そのため、この「もしカル(略称)」でもその設定を取り入れています。
――気がつけば、膝の上で眠っていたカルナの姿が消え失せている。
……誰かの
「
真っ暗になった視界に、くすくすと子供の笑い声が響く。
無垢で無邪気でありながら、合理的な残酷さを宿した囁き声。俺としては極めて異例なことだが、恐怖のあまり鳥肌が立っていた。
「
「……運命、だって?」
「そうとも」
猫が鼠をいたぶるような、幼い子供が無造作に小虫の足を引き千切ってしまうような。
例えて言うのであれば、それは悪意がないゆえの残虐さ。
圧倒的な力の差ゆえに逆らうことなど敵わない俺を、哀れむように、あるいは愛でるように。
薄布越しに触れられているような錯覚を与える何者かの視線が、俺の全身を這い巡っている。
――……すごく、気味が悪いし、正直なところ、気持ちも悪い。
「……例え神々の王であったとしても、変えられない絶対的な天命」
みずみずしい睡蓮の香りが、その芳香をいや増していく。
充満する花の匂いで次第に頭がクラクラとしていくのを、じっと堪える。
「――――
「お前、お前の正体は、まさか……!」
圧倒的な気配に自分の存在が蹂躙されるのを全身で感じながらも、震える唇を動かす。
恐怖もあるが、それ以上にその何者かに対する怒りと嫌悪感がそれに勝った。
真っ暗な闇の向こうで、それが婉然とした微笑みを浮かべるのが微かな空気の動きで分かり、その誰かの冷たい指先が震えている俺の顎先を伝う。
見えない相手の指先に触れられた箇所から、カルナとの間で感じる優しい温もりとはかけ離れた、骨の髄から凍ってしまいそうな冷気が全身に浸透していく。
「ふふふ。……今回のことは見逃してあげる。でも、
――ふぅっ、と耳元に艶かしい吐息が吹きかけられる。
それを最後に、全身を威圧していた圧迫感は闇の気配と共に薄れ、それまでカルナと一緒に座り込んでいた大樹の下に戻っていた。
*
*
*
「〜〜っ、……くそったれっ!! あんな化け物さえ、地上を闊歩してるっていうのかよ!」
考えうる限り最悪の状態である。
弱体化しているとはいえ、この俺が気圧される神格持ちなんて、片手の指で数えられる。
該当する相手の名前を思い起こすだけでも億劫だが、そいつらはどれもが絶大な力を持っていて、その中のどれであろうと戦闘向きの神霊ではない俺の勝率は絶望的である。
そして、そんな格上の存在が地上に堕ちている俺の元に接触を図ってきたこと自体、これから先に何かが必ず起こることを示唆している。
ここまでくると、一体この時代はどうなってるんだと文句さえ言いたくなる。
地上に堕とされて以降、スーリヤが俺に何も教えてくれなかったのには、もしかしたらその辺の事情も関係しているのかもしれない。
とにかく、乱れる呼吸を必死に整える。
何せ、カルナが目覚めるまでにはいつもの俺に戻っていなければならない。
兄というものは、頼れる長男として弟妹の前では見栄を張る必要性もあるのだ。だって、俺が真の長兄として密かに尊敬しているカウラヴァの王子様もそう言っていたし。
だとしたら、どうあっても
「……んぅ。……どうした? なにか、あったのか……?」
「……カルナ、まだ、寝ててもいいんだぞ」
身じろぎしたせいか、眠りこけていたカルナが薄く目を開けていた。
普段は強い意志の力を感じさせる蒼氷色の双眸は寝起きだからか、どことなくぼんやりとしていて、幼さが強調される。
俺の膝の上に頭を乗せながら、眠そうに目をこすっているのはどこにでもいる子供だった。
――……ああ、そうだ。
こいつはこんなに小さくて、その上、俺にとって他に替えなんてきかない大事な
――カルナが神の子であるとか、戦士としての力量は俺の方が下であるとか、いずれは大いなる運命の渦に巻き込まれる英雄であるとか。そんなくだらないことは、俺がこいつを
こんな当たり前のことを、今更になって……ようやく俺は理解した。
カルナが他者から一目置かれるようになったのを聞いて、胸が弾んだのはどうしてだったのか。
武術の教室に通えると聞いて喜んだカルナを見て、心中に暖かな感情が満ちたのは何故か。
カルナの運命を予期させる不吉な未来に対して、恐れと共に怒りを覚えたのは何故だったか。
――今まで気づかなかった/気づけなかった、それらの疑問が、ここにきてようやく氷解した。
この子の尊厳が侵されることなく、その誉れ高い生き方を貫き続けて欲しい、と想う気持ち。
艱難辛苦に塗れようとも、その一生が実り多きもので満たされて欲しい、という願う気持ち。
その生き方を慈しみ、愛おしみ、見守り、将来が幸いであることを祈らずにはいられない。
それは、
――この気持ちは、父であるスーリヤに言いつけられたから生じたものではない。
家族として見守り、不器用に共に過ごす内に、羽毛の様に柔らかく積み重なっていた物だった。
言葉にできない何かが、ゆっくりと時間をかけながら形を為していった結果――虚ろだった俺の胸の内で育まれた
奔流のように胸の内を吹き抜けていった様々な感情に――胸の奥底、
……嗚呼。何て苦しく、何て切ないのだろう。
これは明らかに、一方的に与えるだけの神の愛では到底得られようのない貴いものだ。
――親が子に、子が親に、妻が夫に、夫が妻に、姉が妹に、弟が兄に。
例えば、家族と名付けられた枠組みの中で、互いが互いを思い、慈しみ、支え、尊重しあっていくことで、それぞれの心の中に宿る感情。
"家族ごっこ"なんかじゃない。
"家族"としての、"兄"としての自分のあり方を、やっと俺は理解できた。
「何でも、ない。なんでもない、カルナ。ただちょっと、胸にくるものがあっただけだ」
人の子は、大切だと思う相手へこのような感情を胸に抱きながら、日々を過ごすというのか。
だとすれば、人間という心持つ生き物は、なんて羨ましくてなんと素晴らしいのだろう!
何の理由も衒いもなく、ただ大事に思っている相手を、特別な理由などなしに、愛することができるということは。
「――っ!?」
俺のことを案じるように起き上がったカルナを腕の中に閉じ込めて、突然の慣れない仕草に固まる小さな体を力一杯抱きしめる。
カルナと同じくらいの人間の子供たちが母親に、時に父親に抱かれているのを見たことはあっても、実際にカルナに対して行うのはこれが初めてだった。
手と手、肩と肩だけでは伝わらない量の温もりとなんとも言えない心地よさに、陶酔する。
こんなにも気持ちよく、温かな行為であったならば、もっと早くに試してみればよかったとちょっと思う。
「……とつぜん、どうしたのだ……。やはり、何かあったのか?」
「なぁ、カルナ。人間って凄い生き物だな」
「……答えに、なっていないのだが」
ふへへ、と顔をだらしなく緩めながら、カルナからの問いかけとは全く無縁のことを口にする。
――あの暗闇の主のことを伝える気など、到底なかった。
だって、カルナの将来はカルナのもので、そのための選択肢は、俺なんかじゃなくて、張本人たるカルナ自身に委ねられてしかるべきだ。
大いなる神々の謀りごとなど下手に知ったばかりに、顔も見せない誰かによって、カルナの将来を決定づけられるなんて冗談じゃない。
あの朝焼けの下で、カルナは既に人としての運命を選び取った。
その選択は、いつかはわからずとも、カルナという個体に終焉が訪れることを意味している。
――だとすれば、なおのこと。
カルナがどんな生き方をするにしても、それはカルナにとって悔いのないものであってほしい。
それを傲慢な神々の思惑によって翻弄された挙句に、ただただ嵐の中の小舟のように流されるだけの生き方なんて、不幸でしかない。
もっとも、聡明な子供であるカルナのことだ。
俺が何かを誤魔化そうとしていることはすでに承知しているのだろう。
――だから、常のごとくの明瞭さと簡潔な台詞でもって、俺の薄っぺらな誤魔化しの言葉を叩き斬るのだとばかり思っていた。
「――だが、お前が語りたくないというのであれば、オレもあえて問うまい」
「……へ?」
「時がくれば、つたえてくれるのだろう?」
抱きかかえた腕の中から、澄み切った蒼氷色の眼が、じっと俺を見つめている。
……一年前の俺だったら、きっと気づかなかっただろう。
感情の色の薄いその両の眼の奥底に、確かに信頼という気持ちが沈んでいることに。
無表情に見えるその白皙が、うっすらとだが困ったような微笑みを浮かべながら、俺の言動を容認する優しさを示していることを。
「うん、うん。そうだな、そうするとも」
「そうか……ならばそうするといい」
――ぽふん、と音を立ててカルナの白い頭が胸を打つ。
じわじわと伝わるぬくもりが、先ほどの邂逅のせいで冷え切った体を温めてくれた。
やっぱり俺たちは口下手だ。
無口なカルナは勿論のこと、お客さん相手にはベラベラ回る俺の舌も、何故だかカルナ相手には言いたいことがありすぎてうまく伝えられない。
だから、口では伝えることのできない思いを、さっき気づいたばかりの優しい感情を側にいる相手に届けるように、言葉の代わりに俺たちは身を寄せ合った。
――嗚呼、……暖かい、なぁ。
そういう意味ではスーリヤは不幸だなぁと心底思う。
なまじ相手を焼き尽くしてしまうだけの熱量をもって生まれたが故に、こうやって得られる優しいぬくもりを感じることができないなんて。
「なぜかは分からないが、やけにうれしそうだな」
「……うん。そうだな、俺はとても嬉しいのかもしれない」
語らなくても、伝えられる。そんなことがあるだなんて、思ってもみなかった。
でもまぁ、言わなくちゃわからないことだって、あるにはあるのだ。
なんだか好い気分になった俺は、とある金持ちから“千の宝玉に匹敵する麗しさ”と称された蕩けるような満面の笑みを浮かべ、兼ねてから心の奥底に秘めていた欲求を口にしてみた。
「……なぁ、カルナ」
「どうした? めったに見ない、だらしない顔をして」
しかし、この顔をだらしない顔と称するか。相変わらず、俺の弟は手厳しい。
「好い加減、俺のことを“お兄ちゃん”とか“兄上”って呼んでいいんだぜ?」
ドウリーヨダナ王子を始めとする世の長兄たちがそう呼ばれているのを聞いて以来、俺もいつかはカルナにそう呼んでもらいたいと密かな野望を抱いていたのである。
――ところが。
「……すまない、その誘いについてはえんりょしておく」
つれない末の弟と言えば、この俺の一世一代のお願いに、そう返すのであった。
……それでも、俺にとっては、その時カルナが笑ってくれていただけで十分だった。
普段は無表情な顔に浮かぶ蕾が咲き綻ぶ様な柔らかな微笑みに、俺は改めて覚悟を決める。
――いかに残酷な運命と強敵が待ち受けていたとしても。
――例え……それが、誰を敵に回すことになったとしても。
この子の生涯がこの子にとって悔いのないものとなるように、この命をかけてでも、絶対に守りきってやるのだと。
改めて俺は、自分自身に対して――……そう誓ったのだ。
・ちゃんとした家族になった話。
お互いにコミュ障なので、家族になるまで結構時間がかかりました。こいつらは下手に言葉にしないほうが通じ合ってる設定です。(そのせいで、カルナの一言足りない癖は治らない。ジナコさーん、こっちこっち!)
前にどこかで述べたように、主人公であるアディティナンダが影と個性が薄いのはまあ、色々と理由がありまして(それについては終盤あたりで説明できたらいいなぁ……と伏線を張っておく)加えて、半分人間のカルナとも違い、どちらかというと神よりの価値観と倫理観の持ち主です。(スーリヤへの反発からまともな神に比べたら人間よりではありますが)
また、弟であるカルナと違い、万人平等な価値観と黄金の精神が備わっているわけでもない。
それがカルナを通じて、人々との交流を経て、ここにきてようやくマトモな感情を手に入れたという設定があったりなかったり。そのため、これから徐々に個性が生まれていく予定です。
・カルナさんの話し方について・1
幼少期を書くにあたって、神の子だけあって聡く習得も早いので、きっと小さい頃から同じような喋り方だったんだろうと思って、敢えて公式を語り口を真似してみました。
また、子供らしさを強調するためと、カルナが恐らくヴァイシャ階級でも下位(あるいはシェードラ階級の出身の可能性も高いのでは?)であったために、満足に学問を修めることの適う環境にいたとは考えにくいため、敢えてセリフにはひらがなを多用しております。(紛らわしくてすみませんでした)
なんというか、公式そのままの口調に漢字を多用したらあまりにも子供らしくなくって、違和感が半端じゃなかったので、このような形に。(とはいえ、聡明さ故に習わずとも小学生低学年レベルの漢字であれば使える感じにしました)
ーー多分、この後アディティナンダに教わって、猛勉強すると思う。
あー、やっと終わった!
これで登場人物紹介も兼ねた第1章はおしまいです。
次の章から(内面的に)成長したアディティナンダと(外見的に)成長したカルナの話、本来の目的であった『マハーバーラタ』を辿る物語を始めることができます。
今のところ、第2章では、クル族の武芸大会から始まって、ドゥルパダ征伐、婿選からサイコロ賭博まで書くことを予定しております。