(でも、カルナさん在籍時のアルジュナの台詞と顔が怖くてしょうがないです。これはやばいわ……)
「――大きく出たな、カルナ。主君であるわたしに対して、そのような戯れを口にするとは」
酷薄な顔になったドゥリーヨダナが、不穏に煌めく黒水晶の瞳を睥睨する。
彼の身の内より発せられる怒気が、カルナを含む俺たち全員を圧死させんとばかりに、室内に充満し、ビリビリとした殺気が肌を刺す。
――パーンダヴァの長兄と次兄を除けば、という但し書きは必要ではあるものの、基本的にドゥリーヨダナは寛大な性質だ。
人を怒らせやすいカルナの喋り口にも気を悪くすることはないし、率直すぎて心を抉ってくるカルナの端的な語調にも、なんだかんだで付き合える程度には度量が深い。
……その、ドゥリーヨダナが。
恐らく、カルナと道を共にするようになって初めて、その怒りを垣間見せた。
余程、腹心であるカルナの口からユディシュティラ王には及ぶまいと断言されたのが、腹立たしかったのだろう。
普段の様に、笑顔という仮面で取り繕うこともせず、剥き出しの怒りを露わにしていた。
……手にした小刀をそっと鞘から抜き出し、抜き身の刀身をカルナの首筋に添える。
そうして、ぞっとする程、綺麗な微笑みを浮かべて、
「――口を慎め、カルナ。流石のわたしにも、限度というものがある」
キィン、と金属同士が触れ合って、涼しげな音色を響かせた。
他者を威圧する酷薄な表情を浮かべたドゥリーヨダナとは対照的に、カルナの顔はどこまでも平静を保っている。
「あまりにもわたしの気を損なうようであれば、如何に貴様とて、その首で戯れの対価を支払ってもらうことになるぞ――さて、カルナ」
にこり、と背景に花が散りそうな、そんな華麗な微笑みをドゥリーヨダナが浮かべる。
甘やかな毒を孕んだドゥリーヨダナの声が、静まり返った室内によく響いた。
「言い直すのであれば、今の内だと、主君の誼で伝えておこう。――それで?
「……殺気を収めろ、ドゥリーヨダナ。お前らしくない」
淡々とした口調のまま、カルナは平然と言葉を綴る。
その喉笛に添えられた小刀が皮膚に食い込むのも物ともせず、眉根一つ動かすことのないまま、カルナは主君へと言葉を重ねる。
ドゥリーヨダナがカルナを殺せる筈がない、と頭では理解していても、それでも大事な弟の身が脅かされている光景というのは、心臓に悪いものだ。
まあ、俺には神核はあっても、心臓なんていう有機物的なものはこの身に存在しないんだけどなぁ……。
俺とアシュヴァッターマンがハラハラしているのを横目に、華麗な微笑みを浮かべたままのドゥリーヨダナと酷薄な表情を形作ったままのカルナの会話は続く。
「何、大したことではない。――というよりも、お前が意識的にその事実を見ないふりをしている方が、オレとしては信じがたいのだが」
「簡明簡潔を心がけている貴様にしては、勿体振った物言いをするものだ。――……いいだろう。そこまで言い切るのであれば、言ってみろ」
横柄に顎をしゃくったドゥリーヨダナが、カルナの首に添えていた小刀を外す。
一筋だけ、真紅の血がカルナの幽鬼のように青ざめた肌の上を伝うが、すぐに
「――ドゥリーヨダナ。今のお前とユディシュティラ王には決定的に埋められない溝がある」
くるくると手のひらの上で小刀を弄ぶドゥリーヨダナの黒水晶の双眸が不穏な色を宿す。
他ならぬカルナであるからこそ、ここまで無礼な物言いが許されているのだろう――依然として収まらぬドゥリーヨダナの殺気を肌で感じながら、固唾を飲んでカルナの次の言葉を待つ。
「――……それは」
――カルナの考えていることが、俺と同じであれば、それは……きっと。
ドゥリーヨダナにとっては、致命的な一撃になるのは間違いない。
――スゥ、とカルナが息を飲んだ音がやけに大きく響いた――そうして。
「――そも、ドゥリーヨダナ。
「――……ぐはっ!」
――カラーーン!!
透き通った金属音が大理石の床と合わさって、澄んだ音色を響かせた。
カルナが据え切った目で言い切った言葉を聞くや否や、小刀を取り落としたドゥリーヨダナが吐血する。
顔色を元に戻したアシュヴァッターマンが、やや芝居掛かった仕草で、殿下ー! と叫んだ。
「冷静になって考えてもみろ。ユディシュティラは王であるからこそ、広大な領土と列強を征服してのけた勇猛な兵士たちを従えることができる。……だが、お前はどうだ、ドゥリーヨダナ」
胸元を抑えつつ、苦悶の表情を浮かべたドゥリーヨダナ。
カルナの舌鋒の一つ一つに急所を抉られているのか、ビクビクと体を痙攣させている。
「お前は父王の摂政として、王国を切り盛りしている。この国は確かにお前の裁量によって動かされている――だが、結局のところ、それだけでしかない」
言葉の一つ一つが、とんでもない破壊力を秘めている。
床の上に崩れ落ちたドゥリーヨダナの側で、アシュヴァッターマンが顔を覆って、お労しい……と呟いた。
「お前がお前自身の権限だけで動かせるものといえば、このオレやそこのアシュヴァッターマン、そして、お前を慕う兄弟たちや兵士たちだけだ。如何に兵士を集わせようと、それは結局のところ、
「も、もうやめてくれ……」
息も絶え絶えのドゥリーヨダナだったが、カルナの口は止まることを知らなかった。
――いやはや、驚きである。
うちの弟って無口な方だと思っていたのだが、なんだかんで、こんなにも長い話を続けられたんだ……。
「……それは国外だけはなく、国内においても同様のことが言える。
お前が先ほど名前を連ねたクルの長老たちだが、彼らはドゥリーヨダナによって養われているわけではない。彼らは、国の王であるお前の父親に養われている。――従って、彼らには、王国の摂政に過ぎないお前の言葉など、従う義務を有さないと言えるだろう――それでもまだ、互角のたたか――むぐ!」
「はい、はーい、ここまで! いい子だから、その辺にしておこうね、カルナ!」
ドゥリーヨダナがついに動かなくなってしまったので、カルナの背後に回って口を押さえる。
もごもごと手のひらの下で動く気配がするが、取り立てて反抗されることはなかった。
「――っく、痛いところを容赦なく指摘しおって……! 貴様ではなければ、打ち首にしてやったところだぞ、我が友……」
床の上に倒れ伏していたドゥリーヨダナが、ゆっくりと立ち上がる。
とはいえ、一切の欺瞞と虚飾を纏わないカルナの鋭すぎる指摘によって、思いの外、精神的な打撃を食らってしまったのは確かなようだった。
両親譲りの黒い肌の上には冷や汗が伝っているし、浮かべている微笑みもひどく引き攣っている上に、なんだか足元もおぼつかない。
生まれたての小鹿とか、子馬とかがちょうどあんな感じだったな……と、村に住んでいる間に目撃した、四つ足の獣の出産の光景を連想してしまった。
「だが、まぁ……、頭は冷えた」
ふぅ、と大きな溜息を一息つくと、ドゥリーヨダナがコキリ、と首を鳴らす。
それは、先ほどまでの投げやりな態度ではない。
常日頃の彼らしい、どこか不敵ささえ感じられる佇まいにであるのを確かめて――そっと一息つく。
……嗚呼、そちらの方がずっとお前らしいよ――ドゥリーヨダナ。
相手が
――ほっと胸を押さえて、小さく微笑む。
ちらりとアシュヴァッターマンを見やれば、同じような顔をしていた――視線と視線が交わって、互いに苦笑する。
「全くもって腹立たしいことだがな……確かに貴様の指摘した通りだ。ビーシュマにヴィドゥラ、ドローナを養っているのは私ではなく、父上だ。癪に触るが、王子に過ぎないわたしの言葉になど、彼らが従う義理はないだろう――それこそ、わたしが父上の跡を継いで王にでもならない限り。そして、ドラウパティーの一件もある」
ガシガシと髪を掻き毟りながら、ドゥリーヨダナは現在の彼の戦力を再分析する。
確かに、カルナやアシュヴァッターマンはドゥリーヨダナ個人に忠誠を誓っている比類なき勇者たちだ――だが。
神々の子供達五人が率いる大軍勢に、ドゥリーヨダナの非道を誅するという名目で長老たちがそこに加わった場合、そもそもの地力が圧倒的に不利すぎる。
人々に尊敬される戦士であるビーシュマや様々な戦士たちの師匠であるドローナ、王弟として尊崇を集めているヴィドゥラがパーンダヴァの軍に付き従っている、という事実自体が、ドゥリーヨダナ挙兵への正当性を一層薄弱なものとしてしまうのは間違いない。
そんな、明らかに敗色濃厚の戦に付き合ってくれるような物好きなんて、それこそカルナのような変わり者ぐらいだろう。
だが、ドゥリーヨダナとて、何も好き好んで負ける戦などをしたがるわけがない。
戦う以上、その戦を勝利へと導くことこそ、指揮官の役目である。
「――戦を、起こさせるわけにはいかんな」
「殿下、それでは……!」
「面倒をかけたな、アシュヴァッターマン。しかし――――」
険しい表情を浮かべるドゥリーヨダナ。
それもそうだろう、と胸中で同意を示す。一瞬だけ、安堵の表情を浮かべたアシュヴァッターマンも、苦痛の表情を浮かべる。
「父上に調停を頼むにせよ、何にせよ、今宵の一件がきっかけである以上は、それも難しいだろう」
「……だろうな」
カルナが囁くような声で同意を示す。
眉間の間の皺をぎゅっと寄せ、凛然と輝く蒼氷色の双眸を不穏に翳らせている。
「何せ、オレたちはパーンダヴァの戦士としての誇りに泥を塗り、その妻の名誉を汚した不届き者。仮にも戦士を名乗り、王の中の王を称している以上、直ちに拭い去りたい汚名だろう」
「端的な現状分析をどうも有難う、我が友」
冷淡極まりないカルナの指摘に、うんざりとした表情を浮かべたドゥリーヨダナ。
それにしても、実に対照的な二人である。カルナの顔が一貫して変わらないのに対し、それと対峙しているドゥリーヨダナの顔はコロコロと変わるから、見ていて楽しい。
「――少し、状況を整理いたしましょうか」
「ああ、頼む」
微苦笑を口の端に刷いたアシュヴァッターマンが、控えめに提案する。
それに鷹揚に頷いたドゥリーヨダナの許可を受け、武闘派バラモンの子息は耳に心地よい、韻を踏んだ声を室内に響かせた。
「一つ、殿下はパーンダヴァとの戦を望まれていない」
「そうだな。いずれ、相対する時があるにせよ、それは今であってはならない」
「二つ、パーンダヴァの殿下方――特に次男のビーマ様はドゥリーヨダナ様との間の戦を望んでいらっしゃる」
「ああ、だろうよ。己と己の家族、そして妻の汚名を濯がぬ限り、奴らは一生恥辱に苦しまなければならないからな」
「三つ、現状の戦力のままでは、パーンダヴァとの戦いに勝つことは極めて困難である」
「如何にカルナといえど、望まぬ死を拒絶する祝福持ちのビーシュマ、
そーいや、ドローナ師匠……未だに、カルナ相手には、梵天の奥義を教えてくれていないんだ。
噂では、一国を滅ぼすとも、地上に夥しい惨禍を齎らすとも伝えられている、あの奥義を。
……ドローナがアルジュナ贔屓である以上、多分、これから先も習得は難しかろう。
――でも、あの技がないと、やばいよなぁ……。
如何に黄金の鎧があったとしても、対人ならぬ対国奥義であるあの技を放たれて、カルナ以外の全員が死亡してしまったら意味がないし……。
――これは、なんとかせねばいかんな。
「……参った、このままでは戦は必須だな」
「強いて言うのであれば、我々よりもパーンダヴァの方が開戦を望んでいる、と言うのが難点だ」
――っち、と上品に舌打ちするドゥリーヨダナ。
ぐるぐると密林の猛獣のように室内を徘徊する主君の姿に、カルナが小さく嘆息する。
「どうする、どうする? ――考えろ、ドゥリーヨダナ。このままでは、戦力不足でわたしに勝ち目はない。しかも、ドラウパティーの件がある以上、敵軍にはあの女の兄弟や父王までもが、妹と娘の懇願に応える形で参戦するだろう。
しかも、忌々しいことに、あの
ブツブツと呟きながら、思考を進めるドゥリーヨダナの邪魔にならないように。
三人揃って息を殺し、ドゥリーヨダナが集中しやすい環境を作る。
「仕掛けるなら、今しかない。あの
物騒だなぁ……、そんでもって、悪辣極まりない。
こりゃあ、正義感溢れる長老たちやあのアルジュナ王子がドゥリーヨダナを危険視するのもやむを得ないなぁ……。
「戦士として不具な体にしてやるにせよ、そのための手法はどうする……? 相手はあのパーンダヴァだぞ? 不意打ちやだまし討ちしかないよなぁ……。だが、どうやって?」
ここ十年近く、パーンダヴァの連中が離れていたからこそ鳴りを潜めていたドゥリーヨダナの謀略癖に、目が半眼になっていく。
こいつ、本当に悪辣だよなぁ……。
――そんな最中、楽師として鍛えられていた俺の耳が、とある足音を捉えた。
石造りの室内にいても聞こえる様な、大きな足音だ。歩幅は大きく、重く、そして、慌ただしい――かなり、焦っているのか、それとも急いでいるのか。
何にせよ、この部屋を目指して一直線に走り寄ってきている。
気配を隠そうと言う雰囲気は全くないから、恐らく――ドゥリーヨダナの縁者、か。
――そっと、室内の隅に隠れる。
それとほぼ同時に、扉が勢いよく押し開かれ、一人のドゥリーヨダナとよく似た面差しの青年が飛び込んできた。
「ドゥリーヨダナ兄上! 何故、叔父上が賭け事で手に入れた、パーンダヴァの財産を返してやったのですか!?」
「――それだっ!!」
憤然と怒鳴り込んできた青年――ドゥリーヨダナのすぐ下の弟であるドゥフシャーサナ。
彼の言葉に対して、我が意を得たり、と言わんばかりの顔で、ドゥリーヨダナが手を叩いた。
あー、もしや、ドゥリーヨダナが思いついちゃった策って、ひょっとして……。
何となく、嫌な予感にかられた俺であったが、この場は空気を読んで沈黙を続けることにしたのであった。
*
*
*
――斯くして、その翌日。
王国の財宝を積み、至高の武器を身につけたパーンダヴァの子供達は、自らの王国への帰路を辿っていた最中に、ドリタラーシュトラ王の命令を受けて、ハースティナプラへと呼び戻される。
そうして、太陽が中天に差し掛かっていたのと同じ時間。
ユディシュティラ王は再び、骰子をその手に取った――今度は、
<感想という名の考察>
まあ、この時点で本来であればドゥリーヨダナさんは、この時点で王にはなっていた様なのですが「もしカル」ではまだ王子様のまんまでした。
とはいえ、原典においても、この時点ではまだドゥリーヨダナさんは完全に王国の実権を掌握していたわけではないと思います。恐らく、この時点ではまだまだドリタラーシュトラ王の権力の方が強かったのは間違いないかと。
そんなわけで、ドゥリーヨダナ側にもこの時点に戦さを起こすわけにはいかなかった事情があったのだろうと思い、この様な理屈付けを行いました――いかがでしょう?
(*そんなわけで、二回目の賭博です。時系列は原典に合わせて、二度目の賭博を行いました*)
(*この賭博がパーンダヴァの連中の12年間の追放へと繋がるわけですが、その際も、ユディシュティラ王は自らの立てた誓いを破るわけにはいかないとこの勝負に臨んだそうですよ*)
(*……その、この時代、自らの立てた誓約を破ることはしてはならない禁忌だったそうなので、あんまユディシュティラ王を責めないでいてやってください……弁護のしようがないほど、大ポカであるのは間違いなんですけど……はい*)
――次回で第4章も終わると思います。それが終わったら、気晴らしにリクエスト作品でも書きたいものです……もう、ここからクルクシェートラまで一直線なので。