君の名は。~After Story~   作:水無月さつき

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糸守の記憶

朝、目が覚めると、俺はリビングのソファの上だった。

 

ああ、そう言えば、昨日は結局ここで眠ったんだっけ?

 

部屋の中はまだ真っ暗で、時が止まったかの様に静寂な空間に、リビングに面したキッチン備え付けの年老いた換気扇のキィキィという錆びついた音が時折虚しく響く。

 

こんな時間に目が覚めるのは、ソファの寝心地が悪いせいか、はたまた酒が入っていたから眠りが浅かったせいか……

 

いや、どちらも違うだろうな。

そう、答えは分かっている。俺は、ソファから起き上がり、なるべく音を立てない様に自分の部屋の扉を開ける。

 

一定のリズムで心地良い寝息を立てながら、お互い寄り添う様にして仲良く眠る三葉と四葉の姿がそこにはあった。

その、幸せそうな寝顔を見て、俺もなんだか幸せな気持ちになった。

 

俺は、自分の机に座って頬杖を突きながら、暫しの間、彼女たちの寝顔を眺めていたが、彼女たちが余りにも気持ちよさそうに眠るものだから、少し悪戯してやりたいという衝動に駆られる。

 

なんと言っても、本当に昨日は大変だったのだ。

四葉は割と早い段階で眠ったのだが、三葉の方はあのおかしなテンションを持続したまま、べったり甘えてきて、寝かし付けるのも一苦労だった。まあ、正直な話、甘えてくる三葉は非常に可愛かったのだが、その反面、無防備すぎて色々と危なっかしい。あの時の俺は酔いも醒めており、ほとんど素面だったから何とか理性が効いたが、俺も酔っぱらっている状態だったら間違いが起きても不思議ではなかった。

 

俺も男である。彼女を作らなかったし、そういう体験もした事がないので、どうも周りからはそういう欲求が薄いと思われがちだったが、俺にも人並みには性欲だってある。当然、好きな女を抱きたいという本能的な欲望も湧いてくる訳で、それを理性で抑え込んでいるに過ぎない。

 

俺は三葉を大切にしたい。考え方が古いだとか、へたれなんて言われるかも分からないが、少なくとも俺は自分の欲望の赴くままに、彼女を抱くなんて真似をしたくなかった。急ぐ必要なんてない。ゆっくり時間をかけて、ちょっとずつ段階を踏んで行けばいい。だって、三葉はここにいるのだから……

 

そう思っていたのだが、肝心の三葉がそれを許してくれない。彼女は易々と俺の理性の壁を突破してくるのだ。きっと無意識のうちにやっているのだろうが、三葉は俺と接する時かなり距離が近い。四葉の話を聞く限り三葉は脇が甘いなどということは決してなく、寧ろ男とは必ず一定の距離を置く程度には身持ちの堅さに定評があるとのことだった。

 

四葉は俺と接する三葉の姿を見て、まるで性格が百八十度ひっくり返ったかのようだ、と評していた。それだけ俺の事を信頼してくれている、そう思うと猶の事、三葉を大事にしなくてはと気合が入るのだが、しかし、三葉にくっ付かれて湧いてくる抑えがたい欲求は如何せん何ともしがたい。そんな訳で、俺はこのどうしようもない欲望にひたすら耐えながら、三葉を何とか寝かしつけたのだ。

 

そんな事を思い出して、俺は少しむかむかしてきた。俺の気も知らないで、この女は……。さて、どんな悪戯をしてやろうか。

俺は机の上に置いてあったマジックペンを取り出して、三葉の顔を覗き込む。

 

「瀧くん……バーニャカウダを浴びるなんて……危ないんよぉ……」

 

……一体どんな夢を見ているのだろうか。バーニャカウダが出てくる辺り昨日のイタリアンが尾を引いているのだろうが、夢の中で俺がどんな目にあっているのか非常に気になるところだ。

 

全く、本当にぐっすり眠りやがって。憎らしいやら愛らしいやら、何とも言い難い気持ちになった俺は、彼女の右腕に”ばかみつは”と落書きしてやる。

 

……あれ? どうしてだろう。

どこか懐かしい気持ちが、心の奥の方から湧き上がってくる。こんなこと、前にもどこかであったような……

 

俺はその懐かしさに身を委ね、心の赴くままに彼女の右の掌に文字を書く。

ほんのちょっぴり恥ずかしいけれど、どこまでも確かな俺の気持ち。

決して揺らぐことのない、俺の思い。

 

朝起きて自分の掌を見たら、彼女は一体何を思うのだろう。

その時の彼女のリアクションが楽しみだ。

 

もうしばらくの間、俺はそのまま仲良く眠る姉妹の姿を眺めていたが、やがて満足した俺は眠気を覚ますべく朝風呂に入った。

 

三十度位のほんのりと冷たい水を全身に浴びると、体中に血液が巡っていくのを実感できる。昨日はとても良い一日だったが、今日もきっと良い一日になりそうだ。

 

気が付くと窓から太陽の光が差し込んでおり、もうすっかり朝を迎えていた。

風呂から上がった俺は、キッチンへ向かい、三人分の朝食を作る。

 

レタスにトマトを添えた簡単なサラダにスクランブルエッグ。パンは二人が起きてから焼けば良いだろう。そう言えば、宮水家は朝食は和食だったな。

……あれ? なんでそんな事知ってるんだっけ?

 

そんな疑問がふと浮かんだが、次の瞬間シャボン玉のように消えていった。三葉が焦っているような、照れているような、困惑しているような、そんな色々な感情が入り混じった何とも形容しがたい表情を浮かべながらリビングへやってきたからだ。

 

「あ、あ、た、瀧くん。あの、おはよ」

 

「ああ、おはよ。どうだった? 俺のサプライズは」

 

「ば、ばかはひどいんよ。ばかは。で、でも、その、”すきだ”って言葉は、なんだか胸の奥がとっても温かくなって、嬉しかった」

 

三葉は少しもじもじしながら、俺の正面の方へ近づいてきて、すっと俺の腰へと手を回す。俺の事をじっと見つめるもの言いたげな大きな瞳に吸い寄せられるように、俺は三葉に口づけをする。

 

小鳥がついばむ様に、優しく何回かキスを交わした後、三葉は恥ずかしそうに俺の胸へと顔を埋める。

 

「瀧くん……私も、瀧くんの事、大好きなんよ」

 

俺はその言葉を何度も心の中で噛み締めながら、俺たちは抱き合ってお互いを感じていたのだが、

 

「朝から、それはもう熱々ですねぇ、おねーちゃん」

 

ふと、後ろの方で四葉の声がして、俺たちは慌てて離れる。

そうだった、四葉がいる事をすっかり忘れていた……

 

「全く、お熱いのは大変結構ですけど、出来れば私のいない所でやって貰いたいものです」

 

「な、な、な、何よーもう! あんたさっきまで寝とったやろー!?」

 

「そりゃあ、ぐっすり寝てる横で自分の腕を見て嬉々としながらくねくねしてる姉がいたら、否が応でも起きますよぉ」

 

言い返す言葉がないのか、三葉は悔しそうに歯ぎしりしている。まるで、今にもぐぬぬと言い出しかねない形相だった。

 

しかし、等の四葉はというと、三葉を歯牙にもかけない様子で俺の正面に立つと、ちょこんと頭を下げた。

 

「瀧さん。おはようございます。昨晩は、姉妹共々、色々と御迷惑をお掛けしまして、大変申し訳ありませんでした」

 

「え、ああ、構わないよ。俺も賑やかで楽しかったし」

 

「ちょっとお、なんで私を差し置いて先謝るんよぉ。瀧くん! 私からもごめんなさい!」

 

負けじと三葉も深々と頭を下げる。この二人、本当に仲が良いんだなぁなんて思って、思わず笑みが溢れる。それを見た三葉は不服そうに頬を膨らます。

 

「ちょっとー!? なんで笑うんよ〜」

 

「お姉ちゃんが面白おかしいからでしょ、そりゃあ」

 

それは、とても幸せなひと時だった。彼女たちが今ここにいる。その何気ない事実が、どうしてだろう、とても尊いことの様に思えた。この小さな幸せをいつ迄も……俺は心の底からそう願うのだった。

 

―――

 

「ねぇ、そう言えば、聞きたい事があるの。大切な話……」

 

ふと、三葉が真剣な面持ちでそんな風に話を切り出す。先程まで一緒に笑っていた四葉も、深妙な面持ちで俺を見ている。

 

「あのね、瀧くんって、糸守は知ってるよね?」

 

糸守……その名を聞いて、とくんと心臓が跳び跳ねるのを感じる。

八年前、彗星が落ちた悲劇の町。その町に、ずっと惹かれている俺がいた。糸守の話題がニュースに上がるたびに、言い表し難い焦燥感に俺は駆られていた。

 

……そう、例えるならば、ずっと大切にしてきた忘れ物を探し求める小学生のような焦りと不安。

 

だけど、何故だろう、彼女から糸守の名を聞いた今、その感覚はやってこなかった。

 

「瀧くんって、遠い昔に糸守に居たことあるの? あのね、瀧くんの部屋に飾ってあった風景画、勝手に見ちゃったんだけど、その中に糸守の絵、あったよね」

 

「ああ、あの絵見たんだ。何でだろうな、俺も不思議なんだ。俺は、糸守に居たことはないよ。だけど、あの町に、あの風景に、ずっと何処か惹かれていた。大切な何かを忘れてきた、そんな感覚」

 

そんな俺の言葉を聞いて、三葉は少し沈黙する。やがて、暫しの時間が経過したのち、三葉は決心したような面持ちで口を開く。

 

「あのね、私たち糸守出身なの……」

 

彼女は語り始める。八年前に糸守に彗星が落ちたこと。その後、祖母と別れて惹かれるようにして東京へやってきたこと。東京で、四葉とずっと二人で生活してきたこと。気の毒に思われるのが嫌で、ずっと糸守出身であることを隠してきたこと。

 

彼女の話を淡々と聞いていて、今まで感じていた違和感にようやく腑が落ちる。今まで抱いてきた陰りがすっと晴れていく、そんな感覚。

 

「俺は糸守を知らない。だけど、覚えている。そんな矛盾した感覚にずっと捕らわれてきた。そんな風になったのは……そう、確か五年前……」

 

俺は語る。五年前、何故か無性に糸守に惹かれて、記憶にない風景を書き連ねたこと。その風景を頼りに二人の友人を連れて糸守へ行ったこと。何故か友人たちと別れて、景色が綺麗な山の頂上で一泊したこと。その後から、糸守に関するニュースを読み漁ったこと。

 

そうして全てを話し終えた俺は、なんだかとても清々しい気持ちになった。三葉もすっきりとした面持ちを浮かべながら、真ん丸な大きな瞳で俺を見ている。

 

三葉を抱きしめたい、ふと、そんな感覚に襲われる。四葉がいるのは分かっている。だけど、俺はこの思いのままに彼女を強く抱きしめた。

 

「ひゃっ……瀧……くん……?」

 

三葉は初めは恥ずかしそうな声を上げたが、やがて体の力をすっと抜き俺に全身を委ねてくる。

 

四葉はと言うと、恥ずかしいのか楽しんでいるのか、ひゃあーなんて言いながら両手で顔を覆い、まるで邪魔者は退散しまーすとでも言うかのようにそろりそろりと部屋の外へ出て行った。

 

あの日、あの時、あの場所で、俺は君を探していたのかな―――

 

そうだといいね―――

 

と三葉は笑う。俺は三葉の髪を弄ぶようにして右手に絡める。彼女の長くて良く手入れされたその黒髮は絹のように滑らかで、触れていると心地が良かった。そうしてふと、彼女の髪を束ねている組紐に右手が触れる。

 

夕陽のように鮮やかな燈色を基調とした綺麗な組紐。幾つもの糸が丁寧に編み込まれたその艶やかな色合いに、俺は何処となく懐かしい思いを抱く。

 

「「よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながり」」

 

俺たちは、ほとんど同じタイミングでそんな言葉を呟いていた。俺の腕の中で三葉が驚いたようにこちらを見上げてくる。

 

「どうして知ってるの? それ、私のお祖母ちゃんの受け売りやのに」

 

「何でだろうな。ただ、その組紐を見てると、自然とその言葉が浮かんだんだ」

 

「そっかぁ。でも、どうしてかな。全然不思議じゃないや」

 

三葉はすっと俺の腕から抜け出して、正面から俺を見る。そうして自分の髪を結っていた組紐をすーっと解いて両手の上に乗せ、俺に差し出す。

 

「ねぇ瀧くん。これ、持ってて」

「いいのか? 大切なものなんじゃないのか?」

 

「うん。ずっと持ってる大切なもの。だから、瀧くんに持っていて欲しいの。その代わりに、必ず返してね。いつか、私たちが―――」

 

「私たちが?」

 

俺は三葉の言葉を待った。だけど、彼女はそれ以上言葉を紡がなかった。

だから、俺は彼女から組紐を受け取って、殆ど考えるまでも無くそれを右手首に簡単に巻いた。

 

「分かった。必ず返すよ。まだ少し先かも知れないけど、必ず返す。いつか、俺たちが―――」

 

だから、俺もその先は言わなかった。言わなくても俺たちはきっと通じ合っている。

急ぐ必要なんてない。君は今ここにいるのだから。

 

そう思って彼女に微笑みかけると、彼女もにっこりと笑顔を見せる。そうやって俺たちは、言葉を交わさずただただじっと見つめあっていたのだが、恐らくドアの陰からじっと様子を伺っていたのであろう四葉が、あまりに動きのない俺たちにしびれを切らしたのか、ひょっこりと顔を出した。

 

「あのぅ……いい加減、私、お腹すいてきたんですけどぉ」




毎度ご覧下さいましてありがとうございます。
水無月さつきです。

糸守の話とあれだけ言っていたのですが、あまり糸守の話、出てきませんでしたね……(焦り
とは言えども、糸守はやはり非常に重要なキーワードな訳ですから、この話は糸守の話で間違いありません!!

さて、ここで一つお知らせですが、本作の序章を書き直そうと思います。と言いますのも、あの二話は映画を見て勢いのまま直ぐに書いた話でして、今読み返すと、色々と気になる点があるからです。
話の大筋は変えませんが、特に一話に関しては完全に差し替えようと思っております。その為、次話に関しましては今暫くお待ち下さいませ。もし宜しければ、書き直した序章もご覧頂けるとうれしいです。
丁度、今章も一区切りとなりまして、次章へ変わります。
どんな話になっていくのか
私にも分かりません(おいおい
なるべく皆様に満足頂けるよう頑張りますので、今後ともよろしくお願いします。


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