――象の都・ハースティナプラ。
圧倒的な力で周辺諸国を平らげた先王・パーンドゥによって礎が築かれ、現王・ドリタラーシュトラによって繁栄を謳歌している麗しの都。
辺境にまでその名を轟かせ、その名を知らぬものはいないとまで吟遊詩人達が歌い上げる、人の世界で最も栄華に満ちたクル王国の首都である。
富める者に貧しい者、若い者に年老いた者、男に女。
肌色も髪色も異なる人々が蜘蛛の巣のように張り巡らせた通りを行き交う、活気に満ちた街。
都の中心にある、広く立派に誂えられた大通りを北上すれば、パーンドゥが獲得した戦利品と交易による富で儲けた財で造り上げられた壮麗な王宮を確認することができる。
人と情報、そして宝の集まる街――それがハースティナプラである。
「……! アディティナンダ、アディティナンダではないか!」
優れた武術の師になり得る人物の情報を求めて王都の表通りを歩いていた俺に声をかけてきたのが、カルナと同じ年頃の褐色の肌の少年だった。
カルナの養父母を始めに、カーストの下位の人々と触れ合うことの多い俺としてみれば、小綺麗な身なりの少年に該当する人物の名が思い出せない。そんな訳で少々不躾だとは思いながらも、足を止めてまじまじと少年の姿を見やった。
「アディティナンダ、久しぶり! またこうして、お前に再会できて僕は嬉しいよ!」
真っ白な歯を見せて快活に笑う少年の姿に――厳密に言えば少年のさらりとした赤い髪の奥から覗く、キラキラとした宝玉の黄金の輝きが脳裏の記憶が刺激する。
前回会った時はお世辞にも綺麗とは言えない服をまとっていたのと、現在身に付けている見事な綾目の衣類との違いのせいで、あまりにも印象が異なったがために、少年の名前を思い出すのに時間がかかってしまった。
「まさか……アシュヴァッターマン様ですか?」
「その通り! 見てくれ、父上がクル王の一族の武術指南に任命されたおかげで、こんなに綺麗な服を着れるようになったんだよ」
誇らしげに胸を張るその姿は幼い容姿と相まって非常に微笑ましい。
カルナが成長の過程でどこかに落っことした、愛嬌とか可愛げというものの重要性を思い出してしまったくらいには。
アシュヴァッターマンは武道に長けたバラモンとして高名なドローナの最愛の息子である。
また、生まれながらに貴石をその額に宿していた、という点において太陽神の鎧を帯びて生まれた弟のカルナに共通する部分があった。
彼と彼の父親は、俺のお客さんの一人であった。
正確に言えば、カルナと本格的に暮らし始める前の旅の道中で出会い、彼の父親共々に歌を所望された間柄である。
ドローナは旧友である国王を訪ねる旅の最中であったとのことだったが、その国王とはクルの王だったのだろうか? それにしては、あの時から大分期間が開いているのだが――と内心で小首を傾げつつ、身をかがめて、少年と目線を合わせる。
「父上――と言えばドローナ様ですか。武道に長けた方とは言え、まさか王族の方々の指南役になられるとは……おめでとうございます」
バラモンである父親に溺愛されながらも驕ることのない少年を敬遠する要素など全くなかった。
なので、心からの祝福を込めて微笑みかければ、少年は幸せそうに破顔する。
「ありがとう、アディティナンダ! お前がそう言祝いでくれて、とても嬉しい。誉れ高い父を持てて、僕は幸せ者だ」
「ふふふ。それはよろしゅうございました」
そもそも、ドローナが旅立った大きな理由は、最愛の息子に満足に食事させられない自分の身の上を恥じたのが原因だった。
――それがこうして大出世を果たしたのだ。
他者からの施しを生計の基本とするバラモン階級の人間としては異端のことでも、父親としては立派である。……人のことを放り出してそのままな、どこかの太陽神に見習って欲しいくらいだ。
「アディティナンダ、前に僕に話してくれたこと覚えてる? アディティナンダの弟のこと」
「……カルナのことですか? はい、勿論覚えていますとも」
それにしても、屈託のない喋り方と笑顔の可愛らしい少年である。
普段から接しているカルナの表情筋が死滅している分、快活なアシュヴァッターマン少年の微笑みには心癒されるものがある。
カルナに悪気がひとかけらもないことは百も承知だが、あの率直な物言いは心の柔い所を随分と容赦なく抉ってくる――とはいえ理解してしまえば、あの性格さえ愛すべき要素となるのだが。
「父上はパーンダヴァとカウラヴァの殿下方の武術指南を任されたのだが、特別に王のお許しを得て、望む者全てにその門戸を開くことになったんだよ! 僕、そのことを知ってアディティナンダに教えてあげたいなぁ、ってずっと思っていたんだ!」
少年の小さな両の掌が俺の手をぎゅっと包み込む。子供の率直な好意を表すように、結ばれた両の手がブンブンと上下に大きく揺れた。
――そうそう、あの時は夜咄の一環としてお互いの家族のことを話し合ったんだっけ。
ドローナは息子の素晴らしさと義理の兄弟ことを熱弁し、息子のアシュヴァッターマンは父親をいかに自分が尊敬しているのか、ということを滔々と語っていた。
かく言う俺はといえば、息子を作った挙句どこぞに放逐した父親の話と不遇な環境にも負けず日々逞しく生きている弟の話をしたことを覚えている。
家族愛に満ち溢れたドローナ親子の姿にちょっと心が揺れ動かされ、瑣末な話ではあるがと前置きをおいた上で、カルナが武術を身につけたがっている、ということを
「そう思っていた途端にアディティナンダに会えたんだ、神様のお導きだね! ――ああでも、アディティナンダ。僕の話……教えるの、遅すぎたりしないよね?」
「いいえ、いいえ! そんなことありませんとも! 教えていただき、ありがとうございます」
まさかカルナの武術の師について思い悩んだその日のうちに、このような朗報が耳に届くとは思わなかった。このような幸運に恵まれるだなんて、幸先良さそうで何よりである。
しかも、ドローナといえばパラシュラーマ隠遁前の有名な弟子の一人だ。
パラシュラーマがその生涯において獲得した全ての戦いの術を習得したことでも知られている。
――まさに武術の師匠としてはうってつけの人物じゃあないか!
「本当にありがとうございます。弟……カルナは俺に似ず、武術の才能に恵まれた子。きっと、ドローナ様の誇りとなる弟子となりましょう。アシュヴァッターマン様のお心配りに感謝します」
「えへへ。そう言われると本当に嬉しいよ。……アディティナンダは僕らが貧乏でもバカにしなかった人だもの」
それまで快活な微笑みを浮かべていた少年が、わずかにその面を翳らせる。
ヴェーダに通じ、天上の神々に次ぐ存在として人々の尊敬と崇拝の対象であるバラモンだが、人々に托鉢を求めて糊口をしのぐ生き方故に、時に蔑みの目で見られることもある。
……まあ、他を踏みつけての上位に属している癖に、我儘な悩みだなと思わなくもないが。
「だから、こうしてまた会えて、すごく嬉しかった!」
「……私もです。また、ご両親とアシュヴァッターマン様のために一曲謳わせてください」
「うん! 父上にお願いしておくよ! また会おうね、アディティナンダ!!」
お使いの途中だという少年バラモンは、そう言って立ち去っていった。
バラモン階級の子供って、身分が身分なだけにとんでもない性格の子が多いのだが、アシュヴァッターマンは数少ない例外のようだ。
――正直、今回の件だけでも彼に対する好感は鰻登りである。
「さぁて、どっかで歌って日銭を稼ぐとしましょうか。それこそ、可愛い弟に何か美味しいもの食べさせてあげたいし、ね」
大出世を果たしたドローナほどではないけど、俺も家族を養えるだけの金銭を稼いだ方がいいのかもしれない。
<登場人物>
・アシュヴァッターマン
…クル王家の王子たち(パーンダヴァ五王子とカウラヴァ百王子)の武術指南を任された武闘派バラモン・ドローナの息子。
生まれながらに額にあらゆる厄災を退ける宝石を宿し、長じて後は全ての武器に精通すると謳われた武人となった。
幼い頃は父親共々貧しい暮らしをしており、『マハーバーラタ』に挿入された幼少期のミルクの思い出は非常に切ない。
因みに、アシュヴァッターマンというのは「馬の鳴き声」という意味で、名付けの由来については、生まれ落ちた時に馬のように嘶いたが故の命名である。