突然だが、イタリアにおいて馬は非常に明るい名詞とされている。
古代ローマ時代からチャリオット、なんて武装もあるものだから当然といえば当然の話だろう。広大な領土を収めていたローマ帝国時代において交通は要だった。すべての道はローマに通ず、という古いことわざだってある。
現代のようにガソリンで動くエンジンを搭載した車や、鉄道、飛行機なんてなかった時代、その中において最も速力として最有力視されたのは当然、獰猛でなく、肉を食わず、かつ扱いやすく、素直で何より速力に秀でた生き物――馬だった、というわけだ。
結果、遊牧民族ほどではないにしろ馬という生き物はそれだけローマ人にとって身近でありながらも頼もしい相棒であり、ある時は共に戦場を駆け回り、ある時は長靴型の半島を隅から隅まで駆け巡る足になってくれた人類の歴史と共にあった生き物だったのだ。
……という、雑学をふと思い出した。
ここはボンゴレ傘下のホテルのバーである。
勿論安っぽい酒場などではない。断じて、ない。ゆえに客層にしろ内装にしろ酒にしろバーテンダーまでもがそれぞれ一級品をとり揃えられているはずなのである。
だからこそ、きっと誰にも想像がつかないだろうと思う。
そんな場所でベロンベロンになっているのが、キャッバローネファミリーの若手ドンだなんてこと。
「起きなよ」
「……だれ」
地中海の陽光のように鮮やかな金髪、明るい目。
映画俳優顔負けのきらびやかで派手な容貌に甘い顔立ちを持つ男、ディーノが今まさにせっかく神から授かった容貌を台無しにするかのようにクダを巻いている。
いい年こいてなにしてんの。とあきれ返って言えばなんだ、恭弥か、などと、どこか安堵したような心底がっかりされたような寂しそうな言葉を言うものだからますます情けなく見えてくる。
「何してんの」
「…………うるせー……ほっとけよ」
「そうはいかないから迎えに来たんでしょ。さっさと起きて」
「…………お前、薄情なヤツだな」
ディーノはカウンターに突っ伏したままにぼやいた。
しばらくすると、ぽつり、ぽつり、とこぼすようにつぶやき始める。
独り言のようだった。
でも、確かに誰かに聞いてほしいような、独り言だった。
「スクアーロが」
「……またあの人」
「スクアーロが、好きだって、アイツに、告白されたんだって」
「……」
何をいまさら。
聞けばあの二人は出会ってから今年で18年、冷凍中の空白時間を除いても、もう十年の付き合いになる。
その間一言では中々言い表せない関係だっただろう、と解釈している。
十代中ごろに出会って剣帝殺したりクーデター起こしたり髪伸ばしたり仲間を粛清したりDVしたりクーデター起こしたり鮫に食われたりしただろうと。上司と部下であり、悪友のようなそれでいて恋仲のような親密な空気をダダ漏れさせていたのは傍から見ている分には嫌というほど感じとれた。
そして、その二人を一番近くで見ていたはずのディーノはその温度をよくわかって、感じていたはずなのだ。
「で?」
「そしたら、アイツ、どうしていいかわかんなくなっちまったんだって」
「……」
アイツ本当、バカだからさ。と付け加えるように言う。
あぁ、本当だ。全面的に同意だ。
馬鹿だ、と思った。確信した。
慣れ合いでいい、と思っていたのだろう。
だが、本気だったと、気づいてしまったのだろう。
だが本気だったのは、自分だけじゃなく、相手もそうだったということには1ミリたりとも気づかなかったのだろう。
つまりスペルビ・スクアーロは忠誠だのなんだのを向けることには何のためらいもなかったくせに、愛されることには臆病な本当残念な大馬鹿野郎だったのだ。
で、それで混乱した挙句、よりによって十年も自分に懸想している相手に「どうしたらいい?」と聞きにくるんだからもう、どうしようもない。コレが天然なら大した魔性だ。
さらに、それに生真面目に答えてるんだからこの馬も、本当に本当にどうしようもない。
「……あぁ、もう、なんでだよ……」
「……」
「なんでさぁ、いつも、いつも。こうなるのかな……」
「……」
「やめろ、って言ったんだよ。あんな奴やめろよ、って。
だってお前いつも殴られてんじゃん。そんな痛い目遭うことないよって」
「……」
「でもアイツが俺の言うこと聞いたためしなんか一度もねぇんだ。本当……本当ガキの頃から、何度も言ってんのにさ……あー……もーなんでアイツなのかな。なんで。なんで」
「…………」
なんで、俺じゃダメなのかな。
言いたいことはソレだけだろうに、どうしてもその一言が口に出せないようだった。
思わずため息が漏れた。
そんなこと言ったって無駄だろうに。
その答えはディーノ自身が、もう、とっくに分かっているからに決まっているのだ。
でなければ。
こんな報われない片思いを、延々とやり続けるわけがない。
「……俺だってさ」
「……うん」
「……俺だって。ずっと。ずっと。俺だって」
「…………そう」
「やめられるわけないじゃねぇかよ……だって、だって」
好きになっちまったんだから。
どうやらこの馬鹿男は、こともあろうに思い人の背中を押してしまったらしい。
行けよ、あいつもきっと、同じ言葉を待ってるさ。とでも言ったのだろう。
結局は同じなのだ。
何度殴られても殴られても、待たされても、傷ついても、
それでも愛することを諦められない。
スクアーロも、ディーノも。おそらくは、『彼』も。
「……帰るよ」
「……やだ」
「……」
「……恭弥ぁ、ちゃんと帰るよ。帰るから、帰るからさ……。もう少しだけ、このままでいさせてほしいんだよ」
「…………勝手にすれば」
あぁ、もう本当に馬鹿。
きっとこのイタチごっこはまだまだ続くだろう。誰かが終わらせない限り。
そして、自分もその中に入っている。
入るつもりなんかなかった、でも、気が付いたら巻き込まれていた。
自分だけは違うなんて思っていたけれど、結局は。
結局、こうして、相手が振り向いてくれるチャンスを十年間も待っている。
自分の思いも告げられないまま、
気づかれないままに。
ふと酒瓶が目に留まった。ラベルには馬の絵が描かれており、その端には格言らしき言葉が欧州特有の読みにくい装飾アルファベットで刻み付けられていた。
『Campa, cavallo, che l'erba cresce.』
思わず笑みがこみ上げてくるのがよく分かった。
待てども待てども来ない晴天。
太陽を待ち焦がれて、未だに海をさまよっている。
Campa, cavallo, che l'erba cresce
『馬よ、生き延びろ。今に草が伸びるから』
イタリアのことわざ。同義語:待てば海路の日和あり