これが最初の分岐点、ということになりますね。
夜の闇の中から、猫のようにしなやかな動きでカルナがその姿を現した。
肉体と一体化している黄金の鎧が輝き、宵闇の仄暗さに包まれていた空間に光と彩りを与える。
その姿を認めて――ようやく腹の中に巣食っていた灼熱が完全にいずこかへと消え失せ、全身がじんわりと温まっていく。
「…………随分と、熱烈な言葉だったな」
「……そうだね。――この王子様はお前の価値を非常に高く見積もってくれている。これまで出会ってきた誰よりも、お前に敬意を持って接してくれている。諸々の打算込みとはいえ、その心と言動に嘘はないだろう」
気配も足音もなく歩み寄ってきたカルナに気づかなかったドゥリーヨダナは驚いたように肩を揺らしたが、特に弁解の声を上げることもなく、静観の姿勢をとった。
ドゥリーヨダナの変な潔さに内心で感嘆しつつ、カルナの涼やかな蒼氷色の双眸をじっと見つめながら、重い口を開く。
「――それを踏まえて、
カルナ自身を身分の色眼鏡や好ましくない評判に惑わされずに、その本質を見ている王子には感謝している。どんな目論見があったにせよ、競技大会の、あの瞬間に、カルナのために助けの声を上げてくれたことにも。
――――それでも、俺はこう言わなければならない。
「
――天上では星々が煌めき、地上では赤々と燃え上がる松明の炎が周囲を照らす。
夜間にこれだけ松明を消費することが叶うのは、一部の特権階級だけ。
そして、カルナも今晩、その恩恵に預かった身だ。今日の出来事はカルナのこれまでの経験とかけ離れた出来事ばかりだっただろう。
手触りのいい豪奢な服。山海の珍味を集めた豪勢な食事。
目を見張らんばかりの美女たちによる華やかな歓待。
邸のあちこちを彩る絢爛豪華な宝玉と尽きせぬ黄金の輝き。
普通の人間であれば、ドゥリーヨダナとその家臣たちによる至れり尽くせりの歓待に舞い上がった挙句、碌に考えることなくその誘いに対して、夢心地のまま彼の誘いに首肯したに違いない。
――けれども、今晩最もカルナの心を震わせたのは、そんなものではなかったのだろう。
「そうだな……。――オレは確かに一介の武人として、あの王子と戦いたいと思っている。また、会場で不名誉な挑戦者という立場からオレを救い、我が父が王族たちに愚弄されるのを庇ってもらったことに、心から恩を感じている」
今日一日だけで目紛しい回転具合だった。それを思い起こすように、カルナが瞼を伏せる。
「――だが、それにも増して……。取るに足らぬオレ自身に、こうまで価値を見出してくれたこの男の期待に応えたいと――思う。オレのようなつまらぬ男に、最大限の敬意と友情を持って接するという奇矯な王子の本音に、オレ自身も同じ気持ちで応じてみたいと――そう、思っている」
カルナの静かな声が、宵闇に響き渡る。
宴の喧騒も人々の歓声もどこか別の世界での出来事の様に遠く、俺たちのいるこの場だけが別の世界に迷い込んでしまった様な静けさに満ちていた。
「……今日一日で様々な恩恵をこの男から与えられたが、競技会での言葉ほど、オレの心を震わせた物はなかった」
感慨にふけるように控えめに伏せられていた双眸がしっかりと俺の目を捉え、口元を綻ばせた。
夜の帳の下でも美しく輝く蒼氷色の双眸には、硬い面持ちの俺自身が水面のように映っている。
「――アディティナンダの言う通り、その先にあらゆる艱難辛苦が待ち受けているのだろう。だが、それはドゥリーヨダナとて同じことではないだろうか? であれば、オレは、この男の心からの厚意に応えてみたいと思う。――……武にしか取り柄のないオレがやれることなど、せいぜいこの男の槍となり剣となって、それらを薙ぎ払って進むことだけかもしれんが」
普段から受動的で他者への献身を常とするカルナだが、一度こうと決めてしまえば酷く頑なだ。
未だ幼かった頃のカルナに、自身の身を削るように他者へ施すような真似はよせ、と叱りつけた時だって、頑として自分がこうと決めた生き方を変えるようなことはしなかった。
――……俺に言われるまでもなく、カルナは最初からわかっていた。
ドゥリーヨダナの手を取るということが、今後どのような未来を己自身にもたらすのか。
人々の誉れ高く、武勇と知恵に恵まれた五人の神の子供たち。
ドゥリーヨダナの願いに応じるということは、そんな彼らと対峙する道を選択するということ。
――そして、彼らを庇護する父神たちと彼らに好意的な天界の神々をも。
――それは決して生半可な道ではない。
そう分かった上で、カルナがそのように判断するというのであれば…………。
……。
〜〜〜〜っ!
あ〜〜〜〜〜〜! もう!!
そこまでわかっているくせに、うちの弟ときたら!!
「〜〜どっからどう考えても、不穏な未来しか思い浮かばん! でも、カルナがそうするって決めたのなら、オレはそれを尊重してやるよ!! 嗚呼、もうっ!」
そうは決めたけど、でも納得いかんことがあるわ!
目をパチパチと瞬かせている性悪な王子へと振り返って、憤然と食ってかかった。
「――喜べ、この悪辣王子!! 俺の自慢の弟が、お前の味方についてくれるそうだ! 地面に頭をこすりつけて、泣きながら感謝の歌を捧げたっていいぞ! むしろ地面に頭を押し付けてやろうか、この野郎!! バカ! うちのカルナを非行の道に引きずり込みやがって!! 畜生!! でも、カルナのことを褒めてくれてありがとう!! この大馬鹿!!」
「……褒めているのか? それとも貶しているのか? どちらにせよ、どれか一つに絞ったらどうだ? ――それと、ドゥリーヨダナはオレの友だ。その友人の頭を無理に叩きつけようというのであれば、流石にオレとて止めねばならん」
憤っている俺を冷静にさせようとしたのか、カルナが口を挟む。
けど、この場においてはそれは逆効果である。そもそも! 誰のせいでこんなに怒っていると思っとるんじゃい!
「だまらっしゃい、この不良弟! こんな悪いお友達なんか作っちゃって! お兄ちゃん、お前の将来を思って心配で憂鬱な気分になっているんだから! 〜〜嗚呼、もう、もう! 王族の権力争いなんてものにうちの純粋なカルナを巻き込みやがって……! この悪徳王子!!」
もう〜〜!!
これだから、うちの子は! 地団駄を踏むとはこんな気分の時に行うことなのだと学んだ。
「これで粗雑な扱いなどしたら、末代まで祟るからな! 手始めに、生え際が後退するようなものから、死んだほうがマシだと思うくらいには極悪な呪いをかけてやるからな! カルナもカルナだ! 戦うと決めたなら、何が何でも絶対に勝つつもりでかかれ! あれだけ勧告されておいて、そのせいで死んだりしてみろ、俺は絶対許さないから!!」
もう自分が何を言いたいのかわからなくなってきた。
嬉しいのか、悲しいのか、喜ばしいのか、嘆かわしいのか。
楽しいのか、哀しいのか、舞い上がっているのか、落ち込んでいるのか。
地上に堕とされて以降、カルナとの関わりの中で様々な感情が俺の中に芽吹いていったが、それらすべてが一気に混ざり合ったような、なんとも例えようのない奇妙な気分だ。
ただ無性に地団駄踏んで、叫びたい。近所迷惑であろうとも、とにかく叫びたい! というか、このむしゃくしゃする気持ちを叫ばせろ!!
「当然だ。戦うからには容赦などしない。余計なお世話というものだ」
「阿呆! それでも心配なの! そして、どうやら、家族というものはそういうものらしいの! わかるか、このあんぽんたん!! おたんこなす! 表情筋死滅弟!!」
「信じていても、その身を案じずにはいられない。わたしにも身に覚えのあるものだな、うん」
「そうなのか?」
「そうだとも、我が友よ。――ご案じ召されるな、兄上殿。一騎当千の勇者に対して、また、信頼できる友に対しても、わたしはけっして粗略な扱いなどせん。わたしとわたしの両親の名誉に誓って、王侯貴族にも勝る生活と古今無双の勇士としての誉れを約束しようとも!」
カルナの肩を組んでにやにや笑っているドゥリーヨダナの顔を殴ってやりたい。
できれば、こう、黄金作りの弦楽器で思いっきり。
――嗚呼、こんにゃろ。
カルナに受け入れられたのをいいことに、この王子、早速調子に乗りやがって。
手始めに、箪笥の角で足の小指を必ずぶつける呪いでもかけてやろうか。
「それはやめておけ。あれは歴戦の勇者であろうとも耐えられない痛みをもたらす」
「そこまで俺の心情を理解できているなら、俺の忠告も素直に受け入れてほしかったなぁ!」
心持ち眉間の皺を深めたカルナが、首を振りながら忠言してくるので仕方なく諦める。
――ぶはっ、とドゥリーヨダナが笑い声をあげた。
この王子様とは直接言葉を交わすのはこれが初めてだが、こうしてカルナを交えて会話をすると、王宮での彼はかなり気を張った状態であると分かる。
あと、ビーマと違い、カルナと話している時は素直になるようで、悪態を一つも口にしてない。
なんとなくその片鱗は感じていたが、正直なところ、そんなこと知らないままで良かった。
「……ところで、ドゥリーヨダナ。一つ問題があるのだが」
「どうした、カルナ。お前ほどの男の抱える問題とは、一体どのようなものだ?」
「――我が身の不徳をさらすようで恥ずべきことだが、オレはお前の言う"友人"という間柄がどのようなものなのか理解できない。生まれてこの方、そのような相手がいなかったものでな」
「なんだ、お前、友人いなかったの、か…………。――言われてみれば、このわたしにも友人というものがいた試しがなかったな……。大勢の弟と家臣と味方をしてくれる者たちと敵はそれなりにいるのだが……」
真剣な表情で告げてくるカルナに、真顔になったドゥリーヨダナが返す。
ちょっ、お前ら、特に王子、碌に友人もいないくせに友情とか言ってたの。
「……まあ、この世には出自も身分も価値観も違う人間がごまんといる。ならば、我々が我々に相応しい友人の形を作り上げることに反対する者などおるまいよ」
「なるほど、至極名言だ。心に留めておこう」
うんうん、と解り合っているのが小憎たらしい。
カルナに初めて友人ができたのは嬉しいが、それでもこんな不良じゃなくて良かったのに……!
張り詰めていた全身が、ふと脱力する。
大きなため息を一つだけ零して沈静化した俺を興味深そうにドゥリーヨダナが観察していた。
「――嗚呼、でも、仕方がないなぁ……」
「おや。てっきり、もっと駄々をこねられると思ったのだが。諦めが早いではないか、兄上殿」
「なんとでも言え。あ、やっぱり下手なこと言ったら一月の間、厠で腹痛に苦しむ呪いをかけてやるから! そんなわけで、発言は慎重にしておけ。――それはともかく」
――――多分、これもまたカルナにとって生まれて初めての経験だったのだろう。
だとすれば、ひときわ鮮烈に印象づけられたのも致し方ないことだ。
「あのね、王子様。一ついいことを教えてあげよう。――カルナはね、これまで道理に叶うと判断した他者の為にその身を尽くしてきた。
ふぅ、と一息吐く。
これからのことを思うとなんだか、胃痛とともに頭が疼くような痛みを発しているような気がするが――気のせいだろう、うん。
「なんでも出来て、誰に負けることもなくて、これまで敵わないこともなかったカルナ。それを、やや不純な動機があったとはいえ、好意でもって助けてくれた他人って――ドゥリーヨダナ、貴方が初めてなんだよ」
……きっと、ドゥリーヨダナはカルナを初めて救ってくれた人間だった。
肉親というつながりのある俺とは違って、彼は全くの赤の他人である。
その彼が、今日の競技会場において――窮地に陥ったカルナへと手を差し伸べてくれた。
それはきっと、カルナにとっても、衝撃的な体験であったことだろう。
「カルナは、他の誰よりも誠実に、誰よりも真摯に貴方の友として接し、家臣として従うことになる。――だから、貴方もカルナのことを傷つける真似だけは、しないでね」
その途端、ドゥリーヨダナがその黒水晶のような瞳を潤ませる。
そうして一言――――わたしは得難い友を得た、と感慨深くつぶやいたのであった。
<補足>
・ヴァイカルタナ
…意味としては「見事に切り離したもの」
太陽神(ヴィカルタナ)の息子であるカルナ(切り離す)に、尊称を付け足したもの。どちらかというと、こっちが本名(あるいはフルネーム)で、カルナとはこれを短くした通称のようなもの。
一口に太陽神といっても、スーリヤの他にも色々な名前があってややこしい。(別の神格かと思ったら、実は同じ神だったみたいな表記があって、さらにややこしいので、ここではインド神話の太陽神の名称を全てスーリヤの別名ということで扱うことにしました)
(*パンパカパーン! カルナはドゥリーヨダナの友となることを選んだ! アディティナンダの精神は大ダメージを食らった! 効果は抜群だ!*)