エリート警察が行くもう一つの幕末   作:ただの名のないジャンプファン

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第8幕 生き恥

 

 

 

 

 

 

「‥‥」

 

「そうか、総司の奴が‥‥」

 

新撰組の屯所へと戻った信女は、松本には沖田の死を秘匿できるまで秘匿して欲しいと言ったが、新撰組結成前から付き合いの深い近藤と土方には沖田が暗殺者の手にかかって死んだことを伝えた。

 

「傍に居ながら、沖田組長を救えなかった罪‥‥この責任は万死に値いたしますが、出来るのであれば、沖田組長の仇討ちの機会を是非‥‥」

 

信女は近藤と土方に土下座をして沖田の敵討ち‥すなわち引き続き、新政府軍と戦わせてくれと近藤と土方に頼み込んだ。

 

「‥‥総司も一介の剣客だった‥病で死ぬよりも暗殺者とは言え、戦って死ねたのだ。総司もきっと本望だろう。今井君、君には何の責任も罪もない」

 

沖田の死を信女が話している時、沈黙を続けてきた近藤はそう言って、信女に責任は無いと言う。

 

「それで、総司が死んだのを知っているのは、お前と俺達、松本先生だけなんだろうな?」

 

土方が現時点で沖田の死を知っているのは松本、信女、近藤、そして自分だけなのかと尋ねる。

 

「はい。松本先生には沖田組長の事は隠せるだけ、隠して下さいと言っておきました」

 

「懸命な判断だ。今の新撰組で総司の奴が死んだと知られれば、士気はガタ落ちだからな。お前も総司が死んだことは口外するなよ。いいな?」

 

「えぇ」

 

土方は信女の判断は正しかったと指摘し、沖田の死が公式のモノとなるまで、黙っていろと言われ、信女はそれに従った。

 

3月8日、近藤は江戸引き上げを宣言した。この頃、永倉新八、原田左之助らは勢力を結集して会津において再起を図る計画を立て、3月11日には江戸和泉橋医学所において近藤と面会し、その計画を近藤に話した。

しかし、近藤は、永倉・原田らの計画に対して自分の家臣となる条件を提示したため両者は決裂し、永倉・原田は新撰組を除隊した。

沖田に続き、新撰組最強格の永倉の新撰組離脱は、大幅な戦力低下につながった。

 

新政府軍が江戸の目と鼻の先に迫っている中、江戸城の中では江戸城の無血開城の意見がまとまっており、その意見に反対の幕臣達はそれぞれ、部隊を率いて江戸を出て行く準備や江戸の郊外に陣を構える準備をしていた。

官軍側は当初、江戸城総攻撃を3月15日と予定していた。

しかし条約諸国は戦乱が貿易に悪影響となることを恐れ、イギリス公使ハリー・パークスは新政府に江戸攻撃・中止を求めた。

出来たばかりの新政府にとってその維持には諸外国との良好な関係が必要だった。また武力を用いた関東の平定には躊躇する意見があった。江戸総攻撃は中止とする命令が周知された事と勝海舟と西郷隆盛との間で交わされた、慶喜の隠居、江戸城の武器及び幕府が保持している軍艦の引渡し等の条件によって江戸城は無血開城されることに決まった。

 

そんな江戸城の一室にて、勝がある集団を呼び出していた。

 

「これは既に幕臣達の会議で決まった事だ。江戸の町を戦火から守る為、江戸城は官軍に無血開城をする事になった」

 

勝の言葉にざわつく集団だが、一番先頭で膝まずいている男はジッと勝の言葉を聞いていた。

此処に集まった集団は、江戸城を築城当時から影で江戸城を守ってきた御庭番衆達であった。

長年、江戸城を守ってきた彼らにとって敵である新政府軍に戦うことなく城を明け渡す事に不満があった。

 

「皆の不満も分からない訳では無い。戦う前から負けを認めた事になったが、代々徳川が築いてきたこの江戸の町を京の様に火の海にするわけにはイカンのだ。開城の後、諸君ら、御庭番衆はこの江戸城の警護の任を解く事になるが、江戸の町全体の警護に務めてもらいたい。官軍連中が江戸の民に乱暴狼藉をするのであれば、その者にはそれ相応の罰を与えてくれ‥‥以上だ」

 

勝は御庭番衆達に江戸城開城の後の命令を下した後、部屋から出て行った。

 

勝が部屋から出て行った後、

 

「お頭、これでいいんですか!?」

 

「俺達が命を懸けて守ってきたこの江戸城をみすみす薩長の連中に明け渡すなんて‥‥」

 

「しかも一戦も交えずに!!」

 

「西洋の銃火器に頼っている官軍連中なんて、俺達御庭番衆の敵じゃありませんぜ!!」

 

「そうですよ!!お頭!!」

 

「こうなりゃ、弱腰の幕臣共に代わってお頭が軍の指揮を!!」

 

「そうですぜ、お頭!!」

 

「お頭!!」

 

御庭番衆の者達は一番先頭で膝をついていた男の下に集まる。

この男こそ、御庭番衆を束ねるお頭、名を四乃森蒼紫と言った。

部下達は江戸城の無血開城には当然反対で、江戸を舞台に官軍とやり合おうと意見するが、

 

「我等は代々、徳川に使えてきた影の者‥‥そして、勝殿の命令は徳川の意向だ‥‥逆らうわけにはいかん」

 

「‥‥」

 

四乃森は勝の命令し従う旨を部下達に伝える。

部下達もお頭である四乃森が勝の命令に従うと言うのであれば、お頭に従う御庭番衆達も四乃森の‥‥勝の命令に従うしかなかった。

しかし、この場にて、一番悔しがっていたのは他ならぬ四乃森本人だった。

その証拠に彼の拳はかなりの力が入っており、拳全体は小さく震え、掌からは爪が食い込んで、血が流れていた。

こうして、長年にわたり江戸城を影から守ってきた御庭番衆達の戦いは、江戸城の無血開城によってその終焉を迎えた。

 

 

永倉、原田の離脱後、近藤・土方は会津行きに備えて隊を再編成し、旧幕府歩兵らを五兵衛新田で募集し、近藤は偽名で大久保大和と名乗った。

しかし、流山で再起を図っていたが、4月3日に新政府軍に包囲され、近藤は土方達新撰組を逃がす為、越谷の政府軍本営に出頭した。

出頭後、近藤はあくまでも自分は大久保大和だと主張し続けたが、元新撰組隊士で伊東甲子太郎率いる御陵衛士だった加納鷲雄、清原清が、

 

「此奴は間違いなく近藤だ」

 

と、看破され、捕縛された。

その後、土佐藩と薩摩藩との間で、近藤の処遇をめぐり対立が生じたが、結局土佐藩が押し切り、4月25日、中仙道板橋宿近くの板橋刑場で罪人として斬首の刑に処せられた。

近藤の処刑から約半月後の5月15日、上野山で立てこもって徹底抗戦を主張した彰義隊は、大村益次郎率いる新政府軍に僅か1日で鎮圧された。

その彰義隊の中には近藤と袂を分かった原田の姿があったとされ、彼もこの戦いで命を落としたと言う。

上野戦争での旧幕府軍の敗北で抗戦派はほぼ江戸近辺から一掃された。

そして、近藤の死から約2ヵ月後、沖田総司の死が世間に知れ渡った。

しかし、その死因は暗殺ではなく、結核による病死とされた。

近藤は『暗殺されても戦って死ねたのだから、本望』と言っていたが、松本は新撰組最強の剣客が暗殺者の手によって死んだとなれば、剣客としての沖田の名誉に傷がつくと思い、死因を病死としたのだった。

 

 

近藤が自らを囮とし、時間を稼いだ後、土方率いる新撰組は先に軍を率いて江戸を脱出した大鳥圭介らと合流し、途中松戸小金宿から2手に分かれ、香川の駐屯する宇都宮城の挟撃に出立した。

これを聞いた宇都宮の香川敬三は、一部部隊を引き連れてこれを小山で迎え撃った。

兵数と装備で勝る旧幕府軍はこれに勝利し、4月19日には宇都宮で旧幕府軍と新政府軍勢力が激突した。

翌日には旧幕府軍が宇都宮城を占領するも、宇都宮から一時退却し東山道総督府軍の援軍と合流、大山巌や伊地知正治が統率する新政府軍に宇都宮城を奪い返された。

 

その後、大鳥率いる旧幕府軍と土方率いる新撰組は会津へと入った。

宇都宮での戦いで足を負傷した土方は約3ヶ月間の療養生活を送る事となった。

その間、東北の各所では幕府側の藩と新政府軍との間で激しい攻防戦が続けられた。

1868年6月10日、旧幕府軍は会津藩家老の西郷頼母を総督として、白河城を占領。

これに対し新政府軍は、薩摩藩参謀・伊地知正治の指揮のもと、6月15日に白河への攻撃を開始し、6月20日に白河城を落城させる。

旧幕府軍は、白河城の奪回を試みて何度も戦闘を繰り返したが、結局奪回には至らなかった。

西郷頼母は白河城を奪われ、奪還できなかった責任を会津藩藩主、松平容保から追求され、謹慎処分を受けた。

 

 

1868年8月12日 奥羽越列藩同盟の拠点の一つ棚倉城が落城。

9月2日に三春藩が奥羽越列藩同盟を脱退し、明治新政府軍はじりじりと北上した。

9月15日 新政府軍は二本松城を攻撃。城は落城し二本松藩主・丹羽長国は米沢へ逃れた。

この二本松の戦いでは、木村 銃太郎率いる二本松少年隊の戦いは会津戦争の悲劇の一つとして、後世に語り継がれる事となった。

また、新潟、長岡でも新政府軍と長岡藩との戦いは激烈を極め、この時、長岡藩が使用した回転式機関銃(ガトリング砲)は新政府軍にとって脅威の存在となった。

しかし、二本松が陥落した同じ日、9月15日に新潟港・長岡城は落城した。

二本松、長岡を占領した新政府軍では、次の攻撃目標に関して意見が分かれた。

大村益次郎は仙台・米沢の攻撃を主張し、板垣退助と伊地知正治は、会津藩への攻撃を主張した。

土方達も二本松、長岡を占領した新政府軍の次なる目標が会津、仙台のどちらになるかにおいて、議論が交わされたが、土方は真っ先に、「会津だ」と言い切った。

新政府軍‥特に長州は禁門の変において、旧幕府‥特に会津藩に対して強い恨みがあった。

長州にとって、その恨みを晴らす機会が訪れたのだ。この機会を逃す筈はなかった。

土方の読み通り、板垣・伊地知の意見が通り、新政府軍は会津藩を攻撃することとなった。

二本松から若松への進撃ルートは何通りか考えられたが、新政府軍は脇街道で手薄な母成峠を衝いた。

新政府軍は土佐藩を中心として兵力3000、対する旧幕府、会津藩の兵力は400。

戦力の差は歴然であった。

1868年10月6日 新政府軍は母成峠の戦いで旧幕府軍を破った。

10月8日 新政府軍は早朝、若松城下に突入した。

新政府軍の電撃的な侵攻の前に、各方面に守備隊を送っていた会津藩は虚を衝かれ、予備兵力であった白虎隊までも投入するがあえなく敗れた。

そして、城下町で発生した火災を若松城の落城と誤認した白虎隊士中二番隊の隊士の一部が飯盛山で自刃する悲劇が起き、二本松同様、此方も戊辰戦争の悲劇の一つとして、後世に伝えられる事となった。

 

塩川において旧幕府軍、新撰組がはっていた陣では、大鳥が今後の方針を打ち出した。

 

「我が軍はこれより、仙台まで後退する」

 

「バカなっ!?」

 

「このまま此処で戦っても会津が陥落するのは時間の問題だ。聞けば、榎本さんを中心とした旧幕府海軍も江戸を脱出し、海路を北上しているらしい‥此処は我々も仙台まで後退し、援軍を頼んで、再起を図るしか道はないと思う」

 

「それは、会津を見捨てると言う事か!?」

 

土方の会津を見捨てると言う言葉に斎藤がピクッと反応した。

 

「容保公はそれを承知したのか!?」

 

「‥‥これは、容保公の御意向だ」

 

「な、なんだと‥‥」

 

「ただし、容保公はこの会津にて、最後の一兵になるまで戦い抜くそうだ」

 

「ならば、我等も容保公の武士の気概に応えて共に戦うべきじゃないのか!?」

 

「容保公は武士の誇りを共に会津藩と運命を共にすることを決心された‥我々はその武士の誇りと気概を引き継ぎ、再起をかける!!」

 

「しかし‥‥」

 

「これは、総督としての命令だ」

 

「っ!?」

 

「仙台へ陣を移す。速やかに撤退準備を始めろ」

 

そう言って大鳥は各隊に仙台への後退を命じた。

 

「‥‥なんてこった‥これじゃあ、近藤さんの時の二の舞じゃねぇか」

 

土方の脳裏には自分らを逃がす為に命を懸けて時間を稼いだ流山での事が蘇る。

今の状況はあの時と規模が大きくなっただけで、全く同じ状況だった。

そんな中、

 

「副長、俺は、このまま会津に残ります」

 

と、斎藤はこのまま会津に残留することを言い出した。

 

「えっ?」

 

斎藤の言葉に信女は驚いた。

しかし、直属の上司である斎藤が会津に残ると言うのであれば、自分も会津に残ろうと決心する信女であった。

 

「斎藤‥‥」

 

「大鳥さんの言う通り、会津が落ちるのは確実でしょう。しかし、会津はこれまで俺達新撰組の世話を焼いてくれた藩‥‥此処は俺が新撰組の代表としてその恩に報いりましょう。武士として‥‥」

 

「武士として‥か‥‥ふっ、耳が痛ぇな‥‥」

 

土方は自嘲めいた笑みをこぼす。

 

「副長には今後も新撰組を‥武士を導く義務があります」

 

「全く、簡単に言いやがって、近藤さんと言い、お前と言い、とことんお前らは俺に荷物を背負わせやがる」

 

「ならば、荷物持ちくらいは、副長の手元においておきます。‥‥という訳だ、今井、お前も副長と一緒に仙台へ行け」

 

「っ!?なんで!?」

 

信女は斎藤と共に会津に残る事を決めていたのだが、其処を勝手に土方達と共に仙台へ行けと言う。

 

「さっき、副長に言っただろうが、お前は副長の荷物持ちだ。副長の隣に立って荷物を持ってやれ」

 

「‥‥」

 

勝手に自分の進退を決められ信女は斎藤を睨む。

 

「不服そうだな、今井」

 

「不服よ、斎藤。‥貴方が会津に残ると言うのであれば、私も貴方の部下として会津に残る義務があるわ」

 

「だが、俺はお前の直属の上司だ。部下のお前には俺の命令を聞く義務がある」

 

「‥‥」

 

斎藤のこの言葉を聞き、信女は苦虫を噛み潰したように口元を僅かに歪める。

 

「斎藤‥だが、いいのか?」

 

土方としては斎藤が会津の残るのであれば、剣の腕の立つ信女も此処会津に残していった方がいいのではないかと尋ねる。

 

「構いません、今更隊士が1人居た所でこの戦況に大きな影響はないでしょうから‥という訳だ、今井、達者でな‥‥」

 

そう言って斎藤は陣から去っていく。

 

「斎藤‥死ぬんじゃないわよ‥生き恥を晒してもいい‥‥絶対に死ぬんじゃないわよ」

 

と震える声で去っていく斎藤に声をかける。

 

「私は知ってる‥貴方の強さを...貴方の力はこの後の新時代でも絶対に必要な筈よ...だから、絶対に生きぬきなさい‥‥斎藤‥‥」

 

 

信女は去っていく斎藤に声をかけ、斎藤はそれに応えるかのように片手をあげた。

その後、会津藩は会津若松城に篭城して抵抗したが、9月に入ると頼みとしていた米沢藩をはじめとする同盟諸藩の降伏が相次いだ。

孤立した会津藩もついに11月6日、新政府軍に降伏した。

同盟諸藩で最後まで抵抗した庄内藩が降伏したのはその2日後の11月8日の事だった。

旧幕府軍の残存兵力は会津を離れ、仙台にて榎本武揚と合流し、蝦夷地(北海道)へと向かった。

戊辰戦争はいよいよその舞台を最終決戦地へと移っていった。

 

 

 

 

・・・・続く




ではまた次回

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