女提督は金剛だけを愛しすぎてる。   作:黒灰

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2016/11/23
話順弄らずに投稿が新着に反映されるか仕様を確認するため、また再投稿になります。
ご迷惑をお掛けしています。

追記
これからは話順弄らずに投稿となります。ご迷惑をお掛け致しました。

再追記
消したと思ったボツ説明が何故か残っていたので一部分削除しました。つまり忘れてください。申し訳ありません。

2016/12/10
誤字報告反映。

2017/11/28
薬に関する描写が間違っていたので削除。ついでに別のネタをブチ込みました。


死んだフラミンゴ

 “鳳翔“の白い暖簾を潜って出る。

 なぜか裏地は墨字で”うやしうほ”だった。あまり達筆ではない。むしろ普通。お習字だ。

 しかし、右から読んで”ほうしやう”なのは分かるけど、“うほ”という文字の字面がなんかアレだ。アレというのは形容し難いアレという意味で―――――だめだ私の辞書だとループする。語彙が足りない。酒に浸って脳がふやけたからだ。仕方ない。

 

 座敷の雲居に掛けた丸時計を出るときに見たが、両針とも9時の針へ至る頃だった。結局二時間ほどの滞在。……結構早いペースで決着を付けてしまったかもしれない。それでも最後には熱燗尽きホッケ冷め、少々侘しい風情も噛み締めたものだが。一応、熱いほうじ茶を貰って誤魔化した。

 

 空気が走る音が耳を掠め、些か五月蝿い。外は海風が吹き荒び、深まった秋の空気を冷たく掻き混ぜていた。泥酔まではいかない、心地よい酩酊の火照りを冷ますにも少し強すぎるきらいはあったけれど、決して嫌ではなかった。むしろ、少し寒すぎるくらいが快だと思う。北から参る海風もなかなか乙なものだ。

 

 ほう、とついた溜息がうっすらと白い。なんだかんだ満足した。存分に呑んで食べた。最高だった。夕食・お通し・ホッケで腹がくちくなった。駆逐艦だけにってか、いてこましたろかボケ。

 

 ……バルカンとかいうウォッカらしき何かも、結局はいい経験だったかもしれない。しかもあの手のマイナーな酒は高そうだ。得したと思っておこう。多分あの分は瑞鶴のボトルキープなんだから請求されまい。というか普通に飲んだ分も踏み倒せるもんなら踏み倒したい。私は恥知らずじゃないからそうしないけど。

 

 続いて瑞鶴が戸を潜り、戸を閉めた。ガラガラ、トンという音はまるで目覚ましだ。現実に帰ってくるような。それを聞いて私は駆逐艦寮へと歩き出す。足はそこまで危うくない。脳がゆらゆらしている感覚こそあるけれど、そこは鍛えた体、バランス感覚はなんともない。言ってもトレーニングではなく改造の結果なのだけれど、気にしない。大丈夫。

 私の背中に瑞鶴が呼びかける。

 

「じゃあ、私あの女の寝支度だけ手伝ってくるから。風呂は入れてあげたし」

 

 右足を軸に、軽やかに左へターン90度。今や見慣れた銀髪が翻る。

 それで半身で顔だけ向けて、

 

「あー、そういやぁそんなこともしてたっけぇ。私に言えば誰かに押し付けたのにぃ」

 

 瑞鶴はいつも通りの顔―――――少し頬が赤いかもしれない―――――でそっけなく、

 

「そうね、そうすればよかった。その分は全部給料日に返してもらう。じゃあ」

「はぁーい、おっつかれぇ」

 

 今の私は機嫌がいいから手も振っちゃおう。左手で肘から上だけゆらゆらと。

 彼女はそれを気にも留めず、司令部へスタスタと歩いていった。

 足取りは全く危なげない。……私より呑んでるはずなのに。ザルか。さっきも思ったけどあんな鶏ガラみたいな体なのに肝臓はとことん強いらしい。そりゃあ飲み続けても強くなるものだけれど、ほとんどアル中みたいな女だ。飲み方といい、耐性といい。彼女だってやはり身も心も中枢神経もイカれてるらしい。哀れと言うべきか、バカと言ってやるべきか悩むのだけれど。“幸運の女神様”とかいう、よくわからない概念の持ち主ということも考慮すれば“総じて頭がおかしい”というべきか。

 

 まぁいい。

 シャワーだけ浴びたらとっとと寝よう。艦娘の代謝機能なら別に汗臭くならないけれど、生理的に風呂抜きは嫌だ。しかし汗臭くならないって、何気に世の人皆が欲しがりそうな特典だ。……昔の男は咽び泣きそうだけど。何で私あんなのと付き合ったんだろう。そうか金か。そういや金だ。貧乏に耐えかねて遊ぶ金欲しさにちょろいロリコンを彼氏に引っ掛けた私が悪いのか。私やっぱり根がビッチなんだろうか。いや自分もうっかり本気になったからこそ、彼へのついていけなさで振ったんだけど。それでもなんかちょっぴり自己嫌悪だ。

 

 いつか娑婆に出たら、どうしよう。あそこに帰るつもりはない。金だけは送り続けるけれども。何かしらで糊口を凌ぎつつ、それで……。ああ、でもそんなことは今考えなくても良い。生き残って、金を稼いで、あそこを支え続ける。それだけだ。

 どうやって働こう。流石に体を売って生きるのは嫌だ。というか後がない。私は……自分で自分をそう言うのは癪だけれど”ちんちくりん”だから、確かにレアっちゃあレアだけれど。それでも女を酷使し続ければ、後は何をか言わんや。だからまっとうな働き方を考えなくちゃあならない。しかし、軍上がりの“しばらく行方不明だった女”だ。私達に何が出来るもんだか。浦島太郎ってことはないけれど、娑婆とのギャップというものは今この瞬間も広がりつつあるのだ。……まぁ、だから働かなくていいように退職金がもう一度出るのかもしれない。それまでに死んだらパァだけれども。金を持ってどこかの家庭に入れということなんだろうか。全く、そんな都合の良いように行くものか。

 そんな、とりとめのない考えが巡り巡って眠気を呼んだ。

 

「……飲んだから眠いわね」

 

 あくびを1つ。

 雲のような白い塊が、夜露と消えた。

 

 ●

 

 見えない左目の視界の端で背中の羽根がはためく。

 黒い羽。

 視界の真ん中の闇という空白に不明瞭な人影が浮かぶ。

 声を伴って私を野次る。

 ”疫病神“

 知っている。

 聞き慣れた見慣れた私の見ているそれを知っている。

 うざったい。女神様が生贄になってベッドで磔になっても私の現在は良くないものがでいっぱいだ。

 全て本当だ。

 視界が夕日のように明るくなる。外灯だ。そう、外灯。まだ見えている。

 フラミンゴが上に留まっている。何故か足が釘で止まって針金がその形をこの空中に貼り付けている。

 ピンク色が空々しい。オレンジとは調和せずに気持ち悪い。

 外灯の下を通ると何かが滴って背中を伝った。多分血だろう。

 あのフラミンゴは出来損ないだ。鳥屋で変えてもらうべきだ。こんどは青い鳥――――オウムがいい。いやうるさいから青い鳥だ。ただの、青い鳥。最後は屠殺して街頭で配ろう赤い羽根。募金の客寄せにいいはずだ。でも血と青とが混ざって紫の羽だろうか。血が貼り付けば赤いだろうか。トリコロールカラーだ。オシャレだから募金が進む。私には関係ないしみんな死ねばいいけれど。最後に死んだヒグマのように。ヒグマはパンダと同じように滅んだ。いやパンダはまだ滅んでいないんだろうか。トキと同じように力尽きて消えていけばいい。

 少し上の空になると、外灯の上から針金だけが飛んでいった。ピンク色のフラミンゴはいつの間にか消えていた。今はその下で象が芸をしている。やせ細った。でも大きな象だ。毒りんごを差し上げよう。死んでしまえ。疫病神め。物珍しさ故に死んでしまえ。王子様もキスはすまい。

 

 ――――――――全て、幻覚だ。

 知っている。知っているだけ。知っているだけだけれど、随分と私はそれを見過ごせるようになった。

 現実と区別がつかないけれど、見えているもの全てを幻だと思ってしまえば全てはフェイクと返る。とりとめもない馬鹿話みたいな、ただの白昼夢だ。

 

 ああでも幻の中で仕事をしているというのもなかなか苦労するもので見えるもの全てを信じる一方で何かを無視しないと仕事にならない。ああでも私は起きている限りは私は全てを見ていなくては全てを。神様の見えない姿以外は全てを。

 

 あのクソ女業務時間にB級映画なんて見やがって。ブチ殺してやりたい。

 

 足元がオレンジだ。外灯の色だ。薄れて、灰色になって、いつの間にか夜の黒が滲む。そして見えなくなった。

 

 酔っているんだと思う。多分。酔っているから今夜の幻がこんなに鮮やかなんだと思う。だから闇の中で人の形が揺れて、私を疫病神と罵る白い姿がそれだとしても、私は。そんなやつは知らない。私の知らないものは幻になるな。

 

 ”疫病神” ”鳥” ”病原菌” ”死神” “烏” ”黒猫” ”黒い犬” ”蛆虫” ”首の折れた鶴” 

 ”飛べない鶴” ”出来損ない” ”仇返し” “役立たず” ”片輪” ”屑” ”芥” ”一つ眼” 

 

「うるさい」

 

 黙った。耳栓は必要なかった。でも耳鳴りが五月蝿い。きっと明石のせいだ。私を改造したんだ。誰が耳にウォークマンを入れろと言ったんだ。あいつは嫌なやつだ。いいひとだと思ったのに。いいひとだと思ったのに。

 いやな、いやな、いやだ。いやだ。

 頭をいじるな。誰も触るな。触って良いのは提督だけだ。提督、私の提督。提督。神様。神様。神様。助けて助けて助けて。

 幸せにして。

 私を幸せにして。

 ずっとそのまま不幸な貴女でいて。

 私を幸せにして。

 幸せなままでいさせて。

 お願いだから死なないで。

 死なないで提督。

 死なないままで私のために苦しんで。

 私の代わりに苦しんで。

 死なないで。

 生きろって言った貴女は死なないで。

 私のために死なないで。

 死なないで苦しんで。

 貴女は幸せになんかならないで。

 私のために幸せにならないで。

 死なないで。

 お願い。お願い。お願い。

 死なないで。

 お願い死なないで。

 私のために死なないでお願いだから。

 私のために死なないで苦しんで私を幸せにして。

 生きて幸せになれって言った貴女は私のために死なないで苦しんで私を幸せにして。

 生きて幸せになれって言った貴女は私のために死なないで私の代わりに苦しんで私を幸せにして。

 お願い。お願い。お願い。お願いです。神様。神様。神様。神様、お願いですから。

 私のために死なないで。

 ああ私の頭がうるさい。

 明石のせいだ。明石のせいだ。皆のせいだ。大淀のせいだ。日向のせいだ。伊勢のせいだ。川内のせいだ。神通のせいだ。那珂のせいだ。みんなの、みんなのせいだ。山城、鳳翔、叢雲、北上、夕張、大井、木曾、五十鈴、間宮、伊良湖、大鯨、恨めしい。比叡、榛名、霧島、お前たちのせいだ。お前たちのせいだ。お前たちの、お前たちのお前、お前たちのせいで、お前、お前、お前たち、死ね。死ね。死ね。死んでしまえ」

 

 ―――――――― 風が視界を過る。

 

 風が話しかけてくる。

 

 ―――アンテナは御入用ですか?――

 

 いらない。

 

 ●

 

 少し、立ち止まってぼうっとしてしまったらしい。私は何を考えていたんだっけ。……思い出せないし、頭が痛い。酒のせいかな。お酒。……味はわからないけれど、夜を過ごすには酒か薬が必要になってしまった。今日はちょうど叢雲が吹っ掛けてきたから酒を選んだけれど。

 

 ……目と背中が痛い。私の脳内の機械が脳をシェイクする気配。前頭葉を掻き回すな。電気屋は私の大脳に触るな。やめろ、やめろ、やめて、お願い、痛い、痛いよ。痛い。痛い。新皮質の壊疽がよじれて古皮質が轢き潰されて私は目が痛い。

 

 ……コーヒーが飲みたい。

 

「あの女にコーヒーを淹れさせようかな」

 

 司令部へ向かう。紅茶好きのB級映画狂いはタランティーノに殺されてしまえ。提督“さん”風情が。でもあの女の淹れたコーヒーは美味しかった。提督のように。神様。神様。女神様。私の女神様。私に姿を見せないで。……だめだ、頭が背中が、いたい。でも、歩いて仕事をしないと。お金がないと生きていけない。ああ、でも、薬代も義眼の洗浄も手当が出るんだった。でも、酒のお金が要る。がんばろう。幸せになるんだ。私は。あの人が不幸になったから、私は幸せになるんだ。

 

 ●

 

 見た目にはスタスタ歩いているだろうけれど、それは装っているだけ。私は酔ってる。酔った人間が強がっているだけ。強がれるだけまだマシなのかもしれないけれど。

 

 司令部の前まで、石畳をコツコツ鳴らす。戸の前に付いた。……足元が不安だから、スロープと手すりを拝借して、段差を登る。階段は踏み外しそうだから。……スロープの角度はゆるくて、車椅子で昇り降り出来る程度だから、歩くにも苦労はなかった。上がりきって2歩。司令部の扉を開く。

 

 中は暗い。いや、豆電球がそこかしこで点灯していて、薄暗い中で橙色の光が漂っていた。でもそんなものは要らない。右目はちゃんと暗闇にも慣れる。右へ。一直線にあの女の私室へ。今は車椅子で寝こけている。私がノックをすれば、それで起きるだろうと思う。床板を僅かにきしませて、トントントンとした音を響かせて廊下を行く。

 今の司令部はほぼ無人だ。シフト制と行っても司令部の仕事は朝から夕方までだ。今は業務の時間ではない。戦闘指揮室が稼働するのは、海域の危険度が上昇しているときくらいで、その場合は戦術指揮官として一人が夜勤となる。今日は4人の夜警部隊を除いて全員が業務を終えている。残業などというものはここにはない。叢雲がマネジメントの段でカバーして、個々人のタスク処理速度の際を補うだけだ。私の監視はそのための情報供与だ。だから私は全員を監視している。その能力はある。少し目を閉じれば見えてくるのだ。鎮守府の全体の様子が。妖精さんも渋々ながら私に協力してくれている。

 

 ……廊下の突き当たりに着いた。あの女の寝室。

 ドアを3回、間を少しずつ開けて敲く。

 

「……入りたまえ」

 

 ちょっと間が空いたものの、すぐに入室許可は出た。入る。

 

 白い毛布を着たあの女は、ベッドサイドに車椅子を置いて背を丸めて座っていた。予想される寝姿からして、首が痛そうだ。この女が私を見て、

 

「……顔が赤いようだが」

「お酒、飲んできたから」

「業務時間は……ああもう9時はとっくに回っているな。飲酒も特に問題はない。酩酊で君の手元が狂わなければだが」

「余計な心配です。じゃあ介助しますから……捕まってください」

「ああ」

 

 返事があったので私はこの女の正面に立ち、一旦中腰に。体に覆いかぶさるように。腰を前に折ったところを左腕の脇に背中から右手を差し込み、、右手は正面側から脇の下を通し、持ち上げる。私は姿勢を伸ばす。そして、すぐさま左脇のベッドに放り出した。これで移乗完了だ。

 

「ありがとう、後は頼みます」

 

 風呂は私が食堂に来る前に世話をしてるので、今からはもう本当に寝支度だ。と言っても、

 

「いつも通り、下着とシャツは洗濯、軍装はクローゼットかどこか、君が出しやすいところにしておいてもらいたい」

 

 そう言って、毛布を脱ぎ捨てた。ブラジャーもショーツも付けていない。全裸だ。そして、大きな枕に頭を乗せて仰向けになる。

 ……軍装と下着は一人でもがきながら脱いだらしい。車椅子の影になっていた籠2つの片方に軍装がきちんと畳んであって、もう片方に下着とシャツが無造作に放り込まれていた。

 

 体が見える。まるでベッドはディスプレイだ。

 傷は少なくない。特にふくらはぎが酷い。酷い傷跡はズタズタになっていて、薄い皮の向こうに白骨すら透けて見えるほど。筋肉も数部位失ったのか、本来なら盛り上がっている部分に何の起伏もない。ただの骨と皮の足のようだ。指も無理やり継ぎ接ぎしたようで、引き攣れた傷ばかり。ただ、傷以外は汚れなく白く、まるで買ってすぐ壊れた人形だ。輝きの影にあまりに大きな毀れがある。この女だって、不良品だ。滑稽極まりない。似合いの椅子につかされたものだと思う。その体を見ていると、

 

「君はときたま私の体を観察しているようだが」

 

 なんだ。

 

「君の見慣れた傷と大して変わらない。見る意味はあまりないと思う」

「そういう目で見ていません。お美しいものですから、つい」

「……この体になんの価値が有るのだろうな」

 

 そうつぶやいて、私はにたりと笑った。

 

「どうせ胸と顔しか見られてないでしょう。気にすることなんて無い」

 

 そう、この女にしても。牡の―――――悪そのものたちの慰みものだ。心のなかで、幾度犯されて汚されただろうか。知ったことではない。私はもう、あまりに飽いている。思い出したく、ない。

 

「……今も昔も、部下の意見はそこだけか」

「身に覚えはおありになるようで」

「だから、私は何なのだろうかと昔はそればかりを思っていた」

 

 甘ったれめ。お前はただの穀潰しだ。少し前までならともかく、業務時間中に仕事らしい仕事なんてまるでやっていないだから。いる意味は何もない。そんな女だ。何故そんなものに忠義が芽生えるのか。そうか、やはり見た目に勝るものはないのだろう。

 

 ……本当に見ているだけならば、まるで冗談のような美女だ。中身はとてつもなくどうでもいいのだけれど。そして誰ともわかり合わないのだし。

 

 最後に布団で女の裸身を覆って、寝支度完了だ。あとは、

 

「瑞鶴、ハルシオンを持ってきて欲しい」

「はい」

 

 コイツの机は見た目は整頓してあって、木目の三段チェストにモノを詰めてすっきりさせてある。……薬は二段目だが、中身はぐちゃぐちゃだ。幸いにもハルシオンと刻印されたシートは上の方にあるが。あの女はそれを待つ時間でリクライニングベッドの角度を変えて、上半身を起こしていく。

 

「1つ?」

「2つだ。4つはなくとも十分らしい」

 

 確かに、その程度の強さはある睡眠薬だ。私も経験はある。とにかく、シートを渡すと、彼女は2つ分封を開いて口を開いた。私はこの部屋の隅の水道の蛇口を捻り、脇で乾かしてあったグラスに注いで彼女に渡す。

 

 彼女は手渡されるとすぐに飲み下した。

 安心したように、溜息をついてうつむくあの女の姿は、いつにもまして随分と弱々しかった。

 

「軍装を片付ければ、君の本日の業務は終了だ」

 グラスをベッドサイドテーブルにコツンと載せる。

 私はそれを受け、籠の片方を持ってクローゼットへ向かう。軍装の上下をハンガーに吊るしていて、私は少し気になることがあった。

 叢雲のことだ。あのご機嫌糞ビッチのことだ。給料が上がると言っていた。私の見ていない間に、一人で話をしに行って、それで給料が上がることになったと言っていた。そのやり取りに何があったのか分からない。そもそも何故あいつが執務室に、それも昼休みに行ったのか分からない。寝ている間に起きたことは、執務室での会話だけじゃないはずだ。そもそも、給料を上げる必要性が分からない。叢雲の事情なんてどうでもいい。この女にしてもどうでもいいはずだ。だから、

 

「叢雲の給料を上げるって聞いたけれど。何か弱みでも握られたのかしら」

 

 私が顔も向けずに言うそれを聞いて、少しあの女の体が震えた。

 もしかすると、図星だったのかもしれない。震えるとは人間らしいと思う。まるで取り繕いめいていて、滑稽極まりないが。

 

「特別なことはない。……彼女は昇給だ。君も、その他の皆も上げる予定だ」

「へぇ」

 

 随分と叢雲は己を特別視しているように見えていたが、実態はそういうことじゃあないらしい。皆上がるなら、あのときに言っている。口の堅くない女だ。違いない。あいつは知らない。聞いていないはずだ。

 

「加え、金剛の世話役を彼女に変更した」

「ふん――――――――ん?」

 

 何のつもりだ。全員が上がるならば、彼女の仕事を変えることで更に手当を支給する必要はない。

 立候補するようなタマじゃない。私は分かる。この鎮守府の誰よりもあいつを見ているから。

 

「おかしい。じゃあ、なんで叢雲が金剛さんの世話をするの。なんで全員給料を上げるの」

「妹達三人には……姉に会う権利を没収する。それに、金はある」

「――――そう」

 

 答えは判然としない。嘘は間違いなく言っていないようだが、私はこれで済む話だとも思っていない。そもそも、あの三姉妹に罰を与えることすら怪しい。私には分かる。この鎮守府でこの女を見ているのは私だ。私には分かっている。この女が他人の感情を狙って罰する存在じゃないことも。

 ……なんとなく、叢雲と提督の間には何らかの食い違いが存在すると感じる。おそらく叢雲の側が原因だろう。彼女自身は異常なほど穏便に事が進んで不安になり、その一方でかなり油断している。だが、この女はきっと、怒っている。一切感情を動かさない人間は、そして今もなお静かであるならば、間違いない。爆発は近い。どのように事が起きるかは知らないが。

 

 私は下着とシャツの入った籠を左手で掴んで、司令部の片隅のランドリーへと向かおうとする。その背中越しに、

 

「瑞鶴、おやすみなさい。助かります」

 

 そう言って、私にさよならを伝えた。

 

「また明日も宜しくお願いします」

 

 お決まりの台詞だ。朝と同様、いつもと変わらぬ、同じ声色の。何故か品性に富んだ口調で。

 私はそれに振り返りもせず、ドアノブを捻り、押してここを出た。用は済んだ。ならば用もないから。痛む目と頭、背中を背負って空母寮へと私は帰っていく。捨て台詞には大人しく私は、

 

「おやすみなさい」

 

 振り向かず。後ろ手にドアの戸板の端をつかみ、緩いサイドスローのように扉を閉じて出た。

 

 ……おそらく、叢雲は提督に意図の理由を伝えること無く、そして、死ぬだろう。

 

 笑いが止まらなくって、顔がひきつった。

 どう死ぬかは分からないけれど、多分死ぬ。何かがおかしいから。私はこんなにも幸せだから。

 死ね。

 私のために死ね。

 私が幸せになるために死ね。

 ……ああ、コーヒーを飲みそこねた。

 私が生きて幸せになるために死ね。

 私が生きて幸せになるためにお前が死ね。

 生きている私が生きて幸せになるためにお前が死ね。

 生きている私が生きてもっと幸せになるためにお前が死ね。

 死ね。

 

 ――― 風がまた目の前を過ぎった。

 

 ――――ハー・ライフ・チェンジ?―――

 

 ――― 風が言う。また幻覚だ。だが、今回は私もちゃんと答えて差し上げた。

 

「何も変わらずに、あいつは死んでいく。そうに決まっているわ」

 

 冷たく幻覚に脳で語りかけると、我ながら不快な笑いを立てて、空母寮へと戻っていった。

 

「ふ、ひひ、ひひ」

 

 ●

 

「ダメですね、何が起きてるか分からないと」

 

 様子を伺う声が1つ。

 

「比叡さん、ちゃんとご説明を」

 

 比叡に問いかける同じ声が1つ。

 

「どうにかできるの……」

 

 比叡が問いかけて声を1つ。

 

「―――― 風が望むとおりに」

 

 比叡に答えて声が1つ。

 

 続いてもう1つ、

 

「ユア・ライフ・チェンジ・エブリシング」

 

 ――――― 風が無垢にそう言った。

 

 ●




死んだンゴ「グエーフラミンゴ」

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