ドゥリーヨダナ王子に請われるままに、何曲か歌を披露し場の空気を盛り上げた後、俺はお屋敷専属の楽団員へと席を譲り、宴の席からそっと抜け出した。
よく話し、よく笑い、よく食べるドゥリーヨダナ王子と、どちらかといえば無口で少食の気のあるカルナは正反対だからこそ、馬があったらしい。
カルナの率直過ぎる物言いにもドゥリーヨダナは気を悪くすることなく、むしろ楽しそうに腹を抱えて笑っていた。
そして、それは王子だけではなかった。
お屋敷の中の人たちも、これまで俺が招待されて見てきたお金持ちの屋敷とは違い、王子相手に気軽に軽口をたたいたり、カルナに対しても気安い態度で接しているのである。
階級制度にがんじがらめのこの国においては非常に珍しい光景であった。
この国としては異端な光景ではあるなと思ったが、それでも不思議と心地がよかった。
ドゥリーヨダナの人徳と屋敷全体の雰囲気のおかげだろう。
人は好きだが人付き合いが苦手なカルナも、かなりくつろいでいるようだった。
ドゥリーヨダナのカルナへの好意は本物だということが分かったし、カルナもドゥリーヨダナに対して好感を抱いているようなので、この場の空気に俺の介入する必要なんてないと判断し、席を外した次第であった。
――宴会場の外にある桟敷の欄干に腰掛け、星々が輝く様を肴にして、会場から拝借してきた酒瓶を傾ける。
……嗚呼、いいお酒だ。
さすがは王子様のお屋敷、王宮で出されるものにも引けを取らないな。
「――こんなところにいたのか、楽師殿」
「ドゥリーヨダナ王子? カルナは?」
ひっそりと会場のはずれで手勺と洒落込んでいる俺の元に、今日の宴の主役の一人であるドゥリーヨダナが果物で作られた菓子を載せた高坏を手に歩み寄ってくる。
無言で菓子を差し出す王子の厚意に軽く礼を告げてから、一つ摘んだ。
「――あそこだ、あそこ。うちの屋敷にも結構綺麗どころを揃えていてな。カルナの地位と容姿にきゃーきゃー言ってるやつも大勢いたから、誘惑して来いといって嗾けてきた」
「わぁ。胸とお尻の大きいムチムチの美人さんばかりだね。――あ、カルナがどうしたらいいのかわからなくて困ってる」
悪巧みをしています、と言わんばかりの王子の言葉に、視線だけを宴会場へと向ける。
すると、はちきれそうな肉体を服の役目を果たしていないような薄布で覆っただけの、色っぽいお姉様たちに言い寄られて困った顔をしているカルナの姿が見えた。
――うん。美女に迫られるのは男子の本懐と聞くし、これは放っておこう。
明らかにカルナと目があった気がしたが、気のせいに違いない。
それにカルナだってお年頃なのだ、であれば口を挟むのは野暮というもの。
目を離した瞬間、カルナがお姉様の波に引きずられるように会場から連れ出されていったような気もしたが、気の所為、気の所為。
その際に、恨みがましい目で見られていたような気もしたが、見間違いにちがいない、うん!
「――なんだったら、楽師殿の寝室にも一人送ろうか? とびっきりの美人を紹介するが」
「うーん、俺は節度あるお付き合いを推奨している身だからね。そういうのは遠慮しておく」
こちらに秋波を送るお姉様に軽く微笑みを返して、ドゥリーヨダナが冗談めかした様子で誘いをかけてくるが、丁重にお断りしておく。
――……決して数年前にあんな感じの色っぽい
「――おや。自称・保護者として、そういう遊びは止めたりしないのか?」
「それはカルナが決める事。――カルナが女の人とお付き合いしたいと思うならすればいいし、火遊びに夢中になるのも、伴侶として相手を求めるのも、それはそれで構わない。何より、そういうのは、俺じゃなくてあの子が決めるべきことだと思うから、口は出さないようにしている」
――空になった杯に、おかわりを注ぐ。
それにしても、遠くの国から渡ってきたというこの透き通った杯は綺麗だな。
緑色の釉薬の塗られた箇所を松明の光に照らしてみると、一層美しさが際立つ。
「それに本当にカルナが嫌だったら、自力でなんとかするよ。あの子は押しに弱くて言葉足らずだけど、きちんと自分の意思を持っている子だもの」
そう言い切ると、ドゥリーヨダナはまるで虚を突かれたかのようだった。
しばらく沈黙していたドゥリーヨダナだったが、やがて意を決したように俺の目をまっすぐに見つめなす。
「――――楽師殿、わたしが巷でなんと呼ばれているのか知っているか?」
「災厄の王子、凶兆の子供。誕生とともに破滅を決定づけられた悪徳の化身にして、賢明なる国王夫妻の最大の汚点。国王陛下のご寵愛をいいことに、愚かにも半神の王子を差し置いて、己こそ次期国王にふさわしいと豪語する身の程知らず――何なら、もっと言おうか?」
「……わたしが尋ねておいていうのもなんだが、もう少し配慮というのを利かせたらどうだ」
むすりとした王子に、思わず微笑みが溢れる。
カルナとは別の意味でこの王子様の小さい時の姿も知っているが、彼は俺の知っている誰よりも人間的な情感に満ちた人間だった。
「――……はぁ。いいのか? そこまで楽師殿も知っているのだろう? それでいて、今回の件に何も言わないのか?」
「それって何のことかな? ――カルナを自分の陣営に引き込んだこと? それとも、今後カルナをパーンダヴァの対抗馬として用いようということへの前もっての謝罪?」
「――……そうだ。わたしは、あの男をあいつらに対する抑止力として使うだろう」
……へぇ、俺の前でそう言い切れるんだ。
これで誤魔化そうとしたら廃人にしてやるつもりだったが、その度胸に免じてやめておこう。
カルナに親切にしてくれた相手を害するのは、俺としてもあまり気分が良くない。
そういう意味では、王子が変に潔い人間でよかった。
「わたしには、わたしの陣営には……悔しいことに、あいつらと雌雄を決する際には確実な味方と言い切れて、あいつらの馬鹿馬鹿しいまでに強力な力と対抗できるだけの存在がいない。無論、わたしのことだから、悪辣な策略を持って、そういう奴らを味方に引き込むことはできるだろう。――だが、そういう相手は心底信頼できる人間でなくては意味がない」
力強く輝く黒水晶の瞳が俺を射抜くように見つめてくる。
――そう、それはわかりきったことだった。
ドゥリーヨダナには半神の王子たちによって構成されるパーンダヴァ陣営とは違い、その強大な力に拮抗することが叶うだけの戦士の存在に欠けている。
ドゥリーヨダナ自身は神の子であるビーマと互角の戦いを繰り広げることのできる優れた棍棒使いだが、それでも神々の子たるパーンダヴァの王子たち全員を――特に、最高の戦士として称えられるアルジュナを――凌駕するのは叶わない。
「正直に言おう。……わたしはあの男の存在を、昔から知っていた。師であるドローナや同じ門下であるパーンダヴァは、今日に至るまでカルナの才覚に気づきもしなかったようだが、わたしは昔からあいつらに対抗するための戦力を欲していたから、カルナのことも聞き及んでいた。何度か鍛錬している光景も見たこともある。――知っていて、それでもわたしはカルナを見逃していた」
ドゥリーヨダナは気まぐれかつ大胆な性格として表向きは振舞っているようだが、それはあくまでも複雑な彼の一面に過ぎない。
厚顔のようでいて小心、無頓着に見えて細心、奸悪を気取りつつ誠実。
それらの相反する要素は、まぎれもなくドゥリーヨダナという人間を構成する真実であった。
――何より、この場に一人で会いに来ていること自体が、彼の真摯さの証明なのかもしれない。
「わたしは、あれがどういう人間なのか知っている。あれが凄まじく高潔で、純粋で、尊厳に満ちた存在であると知っている! ――その反面、わたしという人間が、どれだけ邪悪で卑怯で唾棄すべき最悪な存在で、あれの好意に値しない人間であると知っていて、それでもわたしは……」
苦しそうに、今にも泣き出しそうに表情を歪めながら、それでも王子は宣言する。
「それでも、わたしはわたしの野望と欲望を叶えるために、カルナの義理堅さとその誠実さを利用するだろう。わたしがあの男をアンガ国王にしたのは、純然たる好意だけではない。あの男はわたしに対して、大会での不名誉から自分を救ってくれたことや養父を侮蔑から守ってくれたことに礼を告げたが、他の誰が知らなくても、わたしだけは知っている……わたしが、わたしは……!」
正直、泣くのかな? と思った。
けれども、ドゥリーヨダナは涙を一つもこぼすことなく、歯をくいしばりながらも言葉を紡ぐ。
「あれほどの戦士が、身分という柵のせいでその力を振るうことが許されないなど、心底勿体ないと惜しんださ! わたしが密かに尊敬しているカルナという勇者が、その言動において誤解を招くせいで、誰もその内面を慮ることのない事実に憤りを感じていたことも本当だ!!」
――それは、まるで懺悔のようだった。
彼の言葉を聞き入れて許しを請うべき相手はここにはいないというのに。
「なのに! わたしは、あれの優しさと厚意に付け込んだ……! わたしは、あの男の有り様の一端を、僅かなりとはいえ知っていた。――受けた恩に対して、決して裏切るような真似の出来る男ではないと知っていて、ああしたのだ!! 我ながら自分の計算高さには吐き気がする……! だが、もうダメだ、わたしはもうあいつを手放すことはできん! ――パーンダヴァ最優の戦士であるアルジュナに対抗するためにも、わたし自身の願いを叶えるためにも、あいつの力が必要だ……!!」
時折言葉を途切らせながらも、最後まで言い切ったドゥリーヨダナ。
彼がどのような半生を過ごしてきたのかは俺には想像もつかないが、生まれながらに破滅の烙印を背負っての人生が、決して生半可なものではなかったのは確かだろう。
――――ましてや、彼の身近にはあの半神の王子たちがいた。
彼らは先王の息子で、しかも神々の祝福を受けた神童たちである。
それは生半可な重圧ではなく、そのせいで悔しい思いもしたことだろう。
幼少時のビーマとのやりとりを見る限り、彼らの方に悪意がなくとも、傷つけられたことが多かったことも予想がつく。
「わたしのあいつに対する好意は本物だ。友人となりたいと思ったことも、あのような男にこそ、心から信頼の置ける相手になってほしいと望んだのもそうだ……!」
王子が歯を食いしばり、一言一句を噛みしめる様にして言葉を紡ぐ。
「――こればかりは、誰に憚ることのない、わたし自身の本心なんだ……」
幼い頃に根付いた恐怖は後に引くという。
戦い方を覚え、成長して力をつけた今日でも、きっとドゥリーヨダナは、ビーマを、ひいては
彼の悪名の一部はそうした反抗心と反発心、それから幼少期からの恐怖心の表れなのだろう……あくまで想像の一端にすぎないけどね。
……少し、同情しかける。
その途端、それまでの殊勝な雰囲気が途端に霧散して、ふてぶてしいドゥリーヨダナになった。
「――ふんっ! 言いたいことを言うだけ言って、すっきりした! ああ、すっきりしたとも! ――さて! どうするのだ、楽師殿? カルナにわたしと付き合うのはよせと諭すか? それとも、パーンダヴァの王子どもと対立するのは愚の骨頂と、諦めるように命じるか? ――今ならまだ何をしても間に合うだろう、さぁどうする!?」
競技会で衆目の前でビーマ相手に喧嘩を売ったことといい、なかなか食えない男である。
この王子、俺相手に言うだけ言って本当にすっきりしたんだなぁ……大した面の厚さだ。
「――だが! わたしもあいつの武人としての力量に惚れた! ああいう若木のようにまっすぐで、信頼の置ける相手にこそ、側にいてほしい! だから、いくら楽師殿がカルナを引き離そうとしてもすぐさま解放はしない! 例えるなら密林の蛭のように食いついて、ギリギリまで引き止めてやる!!」
あまり褒められない内容を開き直って宣告されて、どうしようかと首をかしげる。
武術競技会での王子然とした姿とはまた違う、王子の新たな一面になんと反応すればいいのか。
――いいや、無視しておこう。下手に突くと面倒臭そうだし。
……
多分、本人も自覚しているように、カルナとこの王子をここで引き離したほうがいいのだろう。
じゃないと、これまでは無視できた王家のゴタゴタにカルナが巻き込まれるのは間違いない。
それに、あの睡蓮の主人のことも気掛かりだ。
天界との接続を断たれた俺は推測するしかできないが、この先、この王国内で何かが起こることが確実な以上、余計な火種からカルナをできるだけ引き離しておきたい。
――乾いた土器に冷たい水がゆっくりと染み込んでいくように。
普段の俺が表に出すことのない、冷徹な
無数の演算から弾き出されたありとあらゆる未来予想図、それらは瞬く間に浮かびあがっては泡沫のように消えていく。
そんな風に何千通りも繰り返し繰り返し様々な可能性の未来を考慮した結果――
どの未来においても、この王子はカルナを悩ませる困惑の種となる。
カルナからの好意を土壌に、根を張り、幹を太らせ、やがては毒々しい極彩色の華を咲かせることになる――ならば、
カルナに悪評が降りかからないためには、どのような手段を取るのが最も合理的なのか計算しながら、
この王子に対して悪感情は抱いている訳ではなく、正直好ましいとも思っている。だが、それ以上に、
そんな風に割り切ってしまうと、すっきりとした気分で欄干から飛び降り、そのまま王子の方へと一歩近づいた。
――嗚呼、そうだ。
できるだけ、
誤解されやすいカルナに親切だった珍しい人間だ――何より、無駄に苦しめて殺すような振る舞いは
気がついたら、全身が滝行をした後のように冷めきっているのに、腹の底だけが灼熱の溶岩を孕んだかのように熱いのはどうしてなのだろう?
……ぐつぐつ、ぐつぐつと。
腹の奥底の轟々と燃え盛る灼熱が不穏な唸りを上げている。
身体を強張らせているものの気丈に睨み返す王子の目の前で、足を止めて、その顔を正面から見つめ返した。
――透き通った黒水晶の双眸が
目を逸らし、その場から逃げたくなるほどの重圧を与えているというのに、決して黒水晶の双眸は視線を逸らすことは無い。その度胸と根性に感服はいたしますが――ワタシがこの道を選ぶことになったのは、誰にとっても仕方のないこと。
――そう、仕方のない……
「待った。――何かがおかしい」
この王子をこの場で抹消すべきか?
――肯定。
カルナはこの王子と関わるべきではない?
――肯定。
それでは、カルナはこの王子がこの場で消えることを望んでいるのだろうか?
――異論有。
カルナはそのようなことを、そもそも
――結論。
カルナの意向はこの決断に関与などしていない。これは、全て
「なら、それだけは駄目だ……!」
ぐるぐる、ぐるぐると世界が回る。
頭上で輝く星や月、屋敷を照らす松明の篝火が尾を引きながら旋回する。
高速で回転し続ける外界の景色が――巡り巡って、ややあってから元の正常な状態を取り戻す。
抱えた溶岩が急激に熱を失い、硬直していた四肢が息を吹き返したかのように優しい熱を灯す。
――嗚呼、そうだ。そうだった。
ドゥリーヨダナから距離をとって、肩を落として――――大きく息を吐く。
嗚呼、危ない――また、間違いかけるところだった。
――
「……なぁ、カルナ。お前は一体どうしたい? 俺は、お前の意思に選択を委ねるよ。お前の思った通りにするといい――俺が動くのは、それからであるべきだ」
<裏話>
ドゥリーヨダナ「一応覚悟して全部告白してきたけど、やっぱ神の眷属怖いわ」
(*ドゥリーヨダナは決して善人ではありません。かといって、完全な悪人というわけでもないです。強いて言うなら、この物語で一番真っ当な人間でしょう*)
(*ドゥリーヨダナはカルナほどではありませんが、ある程度は開明的な人物として描いております。また、幼少期から散々陰口を叩かれまくっているので、表面上は強がっていても内心では自分自身のことを卑下しているキャラクターとして「もしカル」では扱います*)