東方信頼譚   作:サファール

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 今回から本格的に本編開始です!!

 尚、サバイバルに関する知識は作者の適当な妄想によるものですので、あまり気にしないで下さい。


 それではどうぞ。


1話.記憶喪失な彼と都市の彼女

 夢を見た。

 こんな曖昧なものを夢と呼んでもいいのかと思ってしまうほど意味不明な夢だったが、それでもこの状況を考えると、やはりあれは夢だったのだろう。木漏れ日が目を照らしていることから、そう判断出来た。

 

 目が合った。

 真っ黒に塗り潰された不思議な空間の中、ただ一人、僕がそこに漂っていた。

 ここは何処だろう。そう思って、まずは状況確認をしようと辺りを見渡してみるが、黒い空間には何も無く、ただ自分がそこに存在しているだけだった。だが、そこに赤い光があったのだ。それは二つ、割と近に間隔にあり、僕の前方にあった。

 あれは何だろうと思っていると、その光が形を変えたのだ。そう、丁度人の目みたいに。そしてそれに瞳孔らしきものが出来始めてから、それはやはり人の目であると確信した。

 ギョロりと僕を見つめる赤い双眸。なんの感情も無く見つめているように見えるが、僕はあいつの抱いている感情を痛烈に感じ取った。

 

 それは“信頼”。彼と親しくする人が抱く、所謂友達という奴が持つ素晴らしい感情だ。

 しかし、僕にはそうは見えなかった。彼はきっと、僕を“嗤っている”。

 憎悪を感じたのでそのまま表情として顔に出していたら、いつの間にか赤い目が増えていた。二つ、三つ、四つ。限りなく増えていくそれらは、皆信頼した目で僕を見つめてきた。それらは何時しか僕の見える範囲限界まで増え、視界を赤く染め上げた。

 

「…止めろよ、胸糞悪い」

 

 顔を変えずにそう呟くと、双眸は真っ赤に輝いた。徐々に光を強くしていく目に、僕はイライラしながらも、眩しくて目を覆った。

 

 そこで、夢から覚めたのだ。

 

 

「うぁ……ん…ここは?」

 

 目を開けると、視界には一杯に広がる枝葉があった。どうやら、木の根元で寝ていたみたいだ。…あれ?

 

「おかしいな…。さっきまで…」

 

と言いかけて、彼は次の句が思いつかなかった。何故、と問われてもどう返答すればいいか分からない。言うならば、“分からないのに分かっていた”、という感じだ。

 彼はどうしてこんな場所で眠っていたのかを思い出そうとして、ここまでの経緯を想起しようと思考を巡らせた。

 しかし…

 

「…?何も思い出せない…」

 

何も思い出せなかった。自分の名前や年齢、体重などの基本的な記憶は保持しているのに、何故かそれ以外の記憶が欠如していたのだ。これが俗に言う記憶喪失というやつか。にしても、僕がなるとは思わなかったなぁ。毎日頑張って通ってたし、毎日早寝早起き朝のランニングもしていた。…ん?毎日通ってたって、何に?

 

「……分からないが、仕方ない。取り敢えず起きるか」

 

 何も思い出せないならば、思い出すまで気長に待つとしようか。

 僕は起き上がると、状況確認の為に周囲を確認した。

 

(…うわぁ、見事に周りが木しか無いや。近くに家があるわけでもなさそうだし、どうしようかな…)

 

 立ち上がって少し周りを回って見たが、それはもう清々しいほどに木しか無かった。土地にはあまり起伏が無いので、木々の隙間から見える景色で判別する事は出来ず、また木登りして見てみようと画策してみるも、皆同じような高さなので、登るべき高い木が無かった。

 

「えっと、まずは持ち物確認から…」

 

 次に自分の身辺を漁ってみる。持ち物としては……

 

「え、何も無い…?」

 

参った。何も無いや。持っているもの(というより着ているもの)は、普段から着ている制服だけだった。学生証は勿論、普段からポケットに入っている筈の財布すら無かった。…と言うか、制服って何の?学生証って?そもそも学生とは?

 

「っと、分かんない事をうだうだ考えていても駄目だ。取り敢えず、使える物を探そう」

 

思考を断ち切って、僕は、かっこよさでは定評のある制服の乱れを直した。

 そして、特に宛もなく彷徨う。持ち物が無い時のサバイバルの心得は、父さんにせがんでみっちり教えてもらったから大丈夫だ。…ここで父の名前が出てこないのが何とも物悲しいが、ここは我慢だ。生き残る為には、相当な我慢が必要だと、お父さんも言っていたではないか。ここで音を上げてどうする。

 焚き火を使えそうな小枝を脇に挟み、そして道中に見つけた繊維性の高い茎を持った植物を引っこ抜く。それと、尖った石も忘れない。食べられる草や木の実、茸などを採りながら、僕はズンズンと森の中へと(どっちが奥かは分からないが)進んでいく。

 

「…ん?この音は…」

 

足を止めて耳を澄まして集中すると、何処からか液体が流れていく音が聴こえてくる。

 

「ラッキーだな、沢があるぞ」

 

 音のする方に走っていくと、そこには浅い川が流れていた。丸い石がそこらに転がり、野営するには申し分無い場所だった。

 

「ここで今夜は過ごすか」

 

近くの木の根元に集めた資材と食料を置き、糸の代わりに細長くてちぎれない芦のような草を慣らしてよって結んだ。そしてそれを穴を開けた枝にグルグルと巻き付けて十字に枝を重ねて、簡易的な火起こし器を作った。我ながらいい出来だ。だが、何回も使う事は出来ないだろう。定期的に採集する必要があるな。

 日が暮れない内にやれる事はやっておかなければ。だが、これ以上の生活レベルを実現させるには、どうしても動物の皮が要るな。

 

「だが、今はこれだけで十分だ」

 

 彼が上空を見上げると、そこには赤く染まった空があった。これから夕飯を作るだけで、もう暗くなってしまうだろう。 いつ何が起こるか分からない自然の中では、決して無理は禁物だ。

 

 その後は、周りの音に気を配りながらも夕飯を済ませ、火を早々に消して、少々危険だが、安定している枝の上で就寝した。こういう時のために寝相を直しておいて正解だった。

 現代では有り得ないほどの量が瞬く星空の下、一人の人間が安らかに眠りについた。

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

 

 

 腰が痛い…。

「うぁ…こんな所で寝てたら当然か」

まだ猛獣に遭遇してないので確かなことは言えないが、恐らくこの森のには結構やばい奴がいる筈だ。昨日、木に大きな爪跡が残っているのを見つけた。きっと何かのナワバリなのだろうが、その跡の大きさが問題だった。縦が彼の背丈ほどもあり、その幹を深く抉っていたのだ。

 

(あんな大きな手を持っている動物なんて見たことも無い。一体どれだけの個体なんだろう…)

 

一抹の不安に駆られながらも、僕は今日の食材を手に入れる為に木を降りた。生きる為には常に動き続けなければ…。

「特に異常は…無いな、取り敢えず安全だ」

地面に降りて、獣の足跡が無いかを調べる。どうやらこの辺りには動物がいないらしく、足跡どころか、糞さえも無かった。

 

「よし、今日は動物を狩ろうか」

 

 森を歩き、生き物を探す。ちゃんと元の場所に戻れるように、所々に印を残しておくのを忘れずに、周囲に動く物が無いか探索をする。

 そして、近くの町の探さなければいけなかった。ここがどれ程山奥なのかは知らないが、日本はそんなに国土が広いわけではないし、最近は調査が終わってない地域は少ない。探れば何かしら人が残した痕跡がある筈だ。もっと欲をいうならば、避難用の小屋や、道路に出たいものだ。町は少々高望みかもしれないが、可能性が無い訳では無い…筈。

 

(…お、いたぞ)

 

 茂みに隠れながら前方を見ると、そこには一匹の小鹿がいた。何故一人でいるのかは謎だが、この際それはいい。問題は、目の前のそいつが後脚に怪我をしている事だ。患部をいたわる様にヒョコヒョコと移動し、時折転びそうになっている。

 

「さて、行くか…」

 

 叩き割って鋭利な刃物と化した石を手に、彼は鹿に飛びかかろうとした。

 だが…

 

 

 

グオオォォアアアァァ!!!

 

 

 

 突如反対側から現れた巨大な化け物によって、鹿は真っ二つに引き裂かれた。

(…っ!)

 血飛沫が飛び散り、肉塊が軽い音を立てて落ちる。

 その風貌は熊のようだった。筋骨隆々な四肢は、どんな大木をも破壊出来る程の怪力を誇っているように見え、その巨体から溢れる獣臭はいかなる、ものをも寄せ付けない殺気を放っていた。

 

(な、なんだあいつは!?)

 

彼は驚いた。それも当然だ。目の前に現れた熊のような生き物は、到底彼が知り得ている大きさではなかったのだから。まるで巨大な岩の如き体躯に気圧されて、彼は茂みに再び隠れた。もしや見つかっているのかと思ってヒヤヒヤしながら熊を見たが、今は眼前の(鹿)に執心しているようで、彼の事など見向きもしなかった。

 

(大きい…。どう見ても普通の熊じゃないぞ。それに、どの図鑑にも載ってない姿だ)

 

鹿を貪っている熊をまじまじと観察していると、不意に熊がこちらを向いた。赤く染まった口元が向けられ、彼は思わず後ずさってしまった。

 

 

パキ…

 

 

(しまった…!)

ゴオォォアァァ!!

 

 小枝を踏んでしまった間抜けな新しい獲物を見つけて、熊は歓喜の声を上げた。鹿の事はどうでもいいのか、熊は真っ直ぐこちらへと向かって来る。

 

「ちっ…!」

 

今手持ちには割れた石が二つしかない。この装備で闘っても負けるのは確実だろう。戦闘に関して父から教わったが、それは対人用であり、化け物に対して使う事は出来ない。ましてやこんな怪物相手に勝つなんて無謀すぎる。

 

「うわぁ!!」

 

熊の巨大な手が迫り、彼は大きく後方に転がって躱した。考えている場合じゃない。走りながら対策を練らねば、直ぐにあの鹿のようになってしまう。

 

 熊が周囲を轟かせる咆哮を発し、それに腹の底が震わされて同時に恐怖が頭に流れ込む。何とか地形を利用して逃げてはいるが、それも時間の問題だ。熊が凄い勢いで木々を体当たりでなぎ倒しているので、回避に使う木がもう少ししかないのだ。熊の馬鹿力に驚嘆しつつ、彼はそれでも、決して諦めはしなかった。

 

「はぁ…はぁ……こんな所で死んでたまるか…」

 

 僕は復讐を遂げるまで、絶対に諦めない。絶対に…絶対に死んでたまるもんか…!!

 

「うおおおぉぉぉぉ!!!」

 

恐怖を跳ね返すかのように全身から気合いを放ち、思い切って熊と正対する。熊は相手が観念したと思っているのか、立ち止まって同じく彼を睨んでいる。

 

 そんな熊に彼は駆け、両手に尖った石を持って熊に突き刺そうと肉薄する。

 熊はそんな彼を踏み潰そうと前脚を上げ、直進してくる彼に向かって振り下ろした。それを察知した彼は咄嗟に横転する事でこれを避け、勢いを殺さずに起き上がるとそのまま熊の横っ腹に向けて右手の石を突き刺した。

 

ゴギャアアァァァァ!!

 

 熊が生き物とは思えない叫び声を上げて、思いっきり横に前脚を払う。それを読んだ彼はさっと後退すると、今度は地面の砂を掴んで熊の顔面目掛けて投げつけた。

 

(分かる…)

 

 彼は苦悶の声を上げる熊が振り回す四肢を躱しながら、一人不思議な感覚に陥っていた。

 熊が放つ次の手が分かるのだ。未来予知のように熊の“次”が頭の中に描かれ、それに従って自分は身体を動かす。何故分かるのだろう。熊の挙動のその初動が分かった途端、熊の次の攻撃が手に取るように分かる。

 

 砂で動揺している間にまた熊の身体に石を突き刺すと、今度は熊が立ち上がって噛み付くのが分かった。それに合わせて彼は右に避けると、熊は噛み付かず、腕を横薙ぎに振るって彼にぶち当ててきた。

 

「がはっ…!?」

 

 体感したことがない衝撃が脇腹にかかり、身体が宙に浮いて吹っ飛ばされてしまった。地面を転がり、途中にあった切り株にぶつかって停止する。そして蹲って痛みに耐えた。

 

 分かっていた未来とは違った。いや、正確には、“途中までが分かっていた”、だ。熊が以前噛み付いてきたときに見せた挙動があの立ち上がりだった。そこまでは同じだったのに、そこからのあいつの行動が違って、それに対応出来なかった。

 自分の中で何か未来予知のような能力でもあるのかと思っていたが、どうやらそれは違ったようだ。熊の“初めて見た”挙動に反応出来なくて、遂にダメージを食らってしまった。

 

(…?初めて…?)

 

 その言葉に微かな違和感に感じ取ったが、それを追求する前に、目の前の現状によって思考が引き戻された。

 

グアアァァァ!!

 

熊がトドメに振り下ろしてきた前脚に気付き、彼は後ろに転がろうと思ったが、背後にはぶつかった切り株があった。その間の悪さに(ほぞ)を噛む彼だったが、素早く機転を利かして、熊の体の下に潜り込むようにして転がり込んだ。そのまま地面を転がって熊の後ろから脱出した彼は、振り向かずに必死に距離をとろうと熊から離れた。

 

「くそっ…」

 

 熊には確実にダメージを与えている筈なのに、一向に死ぬ気配がない。よく見てみたら、血もそんなに出ていなかった。そんなこいつの皮膚の分厚さに舌を巻きながらも、彼は次の作戦を考え始めた。

 

(どうする…。石での攻撃は全くと言っていいほど効かない。かと言って体術でダメージを与えれるような相手じゃないし、周囲にはバラバラになった木と切り株くらいしか………?)

 

 そこまで考えて、彼はハッと思いついた。だが、これは相当な賭けだ。失敗すれば勝ち目はほぼ無くなるだろう。

 だが、このまま闘ってもジリ貧で負けが確定する。そんな闘いを続けるくらいなら、僅かな可能性に賭けるしかないだろう。

 

(…よし、やってやる…)

 

 彼は周囲に丁度良い切り株と抱えれるかギリギリの幹を探した。そしていい感じの大きさのを見つけると、そこに向かって走り出した。

 それを見て熊が四肢を躍動させて飛ぶように彼に駆けてくる。何とか熊が来る前に目的の木に辿り着いた彼は、木をとある切り株に向かって投げつけた。そうしている間にも迫ってくる熊。それを見やった彼は石を両方投げつけると、熊はそれを全く意に介さずに突進してきた。しかし構わず地面に手を突っ込んだ彼が泥を掬うと、猪以上の威力で迫る肉の塊に向かって泥を投げた。

 

「…よっしゃ!」

 

 泥が上手く熊の顔に当たり、砂よりも厄介な目くらましへと変わる。両手を顔に当てて必死に泥を落としている熊には目もくれず、彼は先程投げた木に向かって力の限りに走った。

 そして切り株の窪みに折れた木の片方を付けると、熊の方へと向けて木を寝かせて木の前に出た。

 

グルアアァァァァァ!!

 

 何とか視界を確保した熊が再び突進を開始した。それを出来るだけ引き付けて生唾を飲み込む青年。しかしその目はみなぎる闘士を迸らせており、決して臆することはなかった。

 

「来いっ!!」

 

 爪が擦る寸前まで引き付けていた彼が熊の間合いに入った瞬間大きく後ろに飛び退り、同時に地面の木を抱えて一瞬で斜めに持ち上げた。

 

「喰らえええぇぇぇ!!!」

 

 飛びかかった熊の胸に折れて先が尖った木が刺さり、熊の勢いを使って深々と────

 

 

 

 

 

「なにっ!?」

 

 

 

 

 

────突き刺さる事は無かった。どうやら木の強度が熊の胸板に負けてしまったらしく、木は切り株の熊の胸に挟まれて半分にへし折れてしまった。

 

「そんな……ぐっ!?」

 

 折られて吹き飛ばされた木片と一緒に飛ばされ、青年はまたもや地面に倒れてしまった。今度は渾身の攻撃が看破された衝撃でまともに受け身もとれず、地面に激突した瞬間に肺の空気が全て吐き出された。失った空気を取り戻すために必死に喘ぐ彼に動く余裕などなく、のっそりと迫ってくる熊から逃げる事は出来なかった。

 

(ここで…終わるのか?)

 

 薄く開いた目から見える熊の手(死)をどこか諦観した感情で見つめ、彼は自分の最期を悟った。

(まだ…復讐が…)

自分にはまだらやなければならない事がある。それを完遂するためには、まだまだしぬわけにはいかない。

 だが、現状を打破する策はない。…無念だ。そう思い、彼は目を閉じた。

 

 

 

 

 

 

────ザクッ!!

 

 

 

 

 

 

 いくら待っても衝撃が来ない。

ドシン!!

そして響く質量が地面に落下した音。これらから想像出来る有り得ない結論に半信半疑だったが、青年は恐る恐るその瞼を持ち上げた。

 

「……は?」

 

 そこには、眉間の辺りにジャストミートして突き刺さっている弓矢の矢羽根があった。目の焦点をずらして全体を確認すると、熊の頭に一本の弓矢が刺さっており、熊が絶命していた。ピクピクと四肢が痙攣しているのが、絶命した証拠だ。

 

「い、一体何が…」

 

事実は分かる。熊のようだったが放たれた矢によって一撃で死んだ。たったこれだけの事だ。だが、そこには“誰”という要素が欠けている。一体誰がこの矢を撃ったんだ?

 青年が軽くパニックに陥ってると、彼の背後から綺麗な声が響いた。

 

 

「危なかったわね、大丈夫だった?」

 

 

 声がした方に顔を向けると、そこには銀色の長い髪を持ち、赤と青の特徴的なツートンカラーの服を纏っている綺麗な女性がいた。手に弓を持っている事から、彼女が矢を放った本人だと理解出来た。

 

「え、あ、はい…ありがとうございます」

「それにしても、あなたよくこんだけ闘ったわね。周りを見てみなさい」

 

 女性に言われるままに顔を回すと、そこには唖然とした光景が広がっていた。なんて残酷な森林破壊だろうか。木々は殆どへし折られ、地面はどうしようもなく抉れ、激しい戦闘の爪痕が生々しく残っている。これをこの熊と二人だけでやってのけたと考えると、頭が急に疲労が襲ってきた。

 

「うっ…これは酷い…」

「それについては同意するわ。…それで?」

 

 背後の彼女の声音が変わったのを感じて、彼は体ごと顔を彼女に向けた。彼女の目は先程の呆れたようなものとはかけ離れ、静かに相手を見つめる冷ややかさを宿していた。袖口に隠された小型ナイフのような鋭く隠れている殺気を感じたのかは分からないが、直感で彼女は決して味方ではない事が分かった。

 

「えっと…何ですか?」

「あなたにはいくつか質問があるわ」

「拒否権は?」

「ないに決まってるでしょう」

(デスヨネー)

 

 出来るだけ相手を刺激しないように、最後の言葉は喉の奥に押し込んだ。

 弓に矢をつがえ、緩くこちらに向けられる。

 

「あなた、都市の人間じゃないわね。一体何者?」

「え?都市?」

 

 いきなり訳の分からない質問だ。僕の素性を知りたいんだろうが、これでは何を答えればいいのかがさっぱりだ。

 

 

「あの…僕h────っ!!!」

 

 

 取り敢えず何か答えようとした瞬間、頭に激しい頭痛が響いた。頭を大槌でぶっ叩かれているような感覚に陥り、立とうとした足が膝から崩れ落ちる。目が霞んで、耳鳴りが聴覚を支配する。女性が何か言っているが、今は何も聴こえないし良く見えない。…と、視界が茶色に染まって、地面に突っ伏したのだと想像する。あはは、これじゃあさっきの熊と同じようなもんじゃないか、なんてつまらない考えを始めてから、彼は意識を手放した。

 

 

 

 

 

 

 

* * * *

 

 

 

 

 

 

 

 …頭が痛い…。まだ頭痛は続いているようだ。地面で横になって、何時間くらい経ったんだろうな。きっと熊の死体の臭いに釣られて、他の猛獣が寄ってきているだろう。体を動かそうとしても全く動かない。こんな死に方はもっと嫌だ。意識が朦朧としている中でゆっくりと獣に肉を噛みちぎられる経験なんて、きっと僕が初めてだよ。

 最期に僕を食べる動物の異形な顔面でも拝むとしようかな。

 青年は必死に瞼を開けるように努力すると、ゆっくりとだが、視界が持ち上がってきた。

 

(…ん?)

 

 だが視界に広がったのは真っ白な天井だった。無機質はそれは何処か僕の過ごした懐かしい場所に似ていて、何かを彷彿させるものだった。

 

(えっと……こういう時はなんて言うんだっけ?)

 

欠けた記憶にあるかもしれないある一句を探し出し、そして重たい唇でそれを言う。

 

「…知らない天井だ…」

 

よし、ちゃんと言えた。心の中に僅かな満足感を感じて、僕は少し微笑んだ。実際に唇が動いているかは分からないが、それでもいい。久しぶりにこんな感覚を味わったよ。

 その後もこの感情に浸っていようと思考に耽り始めた青年だったが、それは唐突に開いたドアの音でかき消された。

 

(誰か来た)

「あら、やっと起きたのね」

 

 なんとそこには、さっきまで僕に弓を向けていた女性がいた。何故…と言うのは野暮かもしれないな。何処かの建物に運ばれる可能性があるとすれば、それは彼女によってだろう。警戒されていた筈なのに、どうして僕を放って置かなかったのだろうか。

 

「何故って顔をしているわね。それは、私があなたに興味を持ったからよ」

「興…味?」

 

ただの男に興味を持つ女性がいるとは思わなかった。それにしても、僕の一体どこに興味があるというのだ。こんな平々凡々で、ちょっと身長が高いくらいのガリな僕のどこにそんな部分があるんだ?

 

「まぁ、今はそんな話はいいわ。起きられる?」

「はい…何とか…」

 

 まだ体が痛むが、起きられない程ではなかったので、案外すんなりと起きることが出来た。

 

「お水、飲んで」

「ありがとうございます」

 

彼女から水の入ったコップを受け取り、それを喉に流し込む。ゴクゴクといい音がして、冷たい水が体を癒していく。

 

「全く…あなた、いつまで寝てるのよ」

「え?いつまでって…?」

 嫌な予感がする。そういえば、ここは病室のようになっているのに窓がない。所謂密閉された部屋だった。お蔭で時間の感覚が狂ってしまっている。今は…何時だ?

 

 

 

「あなたは、一ヶ月もここで眠っていたのよ?」

「ぶふぅ!?」

 

 

 

盛大に水を噴き出した。

(え!?一ヶ月!?そんなに酷い怪我じゃなかった筈だけど。ただタックルとかを喰らっただけだから外傷はないだろ?なんでそんなに寝てたんだ…)

 頭痛だって気絶するくらい酷いものだったけど、一ヶ月も昏倒するような頭痛だったら、きっと今頃はあの世行きだろう。脳がそんな負荷に耐えられるわけがない。

 

「い、一ヶ月って、マジですか…」

「本気よ。あの時に助けていなかったらどうなっていたことか…」

 

彼女が額に手をやって溜息をつく。何だか非常に恩着せがましいように見えるが、一応命を助けてもらった身だし、ここは礼を言うのが筋だろう。

「あ、あの、本当にありがとうございました!」

「ん?あぁ別にいいわよ。いい研究も出来たし」

「…へ?」

 

 今、彼女はなんと言ったか。研究?一体何の?もしや、人体実験の非検体が居なかったから丁度良く僕が使われて、ゾンビをなる薬や突然変異しちゃうような薬を…!?

 

「何を心配しているのか分からないけど、安心して。あなたの体を検査して、少し血を採っただけだから。それ以上の事はしてないわ」

 

顔に出ていたのか、彼女が僕に宥めるように言ってきた。そんな心配そうな顔をして、そんなに僕の顔が酷かったのか?

 

「ん…まぁ、それについては気にしてません。問題は、何故一ヶ月も眠っていたのかですよ。自分の事なのに分からないだらけで…」

「それについては後で説明するわ。あなたを調べて分かったことをね」

それはありがたい。情報秘匿だったらどうしようかと思っていたところだ。勝手に検査されて内容を知れないなんて人権侵害だぞ。

 

「お願いします」

「そう急がないで。まずは今のあなたの診断よ。質問に答えて」

健康診断をやるらしい。どこからか取り出したクリップボードに挟まってる紙にサラサラと何かを書きつけ、そして診断を始めた。

 その姿がどこか病院のナースに似て堂に入った様だったので、あなたは看護師ですかと問いかけたところ、お医者さんらしい事もやっているだけだと言った。もしや悪徳な無免許医じゃないかと一瞬思ったが、そんなマンガのような人がこの世にいるわけないなと思い直し、素直に質問に答えていった。

 

「────最後よ。今、頭痛はする?」

「するしないで言えば、します。でも、そんなに酷くはありません」

 

 その他も軽く身体検査をさせられたが、どうやら異常はな無かったらしく、今日中にも退院出来そうだと彼女は言った。

 

「あの、治療費とかは…」

「大丈夫よ。あなたのお蔭でいい研究が出来たから、それでチャラにしてあげるわ」

 

悩みの種が消えて、僕は安心した。当然ながら、今は着の身着のままだ。原始人のような暮らしをしていた僕にとって、お金なんて次元の違う話だった。

 

「…これで終わりましたね。それじゃあ、僕の事について教えてくれませんか?」

 

 今の僕の目的はこれしかないと言っていいだろう。謎の記憶喪失、戦闘の時に感じた違和感、そして彼女を見た時に生じた、一ヶ月も昏倒してしまった頭痛。自分の事にこれほど疑問を抱くとは思わなかった。

 彼女の研究がどのようなものかは分からないが、こんな森の奥の村のような場所の研究施設ではたかが知れている。求めていた答えが返ってくるとは思っていないが、可能性には賭けてもいいだろう。藁にもすがる思いというのはこのような感情を言うとかとしみじみ思った。

 

「悪いけど、まだやる事があるわ」

 

 しかし、その願いはまだお預けとなった。

 

「え!?何故ですか?」

ここまで我慢して彼女に付き合ってあげたのに、どうして僕の言い分は通らないのだ。もうやる事は無い筈だ。

「もうやる事はないですよね?」

「いえ、まだあるわ…」

 

 

 

 

 そして、僕にとっては心底恐ろしい話を切り出したのであった。

 

 

 

 

「…一ヶ月ぶりだけど、あの時の続きをしましょうか」

「あの時の?………あ」

 

 僕は思い出した。この人と出会った時は、随分と殺伐とした問答をしようとしていたのだ。結局あの時は一問も答えれなかったが…。

 彼女の纏う空気が底冷えしたものに変わり、医師のそれから捕縛者のそれへと変わっていった。いつの間にか片手にはあの時の弓があり、矢筒が背に装備されていた。何処から出した、と聞くのは御法度である。

 

「…どうぞ」

 拒否権は勿論無かった。

「ありがとう。まず、あなたは何者?」

 これはあの時もされた質問だ。しかし答えは…

「…分かりません。気付いたらあの森にいて、記憶も無くなっていたんです」

「それは、記憶喪失?」

「恐らく。実際、あの森で目覚めた以前の事はさっぱり思い出せません」

 

嘘は言ってない。これは本当の事だ。当然だが今は丸腰だ。入院する時に着るであろう服を着せられ、いつもの制服は何処かに行ってしまった。今彼女に敵と判断されれば、確実に僕は死ぬだろう。

「…嘘は…言ってないわね。それじゃあ次の質問よ。」

一息吸い、次の質問(脅迫)に入る。

 

 

 

 

「あなたは、本当に人間なの?」

 

 

 

 

「………はぁ?」

 これに思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。常識的に考えて、僕のどこが人間じゃないと言うのだ。確かに熊と素手であんなに闘う人間はあまりいないし、記憶喪失でいきなり森の中というのも常軌を逸している。だが、それを踏まえてもその人に人間か?なんて馬鹿な質問はしない。

 

「これは検査の結果から判断出来たのだけれど、まずはあなた自身の見解を訊こうと思ってね。どうなの?」

「いやいや、僕は正真正銘の人間です。そりゃあ、ちょっと熊と闘えたり、記憶喪失してたりと色々ありますが、その部分は間違ってないですよ。」

「言っておくけど、あの熊のような怪物は妖怪よ。普通の人間ではとても太刀打ち出来ない筈なの」

「えっ!?」

 

 これまた衝撃の事実。昔の日本には妖怪という摩訶不思議な生物がいるのは小耳に挟んで知っていたが、まさかまだ現代にいるとは…。

 

「あれは結構な強さを持つ妖怪で、私はあれの討伐に行っていたのよ。あなたが注意を引き付けてくれたから、楽に終わったけど」

 

この人は妖怪退治を生業としているのだろうか。話をしていくほど、彼女の職業が分からなくなっていく。

 

「そ、それでも、僕は人間です!何があってもそれは譲れません」

「…なるほど、あなたの決意は分かったわ」

 

 

 彼女はそう言うと、弓を肩に担いで更に書類を取り出した。そして近くにあったテーブルを引っ掴んでベッドに付け、一枚一枚丁寧に並べていった。

 

「えっと…これは…?」

 

レントゲン、グラフ、図形、難しい字ばかりが羅列された紙面。これらが一瞬で何を表しているのかが分からなかったが、暫くそれを見ていると、一瞬の激しい頭痛が起こり、その全てを理解する事が出来た。

 

「これは「僕の検査結果ですね」…そうよ」

 

 彼女が心底驚いたような顔をして言う。

「これを見た人はみんな訳の分からない顔をするのに…」

「何故か分かるんですよ、僕には」

 

頭痛の事は話さずにおく。変な事になって話をややこしくしたくない。

 この散らばった紙の意味が分かると言うことは、内容を理解出来るということだ。僕の頭の中に検査の結果が流れ込み、彼女の解説を要らずして自分を人間でないと言った理由を知る。

 

「…………」

「理解出来るなら、この不自然さも分かるでしょ?」

 

 

 

 

 本来、人間の脳にはその生を全うしても余りある記憶容量がある。それのお蔭で、人間はその人生の中で限りない希望を孕んでいられるのだが、青年は約100年分の容量をその脳を刻み込んでいた。

 当たり前の事だが、青年はまだ20年も生きていない。脳にあるものといえば、高校までの基礎的な知識くらいが主である。そんなたかが18の子供の脳に、一体どんなモノが入っているのだろうか。

 

 流石に容量の中身までは分からないが、これは頭痛と関係があると、青年は思っていた。女性の方も全くの無関係とは思っていないようで、書類の中にも頭痛との関連性を示すものがチラホラあった。

 

 そして最も驚いたのは…

 

 

 

 

「あの、僕の脳の容量が測定不能って、機器の故障なんじゃないんですか?」

 

 

 

 

 青年の脳が無尽蔵の容量を保持していることだった。

「故障じゃないわ。これは正確な結果よ」

だが、これは間違いではないようで、彼女は自信を持って言った。

「じゃあ、これは何なんですか?」

 問いかけた青年に彼女は顎に手を当て、暫し逡巡した後、不意にポロッと言葉を零した。

 

「もしかしたら…能力…かもしれないわね」

 

 能力。その意味が頭の中で反響して、返すように彼女に一言。

 

「え?それって厨二びy「冗談じゃないわよ?」すいませんその弓を下ろして下さいお願いします」

 

物凄い殺気を感じてすぐさま青年が土下座する勢いで謝ると、彼女は睨みながらもそれを下ろしてくれた。

 

「ふぅ……能力って、どういう事ですか?」

 敵意が消えたのを確認してから青年が訊くと、彼女は説明してくれた。

 この世界には時々能力を持った生き物が現れるらしい。能力の種類は実に多種多様で、名称は“程度の能力”と言うらしい。因みに彼女の能力は『ありとあらゆる薬を作る程度の能力』らしい。これまた何とも便利な能力だこと。これがあれば万病に効く夢のような薬も作れるではないか。

 能力を人間が持っていることは大変珍しく、彼女はその都市という場所ではかなり重役だと言っていた。

 

「…まぁ、大体は理解しました。それで、僕に能力があるとして、一体どんな能力なんでしょうか」

「さぁ?それは分からないわ。でも、あえて言うなら、『いくらでも記憶する程度の能力』かしらね」

「…微妙ですね」

 

 熊と渡り合えたからどんな能力かと思ったら、非常に微妙な能力だな。

「これはまだ仮定の話よ。まだその名称が正しいとは限らないわ」

女性が優しく言う。確かにまだ決まったわけではない。きっとこれからこの能力については色々と分かることだろう。

 

 

 

 

「取り敢えず、これであなたが普通の人間じゃない事は理解してくれた?」

「……それは、能力があるからですか?」

「…両方の意味よ」

「そうですか…」

 

 ここまで証拠と理由が揃っていれば言い逃れはできまい。青年の身に降り掛かった災難は、彼を人外へと変貌させてしまったのだ。

(…それでも…)

 しかしそれでも、彼の意志に揺らぎはなかった。

 

 

「…僕はそれでも、人間を貫き通します」

 

 

「ふふっ、いい答えね。嫌いじゃないわ」

 この答えに彼女は微笑んで、散らかした書類を全てまとめて彼に渡した。弓と矢筒もいつの間にか消え去っており、彼女の目からは敵意が完全に無くなっていた。

「人間のあなたには二つの選択肢があるわ。一つは、都市を出て、もう一度あの野外の生活に戻るか。もう一つは、都市で暮らして、安全な生活を送るか。どうする?」

 

 そんなもの、決まってる。

 

 

 

 

 

「ここに住みます」

 

 

 

 

 

 迷いなく言い放った彼に女性は笑みを零した。

 

「ようこそ、ツクヨミ様が治める“都市”へ。歓迎するわ」

 

 




 少し前に書いたものを見返すと身悶えしますね(笑)。

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