(*誤字報告、ご感想の数々、本当に励みになります。皆様のコメントもまた創作活動を続ける上での原動力となっております*)
「――――改良、あるいは改善の余地があるんじゃね?」
「え?」
きょとんとする青年に、それだよ! と弾んだ声が出る。
ドゥリーヨダナへ植えつけられた人々の偏見に基づく非難の声、身分の壁を超えて大抜擢されたカルナへの妬みや嫌悪、やっかみといった負の感情。
それらを一掃することへは繋がらないけど、でも、将来的には、だいぶマシな状態にまで持ち込むことはできるんじゃないか?
「だって、人の心は変化する。人の価値観は変動する。
人の願いや祈りの形が千差万別ならば、救済の方法だって一元化できるはずがない! なんで、こんな簡単なことに気づかなかったんだろう!!」
座り込んでいた姿勢を崩して、そのまま欄干の上に立ち上がる。
胸につっかえていた重石から解放された爽快感に、自然と俺の動きも軽やかなものになる。 湧き上がってくる高揚感に合わせて、足を動かせば、傍目には欄干の上で踊っているようにも見えることだろう。
世の絶対者として君臨する神々による御業は、この際脇に置いておくとして。
人の世に蔓延る不平等や法や道義に基づく悪意であれば、そもそもの仕組み自体を改善すればいいんじゃないか?
「法や正義は生きている人間たちを守り、そして救うためにあるんだろ?
それなのに、現行の法が矛盾を生み出しているのだというのなら――その気づいた歪みを、
「か、神々の定めた法が不完全だというのですか! それは、あまりにも暴論に過ぎます!?」
目を白黒させる青年に、本当にそうか? と微笑みかける。
欄干の上に立っているので、自分よりも遥かに高身長の青年を見下ろせるため、非常に気分がいい。
「いいや、ちっとも暴論なんかじゃない! 何故って、俺たちは変わらないけど、君たちはそうじゃないからだ!
だったら、君たちのための法だって、人間の社会やそこから生じる不都合に合わせて、より矛盾の少ないものへと変わる方がいいに決まっている!」
「そ、それは……」
「考えてもご覧よ! 法が法として機能していたら、君の奥さんだって夫の横暴に抵抗できたし、俺が手出しするまでもなく、彼女の尊厳だって守られたんじゃないか?
だって、あの奥さんのことを、誰も正攻法で助けられなかったのは、あの賭け事自体が、妻を夫の所有物として扱うことを許している現行の法に準拠して行われた、法律上では正当な行為だったからだろう?」
――くるくると欄干の上で回る。
嗚呼、いい気分だ、いい心地だ。長年、積もり重なってきた難題にようやく答えられた数学者の様な、絶妙かつ爽快な心境だとも!
「カルナのことだってそうだ! 能力のある者を育ちに限らず、その実力次第で取り立てることを合法化してしまえばいいんだ!
社会維持の機能としてカーストは非常に有効だけど、だからと言って、生まれ落ちた身分を理由に他者の誇りや能力を貶す理由に掲げるべきではない!」
――そして、それはカルナだけに限った話ではない。
表立って語られることはなくても、ドゥリーヨダナの周囲には従来の環境では十分に力を発揮することができなかった人材が一定数集まった。
これはつまり、うちの弟以外にもカーストによる身分制度の壁にぶつかって、鬱屈した思いを抱えていた人間がいることの証明となる。
この十年の間に、ドゥリーヨダナが内外に集めた、彼の協力者たちの姿を脳裏に思い起こして、ウンウンと頷く。
「嗚呼、嗚呼!! つまり、そういうことか!
混乱している青年の目の前にストンと腰を下ろす。
不安定な足場から俺が落ちない様にと差し出された片手を握りしめて、この興奮を分かち合ってくれる様にと、この熱が伝わる様にと祈り、心からの親愛を込めて破顔する。
「この十年、ドゥリーヨダナが何をしようとしているのか分からなかったけど、少しだけその糸口が掴めた! 世界は変われるし、変えられる!
今の秩序を維持しようとする君の言葉も正しいけど、ドゥリーヨダナがこれからやろうとしていることだって、きっと間違っていない!! 全ては解釈次第、見方次第なんだよ!」
「解釈、次第……ですか?」
「そうとも!」
ドゥリーヨダナが父王の摂政という名目で続けていた、この十年の軌跡とそれによる変化を脳裏に思い起こす。
カルナに嫌味を言う人が減ってきたこと――身分制度よりも当人の実力を評価する人間が増えたということ。
父親を亡くした子供たちが飢えることなく暮らせること――それは同時に、寡婦たちが困窮することなく暮らしていけるということ。
都の中で、失業難に苦しむ人々の数が減ってきたこと――それは、国家経営が順調であり、需要と供給が釣り合っているということ。
一見したところ、些細に思えるドゥリーヨダナの施策が全て、今後の彼のなそうとしてる事業への布石として当てはまっていく。
「完成された存在であるがゆえに、神々は不変である。これは誰もが知る自明の理だ。――だけど、それってつまり、
でも、君は違う、君たちは違う! 君の中には人の血が流れている! ――その出生故に世界に縛られているところがあるにせよ、
ましてや、純正の人間であるドゥリーヨダナなんて、その最たるものじゃないか!!」
興奮のあまり、頰が紅潮し、握りしめる掌に力がこもる。
嗚呼、なんで今の今まで気がつかなかったんだろう! 一度気がついてしまえば、こんなにも単純なことだったなんて!
「過去の失敗を次に活かすこと!! より良き未来を求めて奮起すること! それこそ、変化を体現する人間の特権だよ!
移り変わりゆく人の世において、今ある法も秩序も、社会制度とて完璧ではない! 道徳だって、きっとまだ完全ではない! ――だからこそ!」
呆然としている青年へとこれ以上ない親しみを込めて微笑みかける。
嗚呼、これだから面白い! これだから人間は素晴らしい!
カルナだけではない、ドゥリーヨダナやこの王子様との交流には、俺が思い当たらなかった新しい可能性を見出す驚きに満ちている!
「――だからこそ、君たちは、君は迷ったり悩んだり、考えたりすることをやめるべきではないんだ!!
だって、それこそが当たり前だと思い込まされていた現実の難題を打破する、重大な手がかり、大きな一歩として、未来へと繋がっていくのだから!」
星空を瞳に宿したあの男は、浮世に思い悩む人類を哀れみ、その苦悩から解放することを己の使命として語っていた――だが、俺はそうは思わないし、そうは思えなくなってしまった。
人が悩むことは人にしかない特権だ。
なぜなら――野の獣が思い悩むだろうか? 野の花が思い煩うだろうか? 否、彼らは自らの正当性を見つめなおしたり、社会機構について不平や不満を抱くことはないだろう。
――……それ故に。
そうして、思い悩んだ結果、何かを選択することもないだろうし、より自分たちの現状をましなものにしようと行動することもないだろう。
そうした行動は、人が人であるからこそ発生するものだ。そして、その行動の帰結こそが、未来という形で人の世を後世にまで繋げていくものなのだ。
「それは……それでは、貴女は……」
――――青年がポツリ、と口を開く。
どことなく震え、どことなく覚束ないその口調。
そこに、今の彼が抱いているすべての感情が込められているのだと理解し、口を閉ざして、そっとその先を促す。
「それでは貴女は、人の失敗を、間違いを、正しくない行いを認めると言うのですか?
その行いが未来へと続くものであるからこそ、人が人であるが故の未熟さを、貴女の好ましいものであると尊ぶのですか?」
――まるで、泣いているみたいだった。
青年の秀麗な容姿を構成する顔の筋肉は確かに笑顔を形作っている筈なのに、艶々とした漆黒の瞳は水滴を帯びた黒曜石のように潤い、見るものの胸を打つような悲痛さを帯びていた。
「貴女のその祝福は、その言祝ぎは、私には到底受け入れがたい。パーンダヴァの誉れたる “アルジュナ” は、人々の模範となるべくとして産み落とされた、最優の戦士です。
その言動に迷いがあっては、その思考に躊躇いがあったままでは、人々の望むような理想の英雄を体現することなど到底かなわない。
ましてや、私は神々の王たるインドラの息子――そんなアルジュナが、只人のように思い悩むことは、我が父の御威光を損ないかねません」
そう言って柔和に微笑む青年が、そっと俺の両手の檻の中から自分の手を抜き出そうとする――のを、がしり、と勢いよく握りしめた。
「どうしてそんな勿体無いこと言うの!」
「は!? も、勿体無い!?」
「そうだよ、君の言っていることって、すっごくすっごく勿体無い! ――だって、そうじゃないか!」
あわわ、と擬音がつけられそうなほど狼狽する青年に勢いよく詰め寄って、思っていることすべてをまくしたてる勢いで口を回す。
「君にはその形のいい頭があって、自分の意見を告げることのできる口があって、思い悩むことを許された心がある!!
そうでありながら、物事に対して悩んだり、迷ったりすることが許されないと、よりにもよってこの俺の前で愚痴るとは、なんて許しがたい! 傲慢だ!!」
「そ、そんなことを仰りますが、横暴です! 第一、貴女に心がないなんて、到底思えませんよ……!」
――心、と青年が困ったように口にするので、唇を曲げる。
この青年はちっとも分かっていない。
君が当然のように押し殺したその目に見えない心とやらを俺が構築し、獲得に至るまでに、いったいどれほどの月日を必要としたのだと思っていやがるんだ――畜生、これだから人間は羨ましい。
「……本来、スーリヤの人形でしかないこの俺が、心なんて人間的なもの、
「――それ、は……」
「……今のこの俺だって、本物じゃない。君が触れているこの肉の器だって、仮初の代物だ。
この意識だって、意識の奥底で眠っている本性が一度目覚めれば塵でも捨てるように投じられてしまうような、そんな脆弱なものでしかない――それなのに、君はそんな贅沢なことを言うのか」
申し訳ありません……と青年の喉から絞り出されるような、そんな謝罪。
それにそっと首を振ると、大きく溜息をついて、握りしめたままの青年の手に力を込めた。
「――とはいえ、さっきの俺の意見だって、正しい答えなのかどうかなんて、わからないよ。
ドゥリーヨダナがこれからやろうとしていることの手がかりなのかもしれないけど、そうではないかもしれない。
――結局のところ、俺の推測でしかないし、
「タパティー、貴女という方は……」
困ったような青年に気にしていないよ、と微笑みかけて、ずっと握りしめていた手を離して、そっと青年から距離をとった。。
あーあ、それにしても、このことも随分と奇妙奇天烈極まりない間柄だ。
カルナのような弟でも、ドゥリーヨダナのような共犯者めいた関係すら構築していない、十数年前にちょっとだけ旅しただけの、蜘蛛の糸のように細い関係性だったっていうのに。
「だからこそ……この先、君だけじゃなくて、人間がどう生きるのかは、当事者である君たち自身が定めるものであるべきなんだ。それは、君だってそうだよ。
――君が従来の法や伝統に基づいて、その正しさを体現するために行動するのであれば、それはそれでいい。それだって、決して間違いなんかじゃない。
――人々の規範となって生きるのも、それが君が心から望むものであるというなら、それでいい。君のその振る舞いによって人々の心は救われるだろうから」
だけど、と一息ついて続ける。
「だけど、それとこれは別だ。だからこそ、君は悩んだり、迷ったり、自分の頭と心で考えたりすることを止めるべきではない、と俺は思うよ」
誰もが羨まざるを得ないだけの地位や名声、富や栄光に満たされながらも、どうしてだか、ちっとも楽しそうではない王子様。
本当に、人の世とは儘ならないものだ――と、空を仰いで、深呼吸する。
「悩みなさい、惑いなさい、踠き続けなさい。――そして何より、考え続けなさい。
頭を空っぽにして、ただ周りの声にだけ応じて、機械のように、人形のように、他者に望まれるがままに振る舞うことだけはしてはいけないよ? ――だって、
がんじがらめに縛られて、がんじがらめに囚われて、まるで水槽の中の魚みたいだ。
いや、魚というよりも、誤って鳥籠の中に閉じ込められてしまった猛禽類、といったところかもしれない。
――あるいは、愛情という名目の水を与えられ続けたせいで、根腐れしかけている若木かな?
「俺は、肉体の死よりも、心の死の方がずっともっと恐ろしいと思う。かつて、心のない自動人形だったからこそ、なおさらそう思う。
――まあ、気分は楽だよ? 何も自分の頭で考える必要がないっているのは」
ただただ使命を与えられ、機械のように、見も知れぬ末の息子を探し求めて地上を放浪していた、灰色の日々を思い出す。
あれは、俺が人間ではなかったから特に苦痛を感じることではなかったのだと思うが、今となっては同じことをしろと命じられたら耐え難い苦痛であると思わずにはいられない。
「だけど、あんな状態には、心を持っている人間がなるべきではない。
何故なら、心を殺してしまうと、ちょっとずつ君を構成する大事なものが削れて、砕かれていって……終いには他者の求めに応じながら、惰性で生きているだけの肉人形に成り果ててしまいかねないから。――それだけは、だめだ」
この子に比べると、自分で何かを決めるだけの心の強さと決意を有しているカルナの方が、ひどく軽やかに日々を過ごしているように思えてくるから不思議だ。
社会制度や階級の壁、人々の偏見に苛まれているのはカルナの方だというのに、どうしてかな?
「だって、君はせっかく人の子として生きているのだから、その特権を存分に使い果たすべきだ。
悩んであがいて、踠き苦しんでも、それでも前に進もうとする。否、そうすることによって未来へと進むことができる。
――それこそ、この地上において、人間だけが持つ可能性だと俺は信じる。それなのに、君ときたら、自分からその権利を手放そうとしているんだ。それを勿体ないと言わずして、なんという」
伝わりますように、と祈るように、願うように、考えつく限りの優しい言葉を綴る。
ただ他者に支持されるがままに、自分の心や嫌だという思う気持ちを押し殺しながら生きるのは、そこに彼の心が伴わない限り、苦痛にしかなり得ないと思うから。
「人々に望まれるままに、偉業を達成することだけが目的の自動人形となった君の姿は、確かに人々に受け入れられる理想の英雄足り得るのかもしれない。
――だけど、それは他の人が思い描く “アルジュナ王子” であって、今、俺の前にいて、会話してくれている
それまで人形のように柔和な微笑みを刻んでいた青年の秀麗な容貌がクシャりと歪む。
は、とこらえきれないとばかりに引きつった吐息が空気に混ざり、湧き上がってくる激情を抑え込むかのように、白い手袋で覆われた手のひらが彼の口元を覆い隠す。
「だからこそ、君は思い悩むことを間違っていると思って、恐れたりする必要はないよ。
――だって、それこそが、君は
「――……っ、あ、ああ……!」
――ふるり、と握り締めていた手が大きく震え、感極まった嗚咽のような声が青年の喉からこぼれ落ちた。
<平行線同士の主張>
クリシュナ「人間の迷いや悩みは苦痛及び苦悩の元。であれば、彼らは一刻も早くその苦しみから救われるべき」
アディティナンダ「人間の迷いや悩みは、人を人たらしめる重要な要素。彼らがその苦しみに苛まれるからこそ、より良き人の世の未来は創りだされていく――であれば、それは祝福だ」