もしも、カルナさんが家族に恵まれていたら   作:半月

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さて、読者の皆様に質問です。
この話の最後にカルナさんがとある台詞を呟きますが、それに対する答えをぜひ当ててみてください。

(*四月から忙しくなったので、かつてのように連続して投稿することは難しいのですが、気を長くして更新を待ってもらえると嬉しいです――それでは*)


穢された名誉

 ――走る、走る。

 瞬く間に通り過ぎていく廊下の景色、等間隔に並べられた松明の篝火。

 驚いたように目をみはる王宮の住人たちを尻目に、まるで旋風にでもなってしまったかのような速度で、俺は美麗な王宮を駆け抜ける。

 

 いくつもの廊下を走り抜け、無数にある柱の隙間を通り抜け、何度も閉ざされた窓や扉を潜り抜けて、ようやく目的の場所へと辿り着く。

 

 誰かに見られようが、構うものか。

 そう開き直って、普段は抑制している神の力の一端を解放したお陰で、瞬きの間に目的地へと到着できた。

 

 固く閉ざされたままの扉を前に、深呼吸する。

 落ち着け、と自分で自分のはやる心を自制して、やけに重々しく感じてしまう扉を、ゆっくりと押し開けた。

 

 その瞬間、内側に封じ込められていた悲鳴が室外へと響き渡った。

 

「お考え直しください、殿下! どうか、どうか、それだけはおやめになられませ!!」

 

 悲痛極まりない声で、苦悶の表情を浮かべた状態のアシュヴァッターマンが、冷酷な顔をしたドゥリーヨダナへと、すがりつくように言葉を捲し立てている。

 

 普段から自分を律し、温和であれと心がけているアシュヴァッターマン。

 そんな彼が滅多にない激しさを持ってドゥリーヨダナの意に反することを述べている時点で、只事ではなかった。

 

「――……カルナ」

「……アディティナンダ、か。随分と、戻ってくるのに時間がかかったな」

「――……ごめん。なんか、色々あって」

 

 部屋の片隅で、事態を静観していたカルナに声をかければ――少しばかり、遅参した俺のことを咎めるような物言いで返事がなされた。

 無表情ながらも、カルナのそれも常のものよりも険しい面持ちである。具体的に何について話し合いをなされていたのかは不明だが、俺の予想していることとあまり相違はなさそうだ……と心の中で呟く。

 

「結局、あの後、何が起こったの?」

「……そうだな……、お前はあの場にいなかったから、知らないのだったな」

 

 するり、とやけに荒れている室内の置物や家具の隙間を通り抜け、カルナの元へと足を運ぶ。

 ざっと俺の頭から足元までを流し見て、異常がないことを確認し終えたカルナが、淡々とした声で説明してくれた。

 

 ――曰く。

 ドラウパティーは神々のご慈悲により不名誉から救われたのだ、と王宮の長老たちは主張した。

 天の公正なる方々はこの賭博場でのドゥリーヨダナの悪行を見過ごさず、その罠に嵌められたパーンダヴァとその妻を憐れみ、そのための救いの手を差し伸べたのだと。

 

 彼らの主張と救われた当事者であるドラウパティーの涙ながらの懇願に対し、善良なドリタラーシュトラ王は彼の愛息子であるドゥリーヨダナの今回の不始末――すなわち、賭け事自体をなかったことにしようと宣言した。

 

 ユディシュティラ王の巻き上げられた財産は、全ての持ち主である王とその兄弟たちの手元へと戻された。

 当事者であるユディシュティラは我が身の不徳を恥じ入りつつも、親愛なる叔父が彼の財産を息子に命じて返却させたことへ感謝の意を示した。

 

 ――けれども、それに納得できないものたちもいた。

 例えば、それはドゥリーヨダナの大勢いる兄弟たちの一人であり、ずっと一部始終を眺めていた観客たちの中の誰かであり、ユディシュティラ王の言葉に弟であるという理由だけで従わなければならなかった第二王子であった。

 

 ……誰かが言った。

 よかった。ユディシュティラ王は己の王国と財産を手元に戻された、これで王国も安泰だ。

 

 誰かが反論した。

 けれども、妻をまで賭け金として差し出したのは、彼の王の自業自得ではないのか?

 我らの国にも身持ちの悪い者達はいるが、そんな彼らでさえ、己の妻を賭け金として差し出したりはしない。

 ユディシュティラ王は法を守るべき立場にありながら、非法(アダルマ)を犯したのだ。そんな彼を王の中の王として認めてもいいのだろうか。

 

 誰かが諭した。

 だが、神々は王妃を助けるために手を差し伸べたではないか。彼が王の中の王として相応しいお方のままだからこその、神々のご慈悲だろう。

 

 ――それはどうだろうか? と誰かが呟いた。

 結局のところ、ユディシュティラ王は自分で自分の身の破滅を招いたも同然だ。

 

 何より、最も大事な宝である兄弟や妻を、賭け金として差し出すのは如何なものか?

 そして、あの金の髪の女は果たして――本当に神々のうちの誰か、だったのだろうか?

 

 ざわめく会場に、徐々に立ち込める不穏な空気。

 それに終止符を打つように、急いで長老たちが閉幕の合図を宣言させる。

 

 ……そんな最中、誰かがぽつりとその言葉を口にした。

 

 ――結局のところ、ユディシュティラ王とその兄弟たちは、()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 その瞬間、本当に一瞬だけだが、密やかな忍び笑いが会場内に充満した。

 パーンダヴァの子供達は己の不徳を恥じ入り、双子達は顔を羞恥に染め上げた。

 そして、それを聞いた次男坊は、気分を著しく害したそうだが、それも致し方ないことだ。

 

 敵を打ち滅ぼし、民草やバラモンを始めとする、か弱きものたちを守るべき立場にある戦士階級(クシャトリヤ)

 その頂点に立つ、半神の兄弟たちが、よりにもよって――庇護するべき存在である妻・ドラウパティーに救われたのか、と蔑まれたのだ。 

 

 戦士たちは己の技量とその誇りを汚すものに対して、容赦しない。

 些細な侮りは、そのまま王国の威信を揺るがす、蟻の一穴となりうる可能性を秘めている。

 

 ――人々に讃えられる素晴らしい行いだけが、人の世を動かすことはない。

 星の趨勢を決定づけるのが神々の総意であるとするならば、人の世の歯車を回すのは人間たちの総意なのだ――決して、英雄と称えられる人間の勇敢な言動だけが人の世を動かす訳でない。

 

 人々の悪意もまた、世の歯車を動かす、大きな一助となり得ることもある――そして。

 

 ――その宣告は、開戦の合図となる鏑矢のように、朗々と謳い上げられた。

 

 

「……“大戦において、ドゥリーヨダナの腿の肉を砕かなければ、狼腹は祖霊達とは世界を共にすることはできない”だって!? おまけに、あの会場内の者全てに対しての鏖殺宣言まで? ――あの第二王子が、そこまで言い切ったのか!?」

 

 震える声でその宣言を繰り返した俺へと、カルナが静かに首肯する。

 

 ――もう、本当に冗談であってほしいと、心底思った。

 なんたることだ、と呻き声を上げて、頭を抱えてしまいたかった。誓いとして言い放たれた言葉の意味と重みを知るからこそ、その不穏な言葉の意味するところを理解して、気を失ってしまいたくなる。

 

「どうして、こんなことに……」

「そうだな。彼の王子の宣告によって火に油が注がれたのは間違いない。であれば、懸念通りの事態が引き起こされるのは必至。いかに嘆き果てたところで、一度、宣言された言葉は変わりようがない――ましてや」

 

 ――ここで、カルナが一区切り入れる。

 

 己の言葉足らずが原因で引き起こされたとも言えるこの事態に、カルナもまた後悔しているのだろう。

 ――白髪の合間から覗いている蒼氷色の瞳には、己の不始末を悔いる光が宿っている。

 

「――少人数の者たちの面前であれば口止めしてしまえばそれで済むが、あのように大衆の前で一国の王の血族ともあろうものが高らかに宣言してしまった以上、あの言葉は最早取り消すことなど不可能だ」

「……嗚呼、そうだろうな」

 

 妻の名誉を穢され、王の威光を貶めるような辱めを受けた当事者の口によって、その言葉が告げられてしまった以上、もうどうしようもない。

 頭で理解していても、それでも、胸の内に立ち込めてくるモヤモヤとした感情を完璧に抑え込むことなど、不可能だった。

 

「嗚呼、クッソ……! どうして、こうなるんだ……。こうならないように、この十年、ずっと気をつけてきたというのに……今日の時よりも酷い出来事だって、なんども乗り切れたっていうのに……どうして……!」

「アディティナンダ、落ち着け。――中身が溢れでているぞ?」

 

 ――乱れに乱れきった激情を抑え込むべく、唇を噛み締める。

 けれども、思っていた以上に俺の体は感情に素直であったせいか、背中を流れる髪の一部がゆらりと炎と化してしまっていた。

 

 ふー、と息を吐いて、精神安定を図る。

 腕輪が四つ揃っていたとしても、それが十全に機能する以前に、俺の心が荒んでしまっていたら意味がない。

 

 荒ぶる内心を察知してか、カルナが慰めるように、落ち着かせるように背中を叩いてくれたのも助かった。

 ――これで、本性の方が出てきてしまっては、とんでもない事態になるし。

 

「……ありがとう、カルナ」

「お前が、気に病むことではないだろう」

 

 そっけない物言いに、これだから、と苦笑する。

 俺たちが自分の言っている言葉の意味を理解してくれるからこそ、自然と言葉足らずになってしまっているということを、そのうち本人に指摘しておかなければ、と思う。

 

 ――だけど、今はそれどころではない。

 

「……ドゥリーヨダナ。お前は、どうするつもりなんだ?」

「――アディティナンダ! 君、一体、どこに行っていたの!? いや、そんなことはどうでもいい!」

 

 血相を変えたアシュヴァッターマンが、勢いよく振り返る。

 アシュヴァッターマンは感情が高ぶると視野狭窄に陥る癖があるのか、となんとなく思った。

 普段、平常心を保とうと自制しているのは、そうした性格を自覚しているせいかもしれない。

 

 ――そんな、どうでもいいことを思った。

 

「今は黙って、アシュヴァッターマン。――(ワタシ)は、ドゥリーヨダナに尋ねている」

 

 ヒュ、と息を飲む音がした。

 思えば、アシュヴァッターマンの前で、神としての本性の一端を垣間見せたのは、初めてなのかもしれないなぁ――と、頭の片隅でそんなことを思う。

 

 ……ゆらり、と室内に照らしている炎が奇妙に光り、輝く。

 沈黙していたドゥリーヨダナだったが、無言で自分を見つめている三対の色彩の異なる眼差しに促されるように、重い口を開いた。

 

「――戦だ、もう、それしかあるまい」

「殿下! それだけはなりませぬ!」

 

 どうでも良さげに言い放たれた言葉に対して、アシュヴァッターマンが悲鳴を上げる。

 臣下としての諫言を理解していながらも、八方塞がりの自分の状況を冷静に把握しているドゥリーヨダナからしてみれば、最早どうでもいいことなのだろう――と俺の方も冷徹に分析する。

 

「考えても見ろ。あの脳筋の鳥頭が世に並み居る王族達の前で、己の正当性と報復の正しさを訴えるために宣言したあの言葉がある以上、如何にユディシュティラがそれを避けようと尽力したところで、今日の二の舞だ」

 

 長椅子に横たわり、ドゥリーヨダナは至極真っ当な意見を口にする。

 

 本当に、何もかもがどうでもよくなった、と言わんばかりの顔をしている。

 ――それこそ、諦観とも、無心とも、どちらにも取れる顔だ。

 

「ユディシュティラは阿呆だが、決して莫迦ではない。――あいつは、戦士というより司祭にでもなった方が世のため、わたしのためになった男だが、本人がどれだけ戦を厭ったとしても、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()――であれば、そう遠くない将来――それこそ、一年以内に、戦を仕掛けてくるのは間違い無いだろう」

 

 とはいえ、とぶっきらぼうな口調で話しは続く。

 本当に、どうでも良さそうな顔をしているドゥリーヨダナに、カルナの白皙が翳る。

 

 ――常であればキラキラと輝いている黒水晶の眼差しも、淀んでしまっている。

 嗚呼、勿体ない……と小さく嘆きの声を胸中に漏らしてしまった。

 

「例え戦さになったところで、負けはしないさ。なにせ、我が軍にはお前達がいる。寄せ集めの有象無象に殺されるほど、わたしもやわではないし、長老達も父上の禄を食む身だ――パーンダヴァの連中が食ってかかろうが、特に問題ないだろう」

 

 でも、と俺は小さく囁いた。

 ドゥリーヨダナの言っていることは正論だ。決して、その分析は間違っていないし、その考えだって理論的であると言ってもいい――だけど。

 

「……それって、ただ負けないだけで――確実に勝てる戦だと言い切る根拠でもないよね?」

 

 我が意を得たり、とカルナが首肯するのが、視界の片隅に見えた。

 そう、それは決して負けない戦さであって、勝つ戦さではない――そして何より、ドゥリーヨダナとユディシュティラとの間には、決して埋められない溝がある。

 

「何が言いたいのだ、兄上殿」

「それは――」

「……簡単なことだ、ドゥリーヨダナ。――()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 何を、と気色ばむドゥリーヨダナに、固唾を飲んで様子を見守っているアシュヴァッターマン。

 残酷な事実を告げようとした俺――の言葉を継いだのは、それまで押し黙っていたカルナであった。

 

「――何故なら、お前とあの男では、対等でないからだ」

 

 凄まじい勢いで、濃密な怒気が室内に充満する。

 ――……ゆらり、とドゥリーヨダナが長椅子から小刀を手にした状態で立ち上がった。




<感想という名の考察>

 女の嘆願によって男が救われる、というのは、非常に外聞の悪い出来事であったのは間違いないです。

 というのも、『マハーバーラタ』には大勢の戦士の妻たる女性達が出てきますが、上述の振る舞いをするパターンは大体、夫が自分よりも強大な存在に命を奪われた時――つまり、命乞いの場面によくある出来事であったためです。

 例として、
 ある王女は自分の夫が若くして命を落とした際に、死神に懇願してその命を返してもらいました。
 作中にもさらっと出てきている強大なガンダルヴァの王は、その妻の助命嘆願によって命拾いしました。

 つまり、よっぽどのことがない限り、強い戦士の男が女に救われるような目には陥らないのです。
 ――そう考えると、長兄の悪癖によって無一文になったパーンダヴァ兄弟は、社会的に一度殺され、ドラウパティーの嘆願によってその命が救われた事実は、半神として絶大な力を誇る彼らにとって非常に屈辱的なことだったのではないでしょうか。

 実際、植村訳『マハーバーラタ』には、次男のビーマが「パーンダヴァの兄弟は女によって救われた」と人々から揶揄された際に、非常に気分を害した――と記されています。(詳しくは、原典をどうぞ)

 しかも、長兄ユディシュティラはその直前に皇位即位式を催しております。全戦士階級の同意を得てただ一人の王を「王の中の王」として承認する、この特別すぎる儀式の直後です。

 つまり、何が言いたいかっていうと。
 従兄弟が皇帝を名乗った直後に、その治世に泥を塗るような真似をするなんて――ドゥリーヨダナさん、マジパネェ。

(*一見すると、原典の不穏な流れからかけ離れているような「もしカル」ですが、細かい差異を除けば原典の流れのままなのです*)
(*どちらも、ドラウパティーの嘆きを神<原典であればダルマ/ここではアディティナンダ>が聞き遂げ、奇跡によってドラウパティーは窮地より脱し、パーンダヴァは財産と失った戦士としての地位を取り戻す、という点において――ね? 変わっていないでしょう*)

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