「――そういう訳なのですがどうしてなのでしょう? アシュヴァッターマン様」
「うぅん。難しい質問だよ、それは。なんせ、僕には兄弟がいないし……」
そう言ってアシュヴァッターマンは困ったように首を傾げる。
そうすると、彼の頭の動きに合わせて豊かな前髪の位置が少しずれて、額の埋め込まれた輝石が松明の輝きを受けてキラキラと輝くのが見えた。
――カルナが成長した分、この元・少年バラモンも年を重ねた。
初めて会った頃は満足に食事を摂れない生活を送っていたせいでやせ細っていたこの少年も、父親のドローナの出世と合わせて環境が変化したお陰で、今では立派な体躯の若武者である。
偶に堪忍袋の尾が切れて周囲の人間がドン引きするほど爆発することもあるけれど、基本的には穏やかで人柄もよく、武術に長けた人格者の青年である。
アシュヴァッターマンとは、カルナがドローナの武術教室に入門し、俺が国王お気に入りの楽士として王宮に出入りするようになって以降、兄弟共々の付き合いのある数少ない相手である。
カルナの率直な物言いに時たま額に青筋を浮かべながらも、なんだかんだで最後まで話に付き合ってくれるという点においても希少な存在であった。
「一般的な兄弟事情からしてみれば……そうだね、恥ずかしいんじゃないかな? 弟というものは、兄の前では何故だか反発してしまうもの……と、どこかで聞いたことがあるよ」
「そうなのですか? それは初耳です」
額にトントンと指を押し当てながらの一言に、目から鱗が落ちた気分だ。
へーえ。
兄と姉という生き物は、家庭内において弟妹に対しては生涯覆ることのない絶対的な命令権を持つものだと思っていたんだけど、どうやらそうでもないらしい。
人間の家族という枠組みには今でも色々な発見があって、知る度に俺もまた真の長兄として成長していってる感じがして気分がいい。
心の記録帳にアシュヴァッターマンに教えてもらったことを記しながら、こくりと頷く。
よしよし、覚えた。ま、まぁ、カルナが恥ずかしいというのであれば致し方あるまい。
そう、あれはあくまで恥ずかしがっているのであって、嫌がっているわけはないのだ……多分、きっと。
――……だよね、だよ、な?
ウンウンと唸り声をあげて口をへの字にすれば、思わずと言った感じの笑い声が上がる。
なんだろうと思ってみれば、アシュヴァッターマンが口元を手で押さえながら俺を見ていた。
「アディティナンダも、随分と変わったね。昔よりも、ずっと表情が豊かになったよ」
「そうですか? カルナに比べたら、ずっと表情が変わる方だと思っていましたけど」
思いがけないことを微笑みとともに言われて、思わず頬っぺたをゆるゆると両の手で動かす。
これ、一度カルナにしてみたことがあったけど、吃驚するくらい動かなかったんだよなぁ……。
「それは比較対象が悪いよ。そうじゃなくて、それまではなんていうのかな……? そうだ、なんだか決められた表情の仮面でもつけているみたいだった」
「か、仮面ですか?」
「そう。それで、舞台で役者が場面に合わせて演技をするように、ここではそういう顔をするべき、と決めた瞬間に仮面を付け替えているような……そんな違和感があったよ」
そりゃあ、驚いた。
自分では人々の間につつがなく紛れ込んでいたと自負していただけに、今のアシュヴァッターマンの発言には吃驚した。
「そういう意味でも、旅の途中に一度だけ出会った吟遊詩人のことが忘れられなかったのかも」
そう言ってニコニコと笑っているが、いやはや食えない男に成長したものである。まさか、あんなに小さい時から、薄々とではあるが俺の違和感に気づいていたとは……はたまた吃驚である。人間って、ちょくちょくすごいなぁ……。
「それはそうと……。アディティナンダ、僕はお前に教えてあげたいことが――」
「――儂の倅よ、このようなところにおったのか」
王宮の一角で柱の陰に当たる場所でこそこそと内緒話をしていた俺たちのところに、深みのある老人の声が投げかけられる。二人揃って声の聞こえた方向へと振り向けば、見知った顔がこちらへと足音も立てずに近寄ってきていた。
「――――父上」
「ドローナ様、ご機嫌麗しゅう」
やってきたのは、生まれてくる階級を間違ったんじゃないのか、と巷で噂されている武闘派バラモンこと、ドローナであった。
とはいっても、この矍鑠とした老人の目には俺のような流れの吟遊詩人の姿など碌に映ってはいないだろう。実際、彼の両の目は俺の側で困ったように佇んでいる息子・アシュヴァッターマンしか捉えていない。
一応、バラモンに対する礼儀として拝んではみたが、あくまで礼儀である。
親子の会話の邪魔をしないように、一歩下がって様子を見守る姿勢に入る。
ぶっちゃけ、この人のことはあんまり好きではないんだよなぁ……。
弟子であるはずのカルナに対して良くない態度ばかりとるし、下手すれば師という立場を笠に着てカルナを追い詰めそうな褒められない前歴もあるし。
「喜べ、倅よ。先ほど、国王陛下よりお許しをいただいたぞ」
「……ゑ? 本気です――いえ、失礼いたしました。なんでもありません、父上」
なんだろう、今の声?
俺の楽士として鍛えられた聴覚が一瞬、変な音を聞き取ったような気がしたが……アシュヴァッターマン、か? 今の素っ頓狂な声の主って。一体、どうしたんだ?
「さようでございますか……それはそれは、その、喜ばしい? ことですね」
……やっぱり気のせいではない。
喜色満面と言わんばかりのドローナに対して、こちらに背を向けているせいで表情を伺うことはできないが、何故だかアシュヴァッターマンの声は困惑しているように聞こえる。
――その一方で、ドローナはますます満足そうに笑みを深めた。
「おお、倅よ。そなたもそのように思ってくれるのか! うむ、うむ。ますます生半可なものでは済ますわけにはいかなくなったな」
「……そうですね。万事つつがなく行けば、諸国に父上の名声も鳴り響くことでしょう。不肖アシュヴァッターマン、此度の取り組みに対して全身全霊を尽くして父上をお支えします」
しかし、このドローナ、俺がいうのもなんだが……案外鈍いな。
まぁ、だからこそ、未だにアルジュナのこと贔屓しているのを、弟子たち全員に気付かれていないと思い込めるのかもしれない。
あと、なぁ……。
どう考えても、親父が息子の異変に気付いているようには見受けられないんだよなぁ……?
おかしいなぁ、家族って親しい間柄を指す人間関係って意味ではなかったのだろうか? 内心で首を傾げる。
その後もドローナがアシュヴァッターマンに対してなにやら話しかけていたようだったが、話の途中にビーシュマ老がドローナをお呼びだと侍従の人に声をかけられて、上機嫌なまま立ち去っていった。
それにしても、あの老人、俺が側にいたことに徹頭徹尾気づかなかったな……。
一度は旅路を共にした間柄ではあるというのに……ここまで無視されるとかえって清々しささえ感じてくる。
――というより、内輪だけの話だったらなんでここで話しかけてきたんだろう?
お屋敷に戻ってから、息子と膝を突き合わせてじっくりと話し合えばいいのに。
どことなく疲れた気配を感じさせるアシュヴァッターマン。
丸くなった彼の背を労い込めて叩いてやると、弱々しい微笑が返ってきた。
なんていうか、さっきのやりとりでどっと疲れ果ててるなぁ。まぁ、そりゃそうだよなぁ。
結局、ドローナの奴、自分の言いたいことだけまくし立ててたし、黙って付き合う方も大変だったろうな……。
ふぅ、と力のない溜息をついたアシュヴァッターマンが肩を落とす。
そうして、雨だれが滴るように――ポツリ、と言の葉を零した。
「――父上も、性根は悪い方ではないのだ……むしろ善人の部類に入るのだろう。ただ……」
「アシュヴァッターマン様?」
「正直、息子の僕の目から見ても……善意でやったことが全て上滑りになった挙句に、最悪に近い結果を導きかねないお人なんだ……此度のことについてもどうなることやら……不安でしかない」
これ、褒めていないよね? どっちかっていうと、貶してることに入るんだよな?
アシュヴァッターマンが何を言いたいのかがわからなくて、首を傾げるしかない。
ようやく見ることのかなったアシュヴァッターマンの横顔には、困惑や不安・憂いといった負の感情が渦巻いていた。
――本当にどうしたのだろう?
「アシュヴァッターマン様、アディティナンダ殿! このようなところにおられましたか! お探ししましたぞ!!」
それについて俺が問いかけるよりも先に、纏う衣を大きくはだけかねない勢いで走ってきた侍従の人たちが、俺たちを認めて慌てて駆け寄ってくる。
事情のわからない俺は近づいてくる彼らを見つめ返すだけだったが、アシュヴァッターマンは違ったらしい。
――はっ! と何かに感づいたような表情を浮かべると、姿勢を正す。
そして、そのまま侍従の方へと歩き出した――なぜか、片手に俺の手首を掴んだ状態で。
「あの、アシュヴァッターマン様?」
「いや、もう、ここまできたらどうしようもないからね。こうなったら、僕のするべき仕事は一つだ。父上の名誉のためにも、必ずアレを成功に終わらせてやる……!」
もともと、俺とアシュヴァッターマンの二人を探しに来ていたらしい侍従たちは今の俺の状態に特に言うべきことはないらしい。むしろ、二人揃って探し人がやってきてくれることに安心したのか、口々に「ささ、お早く」といって急かしてくる。
「いいかい、アディティナンダ? 多分、聡明なお前のことだから、きっと何かを言わずにはいられないとは思うんだけど……。でも、ここは出来れば堪えて欲しい――約束してくれるよね?」
「あの、私は一介の歌い手ですよ? 何をおっしゃるのですか?」
「君が本当に一介の歌い手に過ぎないのであれば、僕だって何も言わないさ……。だけど、そうじゃないだろう? だからこそのお願いだ。下手に何も言わないでおくれよ」
やや血走った目で俺を見やるアシュヴァッターマンに鬼気迫るものを感じる。
一体どうしちゃったんだろう。ただ、ここまで懇願されて断るのもなんだか気の毒だったので、とりあえず素直に首肯しておいた。
****
よくわからないまま、侍従たちに連れてこられたのは、国王の私的な謁見用の小部屋だった。
小部屋、というだけあって、大勢の家臣たちを集めて日夜何かをするような場所ではない。
どっちかっていうと、国王夫妻が個人的な客や親しい人を招くための場所である。
数年前から、お気に入りの楽師として王宮で出入りしている俺に、国王がこっそりと歌を所望する時などにこの部屋は使われている。
「――……失礼、国王陛下。先ほど、なんとおっしゃいましたか?」
「おうおう、アディティナンダ。我が王国の麗しの楽士よ。其の方ともあろうものが、このように誉れ高き催しを聞き落してしまうとは……。よいよい、格別にもう一度だけ聴くことを許そう」
なぜだか異常にご機嫌な国王の元に連れてこられて告げられた一言に、手慰み程度に奏でていた
まさかとは思うが、先ほどアシュヴァッターマンにドローナが話していたことって……。
「かねてから、王宮の武術指南であるドローナより話を持ちかけられてはいたのじゃが、この度クル王家主催で武術競技会を開くことになってのぅ……。競技会という名目とはいえ、これも天上の神々に捧げるための立派な儀式の一つ。そこで、王国随一と名高い歌い手である其の方にもこの素晴らしい催しに是非とも参加して欲しいのじゃ」
えぇと、簡単にまとめてしまえばこういうことかね?
今度、王家主催の武術大会を開くことになったから、賑やかし役として楽士のアディティナンダも参加してね? ということか。王家の人たちって言い回しが面倒臭いんだよなぁ……もっとカルナみたいに簡潔に話せばいいのに。
――――しかし、この国王陛下……
いや、本気だろう。彼にとっては自慢の息子と甥っ子達の勇姿が見られる、一生に一度とない晴れ舞台としての認識しかないから、こんなことを誇らしげに言えるのだろう。
「……なるほど、拝命いたしました。国王陛下直々の御下命とあっては、名誉なこと。無論、私としても断る理由などありませぬ」
取り敢えず、アシュヴァッターマンとの約束もあるし、俺もまだまだどこにでもいる一般市民の真似事をしなくてはいけないので、頭を垂れておく。
「ところで、陛下。差し支えなければ、どなたがこの催しに参加なされるのか――お伺いしても?」
「ふむ。この競技会は基本、どのような身分の者に対しても開かれている物となる。それ故に途中参加も許される。当然、ドローナの弟子たちからも希望者を募って参加することになるじゃろう」
国王夫妻が話し相手としての俺の声の響きを気に入ってくれるおかげで、こうして間に余計な人間を挟まずに会話ができるから、その点においては本当に助かるな。
「……それは、壮大な競技会になりそうですね」
「無論のことじゃ。なにせ、我が王家からは、愛しきドゥリーヨダナを始めとする百王子たち、それと、誉れ高き甥子であるクンティーの息子、パーンダヴァの五王子たちが参加することになるからのう」
こ、この国王陛下、本気で言ってんのか……!?
今の王国が水面下でどんな勢力争いをしているのか、知らないわけじゃないだろうに。
――驚愕のあまり、顎が外れるかと思った。
慌てて、無礼だと指摘されないように必死に顔を俯ける。
現国王の実子・ドゥリーヨダナ王子派と神の血を受け継ぐパーンダヴァの長子・ユディシュティラとの間で、次期国王の座を巡っての穏やかならぬ闘争が行われていることは、王都に住まう人間ならば誰でも知っている話である。
勢力分布で言えば、生まれた時から凶兆の子として囁かれているドゥリーヨダナ王子の勢力が押されている形だ。それでも、現国王の最愛の息子という立場と戦士ならざる温厚なユディシュティラの性格、彼自身の際立った才覚故に、双方の天秤の秤は危うい均衡を保っている。
――そんなところに、誰の目にも
しかも、王家主催ということは国を挙げての取り組みだ。
当然、周辺諸国からも人が集まるだろうし、ドローナの弟子たちの中には、各国の名だたる戦士たちの系譜に連なる者たちも大勢いる。それだけの規模の儀式でもあるのならば、
先ほど、アシュヴァッターマンにドローナが喋り倒していたのも、この件についてだろう。
だとすれば、アシュヴァッターマンがあまりいい顔をしていなかったのもよく分かる。
あのバラモン、数年前に積年の相手だったパーンチャーラ国王をアルジュナを始めとする弟子たちを使ってコテンパンに伸してからは、我が世の春と言わんばかりの人生の謳歌ぶりだったし、ここらで調子に乗りたいのも分かる。
競技会なんて、言い方を変えてしまえば、戦士たちの品評会だ。
そりゃぁ、手塩にかけた弟子がいるとなればそれを衆目に見せびらかしてやりたいことだろう。
声に出すことなく、胸中で歯噛みする。
自慢したい気持ちも分かるけどさぁ……!
もう少し自分の門下生の間で渦巻いている、のっぴきならない雰囲気にも気づいてくれよ……!
溺愛されているアシュヴァッターマンでさえ、アルジュナ王子への父親の傾倒ぶりには、時々不安で堪らないという表情を浮かべてんだぞ。
基本、王族の訓練とそれ以外とで優先順位が異なるとは言え……。
仮にも師匠という立場に立っているのだから、それ以外の弟子――まぁ、気にしていないカルナを除いてだが――の心情も慮ってやれよ……!!
……もう、本当におかしい。
俺はあくまで神の眷属であって、人の子とは一線を画す存在であるはずなのに、どうしてここまで人間の複雑な関係に関して思い悩んでばかりなんだろう?
……。
…………ふぅ。
――
戦争が始まったとしても、所詮
極端な話、カルナに害を及ぼさないのであれば、俺としても……
――この時点で、自分の人間的な思考に
この闘争によって起こるであろう、王族間の闘争・王国内での内紛・国民達へと降り注ぐであろう厄災全てを己らには無関係なものであるとして、切り離して考える方向へと思考を変換させる。
……。
…………。
そう考えれば、今の危うい均衡を突き崩して、次代の国王を決定するためにも、この競技会はいい取り組みなのかもしれない。
双方の王子たちは
それに、百王子たちの長兄であるドゥリーヨダナなんて、半神の王子であるビーマに匹敵する棍棒使いであると囁かれているほどだ。
――何より、優れた一人の戦士は、十万の兵士が組する軍団に勝るという。
だとすれば、飛び抜けた才能の持ち主であるというアルジュナがその才を競技会で発揮すれば、国内外の敵は、彼を恐れて対抗しようという気をなくすだろう。
――ならもう、それでいい。
第一に、俺とカルナが王族の権力闘争なんぞに関わってやる理由なんぞないし。
――……建前にすぎないかもしれないが、競技会は全階級の者たちに開かれるという。
カルナは元々ドローナの弟子だし、参加すること自体に否と言われることはないだろう。
とはいえ、あの欲の薄いカルナが誰かと優劣を競い合うことを目的に競技会に参加するとも考えにくい。よしんば、参加者の誰かに刺激を受けて挑戦したとしても、それがカルナ自身の選択の結果であるのならば、構うまい。
そのように、頭を切り替える。
そもそも、俺はあくまでもカルナの一生を見守るために地上にいるのであって、王国の繁栄に貢献する必要などない。国王のお気に入りの楽師に召し抱えられてこそいるが、それだって、カルナを飢える事なく養うための手段の一つに過ぎないのだから。
地上に堕とされて数年、神々の価値観と人間の価値観との間に大きな溝があることに気づいた。
それゆえに、俺はカルナ自身の意思を第一に尊重するべきだと考えるに至ったのである。
とはいえ……正直、俺自身もどこかで自制しておかないと。
そうでないと、カルナの頼みでも、
大分、人の子の感覚に近づいた俺でさえこうなのだ。
もし、この地上のどこかに神々に過剰なまでに偏愛された存在がいたとしたら、それって……ひょっとしたらとても不幸なことかもしれない。
――王宮からの帰り道。
国王の厚意で貸し出された馬車の後ろに座した状態で、ただ黙って空を見上げる。
明滅するような輝きを放つ星々を周囲に侍らせ、半分の白銀色の月が煌々と輝いていた。
<相違点>
・「数年前に積年の相手だったパーンチャーラ国王を〜」
本来ならば、ドゥルパダ征伐は競技会の後なんですけど、そうするとドラウパティーと五王子たちとの年齢差がすごいことになってしまいますので、あえて入れ替えさせていただきました。
(作中の主人公の見解は、とあるFate作品における型月世界の真理より借用しました。どこかわかりますか?)