もしも、カルナさんが家族に恵まれていたら   作:半月

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簡単に言えば、インド版トロイヤ戦争――それがクルクシェートラの戦い。
つつがなく遂行するために用意された神々の駒、それがパーンダヴァ五兄弟とドゥリーヨダナ感が半端ない。



天界の談合<中>

 ――ぽぅ、と。

 人型の炎が掌の上に宿す白銀の炎が生き物の様に伸縮する。

 細く、長く、太く、短く――伸びて縮んで、広がり丸まり、煌々と輝きをいや増していく。

 

「アナタがそのご自慢の武器でワタシを一息に殺さないのは正しい」

 

 ちらり、と燃え盛る灼眼が紫電を四方八方にまき散らす金剛杵を見やる。

 湖面に咲き誇る水晶の蓮華が金剛杵の巻き起こす旋風に嬲られ、はらはらと宝石と見紛う華奢な花弁を散らしていく。徳の高い王者、誉れ高き聖仙、輝ける神々たちによって光輝に満ちた天上の都には似つかわしくない暗雲が庭園全体を覆い隠したせいで、神々の王の怒りを畏れた天女や楽師たちは安全な場所へと避難しているところだろう。

 

 ――――ここには、人型の炎と男神の二人しかない。

 けれども、神々の王たるインドラの不興を買った愚か者の末路を面白がる様に、そこかしこから形を持たぬ無遠慮な眼差しが注がれている。

 

 それは創造神(ブラフマー)か、秩序神(ヴィシュヌ)か、はたまた破壊神(シヴァ)か。

 いや、三大神のみならず、愛欲の神、優美の女神、障害の神、富貴の神をはじめとするあらゆるバーラタの神霊たちがさりげなく、それでいて興味深そうにこちらを覗き見ている。

 

 なるほどそれは好都合――と炎はひっそりと微笑みを浮かべる。

 雷霆神の代名詞とも言える武器を突きつけられながらのその態度。真紅に染まった男神の眼光が矢となって放たれ、人型の炎を文字通り射抜く。

 

「――――っ!」

「……貴様のところの末の息子の鎧と同等の防御力は持たぬ様だな」

 

 紫の矢羽をつけた黒檀の矢が人型の炎の右肩を貫通し、凭れていた白銀の座椅子の上へと刺し留める。展翅版の蝶の如く磔にされ、射抜かれた瞬間こそ痛みに眉根を顰めたものの、されるがままの炎はそれでいてどこか挑発的な眼差しで攻撃者を見上げる。

 

「――はい。材料こそ同じですが、カルナの鎧と違ってワタシのこれは物理的な攻撃に対する防御手段は一切有しませんから」

「………減らず口を」

 

 その瞬間、第二射、第三射が次々と放たれ、その都度、人型の炎の華奢な手足が跳ねる。

 右肩、左脇腹、右太腿。紫電を帯びた黒檀の矢に貫かれた部位から、血潮の代わりに黄金の焔がはらはらと溢れ、その細い手足を辿って水面へと吸い込まれていった。

 

「――――それで? 貴様はその状態で尚も俺を脅すと嘯くか?」

 

 文字通り手も足も出ない炎を、黒雲と暴風を従えた男神が威圧する。

 神秘はより強い神秘に打ち消される。地上の人間たちが使う様な武具であれば、表層意識(アディティナンダ)の肉体に傷一つつける事無く融解するが、インドラの眼光より放たれる殺意の矢であれば深層意識たる炎の肉体を破壊させることは容易い。頼みの金環も期待される様な力を有さぬ以上、このまま嬲り殺しにされるのが関の山だ。

 

「――――けれども、アナタはワタシを殺せない」

「…………」

「我が身は焔、我が身は光、我が身は熱にして――太陽神の現し身。全てを内包した無限の大女神ですら持て余した高熱を直接浴びて、アナタが無事で済むとは思えませんが」

 

 ――――神話は謳う。

 かつて、母なる無限の大女神・アディティナの手で太陽神・スーリヤは捨てられた。

 原初の大母神でさえ我が子の放つ天上の劫火に耐えきれず、その妻ですら夫の元から逃げ出した。最も親しき暁の女神・ウシャスでさえ、毎朝、太陽神に抱きしめられる度にその身を焼かれ、恋人たちの逢瀬は一瞬で終わる。

 

 四つの枷によって封じ込めた、太陽の熱をこの場で解放しても良いのか?

 そう言外に脅す人型の炎に対し、やれるものならやってみろと無言で返すのがインドラだ。如何に太陽神の力を宿すとはいえ、その力は片鱗にすぎない。それなりの打撃こそあるものの、決定打になり得ない。

 

 ――であれば、それよりも先に。

 不出来な人形がこれ以上増長する前に万年氷の中にでも封じ込めて、粉微塵にしてくれよう。

 なす術を失い、圧倒的な暴力に翻弄されるばかりの無力な神霊へと慈悲深くすら感じさせる口調で静かに男神は語りかける。

 

「……大人しく地上で末の息子を庇護しておれば、我らとて気づかぬふりをしておいてやったというのに。全く……とんだ不良品に成り下がりおって――あの忌み子の気にでも当てられたのか?」

「――そうかもしれません。ワタシも、もう一人のワタシもかつての様には戻れない」

 

 ――ふふふ、と。

 三本の矢に惨たらしく射抜かれながらも、虚空を見つめ、人の形をした炎は微笑む。

 幸せそうに、嬉しそうに――咲き初めの蕾を連想させる、切なくなるまでの優しい笑顔で。

 

「ですが――――ワタシも、それが不思議と不快ではないのですよ」

 

 轟――ッ! と座椅子に磔にされていた人型の炎を中心に、荒々しい熱風が渦を巻く。

 万物を融解せしめる劫火が見る見るうちに水晶の蓮が咲き誇る湖を干上がらせ、天界でも有数の花園を彩っていた草木が声にならない悲鳴と共に灰一つ残さず燃え盛る炎の中へと消えていく。

 

 溶ける、融ける。瞬き一つ保たずに、万物が融解していく。

 串刺しにしていた黒檀の矢が、動きを封じていた白銀の座椅子が、清らかな湖水が、透き通る水晶の花弁が、人の形をしていた炎の操る焔によって平らげられていく光景は――禍々しくも神々しい。一見すれば、地獄と見紛う無情な光景でありながら、あらゆる不純物が漂白された清浄なる世界の到来を予期させる。

 

「――――させるか!」

 

 咄嗟に距離を取ったインドラは、咆哮一つで世界中に漂う水気をナンダナの園へと収束させる。

 地上では一切の予兆なしにあらゆる河川の水が干上がり、一滴残らず海水が逆巻く。種を植えたばかりの沃土が乾き、住処を失った水棲動物たちが悲痛な叫びを上げる。水源に宿る神霊や魔性たちも突然の暴挙に非難の声を上げるが、それどころではない。

 

 一つの神話体系(せかい)を満たし、その営みを支える全ての水の元素たち。

 それら全てが神々の王の号令に従い、太陽の熱に対する無形の盾となり、無形の鉾と化す。

 

「――はい、ここまでは予想通りです」

 

 あらゆるものを併呑せんと猛り狂っていた白銀の焔がピタリと動きを止める。

 蝶の鱗粉のように火の粉を散らしながら、一つだけ赤石が象嵌された金環を装着した人型だった炎はするすると右腕に当たる部位を動かして、足元――かつては清らかな真水を湛える湖面があった場所を指差す。

 

 ――そこには、先ほどまでは無かった巨大な『孔』が穿たれていた。

 

 力づくで引き千切られた純白の雲の残滓が漂い、晴れ渡った青で染め上げられた大空。

 そして、その下に広がる――樹々の深緑、深雪の白銀、深紅の赤土に彩られたバーラタの大地。

 この距離からはその地上に住まう人の子や鳥獣、魔性の者たちの姿は見えないが、突然の天変地異に戸惑い、神々の坐す天空の都へと畏れ慄いた視線を送っていることだろう。

 

 仕草ひとつで人型の炎の言わんとする所を察し、神々の王は忿怒に染まる。

 

「――貴様、最初からこれが狙いか!!」

「当然です。非力なワタシでは、アナタはいざ知らず、三大神にも敵いませんから」

 

 ――すぃ、と重力を感じさせない滑らか動きで、人型だった炎は孔の中へと降りて行く。

 そうして、ちょうど天と地の狭間にゆらゆらと漂うと、纏う白銀の劫火の勢いをいや増した。

 

「そも――ワタシの目的は神の抹殺などではありません」

 

 ――大地の女神を重荷から解放するためには、地上の生命の数を削減しなければならない。

 そのためのクル族の大戦争(クル・クシェートラ)。そのために用意された五人の御子と一人の忌み子。

 バーラタの大地の最大の勢力を誇るクル王国と周辺諸国、全ての戦士階級(クシャトリヤ)を巻き込んだ空前絶後の大戦こそ、神々が此度の人口過剰問題を解決するために用意した策であった。

 

 ――けれども、ただ命の数を減らすというのならば、どのような手段でも構わないでしょう?

 

 最初から、人型だった炎の狙いは神々への攻撃ではなかった。

 宇宙の中心に坐し、何万光年も離れた先から万物の営みを支える日輪の光輝。四つの金環からなる封印によって厳重に肉体(うつわ)の内へと封じられた熱量を直接地上へと激突させる。神々さえ耐えきれない灼熱の劫火でもって、地上の一切合切を燃やし尽くしてみせよう――と太陽神の人形は嘯く。

 

 真意が読み取れぬ炎の言葉に、切っ先を向けていた無形の鉾が戸惑うように震える。被害を減らすために、水の元素を地上へと還らせるか? いや、その瞬間、攻撃対象を変えた日輪の輝きが天空の都を焼き尽くす可能性もある。それよりも先に、この不届き者を金剛杵で貫くか? いや、それよりも早く、枷を失った莫大な熱量が地上に降り注ぐことになるだろう。

 

「――それでは改めて、インドラ。アナタを脅させていただきます」

 

 請われなければ動けない創造神、化身を地上へ送り込んだままの秩序神では対処できない。

 そして、破壊神はその性に従って人形による地上の破壊を肯定するだろう。下手すれば、そのまま現在の世界を薪として、新たなる宇宙の開闢を開始される恐れすらある――それだけは避けなければならない。

 

 そうしたインドラの葛藤を素知らぬ顔で受け流し、人型であった炎は涼やかに声を響かせる。

 地上に生きる生きとし生けるもの全てへと慈愛に満ちた微笑みを向けるその一方で、躊躇い一つ含まぬ清らかな声音のまま、これから万象を焼き尽くしてみせようと無慈悲な宣告を告げるのだ。

 

「このまま地上に太陽を激突させたくなくば、ワタシの要望を一つ呑んでいただきたい」




《後書という名の考察》

 昔から不思議だったのは、どうしてインドラの子たるアルジュナは三男なのか? そして、法神ダルマの子供が長男なのはなんでかなぁ? でした。そして、随分と悶々としていたのですが、人の心が神々から離れつつある今(マハーバーラタの物語はドゥヴァーパラ・ユガの終わり、カリ・ユガの直前)、改めて神のもとに立ち帰らせることを目的とした地上の梃入れのためだと考えると、悪の元凶たるドゥリーヨダナ一派がいなくなってからがユディシュティラの本分を発揮すべき時なのですよね。

 そう考えますと、本編時間軸(まだ大戦争の始まりこそ予期されつつも、始まってすらいない状態)で神々はその手駒たるパーンダヴァの子供達を失うわけにはいかない。なので、ワタシ・アディティナンダの要求を飲まざるを得ない……という状況に陥っても不思議はないだろう、と。

そして、ワタシ・アディティナンダが地上に派遣された目的については最悪カルナの魂さえ残っていれば達成できるので、俺・アディティナンダのようにその肉体の有無についてはさほど拘っておりません。そんな訳で、この脅迫は成り立つわけです。

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