お酒は好き。
その味が好きなんじゃなくて、私を落ち着かせてくれるから。
薬も酒も、私の頭を壊してしまう。
……そうなればいい。そうなってしかるべきだと思う。
だって私はもう変わってしまった。もう戻ることが出来ない。
私はもう歪んでしまった。叩き治そうにも、もう壊れてしまう。
私は壊れた鳥類模型。死んだ鶴。飛べない鳥。
羽の折れたカラス。
不吉を留めるだけの悪いやつ。
ここにいる私は、歪んだ肉細工。
邪心を掻き立てる女の形をした肉細工。
邪心の傷跡を顕す人体模型の肉細工。
嫌い。
こんな体、嫌い。
目が痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
背中が痛い。
痛い。
痛い。
痛い。
折れた背中の羽が、私の胸を突き刺して痛い。
失った左目が灼けるように痛い。まるでランプを目に入れているみたい。
ランプの芯は燃えているのかしら燃えていないのかしら。
どちらにしてもきっと芯の通った人は灼けるような責め苦に耐え続ける人なのです。
燃え尽きることが出来ないままに身を焦がすさまはきっと不死鳥と勘違いされる燃えた鳥類模型。
剥製のような生き方をしている人々の苦しみにようの私もきっとモデルケースのひとつ。
きっとありふれたことなのでしょう。
ケースに詰めて私をどこかへ連れて行って。
私に切手を貼ってどこかへ連れて行って。
遠く高く飛ばしてくれてもいいよ。
桜の木の下に埋めてもいいよ。
どちらかと言えば、悲しみのないほうへ。絶望の僅かなほうへ。
選ぶのは私じゃないけれど。
そう、いつだって私は選んでこなかった。狂った世界に身を任せてきただけ。
それでも私は線を描いて生きている。急降下。低空飛行。サイン波。そして漸近線は私の目の前に見えている。見えている。私にはそれだけが見えている。線の行く先は見えなくても。
私は生きる。きっと生きる。ゼロにもなれずに惨めな生でも。私は幸せになるまで死ねない。
死ねない。
死ねない。
まだ、死ねない。
でも、ねぇ。
まだ?
●
金剛に会いに行こう。
そう思って、私はここに来た。部屋に戻らず、玄関から入って薄暗い廊下を通って。
暗い部屋で、彫像のようにそこにあり続ける彼女のところに。
「金剛」
呼び掛ける。
「金剛」
ドアを閉めると近づいていく。
「金剛」
モーターの音が、彼女のか細い呼吸音を掻き消す。
「金剛」
四度呼びかけ、私は彼女の脇に辿り着いた。
「会いに来ました」
静かに、私はそう言った。
彼女は何も返さないままでそこにある。
「ねぇ、私は不幸なのかしらね。山城が言っていたの。瑞鶴をそばに置くと不幸になるって。私はそれに気付いていないだけなのか、わからない」
彼女が私に顔を向けた。
ゆらりと、震えるように。
口を開いた。
「てい、と、く」
「違うの、答えないで」
そうじゃない。私は、私はそれを問いかけに来たんじゃない。
会いに来ただけなの。
「私は、会いに来ただけなの。聞いているんじゃないの、ただ、会いに来ただけ。それだけ。あなたは何も言わず、聞いていればいいの。金剛。じゃあ、あなたには何が出来るの?」
私の言葉に、金剛は息を詰める。
そして、それを吐き出すと同時に、
「……し、ごと」
「出来ないじゃない」
そう返すと、彼女はまた息を詰めて、そして吐く。
「か、うんせりんぐ」
「もう出来ないじゃない」
「しゅつ、げき」
「あなたにそれは無理よ」
呆けた顔のまま俯くと、彼女は、
「なに、で、きますか」
「ここにいること。あなたは、他に何が出来るの?」
私はまた質問する。答えは無いと知っている。絶対に彼女をここから出すつもりはない。
「……っ……で、き、マス」
「じゃあ教えて、何が出来るの?」
「……テー、トク、と、おはなし」
それは、だめ。ここから出ないとしても、私は彼女に何かをさせるつもりはない。何も出来ない人間は、何もしなければいい。それが正しいあり方だから。病人に鞭を打つほど、ここは困窮していない。それをしなくとも問題はないのだから。そもそも、
「それが出来るほど回復しているの?」
彼女は、二度深く呼吸すると、
「……がん、ば、りマス」
俯いたままにそう言った。けれども、私はその言葉に共感できない。
「無理してようやく、は出来るとは言わないわ。……ほら、何も出来ないじゃない。だから、あなたはここにいることしか出来ない。ただここにいればいい」
そう言うと、彼女は顔を上げ、その目で私を捉えた。
私は彼女の目を見る。目に魅入られているから、それを見る。
綺麗。美しい。愛らしい。可愛らしい。なんて、愛おしい。胸が高鳴る。甘く、痛く。
詰まる息を押し流して、
「金剛、あなたは回復しつつあるのかどうかも分からないけれど、私はその必要はないと思っているの。ここには私がいる。部下がいる。だから、もうこの鎮守府には必要ないの。……“前提督”はこの世を去ったの。もういないの。すでに事切れて、息絶えて、天国の聖歌隊に参加しているの。命尽きて、永遠の眠りに就いているの。その人生の幕を降ろして。あなたは……そう、あなたは、今頃暖かい土の中で眠っているはずだった。こんなところじゃなくて。ねぇ、あなたはどうしてここに釘付けになっているの。私にはわからない。必要のないあなたが、どうしてここにいるのか、私にはわからない。死にたいと言うほどの生き方をするあなたが、私は理解できないの」
私は想いを、まくし立てるように口ずさむ。それを聞き流すべき彼女は、呆けているだけ。
それでいい。
それでいいのだから。
「あなたは働かなくていいの。ただ、こうして横たわっているだけでいい。死にたいならば……死ねばいいけれども。私はあなたなら、あなただからこそ、その死体だってこの手に抱ける」
口許が釣り上がる。笑っているのだろうか。この頬のくすぐったさは、視界のかすみはなんだろう。
……ああ、泣いているのかしら。
私の顔に、彼女の目の焦点が合う。
「ないて、いるん、デスか」
「金剛」
答えなくていい。何も言わなくていい。死体でも良い。私には、あなたがそこにいることが嬉しい。あなたを愛せることこそが幸福なのだから。あなたという、人間を愛せたことが。だから、なにもしなくていい。
「何も、言わないで」
「でも」
「あなたに出来ることはなにもありはしない」
「で、も」
「なにも」
「……で、も」
”でも”を繰り返す彼女に、私は何度でも叩きつける。
「もう何もしなくていいの。あなたはこの鎮守府にとって不要です」
「……は、い」
「ここにいてくれるだけでいいの。この部屋の中に、ずっといてくれればいいの。私の青い鳥。ここにいて。かごの中で、疲れ果てた鳥は眠っていればいいの。たとえ死んだとしても、美しさは永久に変わることはないの。私はあなたを愛しているの。あなたを誰にも渡さない」
息を呑む声が聞こえた。情熱的すぎたんだろうか、と私は疑問になった。多分そうなんだろうと思う。けれど私にとっては初めての懸想なのだから、それの強弱がわからない。けれど、
「……はい」
彼女は、そう言った。
ため息のように。
「それでいいの」
だから私は多分、微笑んでそれを言った。
そして、彼女の手を握って、それだけでしばらくを過ごした。
愛する人の手を握る。それは、私にとって何よりの幸福で、涙が溢れた。だから私は笑っていたと思う。鏡は手元に無いけれど、それくらいは私にも分かっていると思う。
●
●
私はのれんをくぐり引き戸を開けると、すぐにカウンターの席に就いた。
今日の客入りはあまり良くないようで、私一人だ。
……まぁ、食堂をいち早く出ていったのだから、単に一番乗りをしているだけかもしれないけど。
間髪入れず、箸と今日のお通しが出る。
私の腹具合を察して軽めだ。
ししとうの炭火炙り、ブリ刺し二切れ、白菜の浅漬。
浅漬けは唐辛子が赤く、黄緑と白に対比して目立っている。
まず浅漬けから手をつけて、私は注文を始める。
「鳳翔、今日はハイニッカ持って帰るから。出して。ハイボールにするから炭酸水も貸して」
「注文がいきなり多くて忙しいですねぇ」
文句は言いつつも手順によどみはない。棚からすぐに私のキープを探し当ててカウンターに出す。
『Hi-Hi』と書かれた黄色いラベル、半分ほど残ったウイスキーの瓶。
更に彼女は足元の冷蔵庫から炭酸水のペットボトルを取り出す。
視線を冷蔵庫の中身に向けながら、
「レモンは?」
「いらない」
「了解です」
バタンと冷蔵庫のドアを閉めると、グラスを用意して、ボトル・ペットボトルと一緒に私の前にドンと置いてくれた。
「はいはい、準備できました。でも、飲みすぎると薬が効かなくなりますよ」
アルコールは私の薬に影響を与える。だから、服用時間は工夫している。大丈夫。
それに、
「……あと何日かで終わるから。肝臓、弱くないし。それに昼に飲めばちゃんと効いてくれる」
「そういうことならば、お出しすることは吝かではありませんがね」
そう言って、鳳翔は合わせてナッツを準備し始める。後ろの棚、皿の入った方から一枚飾りっ気のない、でも瀟洒な白の皿を取り出してきて、台所でナッツをがさがさと振り入れている。合わせて冷蔵庫から板チョコレートを出し、それも割って載せる。
「薬と酒の飲み方は医師の判断を仰いだほうがよろしいかと思われますが、ねぇ」
そんなことを言っても、無駄だということは皆が知っている。私も、彼女も。よっぽど知り尽くしていて、それはきっと皮肉な言葉だった。
「いないんだから、仕方ないじゃない」
「それはまぁ、そうですけれどもね」
晴れやかな笑みでそう答える。
皮肉交じりに私の飲酒を咎めようというのか。本当にそうならば、私を追い出せばいいというのに。だからこの女は悪だ。甘い言葉と諌めの言葉を持ってはいても、善性がそれに追いついていない。追いかけてこないのだ。真心なんて無い薄っぺらな心配の言葉だ。
事実だ。だって、鳳翔は破綻しているから。
「お酒を教えたのは私ですけれども、こんなにお熱になるとは想いませんでしたねぇ。よく眠れますか?」
「本当に、よく眠れるわ。もう手放せない」
「それはお気の毒に」
くそったれ。祝いたいくせに。私を祝いたいくせに。気の毒さを賛美したいくせに。そんな軽薄な言葉ならいくらでも聞ける。鳳翔、お前の口からじゃなくても。
私は死んだ目でハイニッカの蓋をカラカラと回して開ける。そして、ガラスの口からガラスのグラスへとトクトクと注いでいく。指2本分。寝かせて並べたその高さ。ダブルフィンガー。量はそれくらいにして、炭酸を注ぎ込む。すると、泡立っていくついでにウイスキーの香りが漂い始める。だが、それに鳳翔は、
「ハイボールは香りが命ですからねぇ」
「ちょっと」
そう言って、カウンター越しに私のボトルを掴んで、更にウイスキーを注いだ。これではトリプルフィンガーだ。濃い酒だ。想定を超えて異様に。なんて邪魔をするのか、正論を振りかざして。面倒なことをわざわざに。
「鳳翔」
「はい、ナッツとチョコレートになります。ショットグラスは一杯空けられたらお出ししますね」
微笑みながらそんなことを言う。
……私は、その一杯目を一旦放棄することにした。お通しに口を付けてからだ。これでは合うつまみにならない。
まずは脂の味が欲しい。そこでブリの刺身に手をつけた。小皿はのぞきとして使えということらしく、それに醤油を注いでから、わさびを溶かす。そして、切り身を端から程よく醤油に浸して、口に運ぶ。
脂が溶け出す。そして、わさびの香りと醤油の旨味が渾然となって口で溶け合う。
美味しい。けれど、あんな濃いハイボールには合わない。もっと新鮮ならあえてそうしても良かったけれど、さしもの鳳翔でもこれ以上の仕入れとなるとうまく行かなかったようだ。血合いの味が少し邪魔だから。
それの口直しに浅漬けを頬張る。……塩辛さの中にぴりっと走る唐辛子の辛味が絶妙だが、それならば、呑めるか。私はここでようやく濃いハイボールに口をつけた。
アルコール、炭酸の苦味に混じって濃いウイスキー味が泡となり、私の舌を刺す。体が震える。喉を潤しては乾かす。
一口、二口。それだけ飲むと、私はししとうを箸で掴んで齧った。
これをもう一周繰り返すと、お通しはすっからかんになった。ナッツとチョコレートは少しぬるくなっているが、特にチョコレートはこれに合うようになっているはず。私は小鉢を重ねてカウンターの向こうへ差し出す。見ているだけだった鳳翔はそれを受取り、流し台にコトンと置いて水を流し始めた。一人しか客が居ない上に勝負が早いから洗う暇があるんだろう。……私はそんなことはどうでもいい。とにかく、この濃いハイボールを片付けてしまいたい。
ナッツはマカデミア、ピーナッツ、カシューナッツ……色々と混ざってミックスナッツ。
適当に何粒かを摘んで口に放り込み、噛み砕く。
塩味と染み出す油の味はハイボールと合わせると良い。
酒とナッツの2つの香ばしさは特に邪魔し合うこともなく、夕飯後だと言うのに食欲を掻き立てていく。食欲、そう、私は多分食欲が抑えられない。なぜだろう。ストレス、病気、薬、色々思い当たることはあるけれど、なぜだろう。
……叢雲が、居なくなったから?
そうか、私の餌に逃げられたからだ。あいつは幸福になってしまった。私の手を逃れて。あの女のせいで。
あの女が悪い。
アレが悪い。悪いのはあの女だ。あの女さえ、あの女さえいなければ。
私の生贄に、手を出したから。
渡さない。私の生贄は渡さない。
「鳳翔」
「はい」
私が声を掛けると、彼女は後ろの冷凍庫のドアを開けて出してくれた。
カウンターの上で白く曇ったショットグラス、冷気が白く漂っている。
ハイボールを片付ける。一気に飲み干して、体を麻痺させる。
「……っ、ん」
思わず、震える体に合わせて声が出る。構うものか。まだ飲む。
まだ飲み足りない。
ショットグラスに瓶から注いで飲む。
一気に。
割れたチョコレートを口へ。噛み砕いて、溶かす。飲み干す。
ひりつくような喉の感覚、更に甘ったるく喉を灼く甘味に、体がまた震える。指がウズウズと震える。足がガクガクし始める。……ああ、多分、薬が変に効き始めている。連日のアルコールで、薬が変になっている。
構うことはない。
飲む。
飲む。
飲む。
飲む。
……飲む。
いらつく。
頭の後ろがチリチリする。視線を感じる。なんでだろう。振り返りはしない。いないから。誰も。誰も。いない。
『お酒は控えてくださいね』
背筋に聞こえる。
あの人の声が。
神様の声が。
うるさいよ。声だけで、私を止められるわけがないでしょう。
やめてよ、今更。
『大体のお薬はお酒と合わせちゃいけないんですけどね』
頭を掻き毟っても、声は止まない。
脳が痒い。
『あなたは―――――生きて幸せになりなさい』
イラつきが酷かったから、瓶に口をつけて、そのままウイスキーを流し込んだ。
『私は死にませんヨ』
うるさい。
死んじゃえ。死ぬほど辛い目にあってしまえ。
飲む。飲む。飲む。
ひたすら喉を灼く。脳を灼く。
「あらあら」
『大丈夫』
うそつき。
『もうしなせて』
うそつき。
飲む。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
うるさい。
うるさい」
「まぁまぁ、そう言わずに。お水はいかがですか」
「い、らない」
「あらまぁ」
飲み干した。
持って帰るはずだったのに。
「鳳翔、これ、捨てといて」
私は、瓶をカウンターに倒して席を立った。
後ろには、やっぱり誰も居なかった。
そう、居ない。
誰も、居ない。私のそばには誰もいない。
●
私は金剛の部屋から自室に戻る。
ほの暗い廊下とエントランスを通り抜け、自室のドアを開けると、そこには瑞鶴が立っていた。
少し揺れながら、ドアを見て立っていた。部屋に入り、前進する。
「どこへ?」
「どこへ?金剛のところだ」
……ポケットからスマートフォンを取り出し、電源ボタンをプッシュ。
時計を見ると、時間は10時より前。
そう、いつも変わらぬ時間。彼女はその時間には私を一度起こしに来る。私がいつも起きる時間よりもひと足早く来ていたらしい。仕事熱心なことだ。必要はないが。
「今日も酒か」
彼女は今日に限って顔が赤い。普段はあまり顔に出ないのだが。
その私の問いかけに彼女は表情は動かさず、後ろ手にドアを閉めながら私の背中越しに、
「そうですが。何か不都合でもありますか」
「繰り返しになるが、手元が狂いさえしなければ問題ない」
「そうですか」
……このやり取りも、叢雲が仕事から外れてからは変わらない。
瑞鶴はここ毎日アルコールを摂取してから来ている。不具合は特に出ていない。彼女の手元は危なげなく、私をベッドに運んでくれるし、薬と水もこぼさず渡してくれる。
不幸にされているとは感じない。
ベッドの脇に車椅子を止めて、私は問いかける。あえて。
「君は私を不幸にするだろうか」
聞いた。
それに彼女は、
「く、ひひ」
そう笑って、
「お望みとあれば、叶えます」
私に近寄り、右の拳で横面を殴打してきた。
……殴られた?
それを認識すると、私は体勢を立て直す。
そして歪む視界の中に佇む彼女の姿を捉える。
私の目が揺れているだけで、多分、彼女は何の変化もない。
「これで満足ですか」
「これは、ただの、暴力だ」
「これを、不幸とあなたが呼ぶなら、そうでしょ」
「そうか」
私の返事を聞くと、彼女は更に私を殴る。
「ふひ」
鳩尾。
左肩。
首筋。
左側頭部。
胸。
腹部。
彼女から殴りやすい場所は、満遍無く殴られて、私は、
「これは、ただの、暴力だ」
吐き気と痛みの中で、それを私は気にせずに言う。繰り返して。
聞いたのか聞かなかったのか、それとも聞こえたからなのか、彼女はまた私を殴打する。
……怒らせたのだろうか。
私は単純に瑞鶴をそばに置くことで何が起きるのだろうか、それに関心があっただけだ。
……そうか、人は特徴を指摘されると怒るものか。私にはあまり理解できない。ただの事実だから。
殴られながら、そう考えている。痛いとか、苦しいとか、そういうことは、あまり考えていない。
そんなものは、気にしなければいいだけだから。
私は暴力の切れ目に、
「怒らせた、だろうか」
呼気が上手くいかなくて、文節がぶつ切りになった。
彼女は答えず、私を更に殴った。
他人は怒らせたのかどうかを聞くと逆上する。そういうものらしい。私は別にそうならないのに。私は正直だから。怒っているならば怒っていると言う。怒っていなければ怒っていないと言う。私は、滅多に怒りを覚えないのだが。怒る理由は、この世にあまりないから。そう、この間の不正くらいだ。不正は良くない。私はただただそう思う。不都合だからだ。不都合ではない不正は、それはルールが翻るべきだと思うけれども。
そうか、これが理不尽だと言いたいのだろうか。不幸という理不尽。彼女はその拳を挺して私にそれを教えようと言うのだろうか。なるほど、筋が通っている。だから、私は彼女を咎めるつもりはない。
「これが、人を怒らせるということか」
体系的に理解するものではない。感情というものはどうやら度し難いものだから。私の金剛への思いもまた度し難く、それゆえに運命的だ。ならば、人が人に怒るということはそういったもので、私はそれを飲み込まなくてはいけない。だからこれは諫言の一つであり、私は彼女を咎める理由を持たないということだ。私は、これに戸惑ってはいないから。ああ、また怒らせた。それだけで。
私は、理不尽に対して立ち向かわなくてはならない。暴力ではなく、それ以外の方法を以てして。彼女の怒りというものに対応しなくてはならない。
だが、これは彼女の感情が怒りだと仮定してのものだ。だからそうでないのならば方法が変わるはずだ。私はそれを明らかにすべく、
「君は、怒っているのか」
そう問い続ける。
また殴られる。
振り上がる拳の向こう、彼女は笑っていた。楽しそうに。
怒っているのではないのか。いや、人は怒っているときでも笑う。笑いながら怒る人がいる。そういう芸もある。であれば、やはり怒っているのだろうか。しかし彼女は笑うだけで何も言わない。楽しげに笑うだけで。
「楽しいのか」
そう聞くと、
「ふひ、ひひひ」
啜るような音で笑う。
そうか、楽しいのか。ならば、何か殴るものが必要だろうか。
「サンド、バッグが、欲しいか」
殴られる。そういうわけではないらしい。怒っただろうか。
霞んで来た目の中で、彼女は笑っている。よくわからない。
……仕方ない。とりあえず、私がサンドバッグになるしかあるまい。
私は、何も言わずに彼女に殴られていることにした。多分、気が済んだら介護作業をしてくれるはずだ。
だから、私はこのまま意識を手放してもいい。脳が揺れすぎた。
ああでも、そうだ。
なぜ私なのだろうか。
――――――――そうか。
もしかすると、これが不幸か。
それだけ考えると、私の視界が黒くなっていった。