(*誤字報告、ありがとうございました*)
ドローナの武術教室は、息子であるアシュヴァッターマンが俺に教えてくれた通りに、身分を問わず、力を求める者に対して開かれた。
スーリヤに倣って戦車を乗りこなすのはともかく、俺は直接戦う術を持たない神霊だ。
当然のことながら、武人としてのあらゆる技法・武器に精通などしていない。
そのため、ドローナの武術教室の存在は正直助かった。
非戦闘員である俺が指導したままでは、そう遠くない内に限界がくることは火を見るよりも明らかだったからである。
教室に通いだしたカルナは、海綿の様に師匠であるドローナの教えを習得し、門下生でも一、二を争う才能の持ち主ではないかと噂されるようになった。
無論、階級による差別や憚りがあって大きな声で話せない内容なので、密やかに、だが。
ただ、カルナがそう褒められるのを聞けるのは何故だかひどく胸が弾む。
それに加えて、戦士として技量を研ぎ澄ましていく過程で、カルナが無表情のうちにも喜色を露わにしているのを見守るのも、不思議と俺の胸にも喜びの感情が湧き上がる要因となった。
自分のことながら、よくわからない内面の動きには首をかしげるばかりである。
悪い気分ではないが、カルナと暮らすようになってからの俺は、前の自分とはちょっとずつ変わってきている。
……これは一体何を意味しているのだろう?
まぁ、それはさておき。
人の世界で生きるカルナと暮らすに当たって、俺が真っ先に思いついたのが人間の"家族ごっこ"だった。
――ことの始まりは至って単純。
俺は、突然の異邦人に驚くカルナの養父母に対して「兄」と名乗ることで彼らの信頼を獲得し、名実ともにカルナの近くにいてもおかしくない立ち位置を確保する必要があったからだ。
そのために最適な関係が「人間の家族」であり、"家族ごっこ"を行うことは、人ではない俺が人間社会に溶け込むための手っ取り早い方法だったのである。
「カルナ、カルナ。今日は一体何をドローナから教えてもらったんだ?」
「弓矢のたんれんだ。……いかにふあんていな足場で的をいぬくか、というものだった」
そして、鍛錬終わりのこの会話もまた、その遊戯の一環である。
要するに、カルナの側でその成長を見守ると決めた時、俺はそれまでの物理的な距離を一気に縮める方針へと切り替えたのである。まぁ……そこに至るまでに色々と頭を抱えるような出来事が色々あったのだが、今ではすっかり俺も共同体の一員として受け入れられているので、その辺は割愛しておこう。
こうして、武術教室に通うようになってから、口数の少ないカルナもやや饒舌になってきたのは、素直に喜ばしい。ドローナの武術教室に通い出した最初の頃の、それこそお互いに何を報告すればいいのかわからなかった頃と比較しても、明らかな進歩である。
「弓矢かぁ……。他に、何か別の武器とかは教えてもらったか?」
「いや、特にない」
「…………そ、そっか」
……とはいえ、普通の家族と比較すれば、依然としてぎこちないものであるのは仕方がない。
なにせ、俺たちの根源は、実母でさえ耐え切れず育児を放棄した灼熱の神格を宿した太陽神だ。
必然、その神性持ちの俺は人の
そんな訳で、今はお互い、どう相手と接するべきかについて探っている期間なのだ。
――繰り返すが、これでも、昔よりは遥かにマシになったのだ。
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毎朝、カルナを王宮での武術教室まで送り、夕方の稽古帰りのカルナを出迎えて、その日の出来事をお互いに報告しあう。
カルナはドローナから習った武の技や鍛錬の方法について語り、俺は街中ですれ違った人々の様子や招かれた宴会での出来事を面白可笑しく伝える。
こういうことを繰り返していったお陰なのだろうか。
俺たちの間にあった奇妙な緊張感は徐々に薄れていって、今では相手の温もりを求めてくっついても居心地の悪さを感じることは少なくなってきた。
それに、身体的な接触を繰り返すのは家族としては自然だと、時たま王宮で見かけるカウラヴァの百王子達が証明してくれたし。
――やっぱり、より家族らしいことをするには人の子達の観察に限るね。
今日も今日とて、王宮を見渡せる小高い丘に茂る大樹の下に腰掛け、肩を寄せ合って座る。
この日はドローナが王宮の殿下たちにつきっきりで指導する予定ということで、いつもより少しばかり早い時間に武術指導が切り上げられたのだった。
俺たちの場合、お互いが口下手なのは自覚しているせいか、無理に会話を続けようとするよりも、じっと黙って同じ時間を過ごすことの方が苦痛ではなかった。
そのため、特にすることもない俺たちは、何ともなしに眼下の景色を見ていた。
もし、高台から王族を観察しているのを兵士の誰かに気付かれたら、不敬と言われて斬首されかねないが、曲がりなりにも俺たちは神の子である。
これまで一度として兵士たちに気取られたことはないし、きっとこれからもそうだろう。
――そんなことを考えながら、とりとめもなく観察を続ける。
そうこうしているうちに、俺は教師としてのドローナの立ち振る舞いに対して抱いていた懸念が、看過できるものではないと結論付けずにはいられなかった。
――というのも、第三王子・アルジュナに対してのドローナの接し方は、やはり尋常ではなかったからだ。
なんせ、明らかに贔屓というか、関心の注がれ方が違う。
遠目に見える黒い肌に、純白の衣をまとっている、すらりとした体躯の少年。
先ほどからつきっきりでドローナが指導している少年が、アルジュナ王子であるのは、観察の結果からして、もはや見間違えようがない。
例えるのであれば、アルジュナ王子への関心のドローナの度合いが50という具合なら、他の王子達に対する指導熱の分量が20で、実子のアシュヴァッターマンへのものは30だ。
才能の差、と言って仕舞えばそれだけだが、修行の難易度もそれを克服した時の褒め具合も、明らかに一人だけ特別扱いなのが見て取れた。
どちらかといえば鈍感な俺でもよくないと思う――これは紛れもなく依怙贔屓だ。
他の王子達もそれがわかっているのか、ドローナよりも、同じ武術指導官であるクリパやバララーマの方へ指示を仰ぐことが多い。
「優れた弟子に対する、師匠の過剰な期待と言ってしまえばその通りなのだけども……。いささか常軌を逸しているというか、なんというか」
鍛錬の疲れでか、こくりこくりと舟を漕ぎ出したカルナの形のいい頭を抱え込んで、そっと膝の上に乗せてやる。印象的な両眼が閉じられてさえいれば、カルナにだって、年齢に似つかわしい稚さがあるものだ――うん、可愛い。
――そんなことを頭の隅で考えながら、立てた方の足に肘を乗せて頬杖をつく。
「噂では、アルジュナ王子よりも優れた弓術を誇る外弟子に対して、その親指を差し出せと迫った様だし。この調子じゃ、安心してカルナを通い続けさせることは難しくなるかもなぁ……」
本音を言えばこのドローナの噂が真実でないことを望むが、そうもいくまい。
カルナほどではないが、俺もまた、審判神たる性質を持つスーリヤ所以で、物事の真偽を見通す程度の能力は有している。その直感が例の噂話を聞き入れて以来、それが事実であるのだと太鼓判を押したのだ……その時点で、最早疑いようがない。
俺の膝の上でくうくう寝息を立てている太陽の子供は、無類の勇者へと成長するだろう。
「けどなぁ、そうするとドローナが怖いんだよなぁ……」
今は愛弟子であるアルジュナ王子と溺愛する息子・アシュヴァッターマンにばかりに目がいっているせいで、カルナの天性の才能を見誤っている様だが、もしもあの狭量な師匠が気づいてしまったらどうなるんだろう。
……深く考えるまでもなく、その結果は明らかだ。
肉親の目から見ても、カルナの奉仕精神は限度を遥かに凌駕している。
そんなカルナが、師匠であるドローナに何かを差し出せと言われた場合、断るということを思いつくだろうか――
カルナの金色を帯びた毛先を、指先で軽くいじりながら熟考を続ける。
なんだかんだで指通りの良い髪質だ。
俺のは癖が入っているせいで雨の日とか爆発するんだが、カルナの髪はいつもすべすべである。
全くもって、羨ましい限りの髪質である。
……そういや、カルナの見目や気配ばかりを気にして、恐れる者たちは、こういう些細なことを知ろうともしないのかぁ。
思考がおかしな方向へと飛んだので、軌道修正する。
――ともかく、カルナのことだ。
もしも、件の外弟子の様にドローナに親指を求められたとしたら、二つ返事で了承するだろう。
バラモンの頼みを断らないと定めた、日課の沐浴の時間であればなおさらだ。
……というか、その光景がありありと脳裏に浮かぶ。
最悪、親指だけで済めばいい。でも、もしカルナが身につけている黄金の鎧を求められてしまったらどうしよう。
そんなわけなので、神造兵器の一種であるこの鎧がカルナに与える恩寵が失われてしまった事態を想像するだけで、お腹が痛くなる。
……なんで、うちのカルナはこんなにも難儀な性格に育ったんだろう……いや、いい子なんだけどね、はい。確かに自慢の弟であるのは間違いないんだけど……嗚呼、なぜか頭も痛くなってきた。
「本当にどうしよう。――カルナに実力を隠すように言いつけるか? けど、こいつ正直だし……無理だろうなぁ」
そんな器用な性格の持ち主だったら、俺の心労はここまで積み重ねられていない。
思えば俺も、大分人間らしい情緒の持ち主になったもんだ。
――だが、そもそもスーリヤめ。
いくらなんでも最初の情報が少なすぎるんだよ。しかも、俺を地上に突き堕として以降、ちっとも接触してこないし。
せめてカルナがどういう素質を持つ子供なのか、最初に教えてくれれば良いものを。
万物に平等であるべき、という日輪の性質上、我が子とはいえ贔屓がし辛いのは仕方のないことかもしれないけどさ。
――前もって教えてくれたなら、こっちだって色々と先んじて手を打っておけたものを。
「最も、ドローナにしてみれば、
俺の直感が九分九厘の確率で真実だと判断している、ドローナに関する巷間の噂話を思い出す。
何でも、一念発起したドローナは幼馴染の国王の元へと――俺が彼ら一家と旅の道中で出会ったのはこの時だ――最初は仕官に行ったらしい。
だが、当の国王にけんもほろろに断られ、子供の頃の友情は無きものとして扱われた。
ドローナは地位と権力に酔った国王の言葉に激怒し、ハースティナプラでクルの王族たちに召し抱えられた際、過去の侮辱に対する報復に協力してくれるように求め、それを第三王子が快諾した事で武術指南の地位に就いたのだとか。
だとすれば、かつて己の頼みを断った国王への報復を快諾してくれたというアルジュナ王子への思い入れも半端ではないだろう。
――それにしても、神々を父親に持つ半神の数が同じ時代に多すぎるよ。
クル王国の先王・パーンダヴァの五人の遺児が、インドラを始めとする有名どころの神々の子供であることは周知の事実だが、……それにしても英雄の卵となり得る神童たちがこうも揃っているということ自体、尋常ではないな。
日没が近づいてきているせいか、だんだんと木漏れ日の合間から差し込む日差しが弱くなる。
カルナが体を小さく丸めるのを見て、普段は日よけに使っている外套を体の上にかけてやった。
「――? 待て……、何かがおかしくないか」
徒然に思い浮かんだ内容に引っかかりを覚える。
そうだ、この時点で何かがおかしい。
――というか、不自然に舞台が整い過ぎている感覚が半端じゃない。
太陽神・スーリヤは天界での勢力争いに敗れたとはいえ、神々の王である雷神・インドラに並ぶ神威の持ち主だ。
太陽神と雷神の子供たちが、同じ時代の同じ国に、ほぼ同年代で揃って生を受けた。
――
おまけに、神々が人間の間に子供を儲ける場合、大概が差し引きならぬ事情や思惑が絡んでいることが殆どであることも、嫌な予感に拍車をかける。
過剰なまでのスーリヤからの情報規制にも何かの思惑が絡んでいるのかもしれない。
――眼下で、ドローナが着飾った王族の子供達相手に指導している姿を、なんとはなしに見つめながら思い浮かんだ内容に、背筋が凍った。
…………仮に、そう遠くない将来に、クル王国相手に他国が攻めてきたとしよう。
カルナがこのままドローナの元で武人として大成した場合、カルナはこの国の武人として、その性分を尽くそうとするのは間違いない。だが、この国には正当な王子として認められた神の子供達がすでに五人もいる。
五王子の父であるインドラやヴァーユは、単体でも強力無比な力を持つ荒ぶる神だ。
その性質と力を受け継いだ子供たちとて同様だろう。実際、かつて垣間見たビーマなんて碌な師がいないせいで自分の強大な力を持て余しているようにも見えた。そんな連中に太陽神の子たるカルナが加われば、相手方の敗北は必須である。
だが、そんな一方的すぎる戦いを神々が、ひいては天の理が許すだろうか?
……神の子たる英雄には、同じだけの力量を持つ敵の存在が必要だ。
例えるのであれば、『ラーマーヤナ』における羅刹王・ラーヴァナのように強大な敵が。
そもそも、この王国ほど神々の奇跡とも言える半神の存在が噂される場所が、他にあったか?
――五人の神の王子に匹敵する奇跡、あるいは悪逆の体現者。
可能性の一つとしては凶兆の子供と噂されているドゥリーヨダナ王子だが、彼は特殊な生まれをしていても人間である。どんなに優れた素質の持ち主であっても、流石に五対一では及ぶまい。
――かといって外部に目を向けたところで、これまで楽師として集めてきた巷間の情報には、五王子たちの敵に成り得る強大な力を持つ存在が該当しない。
「まさかとは思うが、カルナがこの国に生まれたのは……」
むき出しの腕に脂汗が伝う。五王子が神々の寵児であることは万民に広く知られている。
そんな愛息子達を、父神たちが負ける戦争に駆り立てたりするだろうか? なにせ、偏愛は神々の生来の性質だ。当然、絶大な加護と恩恵を与え、どんな手段を用いたとしても彼らを勝たせることに奮起するだろう――だとすれば、カルナは。
――そこまで思考が至った、その瞬間。
唐突に視界が真っ暗になったかと思うと、馥郁たる睡蓮の香りが鼻腔をくすぐった。
「だめだよ、そこまでにしておかないと」
「――――っ!?」
小鳥の囀りを思わせる軽やかな音が耳に届く。
それが、柔らかな響きであるにもかかわらず、どこか酷薄さを感じさせる声音であることを理解して――背筋が凍った。
<登場人物紹介>
・ドローナ
…カルナ・アルジュナを始めに、『マハーバーラタ』に登場する主要な英雄・王子たちの武術の師匠。パラシュラーマ隠居の際に、教えを請い、彼の卓越した武術を習得する。
ちなみに、アルジュナよりも優れた弓矢の使い手であった外弟子に対して、二度と弓を持てないように親指を求めた話は原典にも記載されている。師匠の依怙贔屓は良くない。
とある王への屈辱を晴らすのに協力するとアルジュナが即決したこともあって、アルジュナは彼の愛弟子となる。
弟子であるアルジュナへの傾倒ぶりは、溺愛されている実子が父の愛情の喪失を怯えるレベルだったという。