではキリトが落下死したという話を聞いてからの数日間は悪夢に魘されていた。食べ物や風景関連であれば幸せな夢は多いがそれ以外になると良い夢を見た事は殆どないくらいである。

 そんな自分が今見た夢は、間違いなく精神的に良くないモノとして分類できる内容だった。

 自分やキリトのような近しい人達が殺される夢に較べればこれは確実にまだマシなレベルであるではあるけれど、やはり夢見が悪いと気分もダダ下がりだ。

 これでは二度寝しようとも思えないと、そう嘆息と共に思考しながら顔に掛かった髪を掻き上げ、夜空の星を背景に視界右上の時計へと視線を向ける。

 

「――――何が最悪なんだ?」

「ひゃあ?!」

 

 しかし、時刻を確認し終える前に、すぐ横から声を掛けられて驚いてしまった。

 顔を向ければ、そこにはキョトンとあどけない表情を晒すキリトの顔がある。

 

 ――――ね、寝起きばなでこんなに近いとか、心臓に悪い……?!

 

 完全に気を抜いていたところに声を掛けられ、しかも物凄く近くに居るとか、なまじ意識している相手だからこそ心臓に悪かった。顔が熱くなってくるのが自覚出来る程だ。

 

「き、キリト、何時から起きて……?」

「んーと……今が午前一時だから、一時間前からだな」

「……ちゃんと寝たの?」

「順番は守ってるよ。むしろユウキが起きた事に驚いた」

 

 どうかしたのか、と首を傾げて言うキリトを見て、それもそうかと納得した。

 現在ボク達は《ホロウ・エリア》に於ける二つ目のエリアとなる【浮遊遺跡バステアゲート】にて、夜を越す為に野営をしていた。

 管理区外で野営をしている理由は、PoHが管理区へ来られる危険性を考慮したから。

 《圏外》であるこちらで野営をする方が危険なのではという意見は勿論あったし、ケイタの事も考えるとそれは確かにそうなのだが、いちいち転移石で行き来していると待ち伏せされる可能性が高い。

 PoHやケイタ達が挟み撃ち出来る程度にはこちらの動向を把握している事、またこちらよりも確実に《ホロウ・エリア》について多く知っているだろう事から、ボク達がまだ樹海と浮遊遺跡の二つのエリアでしか行動出来ない事は察されていると見て良い。そうなると待ち伏せも可能になる訳だ。転移石のところで待ち伏せされていては流石に対処し切れないかもしれないし、最悪の場合いきなり麻痺毒で無力化され、結果キリト以外が動けなくなるという初手で詰む可能性もある。

 なので、あまり管理区へ戻らず各地を連続して転々と移動し、待ち伏せをし辛くするという方針が決まった。

 この程度であのPoHを振り切れる筈も無いが、近付かれれば嫌でもキリトやボクが完全習得している《索敵》スキルに引っ掛かる。そうでなくとも一部だけでもGM権限を行使可能なユイちゃんが索敵を担当しているから逃れられる筈も無い。

 把握出来る状態の方が安全だからという理由で、ボク達は管理区外で夜を明かす事にしたのだった。

 そうなると、《攻略組》の一員であるボクやサチ、リーファは攻略から数日は連続して離れる事になる。無論それはアスナ達に話し、認めてもらっている。数日攻略、数日エリア探索とローテーションで回していくなら良いそうだ。

 フィリアとレインも、そのつもりで一度あちらに戻って話し合い、時間の打ち合わせをしてからこちらに来ている。

 少なくとも今日を含めて三日は《ホロウ・エリア》で連続攻略が可能となった。明々後日からは暫く最前線へ戻らなければならないが、それまではこちらに居られるのである。

 それでこちらで野営をする事になったのだが、ボクがキリトに睡眠の事を確認したのは、夜起きているメンバーの時間を予め決めていたからだ。

 《ホロウ・エリア》には残念ながらシステム的な護りのある《安全地帯》が無い。少なくとも現在確認出来ていないので、全員が寝ていては危険を知らせる事が出来ない。故に誰か一人が夜警をする必要があった。

 ちなみにAIであるユイちゃんに睡眠は本来不要らしく、彼女が起き続けているという案も出されたが、それは却下されている。出したのはユイちゃん本人、却下したのは義弟と義姉だ。

 そんな心がどこかほっこりとするやり取りの後、野営に馴れているキリト、フィリアの助言を受け、夜警を順に交替していく事になった。

 細かな順番は省くが、キリトは深夜零時から二時、ボクは午前四時からの番となっている。

 確か就寝となったのが午後十時からだったので、ボクはたった三時間しか寝ていないという事になる。

 起こされたのならともかく夢が終わって自然と起きた事には自分の事でも驚きだ。

 

「うーん……寝直そうにも、すぐには無理そうかなぁ……」

 

 何しろ見ていた夢の内容が内容だ。気が昂って眼が冴えてしまったからすぐに寝直すのは難しそうである。また、寝直そうという気分でも無かった。

 そう言うと、ふむ、とキリトが口元に指を当てて考え込む素振りを見せた。

 

「何か温かい飲み物でも淹れようか?」

「それは嬉しいけど、材料の補充が利かない以上貴重なんじゃ……」

「別に良いよ。どちらかと言うとインスタントみたいなものでしっかりご飯を作った時には使わないものなんだ……正直に言うと、昼に鉱石を採り過ぎたからストレージに少しでも空きを作りたい」

「あー……君、沢山採ってたもんねぇ……」

 

 寝袋から這い出たボクはすぐ近くにある岩場を見る。

 その岩場には鉱脈が存在しており、ツルハシを使うと鉱石を採取出来たのだが、何のバグなのか幾らでも鉱石を採取出来てしまっていた。

 それを良い事にキリトとレインがそれを採り続け、浮遊遺跡エリア探索初日の午後は武具の新調に時間を費やされていた。最初は軽い実験程度の気持ちだったらしいが、作成された装備の性能が《アインクラッド》のモノを遥かに上回るものだったため、どうやら職人魂に火が付いてしまったらしい。

 キリトの場合は検証魂というか、知識欲から確認しないと落ち着かないといった風情だったが。《ホロウ・エリア》産の装備の性能を把握し、ケイタや《笑う棺桶》達の戦力に当たりを付ける為だったのだろう。

 しかし、鉱石を採り過ぎたという言葉には、流石に苦笑せざるを得なかった。

 

「あれだけ装備の打ち直しや廃棄をしておきながらそれでもまだ山ほどあるって、総数としてはどれだけ採ってたんだか……」

 

 でもそのお陰で此処に居るメンバーやユイちゃんの防具は新調されたし、キリトも漸くSAO始まって以来初と言える金属防具を身に着け、数値的にも防御力が上がっている。属性のダメージカット率も二~三割は上昇したのではないだろうか。

 ――――ちなみにだが、ユイちゃん曰く彼は既に鎧防具にあたる装備をしているようなので、システム的に装備している訳では無い。

 つまり彼はメニュー欄からでは無く直接身に着けているという状態なのだ。

 武器がそうだが、装備はメニュー欄から装備した場合とそうでない場合とで、実は然して違いがある訳ではない。地面に落としてから耐久値が減り始める時間や所有者権限の消失時間が変わるくらいで、実は数値的な変化は無いのだ。システム的な保護を受けられるか否かが変わるだけと思えば良い。

 だから武器を落とす《武器落とし》スキルを使って来る敵への対策として近場に武器を予めオブジェクト化して置いておき、ファンブルした時にそちらへ持ち替えたとしても、普通に武器は使えるし、ソードスキルも放てる。ダメージを算出する為の計算式への影響も特にない。キリトが闘技場でホロウの武器を奪って一時的に使っている間にソードスキルを放てていた事も同じ原理だ。

 そのため、彼は今、鎧防具を二種類身に着けている事になる。

 メニューから装備した場合でない以上ベルトを締めるなどは直接しなければならないが、装備重複というシステム外スキル的な事でステータスの底上げを行えるのは結構強い。

 普段のキリトは黒いシャツとズボン、その上から前開きの光沢のある漆黒のロングコートを羽織る軽装だ。

 対して、野営の為か武装している今の彼は、コート上から鎧を身に着けている。形状的にボクのそれにやや近いが、体格の違いからか彼の首元から腹部まであり、更に腰元は横から後ろに掛けてがコートの素地に沿うようにして金属板に覆われている。背中には鎧を留める為のベルトが回されていた。

 両腕には手甲も着けられている。左手の手甲は人差し指から小指までが纏められており、形状としては鍋掴みやミトンのそれに近い。対して右手のそれは五指それぞれがしっかり分けられていて物を摘まめるようになっていた。

 胴と両腕はしっかりと金属防具で護られるようになったが、反面両脚は変わらずだ。こちらは機動性を欠いては結果戦力低下に繋がるという判断故である。

 胴の鎧と腰を守る金属板、そして両腕を覆う手甲の何れもが、どこかくすみのある黒色をしている。最初は光沢があったのだが、光沢があるとハイディング率が下がると言った彼がわざと光沢を取ったのである。

 金属防具をしようと黒色なのには拘りがあるのか、と自分の胸鎧も黒い事を棚に上げながら苦笑したものである。

 

「……ん、俺をじっと見て、どうかしたか」

 

 まじまじと見ていたからか、早速ご飯代わりにもなるらしい温かい飲み物を淹れるべくモバイル調理器具を取り出し準備に取り掛かり始めた彼が、こちらを訝しむように見て来た。

 気を悪くしたかと、慌てて口を開く。

 

「いやー……その、ね。キリトが金属防具をしてるのがまだ新鮮で」

「ああ、そういう事か。確かに正式版では初めて装備するからそれも当然かな……」

「正式版では……と言う事は、β版では装備した事あるんだ」

「一応あるよ、でも性に合わなかったからすぐやめた。正直今もムズムズしてて脱ぎ捨てたい」

「へー」

 

 何だか興味深い話が始まったと思い、鍋に水とストレージから取り出した幾つかの粉を入れ火に掛け始めた彼の横へ移動し、話を聞く体勢に入る。

 彼はそんなボクへチラリと視線を向けて来たが、視線はすぐ夜空へと向けられた。

 

「……今更な事だけど、空が開けてるのはちょっと珍しく感じるな」

「それはそうだろうね。だってボク達、あの天蓋の上へ進む事を意識して、きっと誰よりも閉じられた空を意識して一年半以上戦い続けて来た。空が開けてれば違和感も覚えるよ」

 

 一年半以上もずっとそんな光景ばかり見て慣れ親しめば、そりゃあ逆に《ホロウ・エリア》のような空が開けた光景というのは目新しくもなる。こちらの方が普通だというのにだ。それが少し可笑しくて、ボクは笑声を洩らした。キリトはキョトンとしていたけど、こちらの笑みにつられてか同じようにクスクスと小さく笑った。

 けどその笑声もすぐに引っ込んだ。笑いが引いたのは、ふとした拍子に浮かんできた郷愁によるものだ。

 

「……ボク達、気付けばそんなに長く戦ってたんだね……」

「……そうだな」

 

 それもただの郷愁では無い。

 

「キリト、七十四層ボス戦の前日にキミが開いたパーティーでアスナが言ってた事を覚えてる?」

「……何だったかな」

「『生まれた時からこの世界で生きて来たみたい』……ボクも偶に、この世界での生活こそ生まれて来た時から続けて来たものなんじゃって、そう錯覚する事がある。昔ほど現実を恋しく思わなくなったんだ。それに最近『現実への生還』という想いで血眼になってる人が少なくなった……」

 

 久方ぶりに覚えた郷愁に、違和感を覚えてしまうようになった。

 それを自覚しているから笑いが引っ込んだ。最前線で戦う動力源とも言える現実を恋しく思う心や想いは薄れ、過去生きた現実と今生きる仮想とが徐々に逆転して来ている。異常なデスゲームでの生活は何時しか日常へと変わってしまい、それが正常であると思うようになってしまっている。

 そんな状態は決して笑い事では無い。

 開けた空を恋しく思わず、閉じられた空を正常と思う。

 戦う理由の根幹とも言える部分が徐々に薄れ、揺らぎ始めて来ている。それは《攻略組》の根底を崩すに足る事態だ。

 勿論、個々個人の想いが薄れれば、戦力の低下は免れない。死ぬ事への恐怖心も克服出来ない。

 皆、徐々に諦めて来ている――――『順応』という形で。

 それに抗っているのはヒースクリフさんとキリトくらい。前者は頑張って作り上げた世界をデスゲームにされた憤りがあるだろうから除外するとすれば、残るのはキリトだけだ。

 彼は以前、この世界を『異質』と評し、現実世界へ帰る想いを吐露していた。この世界で最も命のやり取りを繰り返し、その過酷さを経験し、最前線で常に戦い続けて来た彼だからこそ、なまじ現実でどん底に突き落とされたからこそ現実と仮想世界の差異というものを如実に感じ取っている。

 けど普通そこまで分かる人は居ない。事実ボクやクライン達は、以前のパーティーではアスナの言葉に同意していた。していなかったのは件の二人くらい。

 この世界から生還する事に血道を捧げているキリトの行動や心情を理解している立場にあるボク達ですら、この世界へ順応し、想いが薄れ始めているのだ。

 

「――――だからと言って、無理して最前線に戻る必要は無いんだよ、キリト」

 

 それを見逃す彼では無い。

 彼が最前線で戦う理由は、確かにデスゲームとなったSAOからの生還。その為に最前線で戦い浮遊城の頂を目指している。

 だが、よくよく考えてみれば、彼が強さを求める理由は別。彼はこの世界で得た経験を糧に、世界最強と呼ばれる実姉や神童と呼ばれる――実際に見ても全くそうは思えない――実兄が居る領域へ至り、認められる事を最終目標として定めている。

 つまるところ、彼にとってすれば優先順位はどうあれ、デスゲームクリアは通過点の一つに過ぎない。

 彼は常に現実を見据えている。自身の現状と世情を知り、何が必要かを知ろうとしている。

 だからこそ、彼はキバオウが居た頃から最前線攻略組の中枢の一人となっていて、どれだけ反ビーター派が騒ごうと攻略組から決定的に排斥されなかった。

 攻略組にとって必要なものを端から全て揃えられるのは、『何が必要であるか』を最も理解しているからに他ならない。彼が《料理》スキルを駆使して暴動発生を遅らせたり、ユニークスキルの発表は士気を高める為に使うと封印のリスクや生存率の低下を考慮した上で決めたりなどもその一つ。

 戦う為には情報が必要だ。

 でも戦う覚悟を持つには、まず何よりも本人や集団の士気が高い必要がある。集団の場合は場の流れや空気というものもあるだろう。それでやる気を満たしてから、初めて戦う事を前提として情報を求め始める。

 キリトは常に『戦う決意を持つきっかけ』に気を配り、そして士気に敏感だった。

 《ビーター》宣言然り、世間の情報統制然り、《笑う棺桶》の対応然り、ユニークスキルの発表然り、《料理》スキルの利用法然り、七十六層での対応然り。

 どれか一つ欠けていたら……とまではいかないが、しかし無ければ七十六層の時点で《攻略組》は成り立たなかったに違いないとは思える。システム障害が多々見られ混乱の極みにあった時は特にそう言えた。

 だからボクは、『順応』という形で攻略への積極性が喪われている現状に危機感を抱き、彼は動いていると確信を抱いていた。

 

「……何の事かな」

 

 ボクの言葉に、キリトは応じる。

 それは何を言っているか分からないとばかりの反応だが、彼はボクから視線を切り、目を合わせようとしていない。声もどこか固く感じる。

 それでも惚けようとする辺り少しは後ろめたく思っているのだろう。

 後ろめたく思えるようになっただけでもまだマシだが、それでも隠して行動する辺りはあまり褒められたものでは無い。

 だからボクは、平然と惚ける少年の耳に口元を寄せ……

 

「――――うそつき」

 

 鼻腔を擽る香りと視界一杯に広がる少年の顔で早鐘を打つような鼓動をサラリと流しつつ、にんまりと笑みを浮かべたボクは、君の嘘なんてお見通しなんだぞと、そう宣言するように囁く。

 少年は僅かに肩を震わせた。

 何故か背筋をぞくぞくとした何かが走った。

 

「ボクを舐めてもらっちゃ困るよ、キリト。君とは第一層ボス攻略の時からこれまでずっと一緒に戦って来たんだ。普段別々に戦ってると言っても一年半以上も戦友をしてたら嫌でも分かるよ、それくらいの嘘……多分皆も思ってるけど、キリトって隠し事は凄く上手いクセして指摘された時の嘘が凄く下手だからさ、反応だけでもすぐ分かるんだ。君の場合大体は当てて欲しいのかと思わんばかりに受け答えがあからさまになるし」

「……そうか」

 

 ボクの率直な意見に、キリトは短く応じるだけ。

 でもどことなく表情が憮然としていて、拗ねてるようにも見える。

 そういう表情をしている時点で最早嘘を認めているも同然なのだけど、そこのところこの少年は分かっているのだろうかと思う。

 まぁ、こういう抜けたところがある分まだ可愛いとは思えるから良いかもしれない。少なくともこういう表情はキバオウのような《敵》と言える者達の前ではせず、ボク達の前でしか見せないので、気を抜いてくれていると分かるから嬉しくもある。

 それに平然と嘘を吐くようになられたら信じて良いのかどうか迷ってしまうから困る。

 彼の言う言葉が本音であると分かるから、彼に正しさや間違いの指摘を口に出来る。

 でも嘘か真か分からない言葉には何も言えない。そんな関係になりたくはない。ボクは冗談や相手の事を慮った嘘は許容出来るが、平然と吐かれる嘘やそういった事をする人は大嫌いなのだ。多分大体の人はそうだと思う。

 勿論、彼が吐く嘘は、まだ許容範囲内。人間性に関しては言わずもがなである。

 だから彼を責める気はあまり無い。そういう事にまで考えを持っている事を尊敬し、そうせざるを得なくしてしまっている自らの不甲斐無さを恥じ入る事をこそするべきだと思うから。

 でも、それはそれ、これはこれ。

 『うそつき』な子供には、キチンと相応の『お仕置き』が必要だと思う。

 確かに、状況的にただ休んでばかりではいられないから仕方ない側面はある。だからボクは彼の行動理由を知っていながら止めるには至ってない。ボクが止めて欲しいと思っている事はあくまで自己を殺してまで無茶をする行動だからだ。

 ボクが行う『お仕置き』は、彼が無茶をしないようにする為の楔。無茶をする必要は無いんだぞ、無理をしたら哀しむ人が居るんだぞと、それを伝えるだけ。

 人を想って行動する優しさがある少年には、無理に言って聞かせるよりもよっぽど利くに違いない。

 そう思いながら、ボクは彼の横顔から夜空へと顔を向けた。

 

「以前、『ゆっくり休んで』って君に言ったのは覚えてるよね」

 

 ボクの声に応じる声は無く、けれど視界端に映る少年の頭が上下に揺れる。

 それを肯定と見て取って、また口を開く。

 

「アレさ、精神的に休んで欲しいっていう意味もあったけど、それよりも最前線から離れる意味の方が割合としては大きかったんだ」

「……どっちも同じ事じゃ……?」

 

 要領を得ないのか、キリトはどこか弱々しげに言う。

 確かに意味は同じに聞こえるだろう。最前線で戦い続ける日々が精神的な疲労を生んだ、だから休んで欲しいという繋がりになるからわざわざ分ける必要は無い。

 でも、ボクはそれらを敢えて区別した。

 それを伝える為に、ボクは彼の言葉に対し、首を横に振った。

 

「ボクにとっては違うよ……ボクはさ、せめて最前線にいない間でくらい、君には君自身で居て欲しいと思ってる」

「それは、どういう……?」

 

 困惑を感じさせる声で問われ、ボクは再度彼へ顔を向けた。薄暗い闇夜の中でも分かるくらい星の光を映す黒水晶の瞳と目が合った。

 その瞳には、光がある。

 再会したばかりの時には喪われていた/義姉が灯した光がある。

 綺麗だなと思った。

 その眼を見返しながら口を開く。

 

「質問に質問で返す形になるけどさ……君は、このSAOの世界で、自分が『したいから』と思ってやってた事ってある? ボクが把握している限りでは『必要に迫られて』ばかりなんだ。最初は趣味だと思ってた料理研究も最終的にああなってるし」

「それは……」

 

 こちらの問い掛けに、彼はくしゃりと表情を歪めた。

 

「ともあれ、そこなんだ。初めて休暇を取った日に何をすればいいか訊いて来た時にも思ったけど、君はあまりに自分自身を、自己を薄くし過ぎてる。欲が無さ過ぎる……だから早く最前線に戻らないといけないと考えてオレンジを解消する為に無理をするんじゃないかって、そう危惧してたんだ」

 

 攻略に役立てて欲しいと剣士の魂である魔剣エリュシオンを託されたにも拘わらず、攻略速度が落ちる事を理解していながら数日とは言え最前線から離れる決断をしたのはコレを危惧しての事だった。

 彼が無理をしようとする理由は『最前線に戻らなければ』という義務感と、きっと『置いて行かれたくない』という恐怖があるからだと思う。

 ならそれらを解消してやれば彼は無理をしなくなる訳だ。最前線にいる者が彼を諭し、心を開いてもらっている者が親身にあり続ければ、彼は自然と安心感を抱く。それで初めて休息となる。

 願うばかりでは何にもならない。それはこれまでの日々で嫌と言う程痛感させられている。だから行動したのだ。

 最前線の人や《攻略組》の皆には悪いとは思う。

 でもボクにとっては、キリトはとても大切な人。彼の事を優先したいという想いが強い以上どうしようもない。ボス攻略は絶対出るし、ある程度は攻略にも出るけど、余裕があるなら少しでも長く彼の傍に寄り添っていたいのだ。

 それはボクがそうしたいからでもあるし、同時に彼の事を慮っての事でもある。

 

 ――――『一緒に居て』って、そう言ってもらえれば一番良いんだけど……

 

 キリトはそういうお願いすら殆どしないし、攻略関連の事を最優先にするきらいがあるからまず間違いなくボクには言わないと思う。

 だからボクの方からこうして来ている。

 無論、《ホロウ・エリア》の真実を知った以上、様々な意味で危惧が増えたり深まったりしたからでもある。

 でも何よりも、再会した次の日すなわち昨日から密度の濃い探索を敢行している事が、最も危惧と心配を深めさせた。ケイタ達の事はそれをより深めただけに過ぎない。

 

「もっと我が儘になっても良いと思う。アレがしたい、コレがしたいって、もっと言っても良いと思うんだ、せめて《ホロウ・エリア》に居る間ぐらいはさ……」

 

 そういう意味では日中にしていた鉱石採取祭りは良い気分転換になった事だろう。

 夢に見た第五層攻略の時にあった遺物拾い祭りは攻略隊の多くが参加していたが、彼は参加していなかった。そんな事よりも攻略の事だとばかりに邁進していた。ボクは気が向かなかったのでしなかったが、アスナや姉ちゃんなどは率先してしていたし、クライン達だって金策を兼ねて気分転換にしていた。

 ボクは、そんな風に《ホロウ・エリア》で過ごして欲しく思っていた。

 でも蓋を開けてみれば、《ホロウ・エリア》は彼を苦しめる場所でしかない。ユイちゃんが隠していた事もこれには納得だ。リーファに叱責される前に知らせていたら確実に取り返しのつかない事態に発展していただろう。

 

「キリト……」

 

 そう確信を抱きながらボクは彼の手を取り、両手で包んだ。傍から見ればまるで彼の手を温めているか、逆にボクが暖を取っているように映る事だろう。

 そして、ボクの顔はきっと真っ赤になっているに違いない。耳まで真っ赤になっている自信がある。ひょっとしたら目元が濡れてもいるかもしれない。

 

「ユウキ……?」

 

 不安げに、手を包むボクを見上げて来る幼い少年。

 その可憐な相貌を見て、早鐘のように打たれる鼓動が更に大きく、また速くなった。胸の奥がドキドキともう痛いくらい打っていて苦しさすら覚える。

 考えている事を口にしようとする度に仮想体がギシリと固まる。口の中はカラカラで、喉も上手く動かせないと感じる程に緊張していた。

 

「ボクはね、最前線で戦う君の姿を見て、何時も凄いと思ってた」

 

 じっと目を合わせているのが少し辛くなり、包んでいる彼の手へ視線を落としながら言う。

 彼はいきなりの話の転換に怪訝そうな表情を見せるが一応相槌を打ってくれた。

 何も言わず、聞こうとも止めようともしない彼の対応が、今はとても有難かった。一度でも止められれば緊張で言えず終いになる自信があったから。

 

「凄く強くて、頑張ってる君を凄いって、尊敬して来た。今だってそう……ううん、尊敬どころか尊崇と言っても良いと思う。ボクはそれだけ『剣士』としての君を好んでる、第一層の頃からずっと、君の剣に魅了されてた」

 

 そこで、でもね、と話を止め、勇気を振り絞って顔を上げる。

 ぱっちりと、不思議そうに見上げて来る純粋な少年の眼と視線が交わった。一瞬喉の奥がひくつくが、何とか頭を擡げた弱音を押し殺す事に成功する。

 

「ボクは、確かに強い剣士を好んでるし、手合わせする事も好きだけど……キリトだけは、君だけは別なんだ」

「俺だけ別……」

「仮令君が戦わなくなっても、剣を捨てたとしても、それどころかそもそも強くなくたって、ボクは君の事が好きだと断言出来る」

 

 

 

 ――――かつて《オリムライチカ》と呼ばれていた君の事が、一人の女として大好きなんだ。

 

 

 

「――――」

 

 そう、以前は失敗した告白をぶつけた。

 そうだ。色々とややこしい事を言っていたが――――つまるところ、ボクは好きな人が自分を押し殺しているのを、見たくないだけなのである。最前線で戦う際の役割を意識し、それに徹そうとする振る舞いは尊敬するが、それを徹底されると痛々しく映る。

 限度はあるが、ボクは彼にもっと伸び伸びと生きて欲しいと思う。

 もっと頼って欲しい。

 もっと我が儘を言って欲しい。

 もっとおねだりをして欲しい。

 もっと素を見せて欲しい。

 凄いところも、努力家なところも沢山見て来たから、今度は君自身の事をもっと教えて欲しい。

 

「だから、ボクは君が自分自身を押し殺しているのを見ると辛い。最前線で戦う姿を格好いいと思うけど……休んでる時や趣味にすら攻略の事を考えて動いているのを見ると、哀しくもあるんだ」

「……ユウキ……それは……」

 

 ボクの告白に戸惑うキリト。

 当然だ、いきなりこんな事を言われても困るだけだろう、何せ彼は現状にすら手一杯なのだから。

 それを理解していても告白した事には罪悪感を覚えるが、でもしておく必要があると思った。彼が求めてくれないのなら求めてもらえるようこちらから動くしかない。押し付けるのは身勝手だが、待つだけというのは傲慢だ。

 

「いきなりこんな事を言われても困る事は分かってる。でも、それでも知って欲しかったんだ。力だけで見てる訳じゃない人が、君が無理をすると哀しむ人が、義理の姉以外にも居るんだよって……それを知って欲しかった」

 

 無論、恋愛感情を使うというこの手段がマトモでは無い事は勿論、決して褒められるものでは無い事であるのも分かっている。

 でも、彼は誠実だ。今はごちゃ混ぜにしてしまっているボクの感情と告白、無理をしないで欲しいという想いをキチンと区別し、理解してくれる。

 そしてボクのこの想いは本物だ。

 もし彼の事を『攻略の道具』としか見ていなければ、きっとボクは率先して此処には来ていないだろう。最優先事項が攻略であるならそれも当然だ。

 勿論ボクも攻略を優先するけど、それなりの融通は利く方だと自負しているし、キリトの事であれば色々としたいと思ってしまう。時には攻略より優先順位は高くなる。それだけ彼の事が好きだ。

 

「……そっか……そっかぁ」

 

 その想いは伝わっているのか、彼はふにゃりと柔らかな笑みを浮かべ、喜色を表した。

 残念ながら、その喜色は直後申し訳無さそうなものに上塗りされてしまったが。

 

「でも……俺は、今はまだ……」

「うん、分かってる。告白しておいて何だけど今すぐ返事を貰うつもりは無いよ」

 

 ボクが求めている返事は将来を誓い合う仲のもの。おいそれと出せる答えでは無い。

 それにこの一年半の間で知り得た事はお互いの性格を除けば戦闘スタイルなどの殺伐としたものが殆ど。リアルの名前すら明かし合っていないのに将来を誓い合うなんて以ての外だ。そもそも今の彼は幼過ぎるからとてもでは無いが現実的では無い。

 理不尽だとは思うが、むしろ今応えられていたら失望していた。ボクは想い人を支えようとは思っているが、辛い事から逃げる為の避難先や依存先になるつもりは毛頭無い。彼の人間性が基本的に優しく、努力家――つまり諦めない人――だからこそこの感情を認めたのだから。勿論ある程度の現実逃避は容認するけど、さっきの話の流れから応えるのは自分的にアウトである。

 無論、お断りされたら傷付いていた。

 

「だからさ、返事は君がもっと成長してからで良いから、これから時間をかけてボクの事をもっと知って欲しい。そしてボクに、君の事を沢山教えて欲しいんだ……良い、かな……?」

 

 思いの丈をぶつけた後、やっぱり急過ぎたかなと弱気になって問い掛ける。

 

「そんな事無い。むしろこっちがお願いしたいくらいだ」

 

 この問いに、彼は顔を真っ赤にし、喜色を表して首を横に振った。

 それにボクは大きな安堵を抱いた。

 

「そっか……じゃあ、改めて、ユウキ――――《紺野木綿季》です。これからよろしく」

 

 想いを知ってもらった事で、心機一転とばかりに本名で名乗る。君の事が好きな女だぞ、と主張するように。

 

「俺は《桐ヶ谷和人》です……改めて、よろしく、ユウキ」

 

 彼はそう応え、満面の笑顔で自身の手を包むボクの両手を優しく握り返してきた。

 以前伝えられなかった事を死亡の話を聞いた時から心底後悔していただけに、拒絶されなかった安堵を含め、ボクはとても胸が高鳴っていた。

 

 


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