本来のプロットでは、第三章にて賭け事騒動までやるつもりでしたが、キリがいいのでこの<婿選び式編>で締めくくろうと思います。
――ドゥリーヨダナ、ドゥリーヨダナ。
破滅を予言された子、王国を滅ぼすために神々に配された因子、悪であれと望まれた人の子よ。
彼の心が、天上の見えざる手によって記された脚本の筋書き通りに悪徳と邪悪に満ち、人を人とも思わぬ畜生のような悍ましさを宿すような、嫌悪されるべき人柄であったのなら。
父の愛を、母の愛を、兄弟たちから向けられる良き感情を貪るだけ貪って、無為に無価値に消費することのできる、浅ましい人間性を宿していたのであれば。
王国の継承者として、父王が父祖から受け継いだ領土を守ることに何の意味も見出せない、怠惰極まりない邪悪な性格の持ち主だったとしたら。
身分を傘に下の者たちを酷使し、愚弄し、人を人とも思わない残忍性と酷薄な人間性を宿していたのであれば――そんな悪性に満ちた人間であったのならば、
――現実はそうでないから、ドゥリーヨダナはこうも苦しんでいる。
逆説的に言ってしまうのであれば、彼はそうした悪性とは相反する善性を有しているが故に、こうも苦しみ続けているのだ。
それが理解できて、それが理解できたと自覚した瞬間。
――今、この瞬間ばかりは、天界と繋がっていない自分自身の状態に心の底から感謝した。
――よかった、と心底思う。
カルナに対する優しい想いと同じくらい、俺は俺として、ドゥリーヨダナの抱く悲しみを、怒りを、ほんの僅かであったとしても、理解することができる。
「――お、俺も、同じことを思った……ことが、ある。昔、カルナがまだ俺よりも小さかった頃、どうしてこんなにも同じ世代に、大勢の神の子が生まれて――いるのだろう、と考えて、気味が悪くなった」
――カルナとドゥリーヨダナ。
母に捨てられた日輪の落とし子、忌み児として偏見の目で見られる王子。
あの競技大会での出会いを通し、二人は主従関係を結び、友としての絆によって繋がれた。
「その上、カル、カルナは……あの子は強すぎる。俺が思っていたのよりも、遥かに……戦士としても、神の子としても……なら、きっと……」
……この二人であれば、神の子たるパーンダヴァ五兄弟であったとしても、生半可な力では打ち倒せぬ強大な敵として、さぞかし打ち倒されるのに相応しい敵役になれることだろう。
「この世界を疑問に思っているのは、俺も同じこと……だけ、れ、ども」
――嗚呼、だけども。そうであるのかもしれないけども。
それより先に、尋ねなければいけないこと、問い糺しておかねばならないことがある。
「お、お前は父王の愛情が偽物なのかもしれないと、そう、尋ねたな? ――そ、れに、俺は質問で返すぞ……?」
――あの日の光景を思い出す。
身分を問われ、萎れた花の様に口を噤むしかなかったカルナへとドゥリーヨダナが颯爽と助け舟を出してくれた時のことを――あの輝かしい瞬間を思い出す。
「あの時、人々の侮蔑の目からカルナを助けてくれたのは、カルナと友達になりた、い、と俺に告げた、お前の言葉は、お前がカルナに対して持っている……友人としての気持ちは、その感情は、全部、全部偽物なの、か――? お前の意思で、お前の心で、お前の言葉で決めて、形にしてくれた関係性や決意では……なかったの……か?」
――苦しい、苦しい、苦しくて堪らない。
昔にも、同じ気持ちになったことがあった。
あの時の痛みは、カルナを想うことによる幸福な感情から生じる、俺自身の理解していない正の感情によって生み出されたものだった。けれども、今の俺が感じている胸の痛みは、あの時とは違う感情によって生み出されている。
「…………」
――黒々としていたドゥリーヨダナの瞳が揺らぐ。
嗚呼、それにしても惜しいことだ。
今の彼の瞳には、俺が好いた、美しいと認めた、彼自身の意思の輝き、水晶のような煌めきが見当たらない――見つけられない。
こんなにも近しい位置で彼の顔を、彼の目を見れたのは初めてなのに。
カルナの碧眼とはまた違う、あの心を奪うような黒水晶の輝きを確認できないのは、なんて勿体無いのだろう。
「お、お前が、お前自身の言葉が他者によって決定づけられているものなのだと、そう思うのであれば、それは……それで結構だ。――だったら俺は……兄として、あの子を守る。お前の側になんか置いてやれない、どんなにカルナが嫌がっても、断ったとしても、絶対にお前からあの子を引き離す――だって、そんな友達甲斐のない自称・親友なんて、カルナを傷つけるだけだもの……!」
神々は人の心を乗っ取り、操ることはできても、それはあくまでも一時的なものだ。
恒久的に、意志持つ存在を、心ある生き物を、意のままに支配することは叶わない。
それでも、そうした一時的な行為だけでも人間一人破滅させるのは容易いし、何か不都合なことがあればそうやった手段で対処できる。何より、篤信深い人々に対しては、天界からの囁きや降臨という形でのお告げ、霊夢や聖仙の助言によって人間を動かすだけで問題ない。
だから、偽物なんかじゃないのだ。
ドゥリーヨダナの父王が彼の命を惜しんだ心も、ドゥリーヨダナがカルナへと贈った言葉も、偽物なんかであるはずがない。
――――いいや、
「――……姉上、殿……。あなたは……」
「ごめんなさい、ドゥリーヨダナ。……君の人生を狂わせた奴らの一柱として、俺は君に何と答えてやるのが正解だったのだろう? 俺ではなく、ワタシだったら、きっと、もっと別の答え、があったと、心底思うよ」
――泣かないで、悲しまないで……と願う。
笑っていて欲しい、笑顔でいて欲しい……とカルナ以外の相手に初めてそんな思いを抱いた。
そっと、大気にさらされている頰を指の腹でなぞる――彼の心の傷が、ほんの少しでも癒えますように、と切に願わずにはいられなかった。
……普段は陽気で豪快で、自信に満ちているドゥリーヨダナ。
流れる水のように滑らかな声音で歌うように毒を吐き、神の子相手であっても臆することなく皮肉を言い放つ度胸の持ち主で、神霊相手にも不遜な態度を崩さない――そんな悪辣王子。
憎んでいる
偏見や蔑視に囚われず、ドゥリーヨダナを個人として見ているあの子とは違い、俺は最初からドゥリーヨダナを、予言や巷の噂に基づいた不吉な王子扱いをしていた。
――ドゥリーヨダナからしてみれば、まさしく噴飯ものの所業であったことだろう。
「……ここに、カルナがいなくて良かった……と心底思うぞ。――オレは、わたしは、カルナにだけは、こんな自分の姿を見せたくなかった。――自分を捨てた母を恨むことなく、自分の出自を愚弄する連中に歪められることなく、愛すべき家族と父の威信のために、誉ある生き方を貫こうとしているあいつのように……――」
――徐々に、襟首を締め上げる手の力が緩んだ。
訥々と喉の奥から絞り出すような声を出す、苦しそうな顔のドゥリーヨダナ。
「――わたしは、あいつのような生き方は出来ない。そんな生き方はしたいと思えない。ああ、それでも――」
……そっと、その手に触れる。
楽師として、ましてや今は女の体である俺なんかよりずっと硬くてずっと逞しい手をしている。
いつぞやの第三王子にも、否、カルナにだって匹敵する、努力と修練を重ねた、人間の掌だ。
「ああ、そうだ……。それでも……わたしは、あいつに相応しい友人でありたいと――」
ただの戦士ではない証明として、長い指は節くれ立ち、節々に胼胝がついている。
神の子に負けぬ戦士として自らを鍛え上げ、神の子にも劣らぬ王国の継承者としての彼の自負を示すような、そんな手をしている。
……見つめる先で、泣きそうな顔のドゥリーヨダナが、透き通った儚い笑みを浮かべる。
「――あの夜に、あいつがわたしの誘いに頷いてくれた時から、ずっと、ずっと思っている」
――努力を重ねて来た手だ、職務を果たして来た手だ。
ワタシと俺が愛おしむべき、庇護すべき、育むべき、人間の手をしている。
自分の現状に腐ることなく、諦めることなく、捻じ曲がることなく、役目を果たして来た、尊ぶべき人の子の手をしている。
「……この気持ちが嘘だなんて、そんなことを思いたくない! 武術競技会の時に口にした言葉だって、全てわたしの本心だ! ――ああ、そうだ。妬みも怒りも、恨みも憎しみも、喜びも楽しみも、友情も家族への愛も、世に悪だと称される感情も、善とされている感情も、王になりたいという、わたしの野心も野望も、全て、全て――
ドゥリーヨダナの態度に、常の太々しさが戻って来た。
好戦的な笑みを浮かべる彼の瞳が、キラキラとした黒水晶の輝きを取り戻す。
嗚呼、良かった――と心底思った。本当に、安心した。
襟首をつかんでいた指先が優しく解かれる。途端、楽になった呼吸活動にここぞとばかりに酸素を吸い込んでいたら、ドゥリーヨダナが自分を見つめていたのに気づいてた。
黒水晶の輝きが少し陰り、やや思わしげに隻眼が俺の目を見つめ返した。
「――姉上殿、いや、アディティナンダ」
そっと囁くように、ドゥリーヨダナが謝罪の言葉を紡ぐ。
「――あなたを殺そうとして、本当に申し訳なかった。あなたは、
――だらり、とドゥリーヨダナの腕が床へと滑り落ちる。
乱れ、ほつれた黒髪が垂れ、彼の顔の陰影を色濃いものとする。ゆらゆらと揺れていた影法師も、彼自身の内面の揺らぎが収まったことでひとつの影へと収束していた。
「――あなたが神なのか、それともカルナの兄なのか。カルナの兄であるにせよ、それすらも神々の思惑に基づいてカルナという戦士を強力な手駒として用いるために行動を共にしているのか、それが分からなかった――」
あなたの感性がどちらに属するものであるのか、どうしても判断することができなかった。
そう、ドゥリーヨダナは独り言ちる。淡々とした声、凪いだ声だった。
「わたしの識る、神というものは、絶望的なまでに変わらないものだった。彼らにとって正しいことを為すために、どのような手段も詭弁を用いたとしても、可笑しくはない存在として――わたしは認識している。だから、あなたもそうだと思っていた」
「そうだな……。お前のそれは間違っていないよ。――神々とは、本来ならば、そういうものだ」
――俺は、と小さく呟く。
ドゥリーヨダナの言葉に対して、俺も俺自身のことをはっきりと告げるべきだと、それが彼への礼儀であり本心を赤裸々にした彼への真摯な対応だと、思った。
「――俺は、
「――何だと? そのような神霊があり得るのか?」
「――
――それ以外は、本当にさっぱりだった。
地上で過ごすための知識も教養も十分にあるのに、自分自身がわからない。
わかるのは使命だけ。それこそ、自分が何をしなければいけないか、という機能的な内容だけ。
自分と太陽神との関係性――縁者であることは明らかだが、その詳細が分からない。
自分とカルナとの関係性――庇護すべき対象だが、そもそもその存在に詳しくない。
自分が果たすべき責務――それも、今となっては果たすべき事柄とは思えない。
それ以外に覚えていたのは、かつての自分が強大な力を恣に行使できたこと、本来ならば地上にいるべきではない存在であること、何よりも神と呼ばれる人外であること、といった根源的な事柄だけだった。
「――それこそ、白紙に三つだけやるべき条文が記されているような、スカスカ具合でな。だからこそ、アディティナンダと名乗ってカルナの兄として振舞えてもいるし、不完全であるとはいえ、人間性の真似事ができるし――」
「――不変であるべき、という神々の柵からも解放されている……という状態なのか」
ドゥリーヨダナが言葉を続けてくれたので、そうだと頷く。
その結果、人間を理解したいと願った俺と神性の体現者であるワタシに、綺麗に分割されちゃったのだけども、これは黙っておこう。正直に言って、ややこしいだけだし。
完成された完璧な存在である神霊として存在するには、俺の抱えた欠落は大きすぎた。
そのせいで、“アディティナンダ”と言う余分な自我が誕生してしまったのは、大元である太陽神にとっても予想外だったろう。
「――俺にとって、世界で一番大切なのはカルナだ。あの子を守るためなら、なんだってするよ。そのせいで、いつの日か神々の怒りに触れて消滅したり、俺という個我を失ってしまう日が来るのかもしれない――だけど、それでも俺はカルナを守りたい」
――――あの日、自分自身に誓った誓約を思い出す。
あの誓いは何年も経過した今でも失せることなく、この胸に根付いている。
「だからこそ、あの子の家族として、生涯その味方でありたいと、その意思を尊重したいと思う。俺の全ては何もかもが創られたものでしかないけれど……」
本当にどうしようもない、と苦笑する。
そうして、目の前でやや呆然としている様子のドゥリーヨダナにそっと呼びかける。
「……それだけは、俺の有する唯一無二の
「…………カルナの家族であるアディティナンダに、重ねて謝罪を。わたしは自分が卑怯で狡賢い人間だと自覚しているし、そうした手段を取るのに躊躇いのない人種だが、それでも、友と呼んだ相手の家族に対して、このような不実な手段を取るべきではなかった――本当に、済まなかった」
――王族の為す最高礼をとったドゥリーヨダナに、首を振る。
きっと、今回の一件で悪いのは、責任を有しているのはドゥリーヨダナだけではない。そうなった要因の一つとして、俺がドゥリーヨダナという個人をきちんと認めていなかったこと、彼を理解しようとしていなかったのも原因だった。
「――俺の方こそ、ごめんなさい。出会った時から、あの競技会の時から、俺は君を無自覚に傷つけ続けてきた。カルナのことだけしか考えていなくて、神霊として振舞って、君の心を軽んじた。いくら君の擬態が完璧だったとはいえ、それでも俺は君の厚意に甘んじるべきではなかった」
ドゥリーヨダナが難解で、複雑で、ややこしい性格の持ち主であることに気づいていたのに、それに対して見て見ぬ振りをした。表向きの性格とは相反する繊細な感性の持ち主であることに感づいていたくせに、深くそれを意識することをしなかった。
そうなれば、神という存在に疑心を抱いているドゥリーヨダナが、何かをきっかけに俺のことを信じられなくなったとしても仕方のないことだった――そもそも、作り上げるべきだった関係性に基づいた信頼自体が俺たちの間にはなかったのだから。
――そう告げれば、それまでとは違う、どこか和んだ空気が天幕に充満する。
これから俺とドゥリーヨダナが、腹を割って話し合わなければならないこと、片付けなければいけない問題はそれこそ山積みだ――だけども。
お互いに肩の荷を下ろしたような気分、肩の荷が下りたような、すっきりとした心境になれたのだと、不思議とドゥリーヨダナと共感できた。
「――それで、俺たちはこれからどうする? 今までみたいにカルナを通してでしか繋がれないのも居心地悪いし……、なんという関係性が無難なのかなぁ?」
「……そうだな、それについてはこれから考えることにしよう。……時を重ねることで明らかになっていく関係性もあることだし、わたしたちの場合はそうしていったほうが良さそうだ」
何せ……、とドゥリーヨダナがげっそりとした表情を浮かべる。
それに相対している俺自身も、彼同様に遠い目をしていることは確認するまでもないだろう。
「いかなる関係性を構築するにせよ、まずは外の騒ぎを収めなければならんからなぁ……」
頭痛がすると言わんばかりに額を押さえ、肩を下げたドゥリーヨダナに、頷いて返した。
一難去ってまた一難とはこのことだろう。
――どうやら、俺の長い旅はもう少しだけ続くようだった。
――ちなみに、こんなにいい話をしていたのに、天幕の外では怪獣大戦争が起こっていたのであった。
カルナ「……呼んだか?」
アルジュナ「呼びました?」
(*とりあえず、「もしカル」では神々であったとしても恒久的に人の心や感情を操るのは無理です。思考停止に陥らない限り、人間の心は自由です(白目)ということにしております*)
(*うわー、うわー。これから、どんどん救いのない話になっていくのだと思うと、うぅ……心が痛い。こうなったら、泥グチャルート<解答編>を書いて、心の準備をしておくべきか……。おかしい、自分はスーリヤ一家が幸せに暮らしている情景を描きたかったのに……ドウシテコウナッタ*)