一切の予告なしに掲載していた『クルクシェートラ前日譚』を削除することになり、読者の皆様には申し訳なく思います。ただ、この物語を完結させるにあたり、どうしても『前日譚』執筆時には諸々の都合でスキップしていた部分を付け足す必要があり、なおかつその方法が加筆修正という手段では済みそうになかったことから、このような手段を取らせていただきました。
『前日譚』ですが、本編の大まかなストーリーに変更はありません。
ただ、一部の省かれていた場面や情報、登場人物等を書き足した状態で、再度UPいたします。
連載再開を告知してから、実際に再開に至るまでに随分と月日が経過したことと合わせて、重ね重ねお詫び申し上げます。
天界の談合<上>
――そこは天国、極楽浄土。
星の管理者たる神々の暮らす、天空の楽園。人の見果てぬ夢の先、完璧なる世界。
――そこは楽園、西方浄土。
選ばれた者にしか立ち入れぬ、善美の楽土。偉大なる雷神が統べる、永遠の王国。
一切の不浄を許さない、神々の栄光に満ちた壮麗な天空都市・アマラーヴァティー。
音に聞くその都には、
ここに入れる者は、厳しい苦行を完遂し、火供儀を怠らず、戦場で敵に背を見せたことのない勇者のみ。選ばれたもの以外が足を踏み入れることはおろか、目にすることすら許されぬ秘園。
鳴り響く妙なる天上の楽の音。漂う馥郁たる花の香。あらゆる神秘に護られた天の都。
勇猛果敢な武者、星の輝きを灯す賢者、魔性の美貌を誇る天女に彩られた神々の都へと、灼熱の光球が降臨する。
賓の来訪を告げる法螺貝・太鼓の音色が一斉に響き渡る。
同時に、天上より飛来した灼熱は、収縮し、凝縮し、そうして――人の形を取った。
純白の炎で編まれた緩やかな衣を纏い、首元や腰には炎を閉じ込めた赤石と黄金の差し色。
華奢な男にも、長身の女にも見える細い手足には、緻密な紋を描く黄金飾りが嵌められている。
足先・指先、ふわりと広がる長い髪先から、蝶の鱗粉のように朱金の炎を散らしている。
――同時刻、インドラの宮殿・ヴァイジャヤンタ。
神々の王にして、紫電の雷霆を操る主神・インドラ。
全備の極致たる隆隆たる肉体を惜しげも無く晒し、汚れ一つない純白の衣に身を包む男神。その頭上には煌く宝玉で彩られた冠を、四肢には豪奢な黄金の武具を、その傍らへ紫電を纏った巨大な
「――これはこれは、珍しいことだ」
紫がかった漆黒の双眸が、神威を示す紅の輝きを帯びる。
万里先すら見通す神眼にて、天空都市・アマラーヴァティーの中心たるインドラの城の前に、珍しい客人の姿を見通し――と悠然と微笑みながら、思念一つで彼方の客人を此方へと招聘する。
「――神々の王・インドラ。アナタに話があります」
ふわり、と羽毛を連想させる軽やかさで、人型の炎が玉座の間に降り立つ。
敷き詰められた水晶と純白の真珠が炎の零す朱金の鱗粉を反射して、煌々と瞬きの輝きを放ち、玉座の間そのものが放つ眩さが一段と色濃くなる。
「そう急くな。我らには有り余るほどの時間が許されているというのに」
ゆらり、と玉座に坐す男神が片手を揺らせば、ぐにゃりと空間が揺らぐ。
あらゆる季節の花々、聖なる樹々で彩られた天上の楽園、ナンダナの園。神域の匠の技で創り上げられた絢爛たる玉座の間から、湖岸に佇む瀟洒な四阿へ場所が移る。
月の光を編んだ銀の座椅子を二つ、水晶の蓮が咲き誇る凪いだ水面の上へと浮かぶ。
そこに鷹揚な仕草で腰掛けた男神がその眼差しだけで周囲で様子を伺っていた天女たちへと下がる様に促せば、それを見届けた炎もまた、向かい合う形でその真正面へと腰掛けた。
「我らには時間が有り余れども、人の子はそうはいきますまい」
「――よもや、貴様の口からその様な言葉が出ようとは。それ程、末の息子が愛しいか?」
「…………」
「それとも、貴様が気にしているのはあの忌み子の方か?」
くつくつと含みを帯びた笑声をあげる男神へと向けられる炎の眼差しが僅かに険を増す。
それに気づいているのか、いないのか。向けられる視線の険しさをどこ吹く風と流しながら、その左手を足元の湖面へと翳す。さすれば、無風状態であるにも関わらず、鏡面の様であった湖水へと漣が走った。
――すると、見よ。
漣が静かに消えた水面には、空から眺めた地上の光景が像を結ぶ。
青々とした山脈、悠々と流れる母なる大河。黒々とした肥沃の大地、裾野に広がる緑の絨毯。
ぐるぐると地上の様子を眺め回していた天の眼が焦点を定めた先こそ、象の都の位置するところである。
「ドゥリーヨダナとて人の子。であれば、ワタシが彼を愛することに何の障りがありましょうか」
「物は言いようとは、よくぞ言ったものだ。地上での人形遊びが余程気に入ったか」
華奢な青年にも、未成熟な乙女にも見える中性的な容貌は微塵も揺るがない。
はらりはらりとその身から蝶の鱗粉のように零れ落ちる炎が、足元の湖水へと触れる都度、小さな波紋を生み出しては虹色に輝く宝玉と化し、水底へと沈んでゆく。
「
「……何とでも。サヴィトリ、アーディティヤ、ヴィヴァスヴァット。いずれの名でも構いません、どれもが等しくワタシを意味し、どれもが等しくワタシを意味しないのだから」
――それよりも、と燃える灼眼が男神を見遣る。
しかして、いかなる虚偽をも見抜く神眼の放つ熱を心地好さそうに味わい、神々の王は緩やかに口角を持ち上げる。
「アナタはワタシに借りがある。ワタシはその借りをアナタに返していただきたいのです」
「ほぅ、借り……とな。それは一体何のことやら」
「――ウルヴァシー」
それまで悠然とした態度を崩さなかった男神の表情がピクリと動く。
それに対し、向かい合う形で座したままの人型の炎は、淡々と雪の降り積もった霊峰を想起させる冷ややかな声音で次々と舌鋒を放つ。
「彼女がワタシ……
「…………」
「彼女が誰の命令を受けて、人間に埋没していたワタシの元へやってきたのか」
「…………」
「それを知らぬアナタではありませんし、それを忘れたと言えるアナタでもありませんよね」
ゆったりと黄金の輝きで縁取られた真紅の瞳が眇められる。
豊かな朱金の頭髪は篝火のように燃え盛っているというのに、神威を宿す眼差しはヒマラヤの万年雪よりも冷ややかに凍てついている。
「虚言はワタシに通じません。アグニの目の性質はワタシにも引き継がれておりますから」
「――さて。それで貴様は何とする。俺を糺す理由としては、些か弱くはないか?」
最早、言葉で誤魔化すことができないと悟ってか、ふてぶてしい態度で男神は炎を挑発する。
地上の風景を映し出す水鏡の上に浮かぶ白銀の座椅子。その上に腰掛け、ゆっくりとした動きで足を組み直した男神は傲岸に顎をしゃくって続きを促す。
「やはり、大地の女神は地上の負荷には耐えられないのでしょうか?」
「――状況は依然変わらぬ。貴様がどれほど動こうと、人間の絶対数の減少は避けられぬ」
……ぽぉ、と人型の炎の掌の上に、白銀に輝く灯火が生み出される。
白銀に輝く灯火を指先で弄びながら、炎はどこか遠くを見つめる茫洋とした眼差しのまま沈黙している。対する男神は唐突に話題を変えた炎の動向を探る様な目つきであり、その警戒心を示す様に、その傍らに紫電を纏う
「……別に、変えようがないのならばそれはそれで良いのです」
「ほう……? 随分と無慈悲なことだ。人間に入れ込んでいる様に見えたのは俺の気のせいか?」
「無慈悲……これは無慈悲なことなのでしょうか?」
こてん、と炎が心底不思議そうに首を傾げる。
揶揄する言葉を投げかけ、その動揺を誘おうと思ったものの、望んだ反応が得られなかった男神の方が却って捉えどころのなさに舌打ちする羽目になった。この世界の主神ともあろう者の品のない仕草に、炎の方が眉間に皺を寄せる。
「主神ともあろう者がはしたないですよ、インドラ」
「そう言う貴様はすっかり所帯染みたな。――まあ、いい」
ぎろり、と紫がかった漆黒の双眸が炎を睨む。
胆力のない人間相手ならば一瞥だけで、その心臓の鼓動を凍り付かせんばかりの眼光に射抜かれながらも、人型の炎はそれを柳に風と受け流す。姿形こそ変わっても、そう言うところが相も変わらず癪に触るとこれ見よがしに溜息をついた男神のことを気にする気配もなく、どこまでも気儘に炎は口を開く。
「アナタも天の代弁者も同じことを言いますね。ワタシは元来、こちらよりの性質だったはず」
「――ふん。それでは、貴様は我らの企みについて邪魔する気は一切ないと言うのだな」
「反対するも何も、反対したところで無意味でしょう。大地は増えすぎた人間による負荷に耐えかねている。このまま放っておいたところで待つのが全ての破滅であれば――ワタシはよりマシな方を選びます」
天より見下ろす地上で生きるのは人の子だけではない。
人をはじめに、獣や鳥、魚や植物、虫といった神々の目にすら留まらぬ微小な生き物が暮らしており、万物の守護者である以上、その全ての生命を支える基盤となる大地の崩落を招くことだけは絶対に起こってはならないことだとその身に刻み込まれている。
「
「――では、天の代弁者経由で伝えられた“太陽神に叛意あり”と言うのは誤りか。貴様の返答次第では、俺は
「――いえ、誤りではないです」
さらりと否定した人型の炎を威嚇する様に、中空に浮かぶ巨大な
偉大な聖仙の骨から削られ、神々の王・インドラの手で悪竜の頭蓋を砕いた神造兵器。
起動の余波だけで鏡面と化していた水面に荒れる波を描かせ、絢爛と咲き誇る花弁を無慈悲に暴風が引き裂く。離れたところで様子を伺っていた天女たちが絹を裂くような悲鳴をあげ、雲海の上にある蒼い天蓋が見る見るうちに暗雲に覆われていく。
「落ち着きなさい、インドラ。ワタシは太陽神とは異なり、一切の武力を持ちません」
雪の降り積もった霊峰を想起させる冷ややかな声が、雷雲によって凌辱される天の園に静かに響き渡る。
「アナタは戦士の王でしょう? ――無抵抗の者を殺すことは戦士の誓いに悖る行いでは?」
「相手が反逆者であるならば話は別だ。将来の禍根を残すわけにもいかぬ」
「そうですか……では、致し方ありません。
「脅す……? 貴様が、俺をか?」
――――遥かなる大昔、天界の王を決める争いがあった。
太陽神・スーリヤと雷霆神・インドラは神馬の曳く戦車を操り、各々が誇る武具・防具を身に纏い、天の覇者足らんと熾烈な戦いを繰り広げたのだ。軍配こそインドラへと上がったものの、この逸話はかつて太陽神がインドラに匹敵する神威を有していたことを物語る。何より、太陽神は三大神の一角である秩序の守り手・ヴィシュヌとも切っても切り離せぬ縁がある――如何にインドラといえど、その言を無視する事は憚られた。
――しかし、それは相手が太陽神その人であればこそ。
確かに、目の前の人型の炎の神霊としての格は高い――格の高さだけなら、肉の器に閉じ込められた当代の
「……巫山戯たことを抜かすものだ。貴様は地上に堕とされる際の条件として、徹底的に戦闘的な権能の類は剥奪されているだろう」
「――はい、それが決まりでしたから」
淡々とした口調のまま、人型の炎は同意を示す。
末の息子が若すぎる母親の手で河へと投棄されたのを知った太陽神は己の出生の逸話も相まって、その子のことを憐れんだ。捨てられた我が子を保護することを請い願った太陽神の懇願は神々に受け入れられたが、その代償として地上へ堕ちる神霊には様々な枷が科せられた――先の条件もその一つ。
「そんな貴様がどうやって俺を脅すというのか? まともに弓すら引けぬ身で?」
ギラギラと獣の様に輝くインドラの双眸が紅に染まっていく。
形の良い唇は溢れる声音は身の程知らずの蛮勇を嘲る様に歪んでいる反面、妙な動きを一つでも行えば傍らに控えさせている
「――その割には過剰な警戒ぶりですね。ウルヴァシーの一件もそうですが、何がアナタをそこまで駆り立てるのです?」
「…………」
燃え盛る灼眼の熱さとは相反する絶対零度の眼差しがインドラを射竦める。
裁判神としての側面を持ち、祭祀を司る炎神・アグニの目とも謳われる太陽神由縁の灼眼は、相手の纏う虚飾を暴力的なまでの潔癖さで剥奪する。
雷霆神・インドラは智勇に優れた戦士だが、清廉潔白な戦いを繰り広げてきたかと問われるとそうではない。純粋な力だけでは到底及ばぬ悪鬼・羅刹や悪竜を打ち滅ぼした狡知こそ、彼を神々の王たらしめる重要な要素なのだ。
――――それ故に、彼は警戒せずにはいられない。戦士としての力を与えられなかった目の前の炎――太陽神・スーリヤによって生み出された人形風情が、臆することなく神々の王たるインドラの元へと直談判にやってきた『目的』について。
時間軸的には、第4章の最後でアディティナンダが天へと上がって直後の話です。