――さて、どうやってあの王子を殺すべきなのでしょうか?
轟々と炎が燃えさかり、火の粉で赤く染まっていく建物を背景に佇みながら、目の前で狂乱して無様極まりない姿を見せている小男を一瞥して――ワタシは、小さくため息をつきました。
それにしても、全くもって耳障りな小男です。
確かに、精神を滅茶苦茶のぐちゃぐちゃに引っ掻き回されてしまったとはいえ、狂い方にもそれなりの品位というものがあるでしょうに。
本人が命だけはと懇願し、ワタシとしても無益な殺生は好むところではなかったので、脳の中身と精神を、軽く引っ掻き回した程度で済ませるという温情をかけたというのに、この体たらく。
身体中の色々な穴から、とても汚い水を出しつつ、言葉になっていない叫び声をあげる小男の醜態は、五月蝿い上に見苦しいことこの上ない光景です。
これならいっそのこと、ワタシの魔声の囁き一つで、その命を
とはいえ、全ては済んだこと――ここで泣き喚いている小男の死に様など取るに足らぬこと。
未だに泣き叫んでいる小男を捨て置くことにして、屋敷の奥の方へと足を進めます。
我が身に慣れ親しんだ真紅と橙、そして朱金に輝く炎があちらこちらで大輪の花のように燃え盛る様を見つめていれば、先ほどまでの不快な気分が浄化されていきます。
――それにしても……あのクル族の王子も大したものですね。
灼熱の炎と煤と煙が室内に充満する中を、草原を歩くような軽やかさで進みながら、先ほどのプローチャナとかいう個体が泣き喚きながら暴露した内容を思い起こします。
そもそもの発端たる、パーンダヴァの一行のヴァーラナーヴァタへの都行き。
――それ自体が、目障りな五王子たちを、まとめて葬るための策略だったとは。
宿敵を討ち滅ぼすための機会を、父王が息子可愛さに王位を与える日を待つのではなく、己の手でその機会を生み出し、政敵の抹殺のために努力を惜しまないその姿勢。
難敵を打倒するにあたって、無い知恵をふり絞らねばならぬ人間特有の必死さが滲んでていて、非常にドゥリーヨダナという人間の矮小具合に好感が持てます。
ヴァーラナーヴァタへのパーンダヴァを始めとする都人たちの好奇心をくすぐり、王宮中の老若男女を巻き込んで、善良なる父王やその周囲の賢臣をさりげなく誘導して、死地となる辺境の都へと五兄弟を誘導するなんて――……全くもって、狡い考えでこそありますが、そこはそれ。
直接戦うわけにもいかない宿敵を貶めるために、あの王子が一生懸命働いたかと思うと、一周回ってその悪辣さと必死さに、胸がときめくような愛しささえ感じてしまいます。
うふふ、と唇から硝子の鈴が触れ合うような、澄んだ笑声が思わずこぼれ落ちてしまいました。
ひそやかな侵略の行われている深夜の屋敷には、想像していた以上に、高い音がよく響きます。
……そういえば、この姿は女を模しているのでした。いけない、いけない。
――これでは、標的に気づかれてしまうかもしれません。
国中からかき集められた着火性の高い材木に、たっぷりと脂肪を含んだ乳製品をふんだんに用いて、丁寧に、丹念に拵えられたこの『吉祥屋敷』。尊き半神の王子たちに捧げたこの屋敷の真実の姿は、ありとあらゆる燃えやすい代物を用いて建てられた『不吉の屋敷』だったとは!
――道理で、普通の屋敷では嗅ぎ慣れない匂いが、新築当初にすると思いました。
間違っても標的である王子たちが外へと逃げたりなどできないよう周囲を高い塀で取り囲んで彼らの動きを制限し、その行動範囲を燃えやすい材質で建てた『吉祥屋敷』の中へ封じ込める。
それから時期を見計らって、『吉祥屋敷』に火をつけ、半神の王子たちを焼き殺す――というのが、ワタシを襲った小男が王子から命じられた任務でした。
些か詰めの甘さを感じずにはいられませんが、なかなか独創性のある策略ではないですか。
そんな風にワタシが感心している合間にも、ワタシの周囲では燃え盛る炎がまるで食事をしているように屋敷を覆っていきます。脂肪分の多い上等の蝋や糖蜜、乳製品などを贅沢に使用しているので、柔らかい材質が多く、熱で溶けやすいせいか、炎の侵食が非常に静かです。
なので――もしかしたら、同じ屋敷内にいる彼らも気づいていないのではないでしょうか?
肌に心地よい熱風がそよ風のようにワタシの服の裾をふぅわりと捲り上げるのを心地よくさえ感じながら、一歩一歩、目的地に近づいていきます。なんだか、獲物を狙う蛇にでもなってしまったかのようで、滅多にない経験に、少しばかり、楽しくさえなってきました。
――さて。話が五王子暗殺だけで済めば、それはそれで良かったのですが。
あの王子は何を思ったのか、あの小男に対して、大変奇妙な命令も付け加えてしまいました。
“黒い髪に紺碧の瞳、足首に黄金の飾りをつけたパーンダヴァの侍女”
”彼女のことも、叶うことならば五王子たちと運命を共にさせるように”
ただし、小男がか弱い女を殺すことが無理だと思うのであれば、己の名誉を汚せないと感じるのであれば、実行しなくても構わない……と断りまでつけて、わざわざ命じたそうです。
とはいえ、めでたく侍女を暗殺せしめた暁には、国を一つ進呈しよう、という大判振る舞いであったとのこと。流石に命令に至るまでの詳細な理由こそワタシにはわかりませんが、結局のところ、たかが女一人と小男は欲を出しました。
かくして小男は、腕輪を取り戻すために屋敷に忍び込んでいた
……全く、欲に駆られた人間というのは本当に度し難いものです。
ワタシたちが地上に与えた法理に基づけば、このような小娘の形をしたか弱い生き物を殺そうと考えるなど、決して賞賛されるべき行いではないというのに。それを己の欲望に目がくらんだ挙句に、絶対者からの命令という建前のもとで自身の行為を正当化しようとするだなんて――なんと醜悪極まりない生き物なのでしょう。
ましてや、一介の次女に扮していたワタシはドゥリーヨダナの政敵である五王子たちと違い、わざわざ殺すだけの理由などありません。とても不可解なことですが、あの王子は
――フゥ、と。再度、ため息をつきました。
まあ、あの小男ばかりを責めるのは辞めにしましょう。
そもそも政敵をだまし討ちにしようという、ドゥリーヨダナの今回の一件に関わる行為自体が、決して褒められたものではないのですから。
そのようなことをつらつらと考えていれば、肉の焦げる生生しい匂いが漂ってきます。
もしかしたら、あの小男が錯乱した挙句に燃え盛る炎の渦へと身を投げたのかもしれません。
標的である五王子たちの死を確認する前に、仕掛けた側である本人が焼身自殺を遂げるというのはなかなか皮肉が効いた結末です。
すでに決着のついた話ではありますが、正気を失ったとは言え、生きながら肉を焼かれるという壮絶な苦痛を味わう前に、一息でその命を奪ってあげた方が慈悲であったのかもしれませんね。
そんなことを思いながら、足元に転がっている元の形状が不明なまでに炭化した物体に触れることのないように、そっと足先を持ち上げて飛び越えます。
なんだか、深い森の中で冒険している時のことを思い出しました。
目的地まであと少しですし、ここまで標的に近づけたのであれば、慎重に行動する必要もないでしょう。焦ることなく悠々と足を進めることにします。
――それにしても、あの王子に対してどのような報復をなすべきでしょうか?
……ワタシに無礼を働いた小男はどうやら自ら命を絶ったようですし、その企みの大本となるあの王子の方も、あれと同じような目に遭わせてやるのが妥当というものでしょう。
たかが人間の分際で、神霊であるワタシを殺そうと企んだのですから、それ相応の報復をなさなければこちらの沽券にも関わります。
――とはいえ、未遂に終わったことを考慮してやって、生きた屍として一生を地上で過ごせる程度に済ませてやるのが穏便な手段かもしれません。この方法であれば、あの小男へと下した沙汰と釣り合いも取れますし……ふむ、実に悩ましい問題ですね。
今や、室内を彩っていた鮮やかな熱帯の花の代わりに、真紅の花弁が生き生きと咲き誇る館。
――その最奥の間に設けられた、大きく立派な扉を見上げます。
灰と煙によって煤けたそれへと、そっと指先を這わせ、ゆっくりと重たい扉を押し開けます。
すると、絢爛たる装飾が施された豪奢な寝室へ続く、華美な装飾の施された居間が現れました。
――ここは、屋敷の主人のための用意された部屋の一つ。
この時間帯ならば、ワタシの目的たる人物もここにいるはずです。
そうするべく
それに、もう真夜中です。
日中、宴の主役として客人らをもてなした標的もまた疲れ切って寝ていることでしょう。
そのような所以で、寝室へと繋がる室内は、真っ暗な闇に包まれているものと思っていました。
――ところが、ところが。
真っ暗な中に仄かな輝きを放つ、ともし火が一つ灯されておりました。
そうして、その薄ぼんやりとした橙のともし火にひっそりと照らされる室内の暗闇に溶け込むように、ワタシに背を向けて佇む青年の姿がありました。
嗚呼……どこかでみたことのある顔です――さて、どこでしたっけ?
霞がかかったような脳に蓄積された人の世界の情報を元に、この人間の姿を参照します。
――そうでした。これは
「――――貴女は……」
インドラの息子がこちらを振り向いて、少しの間だけ呆然とした表情を浮かべました。
こんな夜更けであるというのに、夜着の代わりに戦士としての服をまとい、その身には弓矢を始めとする寸鉄を帯びているではありませんか!
――その様子からして、どうやら眠りについていたわけでもなさそうです。
扉を開け放ったワタシの後ろで轟々と燃え盛る炎の乱舞を目にしたせいでしょうか?
暗闇に浮かび上がっている涼しげな面持ちに一瞬だけ焦りの色が浮かびました。
――とはいえ、ワタシのやるべきことは決まっております。
インドラの子供が何かを告げる前にさっさと距離を詰めて、その意表をつきました。
彼が身を竦めた隙に、その腕に嵌められた白銀の腕輪へと指先を添えて、神威を放ちました。
途端、所有者であるワタシが触れたことで、一瞬だけ腕輪が白銀の輝きを失い、陽光を煮詰め溶かしたような見事な黄金の輝きを顕にしてから――そうして白銀色へと戻りました。
――これで間違いありません、これはワタシの腕輪です。
……うむ、と満足げに頷いてみせます。
何故、インドラの息子がこれを所有していたのかは知りませんが、下手にこのインドラの愛息子に報いを受けさせると、あの過保護な父親が五月蝿いでしょう。それだけは避けたいものです。
まあ、ワタシは他の■■たちと比べて、良心的かつ寛容な■■であると自負しておりますので、今回に限り、この子供の犯した不敬に目を瞑ることに決めました。
ただ、問題があります。
どうやら想定していた以上に、腕輪の機能が十全に働いており、この子供を守護しております。
なので、力づくで取り上げることは難しいでしょう。
……ならば、仕方がありません。
「――何故、侍女がこのような場所に? すでに退出したのではないのですか? いえ、それよりも、ここが危険な状態だと、わかっているのですか?」
インドラの息子が何事かを問いかけているようですが、些細なことです。
「聞こえているのでしょう? 何故、私の問いかけに答えないのですか?」
腕輪の嵌められた左腕を見下ろし、ゆっくりと全てを溶かす熱を込めた手刀を掲げます。
せめて、この子が痛みを感じる前に腕を切り落として、ワタシの腕輪を返してもらいましょう。
腕輪さえ取り戻すことができたら、もうこんな場所にいる必要もありません。
これでようやく、カルナの元へと帰ることができます――……
……カルナ?
カルナ、カルナ……――そう、
何故でしょう? 視界が明滅します。――違う、それだけではなく、頭がぐらぐらする。
まるで、直接脳みそを誰かの手で高速で揺り動かされているような、そんな感覚に襲わる。
ぐしゃぐしゃ、ぐちゃぐちゃと、二つの自我が撹拌されている。
ワタシは、いや、俺は、そうだプローチャナとかいう吉祥屋敷の管理人に襲われて――カルナの、そしてドゥリーヨダナが俺のことを、否、ワタシを殺そうとしていた事実を知って、嗚呼。
ならば――裏切りには厳罰でもって返さなければ……と。いや、待て、待て、待て!?
そもそも、俺とドゥリーヨダナの関係は、そうした相互の信頼の上で構成されたものだったか?
――何を今更なことを。
金環の封印が揺らいでいたとはいえ、それだけワタシの心身に到るまでの衝撃がもたらされたからこそ、これが裏切りであると判別したのです。
何もおかしなことではないではありませんか。古来より人が神を裏切った場合には、口にするのもおぞましいほどの天罰を下さねば、示しがつきません――待て、待て、待て、何かがおかしい。
ぐらぐらと揺れる、ゆらゆらと回る……ドロドロと、自我が溶けていく。
――
カルナの兄として、人の中で生きる、あの子の一生を見守ることを決意したのは、
掲げたままの右手の指先をゆっくりと握り締める。
拳の形に固めた手のひらに、爪がギリギリと食い込んでいるのを痛みという形で体感し、曖昧になっていた俺という自我の輪郭をはっきりさせる。
――そうだ、ワタシは、いや、俺は
人が好きなくせに不器用で、無愛想で、口下手なカルナの、あの子の――兄だ。
あの子の尊厳を侵すものから、あの子を踏みにじろうとする害を与えるものから。
不器用なあの子を守ろうと、そして本当の家族としてその一生を慈しみ続けることを決意したのは――■■■■ではない、
――だから……そう、だからこそ。
「お前は
掲げた右手を固く握り締めて拳を作り、胸の奥から湧き上がる怒りを込める。
そうして、叫び声とともに、思いっきり自分の顳顬を殴り飛ばした。
非力な女の身とはいえ、この身は人ならざるもの。
当然の事ではあるが、尋常の女の範疇を軽く飛び越えた膂力を思いっきり脳天にぶつけたせいで、視界がチカチカしている。なるほど、俗にお星様が見えるというのはこういうことなのかと感心していれば、ゆっくりと意識が薄れていく。
とりあえず、面倒臭い問題は全部後回しにしよう。
俺のことを殺そうとしたらしいドゥリーヨダナのことで悩むのは目覚めてからでいいや。
衝撃に耐えきれずに徐々に暗くなっていく視界に、こちらに手を伸ばした状態で、驚いたように目を見張っているアルジュナ王子の姿が映った。
いやぁ、あのお上品な育ちの王子様には全くもって訳がわからなかったことだろう。
蚊帳の外に置いた状態のまま、混乱させてしまって誠に申し訳ない。
白金の腕輪のことは気にかかるけど、この際、どうでもいいや。
それよりも、お前も早く逃げないとこの厄災に巻き込まれてしまうよ?
太陽の眷属たる俺ならばともかく、お前にこの熱量と煙はきついだろう。
――だから、早く逃げてくれな、い、と……死ん、じゃ……。
……一瞬だけ、脳裏に出会ったばかりの頃のカルナの幼い姿が過ぎる。
嗚呼、久しぶりにあの子に会いたいなぁ。元気にしていてくれると、嬉しいんだけど。
その思いを最後に、視界が完全なる漆黒に包まれていく。
そうして、ようやく取り戻した俺の意識もまた深潭たる闇の中へと沈んでいったのであった。
(*第三章で一番苦労する人はアルジュナ王子だな、うん!*)
(*一時期掲載していました「小ネタ・第五特異点をインドでやってみた」を読んだことのある方はおわかりのように、本性が出るとアディティナンダはエセ敬語キャラになります。
わりかしドゥリーヨダナに対して殺意増し増し。悪辣王子の明日はどこだ!? そして、彼の真意は一体……? みたいな感じですが、本章の最後に語れたらなぁと思います*)