(*この話の一部を分割したものに、加筆して次の話を投稿させていただきました*)
――とうとう、この日が来てしまった。
そわそわと浮き足立つ全身を意思の力で押さえ込み、ざわざわと心中に込み上げてくる形容しがたい感情を、なんとか消化して見せようと唇を噛み締める。
――嗚呼、このどうにも例えようのない感覚は一体なんなのだろう?
まるで、自分の薄皮の下を無数の小虫が這いまわっているようであり、誰かの爪先が胸元の一番柔らかい場所を掻き毟っているよう、とでも称すべき、この感覚は。
どうにもこうにも落ち着かない。どうしても、おとなしく座ったままではいられない。
――ので、少しでもこのざわめく心中を鎮めるために、特に目的のないまま立ち上がって狭い室内をぐるぐると歩き回る。
「――こんなに朝早くから、一体何をしている?」
「カルナ!」
手持ち無沙汰に室内を徘徊していた俺へと、淡々とした声音が投げかけられる。
カルナの登場とともに持ち主の存在を知らしめるように、黄金の鎧がお互いに触れ合って涼やかな音色を奏でた。
「――……目覚めの時には、早すぎるのではないか?」
「それを言うなら、カルナもじゃないか。暁の女神もようやく姿を現わしたところだよ?」
日輪が登るその前触れとして、朱金と薄紅の色に東の空が染まる。
夜の眠りの帳の元の全ての生き物たちに目覚めを促すのは暁の女神・ウシャスの仕事だ。
薔薇色の神馬にまたがり、薄紅と金色の花嫁衣装を身に纏った美しい乙女がそっと地上に微笑みかける。太陽神であるスーリヤとも馴染み深い女神が空を駆けていく姿を見送れば、隣で佇んでいたカルナがそっと息を吐く音が聞こえる。
「今、暁の女神が空を渡って行ったよ。そろそろ日が昇るね」
「そうだな……新しい一日の始まりだ」
夜の名残を色濃く残す藍色と薄紅が密やかに混ざり合うことで、朝と夜の境界が赤みを帯びた美しい紫色へと変じていく光景はいつ見てもいいものだ。
ちらりと横目を向ければ、白皙の美貌が東の空から差し込んできた赤金色の光を浴びる。
そっと黙礼するように印象的な双眸を伏せたカルナが、小さく口の中で太陽を讃える一節を口ずさんだ。
「――いよいよだね、カルナ。準備の方は大丈夫?」
「アディティナンダは気構えすぎだ。そのような些事に余計な気を回す時間があるのなら、別のことを憂うべきではないのか」
「わかってないなぁ。――あのね、他ならぬお前のことだからこんなにも心配しているし、地に足つかぬ心地に陥っているんじゃないか」
……嗚呼、なるほど。そうだったのか。――指先で唇を抑えながら、胸中でひとりごちる。
自分の口から自然と零れ出た言葉に、他ならぬ俺自分が最も納得した。
だから、こんなに朝早くから目が覚めた挙句に、そわそわした気持ちに襲われたのか。
――――そう、ドゥリーヨダナの屋敷にて盛大な歓待を受けたあの夜から、はや数日。
カルナのアンガ国国王就任の手続きや宮中の仕来りといった細々とした雑事を済ませたドゥリーヨダナが、正式な家臣の一人としてカルナに宮中に参列するよう申しつけた日、それが今日だ。
「――カルナもひょっとしたら緊張している?」
「――……そうだな、しているのかもしれない」
いつも通りの仏頂面ながらも、やや硬い面持ちのカルナの額に手を伸ばして、幼い時していたように撫で付ける。ついでにさらさらとした指通りの良い髪質の触感を楽しんでいると、蒼氷色の双眸がじっと俺のことを見つめ返す。
「なぁ、カルナ。お前がこうして仕えるべき主人を見つけて、その武勇を振るう場所を見つけられたのは、俺にとっても喜ばしいことなんだよ」
……相手があの不穏な将来しか見えない悪辣王子でなければ、もっと安心できたのだけども。
でも、カルナがドゥリーヨダナに対して恩義を感じ、彼に忠誠を誓うことをカルナ自身の意思で決断したのであれば、カルナの選択を重視する俺としてはそれ以上何もいいようがない。
「ただ、お前が想像している以上に、宮中という場所は魑魅魍魎の住処だ。――良い意味でも、悪い意味でも、お前の存在は目立つから、きっと大勢の人間から色々なことを言われることだろう」
心配ではあるけれど、ドゥリーヨダナの直臣として召し抱えられたカルナの職場にまで俺はついてはいけない。
……いや、本当に心配だけどね! 生まれしか取り柄のない心ない人間にカルナが嫌がらせを受けたらどうしようとか、事実無根な讒言や中傷の嵐に苛まれることになったらどうしようとか、考えずにはいられない。
――最も、そんなものに屈するカルナの姿を思い浮かべられないことも、悩みの種だが。
……むしろ、率直過ぎる物言いのせいで、無用な軋轢を周囲に生じさせかねないんじゃ?
というか、直接的な助けになれない以上、今後の俺はそちらを懸念した方が良いのかも。
――嗚呼。そう考えると、少しお腹が痛くなってきたような……気がする。
我が子の就職って喜ばしいことだと思うのだが――なんにせよ、全くもって前途多難な道のりになりそうだ。
「もしも、生まれのことで詰られたりしたら、思ったことをそのまま言い返してやりなさい」
まあ、お高い殿上人相手にそんなことすれば「無礼な!」と目を吊り上げられそうだが。
けど、やられっぱなしも却って良くないからなぁ……。そんなことをすれば、カルナを採用したドゥリーヨダナの評判を一時的には貶めるかもしれないけど、正直な話、知ったことか。
そも、カルナのもはや口撃ですらある舌鋒をそんじょそこらの人間が耐えられるはずもなし。
自衛のためと割り切って、口さがない人々が口をつぐむまで、ドゥリーヨダナ王子には我慢してもらおう。
「――お前の、その真実を見抜く目を曇らせることなど、育ち以外に欠点を見つけられない相手に出来るものか」
「……了解した。心に留めておこう」
とはいえ身分のことでしかカルナの欠点を見つけられない時点でそいつはダメだな。
そんな奴の蔑みごときにカルナが心を揺らすことはないだろうが、それでもカルナが好き勝手言われたままなのも腹が立つので、そうやって嗾けておく。
なんとなく、俺が言葉にしていない微妙な意味合いを理解したのであろう。
朝日を浴びるカルナの白皙が、ほんの僅かに苦笑の色を宿した。
「ドゥリーヨダナに仕えるとお前は決めた。俺はお前自身の意思を尊重する――けどね」
透き通った蒼氷色の双眸をじっと見つめ返しながら、一言一言に言葉だけではうまく説明のできない感情を込めるように、ゆっくりと声に出す。
「――もし。もし、お前が、ドゥリーヨダナ王子についていけないと感じたり、宮中で働くことに嫌気がさしたら」
初めて出会った時の、小さな男の子にすぎなかったカルナ。
見目麗しく、虚飾を見抜く慧眼を有しながらも、人の営みの中に溶け込めなかった異端の半神。
あの子供が、曲がりなりにも人間世界の中に居場所を得ることができたのは、素直に喜ばしい。
――それでも、この子の家族として、俺は……こう伝えずにはいられないのだ。
「それなのに、面倒な感情や義理人情に縛られているせいで、自分の意思でその囲いから抜け出せない、と。そんな風に思うときが来たら――その時は、俺にそう言ってくれればいい」
幼い頃のカルナに物事の道理を言い聞かせた時のように。
まろみを失ったその両頬を掌で包み込んで、じっと蒼氷色の両眼を見つめる。
昔は俺の方がしゃがみこむようにして小さなカルナと視線を合わせていたものだけど、その位置関係もすっかり逆転してしまった。月日が経つのは、本当に早いものだと実感する。
「俺は人の子たちのややこしい
天から地上に堕とされ、空っぽだった俺に心をくれたのはこの子だった。
"アディティナンダ"という今の俺の人格は、カルナとの出会いによって生まれたものだ。こうして俺自身が意思を持つ存在に成り果てたからこそ、それまでの自分がいかに空虚な存在であったのかを理解せざるを得ない。
――きっと、この子に会うまでの俺は何物にもなりきれない、ただ呼吸をするだけの生きている人形とでも称される存在だった。
「つまり、何が言いたいかっていうとだな。お前が全てを投げ出したくなった日が来たら、その時はお兄ちゃんが颯爽と助けに行ってやるから、退路の心配だけはしなくていいよってこと!」
もしそんな時が来たら、それこそ、盗んだ戦車で行き先のわからぬままに走り出してやろう。
なんだったら世界中を駆け巡ることのできるスーリヤの七頭作りの黄金の戦車でも、もらっちゃってもいいね。
――……多分、そんな日は永遠にこないだろうけど。
「……そうか。それは心強いな」
「そうだとも! 俺はお前とは違って戦士ではないからね。危ないと思ったら、カルナを担いでさっさと逃げるよ?」
「アディティナンダの筋力的に、鎧を身につけたオレを運ぶのは無理だと思うが……」
「あんまり楽師を莫迦にしないほうがいいよ? 一晩中歌い続ける宴もあるからね。持久力についてはそこらの兵士にだって引けを取らないさ!」
困ったように微笑むカルナに、軽口で応じれば、早速言葉遊びに乗ってくれるのが嬉しい。
嗚呼、本当に大きくなっちゃったなぁ……。小さい頃はカルナが訓練や化け物退治に疲れて眠ってしまったら、背負って帰るのは他でもない俺の役目だったというのに。
今では自分の背の後ろで庇うことさえ出来やしないのが、どうしてだかとても悲しい。
「――……本当に、オレは恵まれている。父からは祝福として鎧と耳飾りを授かり、善良な養父母に拾われ、この齢になるまで育ててもらうことができた……それに」
そっと、黄金の籠手に覆われた指先がカルナの頬に載せた俺の片手を包み込む。
日輪の威光を体現した黄金の鎧が、窓から差し込む太陽の輝きを帯びて燦々たる煌めきを放つ。
「それに……こうして、至らぬオレに心を砕いてくれる肉親の存在が側にいてくれる。――これ以上望みようがないほど、オレは満たされているな」
「……莫迦だなぁ、カルナは。もっと、色々と望んでくれたって、俺はいいのに」
本当に嬉しそうに鋭利な眼差しを緩めているカルナの微笑を目にして、胸にこみ上げてくるものがある。
眦とどうしてだがわからないけど眼球が熱い、この現象は一体どういうことなんだろう?
「オレは、オレに報いてくれた人々に相応しい己でありたい。――アディラタやラーダー、我が父・スーリヤ、それに何より、アディティナンダに恥じることのない生き方を貫きたい――ともすれば、己の分を弁えぬ傲慢な願いかもしれないが……」
「嗚呼、もう!」
「……唐突にどうした、そんなに頭を撫でられるようなことをオレは口にしたのか?」
俺よりもほんの少し高い位置にある形のいい頭を、ちょっとだけ背伸びをしてわしゃわしゃと撫で回す。そんな風に言わなくても、常に心掛けなくても、お前は十分俺の誇りだっていうのに。
「あのね、カルナ。もしもカルナが世界中を敵に回したとしても、もしも父であるスーリヤの意に沿わぬことをして不興を買ったとしても――俺はカルナの味方だからね。だから……そう、何か……何かお前だけでは手に負えないことがあったら、俺を頼っておくれ」
五兄弟の父である神々のことを俺も笑えない。
もしカルナが望むのなら、俺だってなんだってしてあげたくなる。
こういう時、偏愛は神々の生来の気質だと心底思い、自分は真っ当な人の子のようにはなれないのだと実感してしまう。
いけない、いけない。
人の子であることを選んだカルナに対する過剰な思い入れは、この子を不幸な未来に導かねない。
「――アディティナンダは、オレに過保護だな」
ふ、と柔らかな微笑みを浮かべて、カルナが頬を寄せていた俺の手をそっと下に降ろす。
人肌の温もりから距離をとったせいで、黎明の冷たさがそっと俺の肌を撫ぜた。
「お前がお前自身に厳しすぎるから、俺がお前を甘やかしたって誰にも文句など言われないさ」
思わず苦笑が溢れる。一度だけ、拳をきつく握りしめて、そっと力を抜いた。
感傷的な思考に浸りかけた自分自身を切り替える。そうしてから、カルナの前で身を翻して、厨房の籠の中に入れてあった果実を一つ手に取った。
「少し早いけど、朝ごはんにしよう! ――ただでさえお前はひょろひょろしているんだから、しっかりと滋養のあるものを摂らないと」
「そうだな。アディラタたちももうそろそろ目覚める時刻だろう。――手伝おう」
カルナの方へと籠から取り出した果実を数個放ると、危なげない動作で見事に掴み取る。
戸棚の中に直している小刀を手にしてするすると皮を剥いていく手際の良さは、そこらの婢女にも引けを取らないだろう。
「……先ほどの話の続きだが……」
「――うん?」
「普段も頼りにしている。……感謝する、アディティナンダ」
やや白皙の肌を紅く染めての一言に、思わず破顔する。
そんなこと、改めてお前に言われるまでもない――何たって。
「――当然! 何たって、俺はカルナのお兄ちゃんだからね!」
兄というものは弟から頼ってもらってなんぼだもの!
そう言って胸を張れば、カルナが苦笑する。
うんうん、いい傾向だ。目覚めた当初の、俺は兎も角、カルナですら気づけてなかった余計な緊張がすっかり何処かに行ってしまったようで、何よりです。
「ついでにカルナ。俺のこと、おに――」
「すまない……それについては御免被る」
全部言い切る前に切って捨てられた。
でも、久方ぶりに兄としての威厳とやらを発揮できたし、今日はこれでいいことにしよう。
寝室から、がさごそと音が立つ。
アディラタ夫妻とその子供達が目覚めたことに気づいて、カルナと二人、朝食の支度を急いだのであった。
更新はこれまでに比べると、ちょっとゆっくりかもしれません。
気を長くしてお付き合い頂けますと、嬉しいです。