「お見事だ、美しい女楽師殿! それまでの無礼な振る舞いも、王を前にしての不遜な態度も、先ほどの歌声に値するものとして見逃してやろうではないか! 貴様の歌声には天上の楽団であるガンダルヴァのいかなる面々とて叶うまい! 誇ると良い、まさに至高の美声であったぞ!」
重厚な響きとともに王宮の門が開かれる。
固く閉ざされていた内側から登場したのは、華麗に着飾った巌のような大男だった。
――大岩を削り取ったような荒々しい容貌、それに見合った大きく逞しい全身。
炯炯と光る野生の虎を連想させる琥珀色の両眼に、猛獣の毛並みの如く逆立つ黒褐色の髪。
絢爛たる冠の下には何処かの戦いで負ったものなのか、眉間から顎先まで走る一直線の傷跡。
鍛えられた褐色の肉体を覆っているのは簡素に見えつつも見事な造形の鎧で、その腰には宝玉が誂えられた見事な長剣を帯びている。
大男の後ろには幾人もの家臣たちがうやうやしく控え、大男を目にしたマガダの臣民たちが一斉に恭順の姿勢を見せたことから、彼がジャラーサンダ国王であるということは一目瞭然であった。
「――して? この国の王である余をその歌声で王宮の内から誘い出したのだ。当然、なんらかの企みをもってのことだろう? 下手なおためごかしは不要だぞ、謎の女楽師」
「無論ですわ、雄々しきマガダ国の国王陛下」
慣れない女言葉で対応して、ふんわりと微笑んでみせる。
結局のところ、本気の一端でしかない先ほどの歌声の力では一部の効果しか発揮しない。
特に何処の神の加護下にある人間には、ただの美声にしか過ぎなかったことだろう。兵士が戦意を喪失し、民草が突然の侵入者に対する敵意を霧散せしめた今、ただ二人――俺の声による術の対象外であったジャラーサンダ王とカルナのみが武器を握る力を持ったままだ。
――――なので、
「……用があるのは、オレの方だ。――偉大なるマガダ国の王よ」
ずい、とカルナが一歩前に出る。
それまで静かに成り行きを見守っていた時の静けさが一変して、燃え盛る炎のような闘気が全身に漲っている。
カルナが一歩前に出たのと合わせて、俺は一歩後ろに下がる。
カルナの頼みに応じて、王宮で厳重に守られているその玉体を引きずり出した。――俺の役目はここまでだった。
――――最早、カルナに任せるのみである。それでは、お手並み拝見、といこうか。
「――貴様……。その黄金の鎧、只者ではないな。良い、名を名乗ることを許そうではないか」
飢えた虎さながらに獰猛に唸るジャラーサンダの詰問に、カルナは涼やかな蒼氷色の双眸を見開いて、相手の一挙一動を冷静かつ冷徹に観測する。
――強者は、強者を知るという。
その完成された武芸者の身のこなしに、国王はそれまでの鷹揚とした態度をかなぐり捨てて、警戒するように柄の上に左手を乗せる。
「――……名はカルナ。我が主人であるドゥリーヨダナ王子の名を受け、マガダ国王ジャラーサンダに一騎打ちを申し込みに来た」
相変わらず簡素かつ率直な物言いである。長々と演説が始まるのかと身構えていた国王が肩透かしをくらったのか、虎を思わせる両眼をぱちくりと瞬かせた。
ニィ、と獰猛な笑みを浮かべた国王に、何だか嫌な気配を感じて眉間を寄せた。
「――……ドゥリーヨダナ、ドゥリーヨダナ……か! 聞き覚えがあるぞ、あのドリタラーシュトラ国王の長子だな。なるほど、悪辣王子というのは存外揶揄でもないようだな。余の動きを察知した挙句に、抜け目なく抱えたばかりの武芸者を送り込んできたか」
片目を眇めて、獲物を品定めするような目つきでジャラーサンダがカルナを見やる。
――嗚呼、あの目はあんまりよろしくない。武術大会で第二王子が見せたような、嫌な目つきをしている。
カルナの身分を聞き、それまでの警戒心を捨てて、完全に舐めた表情を浮かべている。
「――だが、カルナ、カルナか……! 思い出したぞ、数日前にクルの王都で開催された武芸大会に身の程知らずにも第三王子に決闘を申し込んだ男だな? 貴様の噂はこんな山間の鄙びた都にまで届いておるぞ。――身の程と分を弁えぬ不遜かつ無礼な御者の息子である、とな!」
呵呵大笑する国王に、カルナの雰囲気が剣呑なものになる。
それに気づかぬほど愚鈍な王ではなかろうに、なおも挑発するように朗々とした声を響かせる。
嗚呼、やだなぁ。
カルナが尋常ならざる武芸者だって気づいていた癖に、どうしてそうやって余計な一言をこの王も付け加えずにはいられないんだろう。
「……あの小童め、誰を送ってくるかと思えば、ドローナでもビーシュマでもなく、たかが御者の息子だと? ――余を愚弄するのも大概にせい。王都侵攻の暁には、あやつを真っ先に血祭りにあげてくれようぞ」
――なに、王子が一人減ったところで、あの国は王族の数には困るまい。
きっとシヴァ神も満足のいく生贄が十分に集まることだろう、と嘯く王の姿に、カルナの表情が自然と険しくなる。
思う存分、この場にいないドゥリーヨダナを嘲笑って、野良犬でも追い払うような仕草でマガダ王はカルナへと手を左右に振って見せた。
「――疾く失せよ、カルナとやら。クシャトリヤでもない貴様と戦ったところで、余の名誉にもならん。さっさとそこの女楽師を置いて、この国より立ち去れ――そして王子にこう伝えることだ。マガダ国の王が近い内に貴様の首をもらいに参上する、とな!」
そう言って好色そうな視線を俺に向けてくる国王に、こいつもクル王国の頭の固い奴らと同類かと思って、内心で溜息をつく。
つくづくドゥリーヨダナ王子が異端児であり、柔軟な思考の持ち主であると実感する。
――これであの不吉な運勢とパーンダヴァとの関係性さえ関係しなければ、カルナの上司としても主君としても理想的な人物なんだなぁ、あの悪辣王子。
「この国では珍しい金の髪に、空色の眼の美しい女だ。声は無論のこと――どれ、体つきも悪くない。貴様の無礼の詫びとクル王国からの貢ぎ物として、余の後宮に寵姫の一人として加えてやろうではないか」
「――――ぅわぁ」
おっといけない。口を開くまいと思っていたが、正直な感想が口から出てしまった。
絶世の美少女の外見に騙されすぎだよ。確かに、これまでの経験からこの姿が男の獣欲をくすぐることもあると知っていたけど、相変わらず全然ときめかない。
レヘンガの一部である薄衣で口元を覆う。
相手からは恥らっているように見えただろうが、そうでもしないと仮にも国王に対して罵詈雑言を言いそうになってしまうので、必死に堪える。
「……随分とよく回る舌だな。マガダ国の王は武に優れた勇士と伝え聞いていたが、どうやら剣で語るよりも弁舌を交わす方が得意という訳か。――残念だな」
「――――なんだと?」
――ザッ、と砂を踏みつける音と共に、カルナが俺を国王の視界から隠すように一歩前に出る。
こちらからは完全に、カルナの鎧に覆われた背中しか見えなくなった。
「オレは生来不器用な性質でな。百の言葉を紡ぐよりも、我が槍の一振り、我が弓の一矢で語る方が気が楽なのだが……どうやらお前はそうではないようだ。ならば仕方あるまい。我が主・ドゥリーヨダナには悪いが、お前が身分を盾にオレと戦うことを拒む以上、その言葉を押しのけてまで我が意を貫く訳にもいくまい」
おお、カルナ本人はいたって悪気が一欠片も無いのだが、あまりにも率直過ぎる言葉に国王が煽られる、煽られる。剛勇を誇りにしている国王にとって、カルナの告げた感想はその誇りに泥を塗られたようにしか感じないだろう。
――だって、口ばっかりで、お前の武芸の腕ってひょっとしたら大したことないんじゃない? と言われているようなものだものね。案の定、ジャラーサンダ王の発する気配が凍りつく。
「……そこな女楽師よりも、貴様の方がよほど太々しい限りだな。身の程知らずもここまで行くと、いっそ小気味好い。――よかろう、我が口舌よりも我が武勇の方が数百倍優れていることを証明してみせようではないか」
冠の紐を解き、側に控えた家臣の一人に無造作に投げ渡しつつもジャラーサンダの表情は、思いがけない屈辱のために朱色を帯びている。そのまま、国王が腰に佩いた剣を鞘から抜き、周囲で様子を伺っていた国民たちに場を開けるようにして手を振って命じれば、王命を受けた民たちが慌ててその場から離れた。
俺はと言えば、カルナとジャラーサンダを中心に円を描くような形で人々が遠ざかったのを確認し、兵士たちに指示を出す。そうして、誰かが途中から参加できないようにと、彼らが手にしている抜き身の剣や槍を地面に突き刺させて、簡易な柵を二人の周囲に設けさせた。
――――これで、簡易的な決闘場の内側にいるのは審判の俺に、これから戦う二人だけだ。
真っ先に口火を切ったのは、国王だった。
「――我が名はジャラーサンダ。下賤の者よ、貴様の分不相応な決闘を受けてやる代わりに、余が勝利を収めた暁には、そこな女楽師の身柄と貴様の主であるドゥリーヨダナの首、そして……」
静かに佇む俺、次いでカルナの全身を見遣って、国王がにやりと笑う。
そうすると、眉間からあご先まで伸びる傷跡が歪んで、ひどく凄絶な面持ちとなる。
「貴様の全身を包む、その見事な黄金作りの鎧の所有権を、余に譲ってもらうぞ。名もなき御者の息子風情には過ぎた代物だ。そのような宝は余の手にあってこそ真価を発揮するものだからな」
「……それが決闘を受けてもらう条件ということであれば、構わない。――我が父の名に誓って、オレが敗北した暁にはその三点を謹んで献上しよう」
涼しげな表情を崩さないカルナに、こっちの方が心配になってくる。
大丈夫かな、負けはしないとは思うけど、相手はジャラーサンダだしな。……うう、この時ばかりは武才のない我が身が恨めしいことこの上ない。どうして、スーリヤは俺に戦闘機能をつけてくれなかったのだろう。
「――だが忘れるな、ジャラーサンダ王。オレにとって最も価値のあるその三点を対価とした以上、お前にもそれ相応のものを敗北の代償として支払ってもらうぞ」
――全身をひしひしと浸すような、密やかな殺気がカルナを中心に渦を巻く。
相手が人の子であるからか、第二王子相手に激高した時のように魔力を暴走させることはなかったが、その闘気を感じ入って空気が不穏な気配を孕んで唸り声を上げる。
「いいことを教えてやろう、御者の息子。堂々と勝負を挑み、闘いに勝ったものは、相手を己の意のままに扱っても良いというのがクシャトリヤの慣習だ。――せいぜい、下賤の身で余に挑んだことを後悔するといい」
挑発的に微笑み、ジャラーサンダもまた相手を威圧するように全身から闘気を放つ。
すぐさま相手の動きに対応できるように腰を低くしている姿勢は、まるで野生の虎が獲物へと襲いかからんとしているようだ。
「――それでは、これより双方の合意により決闘を始めるものとする。本来ならば、バラモン達によって場を清め、儀式を行うべきであるが……今回に限り、戦士達への祝福は先ほどの讃歌で十分代わりが務まるでしょう」
何せ、人の器に収められたとはいえ、神霊によるものだし、誰も文句などつけられないだろう。
実際、様子を伺っている兵士や家臣、民衆達からもとくに異論の声は上がらない。
「異議はないようですね――よろしい、では!」
念のため、どこぞの神々から横槍が入れられないことも確認した後、都全体に響き渡るように大きく声を張り上げる。
「――ラージギル五山の守護者、マガダの国王にしてラージャグリハの支配者・ジャラーサンダ」
「……応とも」
「――麗しき象の都の統治者・ドリタラーシュトラの息子、クルの王子であるドゥリーヨダナの家臣、カルナ」
「――……国王に同じく」
「勝敗については、どちらかが降参を認めるまで。あるいは先に立てなくなった方を敗者とみなします。また、いかなる助太刀も横合いも破壊神たるシヴァ神の御名の下に、認められません」
ここで一旦言葉を切り、反応を伺うが問題はないようだ。ぺろり、と唇を舐める。
「――双方異論はないようですね、それはよろしい」
炯炯と虎の目が、蒼氷色の双眸が互いを睨む。二人の戦士によって発せられる、尋常ならざる殺気と鬼気の応酬に、山間を駆ける涼やかな大気でさえ、まるで慄いたように軋んだ声を上げているようだ。
――……世界に一瞬の空白が生まれる。
「――――いざ尋常に、勝負!」
「お知らせ」
(*「ジャラーサンダ討伐編」ですが、決闘の決着やその後の姿を描いた物語は今週末に投稿します。第2章の締めくくりとして<幕間の物語>を執筆したいと思っております*)
(*<幕間の物語>ですが、ビーマ王子視点かアルジュナ視点で一つ書き上げようと考えております。
そこで、アンケートを取らせていただきます。
アンケートの選択肢ですが、
1、ビーマ王子視点 時系列は武術大会終了直後 2、アルジュナ視点 時系列は前話の裏話、
という具合になります。読みたいという番号あるいはその旨を記載した上で、コメントの欄に記入していただけますと幸いです*)
(*なお、アンケートの集計については第2章の最終話が投稿された日に取らせていただきます*)