「――血、の類は流れていないようですね……良かった」
そう言って柔和に微笑む青年――というよりも、若い男と称するべきか。
音楽的な抑揚と男性的な色香を孕んでいる、やや掠れた低音。
しっとりとした色合いの切れ長の瞳に、名人が一筆引いたような柳眉。
す、と通った鼻筋に、鞣した革のように滑らかな褐色の肌。
顔の部位の全てが収められるべきところに収められた、端正としか称しようのない秀麗な容貌。
印象的な黒々とした漆黒の瞳には、まるで鏡のようにポカンとした表情の俺の顔が映り込んでいる。
――こんなにも至近距離で顔を合わせておきながらこんなことを思うのもなんだが、どっかで見覚えのある美男子だな、と言うのが俺の抱いた感想だった。
……そう、
でも、どこでだったっけ? 何より、俺の周囲にこんなカルナにも匹敵する容姿の知り合いなんかいたっけ……?
うん?
そういえば、昔も誰かに対して同じような感想を抱いたような、そんな気が……あれれ?
――がし、と勢いよく青年、否、男性の顔を掴んで、自分の方へと引き寄せる。
「――んなっ!?」
なにやら焦ったような声を出したようだが、構うもんか。
どうせ、この姿も偽りの容姿にすぎないし、ロティカなんていう女はどこにも存在しないのだ、無礼を働いたと咎められても逃げてしまえば問題ない!
あたふたと慌てている男性の顔面をじっくりと観察し、同時に脳裏に記録されている人物一覧表の中から該当する人物を探し当てる。
そうして、数秒間見つめあった後、ようやく該当する人物の名前が脳裏に浮かび上がった。
「……お前、もしかして……第三王子、か?」
記憶の奥底に潜り込んでいた、カルナとの因縁浅からぬ青年の姿が、目の前の若い男性のものとぴったりと一致する。
でも、どうしてこんなに気がつくのに時間がかかったのだろうと考え込む。
その瞬間――そうか、と唐突に閃いた。
成長の止まっている俺や止まってしまったカルナとは違い、この子は、まだ自分の身を時の流れの中に置いていたのか……という答えがゆっくりと俺の奥底から浮き上がってきた。
「――ええ。お久しぶりです、と言っておきましょう。貴女の方もお元気そうで、何よりです……タパティー」
「そういや、君もパーンダヴァの子だった、な。……だったら、あの場にいても当然か……。それにしても、全然気付かなかった――君、歳をとったんだね」
――ゆっくりと掴んでいた手を離して、嘆息する。
昔、少しばかり一緒に旅していた頃とは比べようにならないほど背が伸び、肩幅は広くなり、すらりとした肉付きの、完成された戦士の体つきになっている。
声もあの時と違って、完全な声変わりを迎えたのか、より成熟した大人の色香を漂わせている。
面影こそあるが、少しばかり幼さを残した王子と言ったあの時よりも、より戦士らしい精悍さが前面に押し出されている彼の姿は正直見慣れない。
「――貴女は全くと言っていいほど、私に気づきませんでしたね」
「まあ、それどころじゃなかったし。――あと、俺の記憶の中の君と今の君がさっきまで合致しなかった」
やや恨みがましい声音に対して、抱いた感想を正直に告げれば、ポカンとした顔になる。
そうすると、途端に幼い印象を受け、かつての青年の姿がより鮮明に思い起こされた。
「……貴女は全くお変わりないようだ。
私も他の者たちに比べると随分とゆっくり成長したのですが、貴女はさらに変化がない」
神の血を引くがゆえの、老化の遅さでしょうか……と憂いを帯びた表情を浮かべた彼に、そうだろうと思って小さく頷く。
――それにしても、こいつ前よりも背が高くなりやがって……恨めしいことこの上ない。
その長く伸びた脚に膝カックンを仕掛けられたら、さぞかし気分がよかろうなぁ……と思っていたら、頭上で小さく吹き出された音がした。
「大体、十年ぶりになりますね。それにしても、不思議な気分です……こうして、姿形の変わらぬ貴女と話していると、私もまた、あの頃の旅をしていた時の感覚を思い出します」
懐かしそうに目を細める青年――もう青年と呼ばれるような年頃でもないだろうが、敢えて青年と呼ぶことにする――に、相槌を打つ。
お坊っちゃん育ちの王子様には、確かにあの旅の記憶は鮮烈だっただろうなぁ……。
後にも先にも踊り子と奏楽者として王子様を鼻でこき使ったり、値切り交渉を一任したり、崖から飛び降りるように指示した無礼者なんて、そうそういないだろうし。
「――俺もまぁ、変な感じだ。正直、もう二度と君に会うこともなかろうと思っていたし」
「…………」
――す、と青年の漆黒の瞳が俺を睥睨する。
あんまり言われて喜ぶ言葉ではなかったようで、これは言葉選びに失敗した――と反省した。
はぁー、俺もカルナのこと言えないなぁ……、人間の心って難しいわ……。
「あー、えー、それにしても、今回は災難だったな」
「……ええ。まさか、実の兄の手で借金のカタとして売り飛ばされるような経験をするとは思いもよりませんでした。――これで、兄上が金輪際、博打に手を出さないようになっていただければ何よりなのですが……」
ふ、と哀愁を帯びた眼差しで遠くを見つめる王子様に、こいつもこいつなりに苦労してそうだなぁ……と同情する。地位や身分、環境には恵まれているけど、カルナとは別の意味で人間関係に苦労していそうな、そんな感じがするのだが……いや、まさかぁ……?
そーいや、こいつはあの王妃とは違って、あの会場にいながら、長兄の横暴には抵抗しなかったんだよな?
まあ、国王で、しかも長兄の言葉には絶対に従うことこそ美徳である以上、理解できなくもない考えなのだが、又聞きした限りのユディシュティラ王の行状は乱心そのものであったというのに、それを止めなかったってどうしてだったんだろう……?
「なぁ、お前は……」
ふと見上げた先に、光のない漆黒の瞳が揺れることなく俺の姿を凝視していた。
――黒々とした瞳には様々な感情が渦巻いている。
その形容しがたい気迫に気押されてしまったがために、俺の言葉は口の中に消えて言った。
「――貴女は」
そう、青年の唇がことさらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「――
「…………いつ、気づいた?」
ぐるぐると渦を描く瞳に吸い込まれてしまいそうで、なんだか怖い。
というか、目がそんな感じなのに、顔だけは完璧な微笑みを浮かべている時点で、その違和感に背筋がゾッとするのが否めない。
複雑かつ多様的な人間の心のあり方は俺が心惹かれるものの一つだけど、こういう俺の理解できない多種多様な感情が入り混じっているのは判別がしにくいせいで、苦手なままだ。
「――思い起こせば、手がかりとなる物事は、あの旅の合間にもありました。
私のことさえ名前で呼ばなかった貴女が唯一名前を呼んだ相手、婿選の会場で飛んできた腕輪、それを躊躇いもなく手にしたあの男の挙動――……ああ、ですが。
そのことに確信を抱けたのが、あの旅が終わって十年も経った今夜で、本当に良かったと思います」
――ひ、ひぇえええ……!
なんかわかんないけど、怒っているのか? 怒っているのか、この子!?
やだ、基本的に誰かに怒られたことないから、こういう時にどういう対処をすればいいのかわかんなくて困る……!
「あー、その、怒っているようだし……君も、もう俺のような輩とは話したくないよね! それじゃあ、二度と会うことはないけど、達者でな!! ――うぐぅっ!!」
「――貴女、人が話を続けたいというのに、本当に無礼ですね!!」
一歩下がって、そのまま踵を返して、勢いよく走り出そうとした瞬間に――その襟首を剛力で掴まれて、首が締まった。
正直に言おう――物凄く苦しいっす。
「――ああもう、色々と言ってやりたいことがあったというのに……! 本当に他人の都合のことを考えないお方だ! ええ、そういうところは全くもって変わっていませんね、貴女は!」
頰を軽く紅潮させ、キリキリと眉と目を釣り上げている青年を、傍から見れば間抜け極まりない表情で見上げる。
「……どうしたのですか? そんな珍妙な顔をして」
「素直に変な顔と言ったらどうだ? ――いや、そんな感じの話し方をしてもらうと、確かに俺と一緒に旅した君だなぁ、と思っただけ」
ふへへ、と声に出せば、襟首を締め上げていた力が緩む。
背後で大きくため息をついた音、そして、ストンとわずかに浮き上がっていた体が地面へと落とされる。
「その……、敢えて “タパティー” と呼ばせて戴きますが――その」
「――ん? どうした、青年」
もう青年と呼ばれるような年頃でもないのだろうから、そのように呼びかけたら珍妙な顔をされた。
端から見ればさぞかし可笑しな組み合わせだろう――年端のいかない小娘が、大人と呼ばれる部類の外見の男性相手にそのような呼びかけをしているだなんて。
「ドラウパティーを、そして、次いでかもしれませんが……私たちを助けてくださって、ありがとうございます――貴女のお陰で救われました」
「……言ったろ。俺は俺の弟のために行動しただけであって、それ以上でもそれ以下でもない。別に君にお礼を言われるようなことなど、何一つやってない」
――くす、と青年が目元を緩ませて、苦笑する。
あまりにも和やかなその仕草に首を傾げれば、微笑ましいと言わんばかりの表情を浮かべた青年が何かを懐かしむように目を細める。
「――いえ、あの時とは立場が逆になりましたね、と思ったのです。
あの時は貴女の方が私に礼を述べられたけれど、今度は私が貴女に礼を告げている――あの時の私が気絶した貴女を燃え盛る屋敷から連れ出したのは戦士としての責務故のことでした。
それなのに、貴女は私に対して懇切丁寧に感謝の言葉を返してくれた……あの時のことを、不思議と思い出してしまっただけですよ」
「…………そういうことも、あったな……」
――不思議な感じだ。
もうあれから十年も経過したのか……という思いが脳裏をよぎり、しみじみとした感慨と呼ばれる感情が胸の奥底へと深沈していく。
「なんというか、変な感じだ」
「何がです?」
「――俺たちは何も変わっていないように思えるのに、君は随分と変わったなぁ、と思って」
少しだけ、青年が泣きそうな顔をした。
しかしながら、それも一瞬だけのこと――刷毛で色が塗り替えられるように、その顔に温和な微笑みが浮かぶ。
「それはそうでしょう――もう十年ですよ? 私は結婚し、妻たちとの間に子もいるのです。貴女と旅をしていた頃の私とは違っていて当然です」
「そーいや、そうだったな。――嗚呼、結婚おめでとう! それと子供も生まれていたのなら、ますますおめでとう!」
子宝こそ、他のどんな金銀財宝にも勝る、未来からの贈り物である。
心の底からの祝福を込めて寿げば、青年は温和な微笑みを浮かべて、うっすらと目を細めた。
漆黒の瞳に沈み込んでいるその感情の名前はなんというのだろう――懐古に、郷愁か?
「――ところで、こんなところで油を売っていていいのか? 他の兄弟たちは?」
「ちゃんと、家族には断って出てきましたよ。何より、ユディシュティラ兄上も正気を取り戻しましたから、もう問題などないでしょうし……あのまま大恩ある貴女を相手に、礼の一つも述べないままでいるのはどうかと思い、すぐさま後を追いかけてきたんです」
それなのに、貴女はちっとも私に気づいて下さらないから……と恨みがましく呟かれ、居心地の悪さにできるだけさりげなく視線を逸らした。
ここ十年の間で気づいたことなんだけど、カルナやドゥリーヨダナのことを深く考え込んでいると声をかけられても気づかないという悪癖が俺にはあるらしい。
そうやって内省していたら、目の前の青年の纏っている気配が変化する。
「……少し、お尋ねしたいことがあります」
――ぽつり、と雨粒が滴るような、そんな声が青年の口から紡がれた。