願わくば、かつてのようにとまでは行かずとも、きちんと更新して、年内には完結させたいです。
「――だが、アディティナンダ」
どことなく、カルナの口調がいつもよりも早口だった様に聞こえたのは、気のせいだったのかもしれない。
涼しげな目元が険を帯び、普段よりも三割り増しぐらいには、悪人顔になっている。
やれやれ、お前は基本的に無口無表情で表情筋を使わないから、誤解されやすいよ、と何度も教えただろうに、全くもって改善されていない。
――嗚呼……、本当に不器用な子だ。
「インドラが、神々の王ともあろう神霊が、
……それに、相手は武力だけではなく、謀略をも得意とする神だ。――そんな相手が、引け目があるとはいえ、果たしてお前の言う通りになど、してくれるだろうか」
気づけば、黄金の籠手を嵌めた両手が、がっしりと俺の手を握り締めていた。
その仕草に、幼子が人混みの中で親の服の裾を握りしめる光景を連想してしまったのもいたしかたあるまい。
視線を合わせれば、人目を惹く白皙には微かに焦燥感が浮かんでおり、どことなく口調も切羽詰まっている……ように感じる。
まあ、俺の気のせいだろうけど……そうであったら――素直に嬉しいな、と思う。
大事な相手から心配してもらえているということは、こんなにも嬉しいことだったのか。
そんな呑気な状況でもないというのに、新しく学んだ感情の習得に、くすぐったい気持ちになる。
カルナのことを俺が必要以上に心配することはあっても、その逆は滅多にないから、と言うか、神霊である俺が消滅の危機に瀕する機会はそうそうないため、心配されることもないから――とても新鮮な気分だ。
……だけど、それもその一瞬だけのこと。
――だから、そっと首を振って、手を離すように促した。
切れ長の蒼氷色の瞳が、軽く見開かれる……そうして、薄い唇が噛み締められた。
……うん。
聞き入れてくれて――――ありがとう。
「――なぁ、カルナ。俺がいなくなっても、ご飯はしっかり食べて、よく寝て、病気になるなよ?
それから、ドゥリーヨダナが暴走しかけたら、この間みたいに、言いにくいこともきっちり言って、あいつが迷走しないようにするんだ。――きっと、それができるのは、友達であるお前だけだろうし」
そっと、その頭を一撫でして、城壁の上へと立ち上がる。
太陽を背にして佇んでいるから、きっとカルナの方からは俺の表情なんて、逆光になっているせいで見分けることができないだろう――だが、それでいい。
……だって、こんな情けない顔なんて、見せられないじゃないか。
「それから、お前はなんだかんだで言葉を端折る癖があるから気をつけるように。物言いを優しくするとか、もうちょっと笑うとか、人々が親しみを感じられるような態度をとったらいいよ。
今までは俺がそれとなく周囲に配慮していたけど――当分は、お前の面倒を見てやれなくなるし。――嗚呼……兄としては、お前のそういうところが心配かなぁ」
できるだけ、心配をかけないようにと、なんでもないことのように微笑して見せる。
――うまく、笑えたかなぁ? 声も震えてはいないだろうか?
地上に降りて来たばかりの時のように、ぎこちない微笑みになってはいないだろうか?
まあ、不格好でも微笑んだことが伝わればそれでいいか。
美しい、透き通った蒼氷色の瞳が、じっと俺のことを見据えている。
「……アディティナンダ」
「――ん、カルナ。……そう言う訳だから、暫くの間とはいえ、お別れだ」
万感の思いが込められている一言とは、こう言うものなのだろう。
ただ一言、名前を呼ばれただけなのに――後ろ髪を引かれそうになるのを、必死に堪えて、カルナに背中を向ける。
――……嗚呼。
我儘を言うのであれば、ずっと一緒に居たかったなぁ。
……どうせなら。
どうせなら、カルナが普通に歳をとって、お嫁さんもらって、子供作って。
そうして、なんだかんだで、ドゥリーヨダナと一緒に莫迦なことをやりながらも、戦ったり、笑ったりしながら日々を過ごして欲しかった。
そうしてから、人としての一生を全うしたカルナが、最後の日を迎えるまでの日々を……――この目で見届けたかったなぁ。
様々な要因ゆえに、現実には叶わぬ願いと知りながらも、そんな
スゥ、と深く息を吸い込む。
そうして、すとん――と、思考/意識を切り替えた。
乾いた土器に冷水が染み込むように、途端にそれまで雑多な感情や余計な煩悶に苛まれていた脳裏が澄み渡っていく。
蒼天を見上げれば、遮るもののない日輪が燦々と煌めいている――それを確認して、瞳を閉ざす。
そのまま、城壁の外へと――
*
*
*
さながら――くるり、と木の葉が裏返るように。
人間カルナの兄である
爪先に、髪の一筋に、呼気の余韻に至るまで。
途方も無い力が染み渡っていき、とてつもない多幸感と全能感に全身が侵されていく。
普段は人の世で埋没するためにと己に科した、無数の枷が一つ一つ音を立てて外れ、重たい衣を一枚一枚脱ぎ捨てていくような感覚に、矮小な人の身を被っていた本性が歓喜の声を上げる。
瞬き一つの間に、表層意識から深層意識へと。
人もどきから正真正銘の神の化身へと切り替わって、ほぅ……と充足感に満ちた溜息一つ。
――耳を澄まします。
肌を――人間の肌に該当する箇所でしかありませんが――肌を突き刺す風の荒々しさを鬱陶しく思い、封じ込めていた力の一端を行使しました。
……その途端。
――ふわり、と地球の重力に逆らって、光と熱で構成された躰が浮かび上がります。
我が身より放たれる光の余波を浴びた大気が、悲痛な叫びを上げます。
どよめく民衆の声に、漂う土埃の匂い。
目を見開けば、恐れ慄いた様子で平伏する人間たち。
見知った姿も眼下にありましたが――それらを何の感慨を感じることもなく睥睨して、おや? と小首を傾げます。
平伏し、視線を合わせないようにと必死に震えている有象無象の中に、ただ一人。
震える体を必死に抑え込み、今にも伏せたくなる眼差しを必死に持ち上げ、脂汗を流しながら、歯を食いしばりながらも、こちらを見つめ――……
――……いいえ。
……これは驚きました。
人外の気配を隠すことなく露わにして、神霊としての力を放出しているワタシに対して、灼かれることを恐れることなく、見据えてくる人間がいるだなんて。
その不遜さが、何故だか心地よく思えたので、もっと近づいてみることにしました。
脳裏に飛び込んできた、きらり、と揺れる黒水晶の輝きに、目を見張ります。
見るものを惹きつける、強い意志と野心を帯びた力強い眼差しに、心を奪われます。
……
ワタシは、俺は、この輝きを色濃く放つ人間のことを、とてもよく知っている。
寧ろ、どうして、今の今までその存在を忘れてしまっていたのでしょうか。
人間という群体の中で、一際煌めく個体。
群、ではなく、掛け替えのない一人として、ワタシたちが初めて認識した、最初の人。
「――……
強い言霊を帯びた神霊の囁きに、ドゥリーヨダナの体が大きく揺れました。
そのまま、圧倒的な力に呑み込まれてしまうかと思いましたが、額から汗を噴き出しながら、ガクガクと両足を震わせながらも、決して目をそらす事の無い姿に、ワタシは/俺は――――。
「……ええ、そうです。アナタはそれでいい」
口から溢れ落ちた言葉は、我ながら陶然とした響きを有しておりました。
人間の最も美しい部分と醜い部分を重ねて持ち合わせながらも、それでも必死に前を向いて進もうと踠き続けてきた彼の姿を知るからこそ、神を神と崇めぬ不遜さを、ワタシは良しとしました。
……かつて、とある
この世に救いはなく、人は皆、苦しみからは逃れられない――であるからこそ、自らの手によって、人々は救われてしかるべきであると。
結局のところ、いかなる人にも神による導きが必要であり、神による支えが不可欠であると。
――それは、確かにその通りでしょう。ワタシにも、否定はできません。
……ですが。
それを永遠に続ける必要など無いのだと――
烱々と輝く黒水晶の双眸と視線を合わせ、するりと距離を詰めます。
反射として動こうとする身に掌を這わせ、覆いかぶさるようにして、黒髪を掻き分け、その額に口付けました。
「――っ!!」
「――……この地上に生ける愛し子の一人として、アナタに日輪の祝福を」
……儚き定めの人の子を、己の炎で燃やし尽くさぬように――叶う限り、優しく。
――きっと、彼にとっては、余計なお世話でしかないのかもしれませんが。
あらゆる魔性と不浄を焼き尽くす日輪の化身による、最高の祝福をアナタに贈りましょう。
アナタもまた、ワタシたちが守護すべき、愛おしむべき、類稀な可能性を持つ命であるのだと。
そのことを、この行動によって、アナタを軽んじる人々に伝え、何よりもアナタ自身に示しましょう。
また、未知の可能性に満ちた人の王子が、何者にもその心の有り様を損なわれることなく、未来に進めるように。
神々の命を受けた人ならざる者、地上に蔓延る魑魅魍魎の類。
それらに、頑健でありながら脆い精神が侵されることがないように――我ながら、いささか過剰に過ぎるほどの加護を与えておきました。
「――ありがとう、ドゥリーヨダナ。
俺の口からは何度も伝えていたでしょうけれども、ワタシからもその言葉を贈りたかった」
余人には聞こえぬように、そっとその耳に囁いておきます。
……これで、大丈夫。
少なくとも、彼の命が続く限り、その儚くとも猛々しい精神の輝きが、何者かに侵されることはないでしょう。
驚いたように額を抑え、パクパクと口を開閉する王子にそっと微笑みかけ、天を仰ぎ見ます。
為すべきことは、為し終えました。これ以上の介入は、無粋でしかないでしょう。
――これから先は、人の物語であり、人の戦いである。
これは人の営みの一環であり、人の可能性を謳いあげるものである。
であれば、神々の力など、彼らに不要であり、邪魔でしかない。
長い間、この地上で人々の暮らしを垣間見、そして地上に生きる者達の力強さを知ったからこそ、そのように胸を張って宣言することができる。
……人間というものの力を、信じることができる。
ドゥリーヨダナの肩に乗せていた両手をそっと離し、ふわりと中空に浮かび上がりました。
蒼天を見上げれば、我らの現し身たる純白の太陽――そして、黄金に輝く我が愛子の姿が視界に映ります。
「――……
この位置からでは、きっとあの子の耳には届かないでしょうが、それでも。
ずっと呼んであげたかった、呼びたかった――愛しい子供の名前を、ようやく呼べました。
ワタシがワタシであったが故に、無慈悲に残酷に傷つけてしまった、あの日以来。
ずっと呼べなかった――呼ぶことのできなかった、あの子の名前を。
蒼氷色の双眸を、あの子の容貌を、しっかりとこの胸に焼き付けて――名残惜しいのですが、この辺で。
「――どうか、健やかで」
万感の思いを込めたその言葉を最後に、灼熱の炎を翼として、大気を焼き尽くし、一つの光球へと我が身を変じます。
――向かう先は、あらゆる神々と聖なる者達の住まう世界。
一切の不浄を許さない、神々の栄光に満ちた壮麗な天空都市・アマラーヴァティー。
神々の王にして、紫電の雷光を司るインドラ――彼の治める王国である。
*
*
*
蒼い、蒼い空を目指し、純白の雲間を突き抜け、幾千もの光の帯を通り抜け。
富貴の象徴である紫紺と穢れなき純白で彩られた天空の都へとたどり着く。
そうして、その中でも一際巨大で壮麗な建物を目指し――――
目にも綾な衣装を纏う蠱惑的な肢体の天女達。絢爛たる鎧兜に身を包んだ戦士達。
それらに傅かれながら、ワタシは一人、王宮の奥を目指します。
……そうして。
「――
目にも眩い黄金と内側から光を放つ宝玉。
この世のありとあらゆる美しいものを組み合わせて構築された、絢爛たる玉座。
そこに座す、
――全ては、あの子達を守るために。
長かった……! これにて、第4章は完結!
次章からは、クルクシェートラ前日譚になると思います。そして視点もアディティナンダに戻ると思います(多分!)
リクエスト作品も書きたいのですが、この更新速度からして、完結を第一の目標にして、リクエスト作品はその合間に書き連ねることになりそうです。
できれば、本格的な夏が来る前に、ひとつくらいは書きあげたいのですが……うまくいくかなぁ。
(*「もしカル」におけるドゥリーヨダナさんは完全な人間です。カーリー女神の化身やカリ・ユガの断片とかいうのは、後世において『マハーバーラタ』における悪役としてのドゥリーヨダナの悪辣さをアピールするために付け加えられた脚色であると作者が想定しております。なので、「もしカル」での彼は生まれが特異なだけのただの人間です*)
(*とはいえ、後世の人々のイメージに影響される英霊状態になった場合は、後の世に付け加えられた上述の特性を付与された状態でサーヴァント化される、と思っております*)
ドゥリーヨダナ「というか、そんな便利な力があったら、とっくにパーンダヴァ相手に使っとるわ」
カルナ「だろうな」