女提督は金剛だけを愛しすぎてる。   作:黒灰

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トリフィドの光を背に生きる

 

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の生贄は誰にも渡さない。

 私の神様は誰にも触れさせない。

 私の神様は誰にも触れさせない。

 私の神様は誰にも触れさせない。

 私の神様は誰にも触れさせない。

 私の神様は誰にも触れさせない。

 私の神様は誰にも触れさせない。

 私の神様は誰にも触れさせない。

 

 頭の無線機がうるさい。“瑞鶴”の声がする。うるさい。うるさい。うるさい。何も言うな。言わないで。声が聴こえる。鼓膜が揺れると耳小骨が振動して聴神経が励起して脳に伝達して聴覚の対象を認識して私は何も聞こえない。聞こえないのに聞こえる。おかしい。あの子の声は聞こえない。聞こえないのに聞こえているからおかしい。薬が足りない。薬を飲もう。酒が足りないから酒を飲んで神様の声を聞こう。私の知っている神様の声が酒を飲むと聞ける。夢に見るように酒を飲んで無価値なアルコールの40%を脳に再取り込みして残りの60%は呼気吸気で揮発して水蒸気に変わるから私はトイレに行く意味を失って久しい。肌の穴という穴からアルデヒドが揮発していく。だから呑める。私は酔わない。頭痛は脳が肥大化していくから。前頭葉が枯渇して水分量が目方で65%の干物になっている。濃縮還元されるには水を飲む必要があるけれど私の頭は還元するほど軽くないから飲まない。アルコールで保存する。ホルマリンより無害なアルコール。アルコール漬けの水槽の中で金魚が慌てふためいて鶴は餌の金魚をついばむ。酩酊した渡り鳥の飛行軌道は二次曲線を描いて無限のxで発散していく。プラスへ。n次曲線のプラスへ。虚数平面上のプラスへ。アップダウン。ダウンアップ。目玉焼きの黄身のようにとろける脳髄が目玉焼きの黄身のように干物の脳髄が白身みたいに中身のない脳髄が焼けて焦げてあああ、目が痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。目玉が痛い。痛い。無い。無い。無い。無い。背中に刺さって肺を貫いた羽はない。無い。背中に羽はないけど飛べる。飛べる。私の意識は飛んでいける。いつだって、その準備が出来ている。私は今にも飛ぼうとしている。ぼうっとしているあの女と違って。

 

 ふひひ。

 ふひひひ。

 ふひひひひひ。

 ふひひひひ。

 ふひひひひひひひ。

 ふひ。

 ふひひひひひひひひ。

 ふひひひひ。

 

 

 

 

 

 

 まだ?

 神様、起きてよ。

 まだ?

 

 

 ●

 

 

 目が覚めると、ベッドの上だった。いつも通りの目覚め。

 私は裸で、布団は掛けられて。

 ただ、体の所々が滲むように痛む。……昨晩の暴行のせいだ。瑞鶴から私への、理不尽というものの教示だ。

 それを、私は不幸と呼ぶべきなのだろうか。朧気な意識のなか、そうかもしれないと半ば確信したようにも思うのだが、いや、やはり疑わしい。私は不幸をよく知らないから。だから、これは例示に過ぎない。

 多くとも、これはデモンストレーションなのだ。

 真の不幸というものは、現在の想像の埒外にある。学びだった。そういうことと考えよう。そうすれば筋は通る話だ。

 

 しかし、薬のない眠りも久しぶりなのだが……気絶のようなものだったからか寝足りないように思う。いつもならもう勝手に起きていて煙草を啜っているはずなのだが、そのルーチンも崩れている。早く、煙草を吸わないと。

 私は左脇に視線を向け、そこに煙草、ライター、灰皿があるのを確認する。

 吸おう。パッケージを手に取って一本を取り出し、ライターで着火した。

 

 いつも通りの朝だ。まだ瑞鶴は来ない。時計を見る。いつもより30分程早い目覚めだ。イレギュラーな眠りだったため、起床時間も変化してしまった。だが、私はいつも通りに過ごす。調整のため、私は何本か吸って待つことにした。灰を払う左手が少し震えるが、それは無視する。痛みと同じように。無視すれば動くのだから。

 ……煙を呑む。それは澄んで乾いた朝の空気と混合されて、肺の底で冷たく混じり合った。朝餉前の混合気カクテルだ。よく冷えて、私は旨いと思う。まさしく目覚めの一服。

 

 何も変わらぬ朝だ。何も。痛みは無視すれば、ただの少し早起きした朝。

 私は、幸福か不幸か分からないが、この日々を回していける。

 何も、問題はない。

 

 だから、

 

「提督さん、おはようございます」

「瑞鶴、今日もよろしくお願いします」

 

 挨拶は、欠かさずに。いつもと同じように。

 

 

 ●

 

 

 その後の介護は淡々として、いつものように行われた。態度に昨晩あったことの名残はない。機微に疎いのでなんとも言い難いのだが、特に問題はないように見える。だから、あの夜のことはただの教示として受け止め、勉強として忘れないでおくことが正しいのだと分かった。言及するまでもない。

 

 自室を出て執務室に移り、夜警部隊の報告を聞けば、私は私の趣味と仕事の時間に入ればいい。それだけのこと。

 

 瑞鶴から本日の予定について報告を受ける。

 

「本日の予定は」

「夜警、遠征の護衛部隊からの報告、それと工廠からの予算申請、この3つを処理してください。以上です。明石は直接説明することがあるということで、10時頃に執務室に来る予定です」

「分かった」

 

 それだけ聞くと、私達は別れる。彼女には彼女のオフィス、私には私の執務室がある。

 役割は違う。彼女と私は違う立場。

 そうして、私はまたひとりになる。

 

 

 ●

 

 

 夜警部隊の代表、夕張が来た。

 彼女は私の顔を見ると、眉を顰めた。そして、

 

「……提督?どうしたんですか、その顔」

 

 震える声で、そう言った。

 

「何かついているか」

「いや、その、痣が、なんで」

 

 震える声は、私の顔についた痣について。

 それに正直に私は答えた。

 

「瑞鶴に殴られた。他にも側頭部、鳩尾、胸、腹部、首筋、色々と。見たいならば見せても構わんが」

 

 すると、彼女は身震いして、

 

「提督……!」

「どうした」

「どうした、じゃなくて、瑞鶴に!?」

「そうだが」

「その、つまり、瑞鶴が……」

「だから、どうかしたか」

「……瑞鶴が、また、狂ったんですか」

 

 狂った?

 てっきり私は不幸というものの教示を受けたと思っていたのだが。

 彼女に悪意があったとしても、不幸というものを教えて貰ったのだ。これが彼女の思う不幸だと。私はそれを学んだだけだ。罰するつもりはない。そもそも私が怒らせた故の行動だと思う。責任は私にあるのだから、

 

「いや、彼女は私に”不幸“を教示してくれただけだろう」

「でも、その、違うでしょう!それは……!」

「私が怒らせたのかもしれないが、ともかく私は彼女にとっての不幸を学んだと言える。身を以てしなければ理解できないものだった。貴重な示唆だ」

「あの、そうじゃなくて、もう!」

 

 彼女が私に近付き、机を両手で叩いて身を乗り出し、

 

「提督!瑞鶴は、あの子は……狂ってるんですよ!?」

「顔が近い。……狂っている者など珍しくないだろう。君も元は色狂いと聞いている」

 

 私の指摘に彼女は目を見開き、顔を赤くして、

 

「い、色狂い!?……いや、そういうことじゃないんです!前提督の時と同じように、あの子がおかしくなったんでしょう!?」

「私からは至って正気に見えた。楽しそうだった」

「それが正気って、言えるわけ無いでしょう!?明らかに異常です、あの子も、あなたも!」

「仕事に支障は出ていないようだが」

「出て、いない?」

 

 どうやら彼女の異端審問は私にも飛び火したらしい。予期せぬ事態だ。私は精神の潔白を証明すべく、

 

「私の正気を何が保証してくれるかは知らないが、私は至って正気のつもりだ。病人は病識がないと聞くが、私は狂気の中にはいないはずだ」

「いや、そうでしょうけれど、その正気がズレてるんですよ、提督!」

 

 ズレている。ズレ?

 私は、ひとりだけれど。

 ズレている?

 

「ズレている?」

 

 口に出してしまった。それを聞き咎めた夕張は、

 

「……そうです、あなたは、ズレている。その正気からして何か間違っているんです。それが私達の助けになったことは間違いありませんよ。でも、それがあなた自身を苦しめているなら……」

「別に、私は苦しくはないが」

「……そう、なんでしょう、けれど!でも!」

 

 彼女はそれだけ言うと、右手で顔を覆ってさめざめと泣き始めた。情緒不安定だ。疲れているのだろうか。

 

「君は疲れているだろう。報告を済ませ次第すぐに休むといい」

「なんで……分かってくれないんですか……」

 

 分かっていない。

 ズレているから、分からない。

 私は、そうか、宇宙人だからか。地球の話し言葉は私にはどうやら通じないらしい。ビジネス地球語は理解しているつもりだったが、日常会話にこう差し支えが出るとは。ともかく、

 

「私は宇宙人らしい。そういうものだと知ってくれ。君から周知して貰えると有り難い」

「せめて、手当は受けて、ください……」

 

 そう言うと、一息吐いて、泣きながら彼女は報告を始めた。特に問題は無かった。むしろ戦果は上々だった。

 

 

 ●

 

 

 遠征部隊は帰投が少々遅れているらしい。瑞鶴を通して連絡が来た。

 戦闘は無かったものの、少々天候が荒れていたらしく出発が遅れたようだ。

 

 次に来たのは明石だった。彼女はタブレットを右手、救急箱を左手に携えており、私を見ると真面目くさった顔になり、何より先に私の手当を始めた。

 彼女はタブレットを私の机の上に置き、胸ポケットから取り出したペンで私の顔を見ながら何か書き出した。

 

 “怪我は顔だけですか”

 

 問診のつもりらしい。今の私は服を着込んでいるから、見えている外傷はせいぜい首までだ。だから私は正直に、

 

「左肩、胸、鳩尾、腹部に痣があるかもしれない。だが、特に手当は必要ない」

 

 そう言ったのだが、彼女は次の言葉を書き出すこともなく、私の服を脱がせようとした。

 抵抗する。だが、彼女は私の目を見ようとする。煌々と燃えるようなその目で。だから、私はそれに見入ってしまって、抵抗の力を緩めてしまった。

 全部脱がされた。上半身だけを素っ裸に。寒い。

 そして、救急箱の中から湿布を数枚取り出して私の体に貼り付けた。腹、鳩尾、胸、肩、顔。体を他人に触られ、湿布が冷たいので身震いした。それに彼女が私の顔を覗き込む。目を逸らす。

 

 湿布が貼られ終わると、彼女はまた服を着せ直して、救急箱を閉じた。治療はこれで終わりらしい。

 タブレットに文字が綴られ、

 

 “ズイカクをしばらく遠ざけるべきです

 それが お互いのためです      ”

 

 何故だ?仕事はちゃんとしている。してくれている。業務に支障は出ていない。

 彼女の対応もいつもと変わらない。だから、何の理由があるというのだろう。

 

「理由がない」

 “彼女は隔離しなくちゃいけないんです”

 

 引きつった顔で言葉を綴っていく明石に、私はそうは思わなくて、

 

「その必要はない。私と彼女の話だ」

 

 そう言った。

 

 彼女もまたさめざめと泣き始めて、しばらく経つまで話にならなかった。

 予算申請についての内容は妥当だった。大淀に処理するように手配する。

 

 

 ●

 

 

 それからさらにしばらくすると、時雨が入ってきた。

 常々隈の深く入った目をしている駆逐艦娘。黒髪を一本の三つ編みにして後ろに下げた少女の姿だ。服装は黒いセーラー服のような制服。白露シリーズは概ね統一してその制服らしい。

 

「提督、その顔はどうしたんだい」

 

 彼女は特に驚いた顔はしていない。どちらかと言うと怪訝そう、だと思う。先の二人ほど極端な反応はしていない。

 

「瑞鶴に殴られた」

「……それは、そうか。とうとうと言ったところだね。処置はしたのかい?」

「特に何もしないが」

「そう、か。処罰も、処置もなしか。提督、君こそ処置なしだね。早く彼女を遠ざけるべきだ。誰かのそばに置くべきじゃない。隔離するべきだよ」

「明石からも具申を受けたが、彼女は業務に支障をきたしていない。私が服を着ているのは何故だ?一人ではとても着れない。彼女が朝から業務を忠実に遂行していなければ、今ごろ私はヌーディストだ」

「……かばっているつもりはないんだね。それはよく分かる。けれど、それなら君は状況を理解していないようだ」

「状況?」

 

 私が、状況を把握していない?

 何のことだ。鎮守府の運営は正常だ。それがどうした。

 

「鎮守府の運行は正常に行われている。私もこうして健在だ。部下もこうして働いている。それの何に問題がある」

 

 時雨は首を振る。

 

「いや、これは組織としての問題じゃない。個人としての問題だ。……失望したとは言わないけれど、聞きしに勝る宇宙人っぷりだね。君には個人がない。いや、どうだろう。――――――君からは守るべきはずの自我を“感じない”。僕にはそれこそ狂気と感じる」

「私に自我がない?私は私を説明できる」

「じゃあ君はそれに納得しているのかい」

「む」

 

 納得。納得しているか、と言われると。

 ――――――いや、理解はしている。それで納得に代えている。ならば、同じことではないだろうか。

 そうでないとしたら、人間は、自分で自分を納得しているというのだろうか?私以外は。

 

「君は、自分に納得しているというのか?」

「さぁね。受け入れがたいということを納得している気もするよ。僕は僕だ。逃れられない業というものは感じてる。“戦いはもう嫌だ”。それでもこうして生きている。兵器になってまで。生きたいから」

 

 それを言う顔は、全く怯える素振りはない。軍人の前で戦闘を否定する、私にとってそれを聞くのは二度目だが、それに職務放棄という罪の意識を持ったりはしないらしい。

 それでも、彼女は自身を兵器と呼んで憚らない。

 

「兵器が戦いを否定する、それは確かに矛盾している。ならば、君は自己の棄却を以てその生を肯定することになるな」

 

 彼女は首を振って否定し、そして微笑んだ。

 

「ううん。そうじゃないんだ。スジが通らないようだけれど、そういう矛盾を見て見ぬふりする、そうして納得する。これが人間だと思う。君はそこで理屈を通そうとしているから納得が行かないんだ。それを理解はしているんだろうけれどもね」

「ほう」

 

 そして彼女は一度溜息。

 

「僕も雪風に会うまでは死にたいと思ったさ。でもね。彼女は“別物”だった。だから僕は納得して、生きようと思ったんだ。人間らしく。つまりは不条理な感情のもとにね」

 

 不条理な感情。生物というより人間特有の行動原理だと思う。それは正気なのだろうか。狂気なのだろうか。ともかく、

 

「だが君の話は要領を得ないな。抽象的すぎる」

「具体的な話をすると多分君は納得しないだろうからね。……僕も君と同じくらい生きているはずだけれど、まぁ、多分そのうち分かると思うよ。君が君を見つけてやれることを願うと同時に、僕も具申しよう。――――――――瑞鶴を遠ざけるんだ。瑞鶴から逃げるんだ。不幸が追って来ないように」

 

 不幸。それは、瑞鶴の暴力だろうか。それを遠ざけるというのならば、その前に暴力を知らなければならない。暴力による不幸を。だから、決断はそれからで十分だ。……ああ、そういえば歩行能力を失ったのも不幸か。私にとっては軍人として当然と思っていて、あまり実感が無かったのだが。軍人とはそういうものだろう。特に、陸軍の最前線指揮官ともなれば。

 

「だから彼女に教わろうと思っているのだが」

 

 私の言葉に、彼女は珍しく息を呑んだ。今まで見たことが無いようにも思う。いつも命令には忠実で、ただし主張はきちんとする部下だ。不戦主義についても正直に申告した。その理由についても。『戦いにはもう飽きたよ』、と。

 

「……とんだ冗談だね。まだわからないのかい」

「あまり」

「分かったよ。気の済むまでそうすればいい。業務に支障が出ない程度にね」

 

 そう言うと、彼女は遠征に関する簡易な報告を行い、明日報告書を提出すると言って去った。

 護衛の成果は敵艦隊との遭遇もなく良好だった。夜警部隊の働きは良好だ。海域の勢力バランスも軍有利で安定している。

 

 ●

 

 

 瑞鶴に風呂に入れて貰い、その終わるタイミングに合わせて明石が私の部屋に来た。これから食事に行くつもりでいたのだが、それを阻んで彼女は私の治療を始めた。湿布の張り替えだ。また私の衣服をひん剥いて、湿布をぺたぺたと体に貼り付けると、彼女は去っていった。午前のときのように泣きながらではなく、特に表情を変えずに作業をこなして。退出の敬礼時に彼女の眼球が妙に光っていた気がするが、泣いていたのだろうか。あまり興味もないが。

 

 食事もいつもどおりで、瑞鶴はやはり私より早く食堂を出た。私が食事を始めるのが遅かったから、体感としては昨日より早かったが、時計を見るとそう変わらない時間だった。

 それにしても頬に湿布が貼ってあると食べにくい。スパムの味も損なわれるように感じる。頬の妙な冷たさが気持ち悪い。剥がしたいと思ったが、それをすると何か文句が出るように予測されて控えた。

 間宮は、特に驚いた目では私を見なかった。伏し目がちだったが、何か悪いことでもあったのだろうか。

 口笛でも吹いて忘れればいい。それか、休めば。

 

 食事を終わらせると、私は金剛に会いに行った。

 これからはこれを日課にしよう。そう思った。

 

 

 ●

 

 

「金剛」

 

 部屋の前に来て、私は彼女を呼ぶ。

 そして、入る。

 

「金剛」

 

 ドアを閉めながら、私は再び彼女を呼ぶ。

 見ると、彼女はまた窓の向こうを見ていた。何を見ているのかは関心がないが、それにしても飽きないと思う。何もすることがないのだから、私がそうしたのだから仕方のないことだと思うが。なにより、彼女はそうしていればいいとも思うのだし。

 

「金剛」

 

 三度目。彼女にやはり反応はない。私は近寄っていく。彼女のもとに。

 

「金剛。瑞鶴に殴られたの」

 

 その言葉に、彼女は反応を見せた。ぎこちなく、首を回してこちらに顔を向けた。

 呆けた顔で、しかしまぶたが震えていた。

 そして、いつしか涙がその頬を伝っていた。

 

「何を泣くことがあるの」

「だ、って、テイト、クが」

「私は瑞鶴に、不幸を教示してもらっているだけよ」

「そ、んな、なん、で」

「みんな、瑞鶴が狂っていると言うの。でも、彼女は仕事をきちんとしてくれているし、問題は起きていないわ。この教示もまた彼女による仕事だと思うの」

 

 私が答えると、彼女は重そうな両手を顔にやり、手のひらを顔に押し当てるようにしながら、しくしくと泣き始めた。何を悲しいことがあるものか。でも、彼女が悲しそうにしているのは、なんでだろう。こんなにも可愛いのに、胸が痛い。好きなのに。

 だから、

 

「泣かないで」

「……テイ、トク、ごめんな、サイ」

「泣く必要はないわ。あなたにその必要はないの。それをする理由はないの」

「……ごめん、なサイ……」

 

 埒があかないので、私は勝手に話をすることにした。そもそも返答を求めるものではないのだから。

 

「瑞鶴は、よくやってくれているわ。私に教示してくれた上にきちんと介護をこなしてくれているもの。それに、遠征部隊からの連絡伝達にもミスは無かった。みんな狂っているとは言うけれど、狂人はまず仕事からボロが出るはずよ。だって、仕事より理性的な行動はないはずよ。狂っていては出来ないことだわ」

 

 私は理由を淡々と述べていく。金剛は、それを聞いて手を下ろすと、私を見た。美しい目で。私は、それに見入る。魅入られる。どんなガラスより美しいその目に。涙を湛えたそれは、多分ダイヤモンドよりも輝かしく、そして私の心を何よりも惹き付ける。

 

 私は多分、微笑んで、

 

「私は幸せ。だって、あなたがここにいる。あなたをここに置いておける。それは何にも勝る幸福。だって、好きな人とずっと一緒にいられるんだもの」

 

 私は胸がもっと痛くなって、耐えられなくて、涙が出てきた。

 そう。

 もしかして、足が動かせなくなったことが不幸で。

 もしかして、瑞鶴にこうして殴られたことが不幸で。

 それがまかり間違って真実だったとしても。

 私は幸福だ。

 だって、好きな人がここにいるのだから。

 

 ああ、私の人生はこんなにも輝かしい。

 だから、

 

「“人生で嫌なことがあって”」

 

 英語で、私は歌い出す。好きな歌。私の人生のアンセム。英国人の誇り。父が教えてくれた、最も尊いもの。

 

「”それがほんとうにあなたを怒り狂わせる”

 “あるいは 罵りや呪いを吐かせることだってある”

 ”気色悪いものを カマされたときも”

 “不平なんて言わないで 口笛でも吹いて ね”

 ”それは 最高のものを返してくれるんだから”

 ”だから”」

 

 だから。

 私は全てを受け入れよう。この歌のとおりに。私は全てを、いつか返ってくる幸福の前触れだと信じよう。そもそも私に起きる全てが不幸だったとしても、元よりそれが分からないのだけれど。

 ならば全ての見えるものは即ち、

 

「”いつだって人生の明るい方を見るんだ”」

 

 人生の明るい面だけ。

 目の前のこの太陽さえ見えていれば、それで私の一生はOKだ。

 何も失ったものはない。

 何も。

 何も問題はない。

 

 

 ●

 

 

 部屋に戻ると、また瑞鶴に殴られた。

 でも、私は幸福だ。

 不幸はまだわからないけれど。

 それは多分、何にも勝る幸福なのだと思う。

 

 昨日と同じように、眠った。

 

 


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