誤字報告により数字標記統一。
同日
台詞を1つ修正。
2016/12/07
描写を一部訂正。
2017/01/01
喫煙者について訂正。
2017/11/26
伊勢・日向の出自に関してあいまいになるよう訂正。適当に書いてたツケですね。
「やっぱり、どこにでも現れるんだね」
「そうです!」
雪風は言う。彼女は、どう言えば良いのだろう。私が“知る”理不尽を知っているならば、彼女は、
「雪風は、雪風のことならなんでも思い通りにできるんです!」
「やりたい放題だね……」
それを問うと、雪風は臆面もなく、
「そうです!机を手が貫通しないとは限りませんので、ドアも通れないことはありませんでした!」
「ひ、ヒエッ、怖いっ」
絶対見たくない。その現場絶対居たくない。
それにしても雪風は早起きさんだ。偉い。私なんか毎日寝坊しそうになっているっていうのに、というか人生の殆どが寝太郎だったのに、雪風ったらお休みの今日も規則正しく早起きだ。出てきたことすら誰にもバレていないなら、誰よりも早起きして先回りしていることになる。
そんな早起き健康優良艦娘の雪風は私に真顔で、
「取ってつけたようにひえーって言うの恥ずかしくないですか」
あのさぁ。
「なんでそこ突いてくるの?やめよう?あともうちょっと子供らしくできない?」
「やかましいです。というか気にしてるんですね」
「うん。生い立ちが生い立ちだから、そうなっちゃうみたいで」
「へえ、お互い様ですねぇ」
「やめよう」
「やめましょう!」
雪風はビシっと敬礼して大きなお返事。元気がいいなぁ。すごく怖いけど。
一方、殆ど自己というものが希薄なまま育った私は、人格を構成するほとんどが”比叡”だ。そう思う。リアクションの仕方も、人との接し方も、大体“比叡”が教えてくれたようなもの。それでもまだ薄っぺらな自覚があるのだけれど。だからイマイチ演じているようになってしまうのは仕方ないと思う。多分、人並みの感情はあるのに。お姉ちゃん大好きだとか、妹達が心配だなぁ、私は情けないなぁ、とか。
とにかく、雪風が今日ここにいるなら、昨晩の密談の続きが出来る。叢雲さんのことだ。私が不条理に知り得る未来の話だ。雪風ならなんとかしてくれる、と考えた私は、彼女を戦艦寮の前に呼び出したのだ。それで今日はいつもより寝不足。雪風には申し訳ないことをしたと思うけれど、私と違って睡眠時間は短くても平気らしい。
「それで、昨日の話だけど、なんとか出来ないかな」
「何をどうすればいいか分からないのでは、ちょっと無理です!」
「私もわからないんだよね……」
そう。私も分からない。分かることは多くない。叢雲さんがどうなるかは知っていても、その詳しいことは知らない。私が分かることはあくまで結果の文面のようなものだから、正しい解釈をするのにも大変なことがある。私の頭が悪いのと、信じてくれる人が居ないのとで、結局その時が来ても何も出来ないことがほとんどだ。
そういえば気になっていたのが、
「でも、昨日はどこに行ってから私のところに?」
「最近ちょっと気になっていまして、瑞鶴さんです!けど、なんだか独り言してて、お話がよく分かりませんでした!多分瑞鶴さん、なんだかとっても怖い人になっちゃいました!」
うーんこのげっ歯類め。
確かに今は怖い人だし、あと怖い目に遭ってきたで済まないくらい不幸な人だってのは今まで見てきたから知ってるでしょ。それでもこの感想はちょっと。うーん。
思わず、
「……雪風って、バカ?」
「比叡さんだけがおバカだと思います!」
ぬかしおるなー。私もそりゃああんまり覚えてられないけれど、最低限は、うん。最低限は覚えている。
多分。2つ、いや3つくらいなら。私、頭やっぱ悪いのかなぁ。
ああ、でもとりあえず覚えているのは、
お姉さまが元提督だとバレること。
私達姉妹がお姉さまから引き離されること。
あとは――――――――このままじゃ、叢雲さんが死ぬことくらいは。
それと提督に殺されちゃうことくらいは。
あれ……4つだ。私、数も数えられないからおバカなのかな……。
けど、“提督がなんでお姉さまが好きなのか”も、見たはずなんだけれど……やっぱり持って帰れなかったみたい。でも、とても悲しい理由だったような、そんな気はする。
それよりも。今は目前の悲劇を止めたい。それだけ。人が死ぬのは悪いことだ。昔たまに起きることが出来たとき、それをなんとなく感じていた。
「雪風、どうしよう。――――――叢雲さんを助けたいの。提督が殺しちゃうの。多分何か誤解してるんだよ」
「うーん、どう止めればいいんでしょうか。そのー、殺害の方法が分かりませんか?それでも止めるとなると、しれぇが死……じゃなくて、亡くなってしまえば手っ取り早いのですが」
同じだしそれはダメだ。それは最悪の事態だ。絶対にあっちゃいけない。雪風ならなんでも出来るけれど、それは私が死んでも止めなくちゃいけない。止められないとしても。
「駄目、それだけは駄目。まだ提督はここに必要なの、お姉さまを捨てない人が必要なの。お願い、何か」
雪風はうーん、と考え込むアクションを前置いて、
「その、”何がどうなればいいか”というのが分かりませんと、かなり大雑把にやっちゃいますが。―――――――あ、さっき、誤解とおっしゃいましたか?」
気付いたように、私にその”誤解”について問いかけてくる。
そう、誤解。叢雲さんがそんなヘマをするとは思えない。あの人はここの誰よりしっかりした人だから、提督のほうが何か致命的なエラーを起こしているんだと思う。提督流に言わせれば、――――――バグだ。
それがどういう“バグ”なのかは、私に知れることではなかったのだけれど。
「提督、何か誤解してるんだと思う。そう言ったよ」
「では、ちゃんと誤解を解けるように雪風が叢雲さんに進言してみましょう!」
え、それだけ?
●
今朝から、私の仕事は一つ増えることになった。
空いた食堂で朝食を寂しく摂り、一度自室に戻ってから出勤ラッシュをとうに過ぎて静かな寮を出る。
扉を空けた途端、朝の潮風を浴びた。寒さでふらつく。
ああ、今朝は本当にばっちり冷えてる。昨日は天気が良かったから。
……しかし、二日酔いで気分が少し悪い。それに少々寝坊してしまった。30分は少々だ。仕事も30分遅く終わらせればいい。ああでも気も重いし胃も重い。そんな私には今朝はしじみの味噌汁が有難かった。もうしじみは少なかったけど。間宮には一歩劣るが大鯨もなかなかの仕事をする。あれでペドフィリアじゃなければ嫁の貰い手に困らなかっただろうに。そもそもなんで軍に入ったんだろう。
しかし素行不良でロボトミー代わりに艦娘化とは、たまげたことを考えるやつが居るものだと思う。確証はないが、どうせそういう経緯だろう。“人体の治療としての艦娘化”の研究があると横須賀で聞いた覚えもあるし。成功例はせいぜい後天的四肢欠損の治療くらいか。それが伊勢と日向という成果物だったはず。結局素行不良と言うかキチガイっぷりのせいでこちらに回されてきたんだけど。……前は舞鶴鎮守府だったか、それか呉鎮守府だったか。……どっちだっけ?呉だったなら、あそこの提督が狂死する前にはもうこっちに寄越されてたはずだ。
そういえば呉の提督の死亡時期と瑞鶴の転任と時期が重なるけれど、提督が死んだのと何か関係があったんだろうか。その前の北伐作戦で大敗北があったのも古い記憶じゃない。でも他人について勘ぐるのはあまり良くない、というより面倒くさい。藪をつついて蛇を出すことになっても一切得しないし。
というかそういう感じで不良品というか不良艦娘がここには結構居る。なる前か、なった後かは知らないけれど。
その一人の大鯨も、潜水艦がこちらに居ないからムラムラが全部駆逐艦に向いてしまって、夜な夜な悶々しているんだとか。それに男も大人も穢れてるとかうっとりして言ってたから、相当に嫌いなんだろう。じゃあ私なんか穢れまくりじゃないか。……反応が怖くて非処女とは言えない。実弾受ける事案とか直撃事案とかは回避したけれど。頭のおかしいやつは刺激しないに限る。根が腐ってるけれどそこ以外は善良なのだから。万が一食事抜きにされるとかがあると嫌だ。ひもじい思いをするのはもう飽きた。
無性に神経がピリピリしているような気がするけど、そういえばそろそろ生理だった。そのせいかもしれない。ヒスることはないように、落ち着け、落ち着け。誰かに当たっても軽くなりはしない。むしろイライラが募って後で後悔する。
ところで仕事が増えることそのものはまぁ、今まで全然暇だったし別に構わないのだけれど。
シフト整理の時期くらいしかまともな仕事はない。突如の有給申請だってあまり来ないし。瑞鶴がやれと言った意地悪も普段はしない。
他にあるかと言われると、多分あの女から判子を押していいと言われている書類の処理くらい。量はそれなりにあるけれど、所詮は捺印。大したことはない。読んで押す。もっと読んで押す。更に読んで押す。で、おかしいなら差し戻す。意図的なものと言えば、あれだ。工廠に入り浸りの夕張が、明石の目を誤魔化して使用資材の申請を誤魔化す時がある。瑞鶴も何故か知っていて証言したから判明した。あの女の目には入っていないけれど――――いや実は見破っているのかもしれないが、代わりに私が叱っている。明石に叱責されると一ヶ月は反省するみたいだけれど、それくらい経つとまたやる。ここに来て日は浅いけれど、もう3回くらいやらかしている。
そんな楽な仕事ばかりの私。
で、この度暇つぶしにやらされるのが、金剛の世話役だ。
やることは実質的には介護師だ。召使じゃなくて。
赤ん坊や子供なら体は大して大きくないけれど、金剛は大人の女性。痩せ細っているから老人みたいなものか。でも私の小さな体で扱うには少し面倒だ。力自体は足りているけれど、それでも……人間相手にそういう言い方どうかと思うけれど、取り回しが大変なのだ。上背がかなりある。それに寝たきりだから自分で姿勢維持をしてくれない。
多分不浄の世話もしなくちゃいけない。完全な点滴生活じゃないし、無理やり食べさせれば一応胃に物を入れられるみたいだ。しかし、大人の世話となると、こう、気がちょっと重い。子供ならば許せるんだけれど。……病人への差別なのかしら、と思う。
それに、気絶してる人間を運ぶ大変さは軍に入る前も入った後も体験したけれど、こうして艦娘になった後に寝たきり病人の看護ってのは、やはり初体験だった。
まぁ、やることはきっと変わらないだろう。子供のお守りと思えばなんてことはない、なんてことないさ。
ともかく。まず私は司令部へ向かった。
比叡の仕事場、資料室にまず寄る必要がある。
引き継ぎは彼女から受けるらしいから。
●
司令部棟の前で煙草を吸っている艦娘がいた。
那珂だ。夜警明けですでに帰ってきていた。上がって随分経つはずだけど。
彼女は三つ折りだった紙を広げて、吸殻入れの前で佇んでいる。
喫煙者だとは知らなかった。一度も見たことがないから。
この鎮守府で吸っているのは確か、川内、木曾、山城、伊勢と日向だったか。
見た目は一般的な”那珂”と違って、徹底して黒い。
制服のデザインも肌が見えないように改められていて、黒いタイツ、二の腕全部まで覆う手袋も着用している。
艤装も構成が改変されている。ベースは改二艤装なんだけれど、ところどころのアレンジがなされていて、腕には改艤装と同じように砲塔がマウントされている。殆ど装備を背負いにしていないのだ。確か回転軸がブレるだとか言っていた。訳が分からない。何で回るのか。だから昼戦時みたいな普通の艦隊行動の際は装備するが、自由な行動が推奨される夜戦時には高角砲もカタパルトも対空機銃もオミットする。電探、魚雷、主砲だけ。代わりに魚雷の予備を背中のアームに掴ませている。気合の入り方がおかしい。アイドルというにはロックすぎてカブキの域だ。
そんなピーキーな改変艤装は、明石と夕張の合作だ。那珂から申請が来て、提督がその妥当性を認めて改造されたはず。これに関しては艤装の改変モデルケースとして資材を多く割いた覚えがある。提督、那珂、私、工廠の二人を交えて協議したからよく覚えている。
単独行動上等なウチの夜戦艦隊モドキは、こういった制服の改造もとい変更が認められている。
戦術的に有意だからと、あの女が許可しているのだ。那珂の艤装改変までは例外として処理されたが原則として認めていない。というか、そこまで気合を入れる奴が居ない。
見れば分かるが、那珂の制服は、かなり自身の趣味が入っているみたいだ。軍服としてはあり得ないし、艦娘としては華がない。カジュアルと言うにも、フォーマルと言うにも半端で、制服じゃなくて衣装みたいだ。
元々のセーラー型デザインを活かした、と言えばいいものの、カラーは普通のセーラー服みたいだ。スカートの特徴的なデザインはそのままだけれど、結局黒。可愛げのかけらもない。報告されている深海棲艦の強力個体の容姿から思いついたんだとか。一応本来の制服も残しているけれど、普段からこれだ。性格の暗さと情緒の不安定さのせいで、まるで深海棲艦そのものだと思う。戦闘になるとキチガイ艦娘らしくイカれたテンションになると聞くけれど。
そんな彼女を見て、私は通り過ぎない。
少し、話をしようと思った。どうせ遅刻ならもう少し遅れてもいいと思って。
「おはよう、―――――“中野さん”」
「……叢雲さんじゃん、おはよ。今朝は遅いね」
「うるさい。あんた相変わらずテンション低いわね」
「そりゃ、まぁ。仕事終わりだし。――――――ああ、そうだ。これからは私のこと、“那珂”でいいよ」
「へぇ、どういう風の吹き回し」
そう、彼女は”那珂”と呼ばれることを拒む。かと言って本名は明かそうとしない。だから仕方なしに仮名として”中野さん”と呼んでいるのだ。彼女はそれが自分の呼び名になったと決まって、『私はピエールじゃないっての』とか言ってたけれど、私には意味がさっぱり分からなかった。意味を聞いたら、『いや、こっちの話』とだけ。だから気にしないことにした。
「うん。ちょっと、たった今心境の変化があってね。”生きよう“と思ったの」
生きよう。その平凡な言葉が、この女から出てきたことには意外だった。
情緒不安定で、パニックを起こしている時にはほぼ人格が崩壊しているような女。
そんな前向きな言葉を発したというのには、些か以上の驚きがあった。
で、生きよう、で“那珂”を受け入れる意味が分からない。私には詩的すぎる。
「……詩人にでもなったつもり?」
笑って煙を吐き出した。
それにしてもいつからここに居るんだろう。何本目だ。相当なチェーンスモーカーだったのかも。
「まぁ、それでいいよ。“那珂ちゃん”はアイドルだけど、私はそういうものでいいかな」
「気持ち悪いわね。何か賞でも取るつもり?ロックンローラー?」
また笑う。今までの情緒不安定がウソのように、穏やかで朗らかだ。
「私は昔からロッカーだよ。何様かって言われると、そうとしか」
「アイドルじゃなくて?」
「アイドルでも、あるかな。とりあえず今のところは。……いや、クラウン、ピエロもかな」
ピエロ、クラウン。サーカスのお道化もの。出撃の際、そう名乗りを上げて出ていく彼女を度々見ていた。
それもまた、情緒不安定な普段の様子が、まるでウソだったような変貌を見せて。
でも、
「ふーん。メイクの無いピエロって凄い道化よね」
「あはは、確かに。それはロックだね」
……心境の変化は本当らしい。こんな人間だとは全く想像も付かなかった。川内に似ていると思う。あれは度が過ぎているけれど、これと同じような気質だ。神通は全く似ていないけれど。
でもまぁ、この変化は決して悪いことではない。私の人生に関係のない事。隣の芝生だ。けれど、
「あんたがそれでいいなら、まぁ、好きにしなさい」
私は、少しなら祝福してもいいと思った。
それくらいの気まぐれの情なら、ここにいる奴らにかけても構わない。
「そうする。叢雲さん、あなたも“生きる”といいと思うよ」
「はいはい、言われなくっても」
機嫌の良い、安定した精神状態の那珂。
……不思議と、彼女は本当にロックスターのような気がしてきた。
天頂に辿り着いた、北極星のような。揺るぎない人。
それに、義父さんに似た雰囲気を感じた。
●
この左右対称建築になっている司令部で、資料室は右翼側だ。執務室と事務経理部署の間にある。位置的にはまぁ、便利な方だろう。承認書類を集めたり、資料を取り寄せたり、そういったことを行うのに移動距離が短い。
そこのドアが開いて、雪風が出てくる。
何故?
正直、苦手な人種なのだけれども。だって雪風は化物だ。理不尽、不条理に人間―――――あ、いや艦娘の皮を被せただけのナニカだから。
私はそんな嫌悪感を見せないように努めつつ、聞く。
「雪風。あんた、今日休みでしょ。寝てたらどうなの」
「あ、いえ。ちょっと比叡さんに用事がありまして!すぐ終わりましたから帰ります!」
いつもどおりの快活な声だ。これがなんというか、私はまた苦手だったりする。化物が人間のふりをしている感じ?それとも無垢さがハリボテのように見える錯覚?どちらにしろ、私は彼女を恐れている。
「そう。で、何の用だったのよ」
「叢雲さんのことです!」
「え、何で比叡と話をして私のことが出てくるのよ」
合点がいかない。比叡と私はこれから話をするけれど、なんでそこに雪風が介在するのか、それは全くわからない。あるとしたら……いや、だめだ。雪風が野次馬根性を発揮……それも違う。そもそも今回の役割の変化はまだ誰も知らないはず。告示は私の役割だけれど、それもまだだ。何かのついでに話して私のことに話題が行くなら普通にあるけれど、目的が私というのに全く合点がいかない。
私は困惑して聞いた。だが、
「さぁ?」
さぁ?ってなんだ。本当にお前は何を言っているんだ。一体何話してた。
それに、首を傾げて笑うその姿。
だめだ。恐ろしい。
化物。
化物が、そんな子供のように笑うな。怖いでしょ。
死なない、不死身の、どうやっても死なない、死ねないような艦娘。
生き物とは思えない、あなたが。
気持ち悪いという心もどうにか包み隠して、私は会話を続ける。
「さぁ、って……あのね」
「とりあえず、叢雲さんは提督にはちゃんと言うべきことを言わなきゃいけないと思います!」
「は?」
……意味が、本当に分からない。心臓が跳ねる。動悸じゃない。動揺で。体が総毛立つ感触。
思い当たることなんて、無いわけがない。
「何のこと?」
「さぁ?」
何を笑っている。何なんだ。何だ。何が言いたいんだ。分からない。こいつが何なのか、分からない。得体の知れない笑み。その正体は分からない。恐れで、感情が爆発する。あ、私、ヒステリー起こしてる?
「さぁ、じゃないわよ!何なのよ、あんたが言いたいのは何なのよ!」
「雪風は知りません!知りませんけど、すべきことは知っています!叢雲さんが、正しい方法で提督とお話をすることです!」
「何のことだかわからないじゃない!だから聞いてるのよ!」
「叢雲さんは知ってらっしゃるし、分かってらっしゃると思います!」
そう言って、またニコリと笑った。花のように。
気持ち悪い。気持ち悪い。なんなんだ、こいつは!
思わずまたヒステリックになった。肩で息をする私。心臓が五月蝿い私、動揺で耳鳴りすら聞こえてくる私。
それも、こいつに見抜かれているような、不快さだ。その目が不快だ。
……もういい。怒っても何の意味もない。やめよう。生理前は抗不安薬が必要かもしれない。貰えるもんはもらっておけばいい良かった。勿体無い。くれといえば今日のうちにもくれそうだけど。
「……もう、いいわ。あんたは寮に帰りなさい。ヒスになって悪かったわね」
「いえ、雪風は頼まれたことをしているだけですので!」
「……は?誰に」
「比叡さんです」
比叡が?何で?今回私がここに来たのは比叡から私への介護引き継ぎのためだ。
だったら直接話せばいい。
「その比叡とこれから話すんだけれど、なんであんたが」
「比叡さんではお話を聞いてもらえないと思いまして」
「……あんたの方がよっぽど聞かないわよ。じゃあね」
そう言って、私は雪風の脇を通って資料室の扉を開ける。
その時、雪風が呟く声を聞いた。
「ユア・ライフ・チェンジ・エブリシング」
……意味は、分からなかった。独り言だと思う。
化物の、独り言なんて身震いがする。
でも、その言葉は妙に耳に残った。雪風に言われたこと、その全てと合わせて。
●
比叡からは、金剛の世話の仕方について伝達を受けた。上の空現象は今回なかったけれど、何度か普通に本当の上の空になっていた。仕事しろ。
さて、内容は私の想像通りだ。
・点滴は今のところ必要ない。水差しで水を飲ませれば飲み込むし、食事も口に含ませさえすれば一応飲み込む。ただ、噛むことは出来ないからおかゆや汁物だけ。本人が相当頑張ってそれなので、これ以上激励はしないこと。水が寝るまで2時間に1回、1日で2Lほどになるように飲ませること。食事は1日3食。準備は食堂でやってくれているので、それを持っていくこと。摂取の姿勢は背中を支えてあげる、あるいはリクライニングをもう少し起こして前傾気味にさせてあげること。食事については、今朝の分だけは提督からの下知前だったので済ませてある。
・トイレについてはオムツ着用なので清潔には気をつける。シーツの洗濯は1日1回、ベッドから下ろす時は毛布をかけてあげて安楽椅子に座らせてあげること。安楽椅子も1日1回拭き掃除。
・不浄の処理については生ゴミへ。拭き取りはトイレットペーパーとアルコールティッシュで念入りに。秘所はウェットティッシュで。
・お風呂は2日に1回。一般的な内容で構わない。任せていいなら、髪のケアは気を使って上げて欲しい。
・泣いても慌てない、責めない、激励しないように。ただ落ち着かせることだけを考えること。
などなど。介護って大変なものだと思った。あの女の命令でマニュアル化が前もってされていたのは助かったけど。
それだけ聞いて、資料室を出ようとすると、やはり比叡が何か言いたそうなので、言わせることにした。
「で、雪風が何か言ってたけど、あんた、私に何か言いたいことがあるんじゃないの?」
「あ、えと、その。雪風から話を聞いてくれたなら、私からはもう何も」
おどおどとした格好がなよっちくて気に入らない。仮にも戦艦で私より戦力ランクは……いや、下か。仕方ない。ここでは私のほうが確実に偉い立場だ。
それでも、
「その話ってのが意味わかんないから聞いてんのよ」
「え、ええ?雪風、ちゃんと話してくれたんじゃ……」
「何がちゃんとよ。一体どういう話をしていたの、それを聞いてるのよ」
比叡が頭を抱えてうんうん唸る。そして、考え終わったのか、
「叢雲さん、あなたは―――――このままだと死にます」
「は?」
……全く、上の空でどういう妄想をしていたんだか。馬鹿らしい。一体こんな鎮守府で私が死ぬ要素ってのがどこにあるのか。
私はそもそも出撃せずにデスクワークと介護だし、提督はバカだから遊び呆けている。瑞鶴は頭はおかしいけれど仕事熱心だ。何かおかしなことが起きれば、何故か瑞鶴が察知するはず。だから、私が死ぬなんて有り得ない。馬鹿なやつめ。
「信じるわけ無いでしょ、馬鹿。じゃあ私は行くから」
そう言って、私は資料室を出ようとした。
私の背中に比叡が、
「……だから、雪風にお願いしたんですよ」
そんな泣き言を言っていた。
比叡がこれなら、雪風の言っていたことも当てずっぽうのトンチンカンだ。気にすることは何もなかった。それだけの話。
●
資料室を出て、私は司令部の端の金剛の部屋を目指す。すると、目の前少し遠くに、車椅子の人影が見えた。
あの女、提督だ。金剛の部屋から出てきたんだろうか。世話役を私に任せておいて一体何をしていたんだか。そんなに金剛にお熱なら、自分で世話をすればいい。ああでも障害者が障害者の世話をやり切れるとも思えない。冗談だ。
私が近づいていくと、当然相手も近づいてくる。そして、エントランスホールのあたりでかち合って、
「それではな」
それだけ言って、私の方も見ずにすれ違い、あの女は執務室に入っていった。
よくわからないけれど、仕事は仕事だ。
●
まずはリクライニングを平らに操作。
そして金剛に水を軽く飲ませ、オムツを替える前に股間と尻を拭き掃除。オムツを穿かせてから安楽椅子に座らせてベッドメイクをし直し、もう一度ベッドに寝させる。生ゴミもシーツも纏め、部屋を出ようとノブを握った。
次は昼前に水を飲ませに来て、そのまた次は食事の世話だ。
すると、ちくり、とした鋭い痛み。
右の手のひらを見る。
指の上を何筋かの血が伝って、黒い手袋に染みた。
見れば、ドアノブには何本かの針。
針……?
針。
針。
針。
針。針。針。
……針!
――――――――毒針!
こんな、ところで、あんなのに、殺される、なんて!
●