時間軸的には婿選式のあと、ドゥリーヨダナたちの王都期間前です。
あー、難産だった!
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――青年から差し出された手のひらを一瞥し、人外は密やかに印象的な真紅の双眼を伏せる。
青年の口にした物事はことごとくが道理にかなっていた。
人外は紛れもなく天に属する一柱であり、未だ黎明にあるこの世界を管理し、恙無く運営することこそが、神霊の役目であると理解していた。
――けれど、はたしてそうなのだろうか?
……確かに、神々比べれば、人は弱くて、脆くて、儚い。
その肉体がいくら頑健であるとはいえ、魔獣の一裂きには耐えられないし、その精神がいかに頑強であったとしても、魔性の囁き一つで崩壊することを人外は識っていた。
――だけれども、本当にそれだけなのだろうか?
思考する、志向する、試行して、私考し続ける。
そうして、ほんのひと時の間に百にも千にも及ぶ無数の演算を行う。
――その結果、思い浮かんだ疑問を、舌の上で転がした。
「――本当に、そうなのでしょうか? アナタの主張には同意しかねる部分があります」
凛然たる声音が、夜の闇に響く。
けれども、先ほどまでの霊山の雪のような冷たさが、ほんの少しだけではあるが、薄れていたことに青年は気づいたのだろうか。
「……何だって?」
星の瞬きを閉じ込めたような夜色の瞳が呆然とする。
当然だと思い込んでいた己の言葉へと、最も賛同すべき至高の存在に疑念の言葉を掛けられた、あるいは否定されたのだという事実を青年の脳が理解することを拒む。
「ええ、確かにアナタの言葉にはワタシも肯定します。人間は脆弱で、儚い。――
……そっと、人外がその言葉を紡ぎ出す。
先ほどまでの囁き一つで人間の意志を刈り取るような超然とした力の代わりに、冬の終わりを告げる春の日差しを思わせる優しさがその声には篭っている。
「――けれども、ワタシは、
そっと、人外がその両腕を広げ、降り注ぐ月の光を甘受する。
身の内側から放たれている、他者を焼き尽くしかねない光は和らぎ、天と地に等しく降り注がれる日輪の暖かな日差しを思わせる輝きへと、ゆっくりと変貌していく。
「――そして何より、この地上で最も未知の可能性が秘められているということを。それを識って、どうして、彼らがただ弱いだけの存在であると思えるのでしょう?」
――ゆったりとした抑揚の、祝福の意に溢れた言の葉。
太陽神の眷属によって寿がれた言霊が世界へとゆっくりと浸透し、万物の庇護者の言祝ぎを喜ぶように、木々が、花々が、獣が、鳥たちが歓喜の感情に身を震わせる。
「不変であることを定められているワタシたちとは違う。彼らは常に流動的で可変的な存在であるからこそ、先へと進むこと、変化していくことが許されている――そのような存在を、どうして儚くか弱いだけの存在だと決めつけられるのでしょう?」
……ほぅ、と咲き始めの蕾が綻ぶような、そんな優しく柔らかな微笑み。
――さながらそれは慈母のようであり、慈父のようでもあった。
どのようなひねくれ者でも、思わず膝をついてすがりつきたくなるような慈愛に満ち、どのようなろくでなしでも、その微笑みを目にすれば己の所業を悔い改めてしまいかねない、そんな切ないまでの優しさを宿していた。
「――天の代弁者。アナタの言葉通り、人は確かに導きを必要とするでしょう。ワタシたちが守ってやらねば、すぐに死に絶えてしまうでしょう。――ですが、いつまでもそのままでいるとは思えません」
人の世に存在する、たった一人の孤独な人外はそれでも傲然と胸を張る。
美しい面を上げ、月と星の輝きを燦々と浴び、この世の全てを抱きしめるようにそっとその両手を広げ、滔々と――この世界とそこに住まう人々を祝福する。
「鳥であれ、獣であれ、子はいずれ育つものです。確かに、ワタシたちが母鳥のように雛である人類を守り慈しむこと、正しい方向を指し示すこと自体は間違いではありません――けれど」
呆然とした表情を浮かべている青年へと諭すように、人外は言葉を奏でる。
姿だけは人に似せた人型の炎はそれまで煌々と燃え盛っていた真紅の瞳で空を睨む。
霊山を思わせる凜とした響きには、天にまで届きそうな、強い決意と意思が込められていた。
「雛鳥がいつの日か空を飛べるようになるよう、飛び方を伝授し、飢えることがないように餌の取り方を教授する――ワタシたちがすべきことは、それだけで充分なのではないのでしょうか。……何故なら、彼らはワタシたちが思っている以上に強く美しく、可能性に溢れている」
ゆっくりとだが、人外が身の内より放つ光が弱まっていく。
そっと長い髪の毛から、足先から、手先から溢れ出ていた朱金の鱗粉が薄れていく。
人の手の届かぬ大自然を連想させる人外の美しさが、緩やかに一つの方向へと収まっていく。
「――それ故に、人間が永遠に神々の管理と助けを必要とするような、そんな脆弱な生き物であるとは――ワタシには思えず……――
ニヤリ、と数秒前までは人外だったはずの、人間もどきが嗤う。
――そう、
先ほどまでの人知を超えた超越者の片鱗など虚空の彼方へと吹き飛ばしてしまったような、そんな俗悪極まりない笑顔で、わなわなと震えている青年へと微笑みかけた。
「――よう。ようやく会えたな、色男?」
玻璃の鈴を打ち鳴らすような、耳に心地よい乙女の声音。
それまでの聖なる美しさが消えた、ある種の悪意さえ宿しているが、不思議と似合っている。
「数年がかりで面倒臭い術なんぞ仕掛けやがって。とはいえ、弟には指一本触れられなかったようだし、癪に触るが俺にとってもいい勉強にはなったからこれ以上は追求しないでおいてやるよ」
光と熱の集合体から、人の皮を被った人間もどきへ。
風に揺れる赤金の輝きを帯びた豪奢な金の髪。豊かな金色に映える印象的な紺碧の瞳。
思わず吸い付きたくなる健康的な蜂蜜色の四肢に、指先が沈み込みそうな胸元の二つの果実。
職人が丹精込めて仕上げた人形のように、体の全ての部位が完璧に配置された黄金比の美貌。
――それは、美しい女だった。
否、女というよりも熟す前の果実、大輪の花を咲かせる一歩手前の蕾を連想させる少女。
その故、いずれは傾国の女に成長するであろう、麗しの乙女と例えた方が正しいだろう。
――ただし、口を開かず、その顔に浮かべている意地の悪い表情を消せば、の話だが。
「俺とお前の一押しの王子様を会わせて、カルナから鞍替えさせようと企んでいたようだが、残念だったな!! ――
硝子で作られた鈴のように甘やかな声であるというのに、怨嗟で満ちた罵声を耳にしてしまったかのように、不愉快極まりないと言わんばかりに青年が顔を顰める。
先程までの人外に対して向けていた興奮した様子は既に消え失せ、彼に取っては非常に不本意でしかないこの遭遇を、心の底から呪うように、これ見よがしに大きな溜息をつく。
「
――あの! と強調するように青年は一際声を荒げる。
本当に納得いかないというか、理解に苦しむ、と言わんばかりの苦悶の表情を浮かべながら。
「あの、礼儀知らずで無口で無愛想な上に、口を開けば九分九厘の確率で話し相手を激怒させるような、あのカルナなんかを、よーく溺愛できるよねぇ!? 家族としてとは言え、あれが可愛いとか、目ぇ腐っているんじゃない!?」
「――はあ!? 確かに俺の弟は貴様が言うような欠点もあるが、それだけじゃないぞ! 自分のことでは怒らないのに、家族を悪く言われて怒るところとか! 道端で困っている人を見つけたら力になろうと声をかけるところとか、一見冷酷そうに見えてその内実は誰よりも優しくて頼りになるところとか! 身分とか地位とかに拘らずに、人間を内面で見てあげるところとか! ほら見ろ、短所を補って余りあるほどの長所に溢れているじゃないか!」
――第一、と少女が嘲笑する。
もう、百年の恋も一時に冷め、美少女がそんな顔をしないで、と外野の方が泣きながら懇願しそうな、そんな悪い顔であった――ただし、ひどく魅力的な印象を与える笑顔でもあったのだが。
「貴様のオススメの王子とやらだが、あいつ絶対に慇懃無礼だと他人に思われる性格だぞ? 謙虚に見せかけているだけで、ちょっと旅しただけの俺にも分かるくらいには面倒な性格みたいだし、ぜっ〜〜ったいに高嶺の花でいる方が他者の夢を壊さずに済ませられるような、根っこの方はそーんな底意地の悪い性格に違いない! まあ、お前のような性悪と友人関係を続けられている点だけは評価してやってもいいけど?」
「あのね、うちのアルジュナに対する根拠のない誹謗中傷の類はやめてくれない!?
「汚すとは失敬な! そっちこそ、うちのカルナに対する嫌がらせ辞めてくれない!? 確かに欠点の目立つ子だけど、貴様みたいな腹黒鬼畜策謀家と三拍子揃ったロクデナシに貶されなきゃいけないような難儀な性格じゃないし!」
「よっっっ……く、言うよ! 神霊の癖にドゥリーヨダナなんかと連んでいる時点でまず正気を疑うんですけど!」
少し前までの緊迫感と人外の醸し出す超然とした雰囲気は、一体どこへ行ってしまったのかと頭を抱えたくなるような醜態であった。
幸いなのは、彼らの会話の中に登場している二人の人物がこの場に同席していなかったと言う一点だけであろう。もしもこの場に彼らがいたら、さぞかし顔を赤面させて顔を覆ったか、死んだ魚の眼をしていたかのどちらかであったはずだろう。
「――はん! ドゥリーヨダナ、か! そもそも、あいつが
――少女の嘯きに対して、青年の顔が険しくなる。
先程のじゃれ合いの中では見られなかった、青年の醸し出す非人間性が大きく強調される。
「――――
「……わりかし本気だね。そもそも、あいつがああなった方が貴様らにとっては都合が良かったんじゃないか?」
眼を眇め、酷薄な面持ちになった青年。
眼を細め、慇懃な顔つきになった少女。
――互いに互いの主張するところを理解している故に、言葉遊びのような会話が続けられる。
「――大地の女神か?」
「そうだよ。
「やれやれ。文明を発達させすぎても駄目、数を増やしすぎても駄目……でなければ釣り合いが取れない以上は、まあ仕方がないとは言えるが……そのためのパーンダヴァ、か?」
「そして、そのための
……ふうん、と少女がしかめっ面を浮かべる。
人間離れした雰囲気を醸し出す青年とは真逆に、彼女のその仕草の一々は非常に人間臭かった。
――ある意味では、それは一種異様な光景ですらあった。
人として生まれ落ちたはずの青年が非人間性を醸し出し、人外として降臨したはずの少女が感情的に言葉を紡ぐ。
「……なるほどね。道理でインドラの子が三番目なのか。聖典と法が定めるところへと人々を導く理性の王、神々が人間へと贈った理想の聖王・ユディシュティラか――そして、そのためのドゥリーヨダナ、か」
「……
「――そのワタシからの伝言だ。なんでアナタを喜ばせなきゃいけないんですか、だとよ。ざまあないなぁ、色男」
憎々しげに快活に微笑む少女を睨みつける青年の怨嗟の篭った声もなんのその。
そよ風のように聞き流してしまった少女へと青年は恨めしげに視線を送ったが、望む相手が出てこないことを悟ると、大きく溜息を吐いた。
「――そこまでわかっておいて、何故あのドゥリーヨダナに味方する? 確かに、彼には
非常に癪だが、と言った様子でこそあったが、青年はここにはいない忌子を褒める。
それに反して、その言葉を耳にした少女は我がことのように誇らしげに胸を張って見せた。
「――とはいえ、それでも生まれながらに王となるべくしてあったユディシュティラには適うまい。――その点においては、外野の
「……まあ、そりゃあそうだろうな。俺としてもあそこまで完璧な王が用意されておきながら、どうしてドゥリーヨダナが王になりたがっているのか、と言う点は非常に気になる――けどなぁ、
その前に、お前に問いかけるとしよう、と人間の皮を被った人外が厳かな口調で問いかける。
晴れ渡った紺碧の瞳に、一瞬だけ真紅の輝きを宿し、纏う空気が人のそれと微かに異なった。
「
挑発的な口調に、青年の目が大きく見開かれ、そして――忿怒の色に染め上げられた。
「
「――逆に聞くが、それのどこがいけないんだ? 星が求めているのは過剰人口の対処だけであって、その後の世をどちらが治めることになるのかまでは言及されてはいないだろうが」
少女が依然として川の流れの上に浮いた状態でなければ、激昂のあまり青年は彼女へと掴みかかっていたことだろう。
それを理解していながら、その心情を察していながら、それでもなお、少女はただ淡々とした口調を改めることはない。
「
「……お綺麗な建前は言いっこなしだぜ、天の代弁者。貴様らがユディシュティラを王にしたいのは、
信じられない、と言わんばかりの青年へと、少女はひときわ魅力的に微笑んでみせる。
初心な者であれば性差を問わずに、そのまま恋の泥沼に落としてしまいそうな魔力を有した、人の目を惹きつけてやまない俗っぽい微笑みであった。
「ドゥリーヨダナを王にするつもりかい?」
「――まさか。俺は何もしないよ。俺は何かをするつもりもない。――ただ、見ている」
「見ているだけかい? それだけの力を持っていながら?」
「――少なくとも、求められない限りはな。なんせ過度な干渉は子供を潰しかねんからな」
……にこり、と青年が微笑む。
……にやり、と少女が微笑む。
表面的にはこの上なく友好的な雰囲気であるというのに、どうしてだかその背後で牙を剥く龍と爪を研ぐ虎がにらみ合っていそうな、そんな剣呑さがあった。
「
「――まだ確定したわけじゃない」
「
「――ほざけ、神もどきが」
「そっくりそのまま返すよ、人間もどき」
……にこり、と青年が微笑する。
……にこり、と少女が微笑する。
互いに微笑みあっているというのに、どうしようもない断絶があった。
交わした言葉の数こそ少ないものの、お互いに悟らずにはいられなかった。
――
「こうなると、もう話すだけ時間の無駄だね。嗚呼、ヤダヤダ。今の器の見た目だけなら兎も角、
「それはこっちの台詞だよ、色ボケ野郎。お互いの中身の腐り具合なら、団栗の背比べもいいところだろうが」
いっそ唐突なほどのあっけらかんとした態度で、青年が踵を返す。
青年の足元に曼荼羅模様が浮かび上がり、徐々にその存在感が希薄となっていく。
これ以上の対話に価値を見出せなくなったために元の場所へと戻るのだろう、と少女は推測した。
「本当に残念だ。
「……天界の神々をあれだけ自陣に引き込んでおいて、何をほざく。強欲は身を滅ぼすぞ?」
「悪食にも限度というものがあるんじゃないかな、太陽神の眷属たちはさ。大体、ドゥリーヨダナなんかのどこに
「お生憎様。言われた通りのことを完璧にこなす優等生よりも、俺は自分の脳みそで考えて自分自身の力で進もうとしている人間の方が素晴らしいものに見えるんでね。何より――そっちの方が、
――別れ際に青年が少女を一瞥する。
星空のような瞳が眼光鋭く少女の華奢を斬り付けるも、少女は動揺一つ見せず、泰然としていた。
曼荼羅が光を放ち、青年の姿が良い闇の彼方へと消え失せる。
青年の長身が全て光の粒子となって消失したのを見届けて、少女は大きく息を吐いた。
こてり、と華奢な体が糸が切れた人形のように脱力する。
辛うじてその体は大河の流れの上に浮いているものの、それもどこか覚束ない。
「――あ〜、疲れた。それにしても、いつかの俺自身を見ているようだったわ……。ちょっと反省した……。
完全に喧嘩売ったなぁ、と語る口調は弱々しいものの、それでも少女の顔はどこか吹っ切れたように清々しい。自身に気合をこめるように両の頬を叩いた彼女は、やがて星々の輝く夜空を見上げて、誰に語るまでもなく静かに独り言ちた。
「確かに、人間は弱くて脆くて儚い――貴様の言う通りだ」
それだけの間、彼女は地上で生きる人々の姿を見つめていた。
青年の口にした通りだ、と彼女も知っている。だけれども、その限りか? という点で彼女の意見は天の代弁者たる彼とも、その彼を遣わした神々とも異なっていた……否、異なってしまった。
「だけど、それだけじゃないことを俺は知っている。それに、カルナやドゥリーヨダナを見ていると、永久に俺たちが守り続けてやらなければならないような、そんな未熟な存在だとは到底思えない。そもそも、雛鳥は巣立っていくものだ――
夜空に一際輝く白金の月とその輝きに負けることなく正しき方角を指し示している北極星。
空に輝く月と星を見つめながら、少女は小さく囁いた。
「――どうせ、いつまでも独り立ちできるまで成長した若鳥を羽の下に隠しておくことはできないんだ。それなら、俺たちがするべきことは、若鳥が空を舞うだけの力を手にした時に、その巣立ちを祝福してやることじゃないかと思うんだけどなぁ……――」
(*神格の高さ的にはワタシ(アディティナンダ)>クリシュナ=俺(アディティナンダ)という感じ。ワタシは真性の天体規模の神霊であるのに対し、クリシュナはヴィシュヌの化身とはいえ生身の人間なので神格的には≦俺アディティナンダという感じ*)
(*ただし、俺アディティナンダでは戦闘弱者なので、まともに戦ったらクリシュナに負けるのは必至。うーん、残念!*)
(*補助輪を外した自転車の後ろをずっと支え続けて走るタイプがクリシュナで、途中で手を離すのがアディティナンダ*)
(*等しく人間を愛していながらも、両者の違いのようなものを読み取っていただけましたでしょうか? なんか分かりにくかったらその旨をお知らせ下さい。書き直しますので。*)