もしも、カルナさんが家族に恵まれていたら   作:半月

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「月下問答・上」を改稿しました。前半はほぼ同じですが、後半はだいぶ変わっています。


“悪”の定義

「――貴女とあの男が、太陽神の系譜を受け継いでいることは私にもわかりました。

 ――ですが、解せないことがあります」

 

 渡り廊下の柱に備え付けられた篝火が煌々と燃え盛り、庭園の木々が夜風に吹かれ惑う。

 そんな中で、艶を帯びた青年の低い声はよく響いた。

 

「貴女は、万物の庇護者であり、審判神でもあらせられる太陽神の眷属なのでしょう?

 それなのに、どうして貴女もあの男も、ドゥリーヨダナの味方するのです? 私には、それが理解できません」

 

 理解に苦しむ、と言わんばかりの青年の言葉に、俺の顔も自然と引き締まった。

 それまでのように、どこか気安い態度のまま受け答えしていいような問題ではない、と察したがゆえだ。

 

「幼い頃は、私にもどうしてドゥリーヨダナが災厄の子供として扱われているのか、よく分かりませんでした。

 ――ですが、今の私にならばドゥリーヨダナの行なっていること、その振る舞いが正しいことではない、と確証をもって答えることができます」

 

 涼やかな目元に険が寄り、青年の秀麗な容貌が険しくなる。

 まー、そりゃあそうだろうなぁ……。こっちはドゥリーヨダナの思惑が軽い嫌がらせでしかなかったと知っていたけど、巻き込まれた側の彼からしてみれば、今夜の出来事は溜まったもんじゃなかっただろう。

 

「今宵の賭け事での一件は勿論のこと、普段の行状――敬うべき神々を敬わず、畏怖すべきバラモンを軽視し、年長者たちの徳ある言葉に従わないことですら、法によって不道徳であると定められている行いではありませんか」

 

 ――それに、と苦渋の滲んだ表情を浮かべながら、青年はなおも言葉を紡ぐ。

 固く握り締められた掌、きつく噛み締められた唇、遠くを睨みつけているようなその眼差し。

 

「――バラモンは神々を讃え、クシャトリヤは己の武によって人々を統治し、ヴァイシャは生産業に従事する。シュードラは己以上の階級の者たちに従うことこそ美徳とされています。

 これこそが、天地の始まりより神々によって定められてきた世の秩序ともいえる世界の仕組みです――それゆえに」

 

 混乱しているのだろうか、それともただ単に惑っているだけなのだろうか?

 分からないが、それでも青年が自分の胸のうちに溜まっていた鬱屈とした感情を、この場において吐き出そうとしているのだ、ということだけは直感できた。

 

「それ故に、それぞれの階級に生まれた者たちには身分に従った責務があります。私もまた幼い頃から戦士として、王族として為すべき勤めを果たせと教えられてきました――兄弟間の約定を破った咎で十年近い追放を甘んじて受けたのも、その約定以上に、私の戦士として王族としての生き方を遵守したがゆえのことです――そして、そうすることこそ正しい道だと思ったがためです」

 

 そういえば、この王子様は彼に助けを求めるバラモンの訴えを叶えるために、兄弟五人で一人の妻を共有するという取り決めに反することになったのだっけ。

 後に、彼がどうしてそのように振る舞ったのかを知ったユディシュティラ王が弟の行状を許しても、約定に反したのは自分であるからと固辞して、粛々と取り決め通りに放浪の旅に出たんだよなぁ……。

 

「――ですが、ドゥリーヨダナは違います。彼は……あの男を重用していることからも明らかなように、神々によって定められた法や教え、階級制度を軽視している。

 そうした彼の言動は世の安寧を乱しかねないというのに……――どうして、世の安寧を護るべき貴女は、ドゥリーヨダナの行いを是としているのですか?」

 

 ――理解に苦しみます、と青年が軋んだ声を上げる。

 青年の言葉は、その疑問は、至極当然のものであった。

 ドゥリーヨダナはいい奴ではあるが、決して清廉潔白で理性的な人間ではない――世の道理に照らし合わせた場合、名君というよりも暴君と言われる要素の方が随分と多い。

 

「貴女もあの男も、ドゥリーヨダナの放埒な振る舞いを嗜めようとはしていない。

 あの男の場合は競技会の時の恩義がある故だと推測できます。――けれども、貴女は?」

 

 ――青年の漆黒の瞳に疑問が渦巻く。

 神々によって定められた摂理に従って生きてきた彼だからこそ、それに反している俺に対して抱く感情――これは、疑念とあと……怒り、か?

 

「あの場では言葉を濁しておりましたが、貴女は正真正銘の神霊でしょう? そうだというのに――何故、あのドゥリーヨダナに与する弟を嗜めることも、ドゥリーヨダナを誅殺することもなく、ただその側にいるのです?」

 

 この世界の規律を作った側の一柱である癖に、その規律を遵守しようという素振りを見せないドゥリーヨダナに対して何の反応を起こさない――そりゃあ、この真面目そうな青年が疑問に思うのも最もである。

 

「うぅん、そのことについてなのだが……深い意図も意味もない、本当に単純な話だよ。

 君にとっても何の益もないかもしれない、それでも聞くかい?」

「――……聞きましょう。問いかけたのは私ですし、他ならぬ貴女の言葉ですから」

 

 自分よりも遥かに目線が上にある青年の顔を見上げ続けるのも疲れてきたので、渡り廊下の欄干へと腰掛ける。

 そうすると、欄干の高さと座高が合わさって、ちょっとだけ背が高くなったような錯覚を覚える。その上、黒々とした漆黒の瞳が俺の視線と噛み合って、実にいい塩梅である。

 

「――ドゥリーヨダナが良識ある方々の目から見れば眉根を顰めかねない問題児であることなんて、十年前の段階で理解しているよ? ――実際、君と出会った直前の俺なんて、一度あいつの手下に殺されかけた時だったし」

 

 けろっとした顔でそう告げると、青年の顔がやや青ざめる。

 何というか、やや演技派の気配のあるドゥリーヨダナやそもそも無表情が常のカルナとは違い、よくわかりやすい子だなぁ、と思う。

 

 ――というよりも、この子の方が変に擦れておらず、彼らよりも純粋で良識的なだけか。

 

「――確かにドゥリーヨダナは神々を敬うことへ忌避感を抱いているし、バラモンたちの話を鬱陶しがって真面目に耳を傾けたり、長老たちと同じ空間にいることすら嫌がっているような問題児なんだが……。

 まあ、それはあいつの生まれ育った境遇を考えれば、その程度の歪みで済んでいること自体が奇跡のようなもんだと俺は思っている」

 

 けれども、そうしたドゥリーヨダナの振る舞い自体が、今の世において、常に天を相手に喧嘩売っているような無礼極まりない態度であることなんて、百も承知の上である。

 神々の意に背かぬよう、己を律して生きることが求められている以上、まず間違いなく、それを良しとしないドゥリーヨダナとそれを諌めないカルナや俺は “悪” なのだ。

 

「……なぁ、第三王子。君は、気づいていたか?」

「――何について、でしょうか?」

「ドゥリーヨダナの悪意が、決して社会的な意味での弱者に向けられていないということを」

 

 ドゥリーヨダナは基本的に、世間から非難されるような悪辣極まりない策を実行することに躊躇いがない。そのため、政敵であるパーンダヴァ派や王宮の長老方、バラモンたちからの評判は非常に悪い。

 

 今晩の賭博の宴なんて、ドゥリーヨダナの悪辣さを物語る、その最たる例だろう。

 実際、ドゥリーヨダナは己の受けた屈辱を晴らすために、従兄弟であるユディシュティラ王の賭博癖を利用して、パーンダヴァの財産全てを巻き上げてしまったのだから。

 

 ――だが、彼の憎しみ、あるいは悪意とでも称すべき負の感情。

 それらが、決して己よりも弱い立場の者たちへと向けられたことがない、ということに、この王子様は気づいていたのだろうか。

 

「この十年近く、ドゥリーヨダナの側にいて確信したんだけど……あいつの憎しみは、あいつの生を呪われたものへと貶めたもの――例えば、天上の神々、半神の王子、カースト最上位のバラモンへと向けられてはいるけど、ただそれだけなんだ」

「――!?」

 

 ――は、と青年が漆黒の双眸を大きく見開く。

 この純粋で生真面目な性質の青年にも思い当たる節もあったのだろう。

 実際、ドゥリーヨダナも十年前の不吉の屋敷の一件までは、直接的な恨みを抱いている第二王子以外のパーンダヴァの兄弟たちに手を出すことはなかったそうだ。

 

 まあ、その第二王子自体が尊ぶべき風神の血を引く神の子供である、という点において、ドゥリーヨダナの振る舞いは神をも恐れぬ蛮行、として位置づけられてしまうのだが。

 それにしても、パーンドゥの子供達がただ“神の子”であるという一点だけでここまで優遇されているというのに、何故うちの弟は“御者の養い子”であるという理由だけで、ああも貶められなければならないのだろうか。

 

「だからと言って、ドゥリーヨダナが君たち兄弟にしでかしたことを擁護できるわけでもないんだが……」

 

 小さく唸りながら、頭を掻く。

 十年前の不吉の屋敷での騒動も、あそこまで綿密に計画を練っておきながらも、この程度でパーンダヴァの連中は死ぬことはないのだろう、とほぼ確信していたらしいし……。

 ぶっちゃけ、あれだってドゥリーヨダナが父王から立太子してもらうために、政敵を王都より一時的に追放することの方が主な目的だったそうだしなぁ。

 

「……例えば、そうだな。自分の私欲を満たすために重税を課したり、人妻に横恋慕した挙句にその夫を殺したり、血を見たいからという理由で罪のない民を拷問にかけたり、あるいは抵抗できない弱いものを甚振ったり……。

 そういうことをドゥリーヨダナはしないし、これからもしないだろうと、俺は思ってるし、ほぼ確信すらしている」

 

 まあ、もししたとしたら、それこそ、あのカルナも黙ってはいないだろう。

 今宵のドラウパティー王妃への狼藉に対して、基本的に裏方に徹している俺が茶々を入れたのだって、突き詰めてしまえばそういう理由があったためだ。

 

 ――それはさておき、基本的に弱者へは無害なドゥリーヨダナに欠点があるとすれば。

 それは、本人が神々を憎んでおり、そうした感情を瀆神めいた態度で表している――その点に尽きるのだと思う。

 

「俺たちが十数年近くもあいつの側に居られるのは、思わず目を背けかねないような悪行を、あいつが口ではなんだかんだ言いつつも、実行しないから……っていうのがあるのかもしれない。

 そのせいでもあって、君には悪いけど、俺はあいつを君が思うように単純に悪だと断定できないんだ」

 

 腰掛けていた欄干の上で器用に両足を折り曲げて、丁度いい塩梅に両膝を抱え込む。

 胎の中の胎児の様な姿勢になった俺に、青年がやや慌てた顔をしたが、真下に落ちたりしないとわかって、安心した様に肩を落とした。

 

「俺にとって、悪、とは――そうだな……自分以外の相手、社会的・肉体的に力のない者を圧倒的な権威や暴力を頼りに、精神的・肉体的に傷つけ、その尊厳を穢し、犯し、損なうこと――かな。

 だから、少なくとも、俺にとってドゥリーヨダナは “悪” じゃない。だって、あいつはそんなことをしないから。――寧ろ、カルナのこともあって、色々と感謝している」

 

 ――廊下の欄干の上から庭を見下ろし、視線を持ち上げ、夜空に輝く一等星を見上げる。

 月の輝きに打ち負かされることなく光を放っている導きの星が、己の所在を示すかのように瞬いている。

 

「――要は、解釈の違いというやつなのだろうなぁ……。正直な話――俺はな、ドゥリーヨダナの生い立ちから、あいつが神々を敬うそぶりを示さなくても致し方ない、と思ってる」

 

 というか、当人に罪のない赤子の状態からあのような環境に置かれたのであれば、その元凶である神々なんて憎まれてしかるべきだろう、とすら思う。

 でも、生粋の神々や現人神として扱われているバラモンたちはそうは思わないんだろうなぁ……むしろ、呪われた子であるからこそ、自分たちを崇めよ! とか考えてそうだし――ううん、その一柱として否定できないのがきつい。

 

「ドゥリーヨダナがどうしてそこまで天に属する者を憎んでいるのか、その理由も知っているし、それに納得している。――だからこそ、俺は彼の憎悪は正当な物だと思う」

 

 脳裏に、星々が煌めく夜空のような眼差しを持つ、一人の男の姿が過ぎる。

 多分、あの弁の立つ男であれば、この悩める青年の言葉なんて、たちどころに霧散させてしまうのだろうし、ドゥリーヨダナの憎悪に関して理路整然と正論をふっかけて叩き潰してくるに違いないが。

 

「わかるけどわからない、という顔をしているね」

「…………はい」

 

 ――素直に頷いた青年に、苦笑する。

 実に腹立たしいが、あの神もどきや彼の父神がこの青年をあそこまで寵愛する理由がなんとなく理解できる。良くも悪くも、この青年は純粋なのだろう――全くもって、純粋な行為の代行者(アルジュナ)、とはよく名づけられたものだ。

 

「――私にとって、神々は畏れ、崇め、敬うもの。

 そして、神々によって定められた法や制度、秩序は守られて然るべきもの――それを損ない、揺るがすような振る舞いをするドゥリーヨダナの主張は、到底受け入れられるものではありません。ドゥリーヨダナを擁護する貴女とカルナの言葉もそうです」

 

 自分に言い聞かせるように言葉を紡ぐ青年に、胸中で苦笑する。

 本当に、いい子だ。自分の言葉の方が、世間の道理やこれまでの教育に基づいて正しいということをわかっているのに、俺の言葉を真剣に吟味し、ドゥリーヨダナの心境を思いやって、心を揺らしている。

 

「個人の信条よりも、優先されるべきものがあると――私は教わってきました。その言葉を胸に、これまでの私は、半神の子供として、クルの王子として、為すべきことを為し、果たすべきことを果たし続けてまいりました。

 それが私です、それが――“アルジュナ”なのです」

「――ふうん?」

 

 人々の哀願や依頼、嘆き・助けに応じて、救いの手を差し伸べる慈悲深き王子。

 神々の難題にその全霊で立ち向かい、無数の悪鬼羅刹を討ち果たす知勇兼備の勇者。

 それが、人々の愛するパーンダヴァの第三王子――()()()()()であると言っていい。

 

 ――神に愛され、師に愛され、民に、国に、妻に、兄弟に、家族に愛される。

 本人の性格も、非常に篤信深く、王に忠実で、誠実かつ謙虚で、非の打ち所がない。

 

 簡潔に言い表すのであれば、あらゆる美徳を備えた、世に比類なき無双の英雄である、といったところか。

 

 昔、ドゥリーヨダナが「設定盛りすぎだろ」と毒づいていたが、こうやって羅列してみると完璧すぎるのが却って嫌味……というあの捻くれ者の意見には同意せざるを得ない。

 

「まあ、大義には全てが優先されるべき……という君の意見は理解できるよ? 曲がりなりにも、この俺も神霊の一柱。君の信じる法や道徳を与えた側の存在ですからね。でもなぁ……」

 

 うーん、なんと言えばいいのだろう。

 法や道徳は確かに人の世に必要なものだ。これがなかったら、そしてそれを当然護るべきだとする人の世の風潮がなかったら、人の欲望が解放されてしまった世界はあっという間に世紀末まっしぐらだ。

 

「――でも、俺は随分と長い間、人の間で過ごしてきて思い当たったことがある。時には、正しすぎることもまた、人の心を傷つけ、その尊厳を犯しかねない毒薬になるってことを。

 ――そしてなにより、頭では理解できても、心が理解できないことも世の中にはあるんだってことも理解できるようになった」

 

 心、と繰り返す青年に小さく頷く。

 

 それにしても、ひどい皮肉だなぁ……。単なる太陽神(スーリヤ)の操り人形に過ぎなかったこの俺が心を語るだなんて、あまりにも滑稽だ。

 とは言え、世の安寧のために存在しているはずの法や階級制度によって人々の心が蹂躙され、目には見えないところで軋んだ歪みの音色を奏でているのも確か。

 

 そのせいで、赤子の時分から貶され続けてきたドゥリーヨダナ、その実力を正しく認められないカルナ、捨て子を拾い上げて育て上げた御者夫婦の慈悲深さとて、神々の意向や身分制度、という壁の前では正当に評価されることはない。

 

 それに、今晩の賭博大会でのドラウパティー王妃の一件もそうだ。

 本来ならば、法の庇護にあるはずだった女性である彼女が、何故大勢の酔漢たちの前で晒し者にされたのか。

 その原因の一端はドゥリーヨダナの悪意が関係しているけど、でも、それ以上に――

 

「そもそも、カルナの一件もそうだけど――嗚呼、そうか」

 

 ストン、とその発想は自分の胸の中に収まった。

 




<考察という名の感想>

ドゥリーヨダナは非常に複雑な性格をしていて、原典随一の悪役ではあるのですが、カルナさんの一件での弁護といい、パーンダヴァ一家以外への対応といい、根っこの方はこいつ善人なんじゃないか……と思わずにはいられないキャラクターです。正直、この人が嫌味な性格と執念深さを発揮するのって、パーンダヴァ一家(特にビーマ)相手の時だけなんですよね。

王宮の長老がたがドゥリーヨダナを擁護する父王相手に「こんな不吉な王子は生まれた時に殺すべきだって、言ったろ!(意訳)」と非難した時も基本はスルーなのですが、パーンダヴァが相手の時だけはどうも歯止めがきかないらしく、原典随一の悪役と言われるだけのことをやってしまう人です。

とはいえ、悪役っていうくらいだから、なんか国民相手にひどいことでもやってんのかね? と思って原典を読み進めても、特にそういう表記もなく、彼に非難されるべき点は出生のことを除けばそれこそカースト制度を軽んじているところくらいなんです。(後は言わずもがな、パーンダヴァへの嫌がらせ、ちなみに殺意100%)

パーンダヴァからしてみれば、自分たちのことを殺そうとしてくる時点で「悪」なのは間違いなんですけどね。

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