――ちょっと、覚悟してね?(タグのシリアスは飾りではなかった)
――パーンチャーラ王国改め、今は南パーンチャーラの王都に着いた。
到着早々、釈然としない表情の青年をせっつく。
そうして、もともと彼が用意していた旅装束の中にあったお忍び用の服の中から選んだ一着――彼を象徴するような純白の衣装――に着替えさせた。
裾や袖の装飾こそ地味だが、見る目のある者からすれば上等な物だと一目でわかる衣を纏っただけで、彼の雰囲気がガラリと変わる。生まれ持った気品や王族として身についた所作、優美なまでの立ち姿勢――青年を形作るそうした諸々の要素全てが、青年の存在を際立ったものとして引き立ててくれる。
実際、彼が王都の門扉をくぐった途端、目端の利いた都人たちでさえ、ざわめきだす。
ここ暫く、人混みの中に埋没する生活を送っていたせいで、目立つことから遠ざかっていた青年もそれに気づいたのだろう。何処と無く居心地悪そうに眉根を顰めた。
「――どうして、この服を着せるのですか? 今まではその様なことなどなかったというのに」
「そりゃあ、あれだ。目立つからだ、そっちの方が」
キョトンとした表情の青年の背中に素早く隠れ、青年とは反対側を向いて俯く。
パタパタと走り寄ってくる二人分の軽快な足跡。一目散に駆け寄ってくる音の響きの感じから、
「――――兄様!」
背中合わせにしていた青年の背筋が、びくりと揺れた気配。
反対側を向いた状態で足元をじっと凝視しているので、俺の視界には、大通りを移動する人々の足が動いている光景しか映らない。
人々のざわめき声、道を進む動物たちの嗎、籠に入れられた鳥の唄。
王都を構成する無数のそれらが雑多な音の重なりとなって俺の鼓膜を震わせる。
「ようやっと、見つけたよ! 皆、心配していたんだよ!」
「そうだよ! アルジュナ兄様に限って、って思ってはいたけど、それでも不安だったんだよ!」
よく似た性質の、軽やかな二人分の声音に聞き耳をたてる。
仲の良い小鳥が連れ立ってさえずる様に、息の切れ間もなく、台詞のズレもなく――お互いの無事と久方ぶりの再会を喜ぶ言葉を紡いでいる。
「何か事情があって、合流できないと思ってはいたから、できるだけ正体がバレない様に、でもなんとかして気づいてもらえる様に、あちこちで足跡を残してきたから……」
「それに、これだけ人の集まる祭典が開かれるみたいだったから、パーンチャーラ王国に行けば、きっと兄上も気づいて来てくれると思ったから……」
――うふふ、と。
草原を走り抜ける風のように爽やかで、水面を撫でる風のように軽やかな声が唱和する。
「でもでも! 見つけられてよかった! 僕たち、ずっと心配していたんだ!」
「そうそう! この街に着いてから、毎日こうやって城門を見張っていたんだ!」
ねー、と。揃って顔でも見合わせているのだろうか。
肉親に会えたせいか、喜色満面といった感情が伝わる様な、そんな暖かな空気が伝わってくる。
「あれ? どうしたの、アルジュナ兄様?」
「あら? ご気分でもお悪いの? だとしたら、ごめんなさい、兄様」
「――いや、そうではない。二人とも、心配をかけて済まなかった。ところで、母上や兄上たちはお元気か?」
返事のない兄王子を気にかけて、来訪者二人が心配そうな声を出す。
それに対して、青年が差し当たりのない返事をすれば、ホッとした様な吐息が溢れた。
「うん! 元気も元気! 僕たち、バラモンの格好であちこちの村々を回っていたんだけどね」
「ビーマ兄様ったら、僕たちが集めてきた施食の半分を食べちゃうくらいに元気だね」
「それって、いつものことだよね?」
「それって、いつものことだよね!」
「――そうか。お前たちも、元気そうでよかった」
スッ、と青年の方が微かな衣擦れの音と共に動く。
大方、身を屈めて、弟二人に対して再会の挨拶として抱擁でもしているのだろう。
――であれば、そろそろ俺もこの場を立ち、去、る、と、しよ――
「――ん? んん!?」
そそくさと身支度をして、その場を離れようと足を動かしたが、どうしてだか前に進めない。
なんというか、がっしりとしたものに服の裾を掴まれている様な……、標本の蝶々にでもなって針で胴体を貫かれている様な、そんな、感じ……! う、うぅ〜〜ん!!
「ねぇ、知ってる? これから、パーンチャーラのお姫様の婿選びが行われるんだって!」
「これ、知ってる? そこには、あのドゥリーヨダナがカルナと一緒に参加するんだって!」
「あいつら、僕たちのことを謀殺しようとした癖に、本当に図太いよね〜」
「謀殺といえば、ドゥリーヨダナに殺されかかるのはいつもビーマ兄様だけだったから、今回の件はさすがに吃驚したよね〜」
俺が困惑している一方、きゃっきゃ、と鈴を転がすような笑声を上げる二人。
その天真爛漫な態度に、青年が苦笑したのか、背中越しの気配が和らいだ。
「――こら、お前たち。どこで誰が聞いているのかも分からないのだ。そうした話はこの様な大通りですべきではない。口を慎みなさい」
「はーい、兄様!」
「はーい、兄様!」
きっと、弟たちの兄らしく、慈愛に満ちた微笑みでも浮かべているのだろう。
尤も、反対側に背中を向けて立っている俺には全く見えないのだが……。
――それにしても、何が服に引っかかっている? 一向に、うんともすんとも言わない。
こっちが必死に頑張っているのに、背後に佇む青年は、兄弟たちと穏やかな雰囲気で話を続けている。俺が往来の真ん中で、道ゆく人たちに奇異の目を向けられながらも、なんとかしてこの場を離れようとしているというのに、全くもって呑気なことである。
「それでね、兄様。僕たち、ちょっと、考えたんだよ?」
「そうそう、兄様。僕たち、
「――それは、ユディシュティラ兄上のお言葉か?」
まあね〜、と二人の声が合わさっているせいで、合唱の様にも聴こえる。
自分よりも年少の弟たちが子供じゃないんだぞ! と言わんばかりに胸を張って報告している光景が目に浮かびそうな、そんな誇らしげな声だ。
青年の纏う雰囲気も、年少の彼らに合わせてか、ひどく優しげである。
さぞかし、年少の弟たちにとっても、この青年は尊敬に値する素晴らしい兄であり、良き模範たる人物なのだろう――欠点を探す方が難しいな、ここまできたら。
「もうこの辺で、ドゥリーヨダナに自分たちが生きていることを知らせてやってもいいんじゃないかって!」
「もうこの辺で、放浪生活をやめて、王国の皆に自分たちの生存を伝えても、いい頃合いじゃないかって!」
――それにしても、俺の服に何が刺さっているんだ?
首だけ振り向いても、髪の毛を隠すための薄衣や日よけのための上着が邪魔で、何が突き刺さっているのか、よく見えない。
「姫君を娶るためには、国王の定めた難題を突破しなければいけないって」
「なんでも、とっても難しい試練らしいって! ああ、でも――――」
楽しげな、誇らしげな。例えるのなら、そう――邪気のない声、だった。
「
――ぴくり、と青年の背中が固まった。
本当に一瞬だけ、否、刹那にも満たぬ時間であったかもしれない。
けれども、青年が弟の無邪気な言葉に、過敏とも言える反応を示したのは確かだった。
「……ああ、そうだな。ところで、二人とも」
「どうしたの、兄様? 何か、とても大事な用事?」
「僕たち急がないと、式が始まっちゃうよ? 何の用事?」
もう破れてもいいや、と思いながら、服の裾を力を込めて引っ張る。
というか、俺の魔力で編まれている服だから、滅多なことでは破けないし、ほつれたりするはずもないのに……どうしてにっちもさっちもいかないのだろう。こいつは参った。
全く、なんで、こんなことになっているんだ?
もういっそ、引っかかっている箇所だけでも消すか? ――あ、だめだ。
試しに確認を兼ねて布を引っ張ってみれば、どうやら何かは肌着の類まで貫通しているらしく、無理に裂けば、人通りの多い往来で痴女再びになってしまう。
無論、俺に露出癖はないので、そのような醜態だけは避けたい。
諦めて肩を落とせば、淡々とした響きの青年の声が耳に届いた。
「この街に来るまでに、世話になった方がいる。そのお方に、礼を述べておきたい」
「お礼? あ、それってひょっとして……」
「感謝? あ、それってもしかして……」
思惑ありげな声音が、揃って聞こえる。それに、青年が嗜める様に軽く吐息を零した。
「――お辞めなさい、二人とも。その方は、その様な相手ではない」
「ふぅん、ふぅーん? まぁ、アルジュナ兄様がそう仰るのであれば?」
「はぁい、はぁーい! なら、僕たちは空気を読んでおかなければ!」
来た時と同じ様な、軽やかな足取りが青年の側から離れていく。
ここまで来たら、青年が兄弟たちと話している間に、さりげなく場を離れることは無理である。
もういいやと思って、背後を向いている俺の首筋あたりに視線を投げかける青年と視線を合わせるべく、足元に気をつけながら背後を振り返った。
「――何も言わずに立ち去る気だったのですね、タパティー」
「どっかの誰かさんが引き止めなければ、とっくに立ち去れていたのだけどもね」
ちらり、と足元へと視線を這わす。
銀と紫色、そして青白い稲光を放つ、細い矢が両足の間に当たる布に深々と突き刺さっており、それが俺の行動を制限していた原因であることは明らかであった。
「……酷い、方です。決して短くない日数の旅であったというのに、私に別れの言葉も告げずに行ってしまうつもりだったのですか?」
「まあ、もともとこの国で別れるつもりだったし。だったら、君が兄弟たちに気を取られた機会を逃すのは勿体無いと思って」
そう告げれば、青年の漆黒の双眸が、左右に揺れる。
なんだか、すごく傷ついた様な表情を浮かべた青年に、なけなしの良心が痛む。
基本、カルナ以外はどうでも良かったのが俺だった。
それが、最近になってようやっと
そんな俺の未熟な心では、青年が俺へと向けてくれていた名前をつけがたい感情の数々にどう答えればいいのかわからず、途方に暮れるしかない。
これまでの様に、どうでもいいや――と言って、切り捨てるには、この青年は
「……とはいえ、本当に偶然の積み重ねでしかなかったけど、君とこうやって旅までしたのは、楽しかったぞ。これきり会うこともないだろうが、まあ、なんだ――達者でな」
足元に突き刺さっていた矢を引き抜き、掌でくるりと回して、放り投げる。
元の紫色の凝った魔力が、小さな火花をあげて消失した。
できるだけ青年のそれと視線を合わさない様に、誤魔化すための仕草を完遂させると、話は終わったとばかりに、その場から立ち去ろうとした――
「お待ちください――話はまだ、終わっていません」
――が、それよりも早くに回り込んで来た青年によって、その動作は止められてしまう。
「貴女は、本当に身勝手な方だ。私の話は碌に聞かないし、特に考えもせずに思いつきを試しては私を振り回すし、
淡々とした口調で、俺の欠点をあげつらう青年の言葉は、わりかしぐさっと来た。
思い当たることが節々にありすぎていたのと、時たまカルナからも苦言という形で知らされる内容だったためだ。
「――ああ、でも何故なのでしょう」
自分自身に問いかける様な青年の言葉を不思議に思い、頭を持ち上げる。
見上げた視線の先では、二つの黒曜石がきらきらと輝きを放っていた。
透き通る様に柔らかく、儚い――そんな微笑みを彼は浮かべていた。
「――こんなにも身勝手で、こんなにも自儘で、こんなに口調も仕草も乱雑で。これまで私が教わって来た理想的な人間像とは――こんなにも、かけ離れているというのに」
息を飲みたくなるほど、美しい瞳であった。
慈愛と信頼と悲しみと喜び、そしてそれ以外にも、俺の知らない多種多様な感情が、その揺れる黒曜の瞳に宿っていた。
「――どうして、貴女の側ではあんなにも息をすることが楽だったのでしょう?」
……あんなに気が楽な時間を過ごせたのは、生まれて初めての経験でした。
そんな悲しいことを、青年は微笑みさえ浮かべながら、俺の目をまっすぐに見つめて伝える。
貴女は自分勝手で、傲慢で、やりたい放題な上に、計画性など欠片もなかった。
道中、この私を特別に扱うこともなく、かと言って軽んじていたわけでもない。
そこらにいる普通の人々と同じ様に扱いつつも――決して私の個我を貶めたりはしなかった。
滔々と語る青年を前に、俺ときたら絶句するしかなかった。
――嗚呼、それはどういうことなのだろう。
この青年は、母親に捨てられたカルナとは違う筈だ。
父に愛され、母に愛され、兄弟に愛され、そして友や師を始めとする周囲の人々に愛しまれ、甘やかされ、慈しまれ、期待されて育てられて来た筈の人間なのに。
――
「私が兄弟と再会するまで、魔力操作を伝授し終えるまで、と言うのが別れの刻限でしたが」
――わからない、どうしてもわからない。
親の愛とは、母の愛とは、父の愛とは。
こんなにも素晴らしい気質の青年に、無意識のうちに、そこまで絶望的な物言いをさせてしまう様な代物でしかないのだろうか?
兄弟からの愛とは、師や友人からの愛とは。
そんなに素晴らしい性格の青年であってさえ、あの愛情と期待のあまりの重さに、息苦しさを感じてしまう様な代物なのだろうか?
「――生まれて初めて、我儘を言わせていただいても宜しいでしょうか」
人の愛とは、家族からの愛とは、素晴らしいものではなかったのだろうか。
俺が憧れ、俺が欲し、
「貴女の都合も考慮せず、貴女の思いも理解せず。――これが、天に属する貴女に対しての侮辱の言葉になりかねないことも、重々承知しております」
一方通行に、片側から投げかける様に与えられる神の寵愛ではなく。
相互に分け与え、想いを通わせ、ゆっくりと慈しみ合う様な、そんな人の愛をあの子に与えたかったからこそ、人の様でありたかったのに。
「師でも、友でも、伴侶でも、兄弟でも――どの様な形であってもいい」
――――嗚呼、なのに。
その愛に包まれて育って来た筈の青年が、どうして、数週間にも満たない様な短い期間を一緒に過ごしただけの人間もどきの側が過ごしやすかった――などと言ってしまうのか。
「――――どうか、これから先も私の側に居てはくださいませんか?」
言葉を紡ぐことのできない俺の前へと、青年の掌が――そっと差し出される。
きっと、端から見ればそれはそれは美しい光景であったことだろう。
俺とは違い、正真正銘、若い年頃の娘であれば、若く器量の良い異性に囁かれただけで、顔を羞恥で赤く染めつつも、口元を綻ばせながら、その差し出された手を取ったことだろう。
「…………」
あるいは、常日頃は凛々しく栄光に包まれた青年が自分だけに見せる、弱弱しい姿にときめきを覚えるとともに、母性愛を刺激され、なんとかしてその慰めになろうと、ほっそりとした指先を重ねたりもしたのかもしれない。
「――勿論。貴女には大事にしている人がいることなど、承知の上です。その方から離れて、私の側にと望むのですから、私もそれ相応の対価をお支払いするつもりですとも」
何も答えない俺に対してどう思ったのか、幼子を言い含める様に青年が優しい言葉を紡ぐ。
――優しい、甘やかな響きを宿した声だった。
それでいて、高位の人間特有の傲慢さと鷹揚さが過分に含まれている、
「最優の弟子をお望みであれば、その様に振舞いましょう。最良の友人をお望みであれば、その様に振舞いましょう。最愛の
謳う様に、奏でる様に。
囁く様に、蕩かす様に――黄金比の美貌に微笑みを浮かべて、青年は熱っぽく呟く。
「どの様な関係でも、貴女が望むのであれば、このアルジュナ、完璧に立ち回って見せますとも」
黒曜石の瞳が眇められ、褐色の指先がそっと俺の頰を撫ぜる。
血の気の引いた頰に寄せられた指先はそのまま顎先を伝って、首の中央でその動きを止める。
「私には教養があり、音曲の嗜みがあり、身分があり、財産があります。戦士としても、他者に遅れを取ることはありません。弟子であれ、友人であれ、伴侶であれ、兄弟であれ――貴女の誉れとなる存在、貴女の期待に応え続ける存在であり続けることを、保証いたしましょう」
黒々とした、深淵に繋がっている様に暗い瞳が俺を見据えている。
そこに宿るのは――嫉妬なのか、切望なのか、羨望なのか、憎悪なのか。
よくわからない――よくわからない。
だが、それでも、こんな紛い物の人間に過ぎない俺にも、
「――なぁ、
「勘違い、ですと? 言って御覧なさい、
支配者階層特有の傲岸ささえ感じられる眼差しで、青年が先を促す。
首を絞める気なのかどうかは知らないが、青年のほっそりとした指先は変わらず、俺の首に触れたままだった。
それがひどく気になったが――これだけは、この青年に告げなければならないと思った。
「俺の大事な子は、あの子は確かに、不器用で、無口で、人の言うことを聞かずに自分で決めた道を突き進んだ挙句に、悪い友達は作っちゃう奴だ。言葉足らずな上に人を怒らせることに関しては天才的な癖で、肝心のことを上手く伝えられずに誤解させることになって、後でこっそり落ち込むことなんて、しょっちゅうある」
脳裏に、この褐色の王子様とは全く正反対の、俺の弟の姿がスルスルと浮かび上がっていく。
父より賜った黄金の鎧に、胸元で輝く朱色の宝玉。
ざんばらの白髪に、幽鬼の様に真っ白な肌に、鋭すぎる目つき。
基本的に無表情なせいで、微笑み一つ滅多に浮かべることのない、そんな弟の姿を。
「寛容が過ぎて、自分の身を削る羽目に陥っても、それで良しとか言って勝手に納得するし、どんなに辞めなさいと聞いても聞かないし、人の心配なんて気にも留めない。どれだけ俺が歌や踊りを教え込んでも何一つ習得しなかったのに、俺が教えられない武芸や武術の類はどんどん吸収する薄情な奴だし、お世辞にも物言いは優しくない」
無愛想で無口で、内心で思っていることをうまく伝えられた試しのない、そんな弟。
どれだけ周囲に敬遠され、恐れられ、罵倒されても、文句一つ口にしない、馬鹿な子。
その癖、日常のちょっとした些細なこと、人と人との小さな絆を後生大事にして、それだけで満足してしまう、幸せだと微笑むことのできる――愚かなまでに優しい子。
「決して褒められる子ではないけれど、君と比べたら欠点ばかりだけど――でも、それでも」
――俺の、そしてワタシが見守ってきた、誰よりも大切な日輪の落とし子。
今、お前は一体どうしているのだろう。
こうして遠くに離れていても、その日々が健やかであれ、穏やかであれ、そして何よりも幸福であれ――と願わない日は一日たりとてなかった。
「そうした短所も長所も何もかも全部全部ひっくるめて――それでも、あの子が愛おしい」
首に触れている指の先にある、青年の手首を力を込めて握りしめる。
それまで見上げるだけだった両眼に力を込め、視線だけで相手を貫かんとする気迫を込める。
「あの子が優れた戦士であるから、あの子のことを愛するのではない。あの子が器量に優れているから、あの子のことを慈しむのではない。あの子が財を持つからでも、立場があるからでも、才に優れているからでもない。……きっかけは、そうだ。確かに俺の弟という特別な立場であるからこそ、気に掛けた」
――嗚呼、だけれども。
それは単なるきっかけであって、俺があの子の幸福を願う様になった理由ではないのだ。
「――最初は義務だった。嗚呼、そうだとも。だけど、あの子の性格、あの子の精神、あの子の生き様を知り、そうして一緒に時を積み重ねたからこそ、今の俺があり――あの子を
胸元に、俗に心の臓があると伝えられているところで、ぎゅっと片方の手を握りしめる。
――そうだ、その通りだ。
単なるスーリヤの命令を遂行するだけの人形だった俺に、心を、感情を与えてくれたのは、あの子だったのだ。
「俺が人の愛を語るには力不足だけれど――でも、これだけは言える」
特別ではあったけど、大切ではなかった。
地上に堕とされた時のカルナに対する心境が、よくもまあここまで変貌したものだ。
これを進化と呼ぶのか、退化と呼ぶのか――そんなことはどうでもいい。大事なのは、俺が変化したということだ。
「他者に誇れる様な弟だから、他者に自慢のできる弟だから、俺の期待に応えてくれる弟だから、とか――そんなことはあの子を愛する理由じゃない」
漆黒の双眸を見据えて、きっぱりと言い切る。
人間もどきでしかないアディティナンダが、数年かけてようやく見つけ出したこれは、真性の神々からしてみれば、ひょっとしたら間違いなのかもしれない。
だけど、名前も存在も偽りでしかない俺が持っている、
「例え、不器用でも、音曲の嗜みがなくても、物言いが優しくなくても、それでいいんだ。俺の前で見栄を張っていても、恥ずかしいからって理由で尊称で呼んでくれなくてもいい。いいところ、悪いところ、全部まとめて、有りの儘のあの子のことが、俺は大好きなんだから」
一歩下がって、青年から距離をとった。
そうやって、首元を添わされた青年の手首をずらして、握りしめていた手を振り解く。
いつのまにか地面を見つめて、前髪で目元を隠している青年の表情は定かではない。
ただ、まるで泣いているかの様な、震える声が耳朶を打つ。
「――貴女は、酷いだけではなく、とても残酷なお方だ」
「……うん、知ってる」
「人を愛するのに、他者を大切に思うのに、特別な理由などいらないと――
「……少なくとも、俺の愛はそうだよ。俺のへの愛は、こういう形だよ」
――もう一歩、後ろに下がる。
道ゆく人々も、俺たちの穏やかならぬ気配を察したのか、往来の真ん中であるというのに、周囲に人の流れはない。
「愛されるために自分を律する必要も、皆の期待に応え続ける必要すらも、貴女には必要がないと――そう仰るのですか」
「……少なくとも、俺の愛はそうだよ。だから――俺には、
――貴女が、と小さな声で青年が呟く。
青年の肩が一度だけ大きく震えて、ゆっくりと伏せられていた頭が持ち上げられる。
「――貴女が、掟によって殺生が禁じられている女性であってよかった。……そうでなければ、私は貴女を縊り殺していたことでしょう」
今にも、切れ長の眦からは涙が零れ落ちてしまいだけども、青年は微笑んでいた。
堪えきれない激情を抑えるために微笑もうとして失敗した様な、そんな歪んだ笑みを浮かべつつ、青年は独り言の様に呟いた。
道中ずっと続いていた温度差の結末がコレ――としか。
少なくとも、カルナさんが生きている間は真っ当な恋愛は男女問わずに無理だな。
可能性があるとしたら、カルナさんが死んで、一人きりになってからだな――この人でなしがそーいう感情を理解するのは。
アディティナンダは愛の綺麗なところしか知らないから、こんな残酷なことを平気で言える。
アルジュナさんの好意の示し方についですが、理想の体現者であることを求められてきたからこそ、それに応えることでしか愛を示す方法はないと思い込んでいたのではないのかなぁ、と想像しつつ、あんなセリフを書きました。
(*感想で恋愛フラグを求められていたので、小ネタという形で最終決戦後のドロドロぐちゃぐちゃルートを想像してはみたのですが、皆さん、ちょっと気になったりしますか? 需要があったら、書くと思います*)