君の名は。~After Story~   作:水無月さつき

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君の名前は……
君の名は―――


朝、目が覚めるとなぜか泣いている、こういうことが私には、時々ある。

そして見ていたはずの夢は思い出せない。ただ、とても大切な何かを思い出そうとするかのように、私はじっと右手を見る。けれどもそこには何もない。

 

―――もう少しだけでいい

 

俺はベットから降りて顔を洗う。鏡に写る俺は、何かものいいたげな顔をして俺を睨んでいる。ただ、俺にはそれが―――わからない。

 

―――あと少しだけでいい

 

私はいつもの様に燈色の組紐で髪を結い、春物のスーツに身を包む。

住み慣れたアパートのドアを開け、止めどなく流れ行く東京の街を足早に歩く。溢れんばかりの人だかりに押されながら、満員電車に私は乗る。

 

―――もう少しだけでいいから

 

電車に揺られながら、東京の街を眺める。人、車、電車、飛行機……

この千万にも及ぶ人に溢れる東京で、ずっと

 

だれかひとりを、ひとりだけを、探している―――

 

ふと、電車が交錯する。一日千本もの電車が流れる東京で、その中のたった二つ。

 

君だ―――

 

殆ど反射的に、俺はそう思う。ほんの薄い壁を二枚隔てたその先で彼女はまっすぐ俺を見ている。会ったことないはずなのに、彼女だとはっきりわかる。俺が探していたのは彼女だって、そう確信できる。そうして、俺はようやく自分の願いに気づく。

 

手を伸ばせば届きそうな場所に、彼がいる。私が探していた彼がいる。ずっと探してきた、名前も知らない彼が確かにそこに立っている。そうして私はずっと抱いてきた願いを知る。

 

―――もう少しだけ、一緒にいたい

 

気が付くと、俺は電車から駆け出している。人ごみを抜け、細い路地を行き、心の惹かれるまま道を進む。彼女も同じ気持ちだということを、露程も疑っていない。俺と彼女は必ずまた出逢える。会ったことなんてない。名前も知らない。けれども、この気持ちは嘘じゃない。俺はもう少しでいいから、彼女と一緒にいたいと、そう願う。

 

私は坂道を駆けながら必死で彼の姿を探す。彼のことは覚えていない。会ったこともないのかもしれないけれども、私の心が彼に遭えってそう叫んでいる。そうして導かれるようにして階段へ、私はやってくる。眼下には、確かに彼がそこにいる。

 

逸る気持ちを抑えて、俺はゆっくりと階段を登る。彼女が階段の上にいるのを感じるのに、その姿を直視できない。

 

私はゆっくりと階段を下る。一歩、また一歩と降りる歩調に合わせて、私の心臓がとくんとくんと音を立てる。彼の姿を目前に捉えて、私は思わず目を伏せる。

 

ふと、俺の勘違いじゃないのかと悪い予感が頭を過る。

 

嫌な感覚が私の頭でぐるぐると渦をまく。

そうして、私たちはそのまますれ違う。一歩、また一歩と彼との距離が離れていき、あれだけ強く感じていた心臓の鼓動が、押し潰されそうにすーっと弱くなっていく。

 

あれだけ強く抱いた想いが離れていくのを感じて、俺は思う。こんなのは絶対間違っていると、殆ど確信をもってそう思う。そうしてふと思い出す。それはいつの日か消えてしまいそうな美しい景色の中で、どんな運命にも足掻いて見せると、神様に喧嘩を売った強い記憶。その内容はどうしても思い出せないけれど、どんな理不尽にも立ち向かってみせると、俺は確かにそう決めた。

 

だから、私は振り返る。彼もきっと同じ気持ちな筈だと自信を持って振り返る。そうして確かに君はいる。その力強い瞳で私を見ている。私の髪を結んでいる夕陽みたいに鮮やかな組紐がざわざわと風に揺れる。私は思わず髪を抑え、ふと懐かしい言葉を思い出す。

 

ムスビ―――

 

俺はこの言葉を何処で知ったのだろうか。よりあつまって形を作り、捻れて絡まって、時には戻って、途切れ、またつながる。俺と君はきっと組紐のよう。そんな確信めいた想いに俺は取り憑かれている。

 

思わず私の目から涙が溢れる。けれど、それは決して悲しいからじゃない。嬉しくて、涙が溢れて止まらない。見上げると、君もちょっぴり泣いていて、その姿に思わず笑みがこぼれる。

 

俺は大きく息を吸う。初めて言う言葉はもう決まっている。

私は胸いっぱいに息を吸う。初めて交わす言葉はこれしかないとそう思う。

 

やがて()たちは同時に口を開く。

 

―――君の、名前は、と。

 

―――

 

立花瀧くん……瀧くん……か。

 

この名前を噛み締める様に、心の中で反芻していた。不思議だ。この名前を思う度に、心の奥がぐっと熱くなって、今迄ぽっかりと空いていた感情をすっと満たしてくれる。

 

瀧くん……瀧くん……瀧くん……

 

私達は互いに名乗り合った後、結局殆ど会話をしなかった。仕事の時間も迫っていたし、話したいことが多過ぎて、何から話せばいいのか分からなかった。けれども、今はそれで十分だった。君に出逢えた、そのちっぽけな幸せに私は十分に満足していた。

 

だけど……うーん、これはちょっと不味いかも……

 

折角仕事に行ったのに、全く身が入らない。気がつくと彼のことを考えている自分がいる。

 

背丈は私よりも一回り大きいくらい。顔立ちは控えめに見ても良く整っていて、見るものを包み込んでくれそうな優しい深みを持ったその瞳に思わずのみ込まれそうになる。それに、私の大好きなハリネズミみたいな髪型をしていて、何処となくとても可愛らしかった。

 

……だめだめ私。気を切り替えなきゃ。

 

正直、私は公私の区別はきっちりつけることが出来るしっかりした人間だと思っていた。そういう風に今まで生きて来たし、これから歳を重ねて、恋をして、或いは結婚しても、公私の区別はつけられる自信があった。

 

しかし、現実は易々とそう思い通りにはならないのものだと、私は痛感させられる。会社についてしばらく経つのに、胸の高鳴りが抑えられない。こんなにも恋に飢えていたのかと、君を思うとこんなにも弱くなるのかと、私は身をもって体感してその脆さに思わず身が震える。

 

「立花……瀧くん……」

 

周りに聞こえないように口の中で声に出してみる。私の中にその言葉がすっとしみ込んで、何かあたたかい気持ちが私を包み込んでいく。やっぱり不思議だ。遭ったこともない君にこうも惹かれるのは一体どうしてなのだろうか。

 

私は殆ど無意識に、自分の髪を結ぶオレンジ色の組紐をそっと触る。組紐は、人と時間と場所とものを繋ぐ神聖なもの。

 

この組紐を使って髪を結うようになったのはいつ頃だっただろう。もう長年使っているから、ところどころ解れたり色褪せたりしている。妹の四葉は、いい加減替えたらいいのに、なんて言うけれど、なぜだか私はこれを手放す気にはならなかった。せつない気持ちになった朝、鏡を見てこの組紐で髪を結うと、少しだけ寂しさがまぎれる気がしたから。

 

ひょっとしたら、私たち、遠い昔にあってるのかな?

それとも、遠い遠い前世の記憶?

 

私はオカルトとかをそれほど信じないタイプだけれど、実際にこんな経験を味わってしまった以上、少し考えざるを得ない。

 

だけど、どうしてだろう、この出逢いを運命と呼ぶのは、少し違う気がした。この出逢いは、私たちが手繰り寄せたもの。偶然なんかじゃ決して無く、いわば必然と呼べる、そんな出逢い。

 

私は、私たちはずっと、まだ知らない誰かを探してた。

 

だから、もし今回出逢えなくても、きっと何処かで出逢っていた。もし私がお婆ちゃんになって、顔が皺くちゃになっていても、私たちはきっと分かる。分かり合える。そんな確信が私にはあった。

 

だからこの出逢いは運命じゃない。この出逢いは必然だ。

 

「瀧くん」

 

私は何度も名前を呼ぶ。まるでこの名前を忘れたくなくて、胸に刻み込もうとするかのごとく、何度も何度も名前を呼ぶ。その度に体の内側が温かくなる。

 

「……さん。ちょっと、宮水さん! 聞いてる?」

 

その瞬間、私は夢から覚めたみたいにはっとなる。気がつくと、会社の同僚が心配そうな顔をして私をしきりに呼んでいた。

 

「あ、ごめん。ちょっと考えごとしてて」

 

「宮水さん、今日ちょっとおかしいよ? 熱でもあるんじゃない?」

 

「あはは……ごめんごめん。私はこの通り、ピンピンしてるから安心して。それで、どうしたの?」

 

「そう、なら良いんだけど。それでね、これなんだけど……」

 

私は、その同僚の話を聞きながら、心の中でもう一度だけ、名前を呼ぶ。

 

立花……瀧くん……

 

―――

 

宮水さん? それとも三葉さん?

 

熟成されたワインを舌で転がすかのように、彼女の名前の響きを俺は味わう。俺としては、宮水さんと呼ぶよりは三葉さんと呼ぶ方がしっくりとくる気がする。しかし、それでもどこか違う気がする。そうして、俺は思わず首を捻る。

 

俺は一体何を求めているのだろう。

彼女とは今日会ったばかりのはずで、彼女の名前を知ったのはつい先程のことだ。それなのに、この名前は酷く懐かしい。

 

第一印象は、素直に綺麗な人だと思った。とても大人びていて、さり気ない仕草一つ一つに異性としての魅力を感じた。雪のように白い肌、流れるように風になびく黒の長髮。艶めかしいとまでは言えないものの、スーツを卒なく着こなすその魅惑的な身体つき。

 

しかし、俺が彼女に惹かれるのは、そういった外見的特徴からでは無かった。いや、その姿に惹かれていないのかと言えば、それは嘘になる。しかし、俺が彼女にこうまで心を奪われるのは、そんな単純な理由では無いと、確信を持ってそう言える。

 

が、それなら一体何に惹かれたのかと聞かれると、それはそれで答えに詰まってしまう。俺が忘れてしまっただけで、彼女に会ったことがあるのだろうか。一度でも会ったことがあるならば、絶対に忘れたりしないと思うんだけどなぁ。

 

そんな事を職場で悶々としながら考えていたのだが、

 

「立花くん? 手が止まっているよ。遅れた分はしっかり取り戻して貰わないと……」

 

宮水さんのことを考えるあまり手が止まっていた俺に対して、課長がやんわりと苦言を呈す。

 

「あ、はい。申し訳ありません」

 

スーツが似合わないなどと友人たちに散々コケにされながら、苦労の末、やっとありついたこの仕事。今は覚えることが一杯で、未だに慣れていないのも相まって、仕事をこなすのがやっとな状態だ。考えごとが出来る余裕なんて何処にも無かった。

 

よし、今は一先ず目の前の仕事に集中しよう。

宮水……三葉……

大丈夫。彼女のその名前を、その姿を、そしてその笑顔を、俺は確かに覚えている。この我慢のひと時ですら、今の俺には糧となる。彼女との出逢いはそれ程までに俺に大きな変化を与えた。

 

俺は深呼吸をしてこの大き過ぎる雑念を振り払い、書類の山との格闘を始めるのであった。

 

―――

 

「それでねー、テッシーったら、お前が痩せるんはどだい無理な話や、なーんて言うんやさ。酷いと思わへん?」

 

「なにそれー。女の敵なんよー。許すまじテッシー」

 

昼休みになり、私は兼ねてからの親友であるサヤちんこと名取早耶香と、電話で女子トークに花を咲かせていた。と言うのも、同じく親友であるテッシーこと勅使河原克彦と彼女の結婚式があと二ヶ月というところまで迫り、その式に関して彼女から色々と相談を受けているのだ。私の働く会社はブライダルプランニングにも携わっており、その関係上、色々と情報を入手しやすいのである。

 

サヤちんとテッシーは私にとって、何者にも変えがたい大切な友人だ。その二人が結ばれるなんて、親友としてこれ程喜ばしいことはない。私は出来うる限り力になりたいと思い、あれこれと相談に乗ってきた。

 

が、式まで残り二ヶ月に迫り、(おおよ)その計画が定まった今となっては、最早改めて決めることもない。そんな訳で交わされる会話は相談とは名ばかりで、ただの雑談である。

 

「そう言えば、三葉。なんか今日はいつもより気分が良さげやね? いつも昼休みには、つかれた〜、なんて愚痴りよるんに今日は一度も聞いとらんのよ」

 

さやちんの鋭い感性に、私は内心舌を巻いていた。実際、今日は気分が良くて仕方がなかった。正直、今朝から彼の話を誰かに聞いて欲しいという欲求に囚われており、止めどなく溢れるこの思いを話したくてしょうがなかった。

 

「えー、やっぱり分かっちゃう? 実はね、実はね、今朝、すごくいいことがあったんよ!」

 

私は今朝の出来事を捲し立てるように話す。朝起きてから彼と別れるまでの話を順を追って振り返る。この話を初めて聞いたサヤちんはと言うと、極めて半信半疑な様子で要所要所に、えー、だとか、うそー、だとかいうような懐疑的な相槌を打っていた。

 

「分かっとるんよ、信じられんのは。私自身、何でこんなことになっとるんか上手く説明できんのよ。だけど、心の奥底から湧いてくるこの思いは間違い無く本物なんよ」

 

私は真剣な口調でサヤちんに語る。我ながら小恥ずかしいことを言っているのは十分に承知している。しかし、私は溢れ出るこの思いを止めることが出来なかった。それ程までに、私はこの出遭いに衝撃を受けたのだ。そう、それは例えるならば、彗星が落ちたようだった。

 

「そっか」

 

私の話を聞き終わり、サヤちんが初めに発した言葉がこれだった。受話器越しからでも分かるトーンの変わりように、私はしまったと思う。ちょっと熱くなりすぎた。幾ら相手がサヤちんとは言えども、これじゃあ引かれたって文句は言えない。しかし、私はすぐにその考えが杞憂だったと気づかされる。

 

「三葉、おめでとう。良かったね。三葉が探してた人、ようやく見つかったんね」

 

え……どうして……

 

「私らね、本当は三葉に後ろめたさがあったんよ。糸守に彗星が落ちたあの日から、三葉、ずっと寂しそうやった。あんた、気が付くといつも悲しそうに自分の右手見とったやろ……」

 

「……なんで知ってるん」

 

「あほやなぁ。ずっと一緒におった私らが気づかんわけないんやさ。伊達に長年三葉の親友やってないんよ。私らには詳しく分らんけど、きっと三葉は何か大切なものを無くしてしまったんやなって、そんな予感はしとった」

 

「……うん」

 

「だから、そんな三葉を差し置いて、私らが幸せになってしまうんは、なんだかとっても後ろめたかった。ずっとテッシーと話しとったんよ。私は三葉の為になんかしたいって、そう思ってた。だけどテッシーが、そりゃあいつ自身がどうにかせにゃいかん問題や。俺らはあいつが助けを求めてきたら、手を差し伸べればええんや、って」

 

「あはは。テッシー、ほんといい男やなぁ……」

 

私は思わず軽口を叩く。そうでもしないと、感極まって泣いてしまいそうだった。

 

「ふふ。三葉がそんな風に言ってくれたって知ったら、テッシーきっと泣いて喜ぶんよ」

 

「もう、大げさだなあ」

 

ここまで私のことを思ってくれている二人がいる。それは、この上ない幸運なことなんだと、私は心の底からそう思う。

 

「でも、本当に良かった。なんだか、そんな風に熱くなる三葉、久しぶりな気がする。これで、私らも三葉に遠慮なく結婚できるってもんよ。でも三葉、話聞いてる限りじゃその人とまだ出会ったばかりで、付き合ってもいないんでしょ? ちゃんと頑張って私らを早く安心させてえな」

 

「あはは、そだね。まだ私、何も始まっとらんのよね。うん私、頑張ってみる。二人を笑って送り出せるように、頑張るんよ」

 

「是非そうして欲しいんやさ。結婚式で萎れた三葉なんて見た日には、悪い意味で一生忘れない一日になりそうなんよ。あんた巫女やったし、なんか呪われそうやもん」

 

「大丈夫。呪いなんかしないんよ。ただひたすら睨み倒すだけだから」

 

「うげぇ。そっちの方がたち悪いわぁ」

 

そんな風に冗談を交えながら、私たちはしばらく会話を続けていたが、やがて話すこともなくなり通話を終了した。

 

胸の奥がぽかぽかして温かい。こんなにも穏やかな気持ちになるのはいつぶりだろうか。二人の為にも幸せにならないといけないなと、私は思う。

 

「立花……瀧くん……」

 

今一度彼の顔を脳裏に浮かべながら、私はその名を口にする。大丈夫。私たちはきっと通じ合える。

 

唯一心配があるとするならば、私が男性と付き合ったことがないのでどう接していいのか今一つ分からないという所だろうが、そこはきっと時間が解決してくれる。

 

そんな不確かな自信に満ち溢れていた私だったが、ふと携帯の着信音が鳴り響き、

 

立花 瀧

 

携帯の着信画面に表示されたその名前を見て、さきほどまで抱いていた自信は一瞬のうちに霧散したのであった。

 

 

 

 

 

 




初めまして。
水無月(みなつき)さつきと申します。

この度は、私の小説をお読みくださいまして誠に有難うございます。
一ファンとしてこんな後日談であればいいなと妄想しながら書いたこの作品ですが、それが皆さまのお気に召して下されば幸いです。

所々に誤字や脱字、あるいは描写ミス等がみられるかもしれませんが、なにとぞご容赦いただけると幸いです。もし可能であれば、教えていただけるとさらに助かります。

皆様にご満足いただけるよう精一杯頑張りますので、なにとぞよろしくお願いします。

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