ゴールデンカイトウィッチーズ   作:帝都造営

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Chap3-6-1"Confused field"


الجھن میدان پہلا حصہ

 警報が鳴った。警報は日常的に聞く音になった。それでも毎回心臓がわしづかみにされるような気がする。それでも彼女は飛び出す。滑走路脇に止まっている自分のストライカーユニットに飛び込む。頭巾(ヒジャブ)がおちないようにしっかりとめて、足を守っていた腰布を外す。教義では手と顔以外は晒してはならないと言われているが、ストライカーユニットを使う時には晒さねば戦えない。恥ずかしいけど我慢だ。

 

「神よ、どうか私の無礼をお許しください」

 

「ルクサーナ! まだ魔力が回復してないのに! 無茶だって!」

 

「ほかに飛べる人がどこにいるの?」

 

 そう言って笑う。ここの前線基地でウィッチは彼女一人だ。他の人はいなくなった。逃げた人も死んだ人もいるが、いないという意味では変わらない。それを責めるつもりもない。

 

「ナシーム。武器を持ってきて。避難民が下がれるだけの時間を稼がないといけないから。急いで!」

 

 腰布を腕に引っかけたまま彼女はアイウェアをつける。もう壊れて速度表示も出力計も動かないが、目を守れれば十分だし、そもそもブリタニア語もガリア語も読めない彼女にとって意味はない。まだ片言ながら話せるブリタニア語ならともかく、聞いても意味が分からないガリア語をインカムに流されても耳障りだから切っている。

 

 彼女には、ルクサーナA/Pアラン飛行士には学と呼べるものはない。それでもここで飛べるならば飛ぶほかにないのだ。

 

「エンジンをかけますから用意を! ウルム! お願い!」

 

「わ、わかりました……!」

 

 キャニスターについている弾み車(フライホイール)を全力で回すのは整備士のウルムだ。全力でハンドルを引いて外部スターターを起動させる。エンジンを回していいことを示すらしい赤いランプが光るまで待機だ。その間に足にはめたストライカーユニットを撫ぜる。ウルディスタン国空軍から供与されたガリア製だというミラージュIII-Vは砂まみれだ。それでもルクサーナたちがいるラホール北西防衛線で使える唯一の機体だ。

 

「間に合ってよ……!」

 

 これは人類の存亡をかけた聖戦(ジハード)だ。ルクサーナはウルディスタン国防義勇飛行隊の飛行士であり、この世界を守る戦士としてここに配属されている。戦わなければウルディスタンの人たちが死ぬ。それを防ぐためなら啓典を破ることになったとしても、その罪を懺悔すれば許していただけるに違いない。そう信じて腰布を整備士を勤めてくれているウルムに渡す。やはり、足を晒したり肌をみられたりするのは少し恥ずかしい。

 

「ルクサーナ……もう弾薬はこれしかありません」

 

「大丈夫よナシーム。私は武器が無くても戦えるのを貴女は知ってるでしょう?」

 

「ですが……」

 

 ナシームという副官は武装を渡すのを渋る。ウルディスタンの義勇飛行隊に配備されているのはMPi-KM自動小銃。質実剛健なオラーシャ設計で、安心と信頼のカールスラントが製造したものだと聞かされたことがあるが、ルクサーナにとってはよくわからない。それでも引金を引けば弾が出てくれる。それ以外に必要なものはないのだ。

 

「ですが、いくらルクサーナでも弾倉3つじゃどうにもなりません! ネウロイは本当に……本当にたくさん……」

 

「だから行くの。……みんなは避難誘導を。一人でも多くの非戦闘員を国境沿いに。インディアには入国させてもらえないかもしれないけど、ネウロイからできるだけ遠ざけて」

 

「ルクサーナは……!」

 

「大丈夫、落ちたりしないよ」

 

 そう言って自動小銃を受けとってから、弾倉を差し込む。玉は90発。多いようで少ない。もう陥落したラホールからやってくるネウロイを迎え撃たねばならない。

 

「あなたに偉大なる(アッラーフ)の御加護があらんことを!」

 

「死なないでくださいね、ルクサーナ……!」

 

「あなたたちもです、ウルム、ナシーム。あなたたちのおかげで、私は飛べる」

 

 ルクサーナはエンジンを掛けながら敬礼を受ける。敬礼を返した。出力上げ、ストライカーユニットを地面に戒めていたロックを解除、ミラージュIII-Vはその推力を全開にし、垂直上昇する。熱い埃っぽい空気が身体を打つ。高度を上げていく。周囲の畑がまばらに広がる大地を見下ろして一度上空で旋回してからネウロイがいるであろう場所を目指して飛ぶ。

 

「まだ避難民が沢山いる……」

 

 足元の幹線道路を人がゆっくりと歩いている。幹線道路の車は動いていない。前にも後にも進めなくなった車列は既にただの障害物となった。せめてネウロイが車を()()してくれることで少しでも足を止めてくれることを信じたい。

 

 ラホールから国境線まで20キロ。その間にはほぼ平坦な農耕地帯、そのわずかな間隙に何万人もの、下手をすれば何十万人もの避難民がひしめき合っている。

 

 そして嫌でもわかるほど地平線の向こうは異常なほど黒く沈み込んでいた。ネウロイだ。山のようにネウロイがやってきている。地上型が殆どだが、空にもいくつも飛行型が浮かんでいるらしい。レーダーの文字は読めないが、赤い色何かが点々と光っている。これが光るときはネウロイがいることは経験から学んだ。

 

「嘘……でしょう……っ!」

 

 少なく見積もっても、視界に映るだけでも、千体はくだらない。下手をすれば万いるかもしれない。

 

《ラホール上空のウィッチ、及び機体へ。誰か聞こえているか。応答を求む》

 

「! こちら義勇飛行隊第三班、ルクサーナ・アラン飛行士であります!」

 

 ノイズ交じりの無線が飛び込んでくる。男の声。ウィッチではない。

 

《重畳。こちらはウルディスタン陸軍第342ライフル中隊。クアイド・アザン・ジャンクションに展開し時間稼ぎを行っている》

 

「クアイド・アザン・ジャンクションですね! 今すぐ援護に……!」

 

《不要だ。我々はこの場所を死守する。たった今、現状確認できた最後の避難民が国境線キャンプへ向け避難を開始した。そちらには我が中隊から第3422ライフル小隊及び第345予備ライフル小隊を護衛につかせ、グランドトランクロードを東進させる。ルクサーナ飛行士は避難民上空援護をお願いしたい》

 

「ですが……!」

 

《守るべきは市民だ。我々軍人を守っている間に市民が死ねば、これまでの戦友に向ける顔がない。それに我々は祖国において百戦錬磨と言われた第342ライフル中隊だ。ネウロイの100や200蹴散らしてやれる》

 

 嘘だ。それが嘘であることぐらいすぐにわかる。嘘でなければジャンクションに展開し()()()()()()()()()()なんて言わなかったはずだ。

 ルクサーナの沈黙をどう受け取ったのだろう、相手は押し出すように言葉を紡いだ。

 

《わが国民を、頼む》

 

「……了解しました。これより、避難民の護衛に入ります」

 

《恩に着る。あともう一つだけわがままを許してもらいたい。私はファキール。アリー・ファキール・ザルダーリー大尉だ。別の陸軍の士官と合流できたならば、第342ライフル中隊は聖戦(ジハード)の中で雄々しく戦ったと伝えてくれ》

 

「……わかりました。必ず。ですが、それはどうかザルダーリー大尉殿が自分でお伝えください」

 

 無線でそれを交わす頃にはジャンクションの真上を横切れる位置まで飛んできていた。そのままローパス。ジャンクションの道路には迫撃砲やRPG-7を抱えた兵士が見える。その前を横切るように飛ぶ。右手をこめかみに当てる。敬礼だとちゃんと受け取ってもらえたらしく、兵士は敬礼を返してくれた。その中でずっと最後まで敬礼をしていた人と目が合う。兵としてはかなり年老いた部類に見えるその彼に頷く。

 

「ご武運を」

 

《神の御加護を》

 

 ファキールと名乗った指揮官が口を動かすのが見えた。それに背を向け、ルクサーナはその十字路のようなジャンクションの一本をたどる。すぐに人の流れが見える。その横を飛ぶように速度を落とす。

 

「第3422ライフル小隊指揮官へ、こちらウルディスタン義勇飛行隊、ルクサーナ・アラン飛行士です。応答願います」

 

《こちら第3422ライフル小隊、どうぞ》

 

「第342ライフル中隊ファキール・ザルダーリー大尉より避難民の護衛支援要請を受けています。これより貴隊の護衛に入ります」

 

《魔女がついているというのは心強い。支援感謝します》

 

 親に手を引かれた子どもが手を振ってきた。高度を上げて護衛隊の後方上空につく。

 彼女が託された避難民。分かってはいたことだがその数は膨大だ。ラホールは元々人口一千万を数えるウルディスタンで二番目の巨大都市。首都が陥落してからは中部北部南部とあちこちからヒトが押し寄せ、行政の担当者は流れ込む人間を数えることを止めた。

 

 そんな街が、ネウロイに飲み込まれるとなればどうなるか。その答えがこれだ。

 

 グランド・トランク・ロードことGTロード。16世紀は王朝時代、栄華を誇った帝国の街道として整備されたその道は、王の道(そのな)に恥じぬ主要幹線だ。現在ではアスファルトにより舗装され、国道五号線として首都とラホールを結び、ラホールからはインディアの国境の街であるアムリトサルへと続く。つまるところ、この道がインディアへと逃げる最も分かりやすい道なのだ。

 

 避難民の列はもはや列と呼ぶのも相応しくはないだろう。インディアとの国境へ向けて引かれていたその道に、いや道をはみ出したヒトの群れは、もはや秩序などは保っていなかった。畑であろうと踏みつけ、河となれば橋を、なければ干上がりかけていることをいいことに浅瀬を突き進む。

 己が、生き延びるために。

 

 それでもインディアの官吏はあくまでその使命を果たすようだ。避難民の群れが国境沿いに広がっていく。本来地図の上にしか現れないはずの国境線が、空からならくっきりと見える。ヒトがいる場所までがウルディスタン。そこから先はインディアだ。

 

《環状線にネウロイ接近。これより中隊が交戦》

 

 無線が教えてくれなくとも、ルクサーナの眼には既に戦場が映っていた。

 

 

 

 

 

「行きましたな。中隊長」

 

 顔の皮膚が折り重なってしわくちゃになった副隊長が、その顔を更にしわくちゃにさせながら言う。それを聞いたウルディスタン陸軍のザルダーリー大尉は、固まったようにしていた青空への敬礼をようやくやめる。

 

「あぁ、行ってくれた」

 

 あの青空の先にはインディアが待ち構えている。国境線が開かれるとは思っていないし思えない。

 宗教による境界線でインディアとウルディスタンが別れて以来、両国の歴史は硝煙と血によってその大半が占められていた。国力の違いから常に劣勢を強いられるこの祖国。志願して軍に身を投じたときから、ウルディスタン共和国軍は敗北と隣り合わせにあった。

 それはまだネウロイが遠い世界の厄介な出来事でしかなかった頃でも、祖国がネウロイにより消滅の憂き目に遭っている今この瞬間でも変わりはない。

 

 サルダーリーは双眼鏡をのぞき込む。郊外のジャンクションから望むラホールは、土煙にその身を委ねようとしていた。

 ネウロイだ。地を駆ける異形たちの巻き上げる砂埃、体当たりで悲鳴を上げる建築物。

 

 ネウロイは、鉄を喰う。

 

 その鉄は紛れもなく人々の暮らしの証で、今さっきまで生きていたもの。自動車が、道路の電柱が、ビルが、看板が、まるで日常が消し去られるかのように敵の腹へと消えていく。築き上げた生活が消えていく。

 誰が(カルマ)を犯したというのか。ただ全ての民が生きることを望んだだけだというのに、そんな簡単な思いすらも消し去れられるというのか。

 

「2小隊の若造たちが、うまくやってくれればいいんですがね」

 

 副長は本気で不安げにいう。避難民の護衛として抽出した第3422ライフル小隊は、中隊の中でも特に若者たちだけを集めた小隊だ。

 

 故にこの場合の「うまくやる」とは「如何に生き残るか」という意味になる。

 

 ウルディスタンはこれまでだ。もはや下がるべき後背地はない。政府の高官はとうの昔に国外へと逃げ出した。比較的マシな戦力が駐留し、どうにかこうにか守りを固めていたラホールですら、逃げ出せる者は皆逃げ出した。この街に取り残されたのは金やコネを持たない者ばかりだ。

 

 だが、未来はある。まだ若者たちは天国へ行くに相応しい徳を積んでいない。だから生き残らねばならないのだ。第3422ライフル小隊も、少年兵ばかりで構成された第345予備ライフル小隊も。

 

「さあ。始めるとしよう。祖国の誇りに、中隊の誇りにかけて」

 

 第342ライフル中隊が歴戦であるというのは、決して嘘ではない。隊の中核はインディアとの戦役にも参加した古参兵が占め、イスラマバード撤退作戦から今日まで下がるばかりの戦線を保ち、民を守った。

 

 その精鋭たちは、老骨に鞭打ち、地へと伏せる。彼らがこれより相まみえる陸上型ネウロイというのは総じて足が速く、図体が大きい。野戦となれば戦線を突破されるし、市街戦となれば力押しで最後には負ける。

 

「連中のお出ましだ」

 

 だがそれでも、中隊は散兵線を築いた。市街地での消耗戦は部隊の温存には有用かも知れない。建物はビームから身を守る盾となり、考えなしに突っ込んでくるネウロイを倒す仕掛けは市街地の方が作りやすい。

 

 しかし、ウルディスタン軍にはもはや戦力と呼べるような戦力は残されてなどいなかった。故に、ザルダーリーが採用したのは何のひねりもない散兵戦術。少ない兵士を、効率的に民衆の盾とする。薄皮一枚の絶対防衛線。

 

 ジャンクションへ向けてGTロードを突っ込んで来るネウロイ。渋滞により路上に放置された自動車へと喰らいつく。

 奴らは満足そうにうめき声を出した。

 

 この場に焦っている者などはいない。ビームという避けることの叶わない武器を使うネウロイが相手では、感情を高ぶらせた人間が真っ先に死んでいく。残されたのは奴らの射線を見抜き、そしてじっと惨めに身を伏せた者だけ。土に交わるようにして横たわる彼らは、言うなら半身を土葬したようなものだ。

 

 争うように自動車を喰らうネウロイ達。無秩序な動きの彼らは、じわりじわりと国を圧迫してきた。それが今、ラホールという最後の都市を飲み込んだことで完成しようとしている。

 

 食事を終えたのだろうか。それとも同じ車の味に飽きでもしたのか。奴の躰が動き出す。

 

 今だ。一発の銃声が響き先頭のネウロイの体に当たる。それを合図にして道路に臥せっていた“骸”は立ち上がり、攻撃を始めた。

 

 これが我々の戦い方だ。

 潜伏し、騙し、肉薄し、分割し、撃破する。圧倒的な戦力差の中で勝利を勝ち取るのは、我々の十八番であり生き方だ。

 

 我々は常に戦場に居る。ぬくぬくとどこか知らん遠い大陸で呑気に歌でも歌って生きてきたやつとは、生き方が違うのだ。

 

 敵は混乱し立ち止まる。そうだ、それでいい。

 物陰から手榴弾を投擲する。固まって立ち止まったところに、きれいに落ちて爆発。炸薬に引き裂かれた鉄片がネウロイを切り裂く。

 

 その光景が一面に渡って繰り広げられたのである。打ち合わせ通りの手榴弾一斉投擲。奇襲だからこそ成立する、第342ライフル中隊の乾坤一擲。

 ネウロイは一番先頭が立ち止まったもんだからたまらない。前に前にと個体同士で押し合いながらその速度を減じる。

 

 ネウロイは間違いなく中隊を認識したことだろう。憎むべき、直ちに排除すべき敵として。

 

 ネウロイの一集団がこちらへ向かってくる。兵士達は辛うじての連携を保ち、代わる代わる銃弾をくれてやりながら後方の陣地へと走る。

 釣られたように複数のネウロイが走り出す。その奇怪な足を代わる代わるに繰り出しながら、こちらへと向かってくる。ビームを乱射し、前線の兵を貫こうとする。

 

「撃て!」

 

 GTロードをまたぐ高架から、固まりになった敵へ機関銃や小銃の弾が降り注いだ。射撃の腕が立つ兵士と、なけなしの機関銃を集中配置した機関銃分隊による一斉射。

 先頭のネウロイに射線が集まり、汚い音と光を残して、敵は四散する。その光がキラキラと輝き、やけに美しく見えたのは錯覚だろうか。

 

 ともかく、兵士達は無事に陣地転換という名の小撤退を終えることになる。元より用意してある塹壕、または蛸壺に飛び込み、弾倉を付け替えた者から再び射撃を開始する。

 塹壕といっても深さなどない。伏せればビームの射線は防げるかといった程度の浅い溝と呼ぶべき代物だ。

 それでも、あるとないとでは大違いなのだからこれで我慢するほかない。

 

「いいぞ、もっと、もっとやれ!」

 

 得体のしれない怪異のその狂気と混乱の最中で、誰かが笑った。誰かなどとは考える間もない。身体を上げたが最後、彼の右腕は一発の細いビームに貫ぬかれる。

 

「まだまだ、まだまだぁ!」

 

 想像を絶するほどの高温だ、血はでない。神経回路を丸ごと寸断された苦痛は計り知れないだろうに、それでも彼は臥せることはない。精神の限界をとうに超えて、彼は狂ったようにその浅い塹壕を飛び出した。肉薄しありったけの弾と手榴弾をくれてやろうというのだが、寸刻も持たずにその身体を大地へと還すことになる。

 

 ビームによって貫かれたり、ビームで破壊されたものに支障されたり、中隊の損害は確実に増えつつあった。

 

 それでも、我々は立ち続ける。例え痛みを超え足が砕け立ち上がれなくなっても、最期のその時まで攻撃は止めない。

 

 

 これが、我々の聖戦だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 空飛ぶ棺桶(フライング・コフィン)ことウィッチ空輸用ポッドEXINT POD-01の中は快適とは言えなかった。口元を戒める酸素マスクの音が耳障りだ。酸素マスクから流れてくる空気の湿度はゼロに近いから喉渇くよとは言われていたが、予想以上だった。必死に唾を集めて飲み込む。魔法力を使ってカバーすれば酸素マスクなんてなくても余裕なのだが、戦闘用に少しでも魔力を温存しろと言われている以上しかたないと諦める。自分の魔力の総量は軍属としては少ない方なのは米川ひとみ自身も知っているのだ。

 

《少尉殿》

 

 酸素マスクと一体になったインカム――百円均一ショップのイヤホンみたいな安い作りのものだ――から声を掛けられ、右手の送信スイッチを押した。

 

「はい、なんですか、えっと……シャルマ飛行士さん」

 

《シャルマで結構ですよ。少尉殿の方が上官です》

 

 ひとみを運ぶ飛行士の声はノイズに紛れていてもよく聞こえた。

 

《……機窓から見ても砂ばかりでしょう。タール砂漠の上を飛んでいると迷子になるんじゃないかと思う時がありますから》

 

「砂漠……初めて見ました」

 

《そうでしたか。単調でしょう、横しか見えないと。前は遠くにヒマラヤ山脈が見えているんですが……ポッドからは見えないですね》

 

 そう笑うシャルマの声はどこか乾いていた。

 

《……空域までは今しばらくあります。こんな老骨(ロートル)相手では退屈かもしれませんが、少しお話でもしませんか》

 

「はい、よろこんで!」

 

 そう返すと、シャルマの笑い声が小さく響く。

 

《少尉殿の出身は扶桑でしたな。扶桑とはどういうところなのです?》

 

「うーん。……東京はビルばっかりで、ムンバイとあまり変らないです。あ、でもマーケットやスラムみたいなのはないです。きれいな山もあって、海もあって、大好きな場所です」

 

 ふーじはふそーでいちのやまー、って歌もあるんですよ。と笑えば、インカムの奥がまねして歌ってくれた。

 

「シャルマさん、お上手なんですね」

 

《父が露天商をしていて手伝って客寄せをしたものです。喉には自信があるのですよ。士官様に気に入られたのはいい思い出です》

 

 笑った彼の声はどこまでも穏やかだ。

 

《少尉殿は、クシャトリアですか?》

 

「えっと……クシャトリアって……えっと……」

 

《ヴァルナやジャーティの事です。英語だと社会的身分(ソーシャル・ステータス)ということになりますか。そのお年で少尉任官ということはさぞご高名な軍人の血筋だとお見受けしましたが……》

 

「えっと、お父さんは硝子職人で、わたしはそんな偉い人じゃないですよ?」

 

《……》

 

「シャルマさん……?」

 

 なにか悪いことを言ってしまったかとどこか不安になる。

 

《そうでしたな……ヴァルナはインディアでしか通じないのでした。失念してしまっていました……》

 

 その声は乾いていた。何かに蓋をしてしまっているような、そんな気がした。

 

《インディアをどう思われますか? 少尉殿の目にはこの国はどう映りましたか?》

 

 そう問われ、口を開こうとして、閉じる。いい国だと言うのは簡単だ。それでも今、命を預けているこの人に嘘はつきたくなかった。

 

「ムンバイしか知らないので、あんまり知りませんけど……大変な国だとお思います。どこも人がいっぱいで、たくさんの人が憎み合ってて、でも、憎んでる人だけじゃなくて、なんとかしたいって思ってる人も居て、難しい国みたい、です」

 

 冷たい鉄の板に背中を預けて、WA2000を抱く。

 

「ムンバイの空港で、子どもを助けたんです。言葉が分からなくて、その子どもがウルディスタンの子どもだったのか、インディアの子どもだったのか分かりません。もみ合いの中でその子が倒れて、助けようとして、シールドを使って……そのあとはめちゃくちゃでした」

 

 あの時の目を忘れられない。子どもの怯えたような目、シールドの奥に見えたいくつもの怖い目、それが銃を向けられた瞬間に怯えた目に変わっていく。それが忘れられない。

 

「でも、放っておけなかったんです。手を出すなって言われたんですけど、放っておけなかったんです。でもそれが正解だったのか、わかりません」

 

 電源の切れたグラスデバイスの向こう、丸窓を通して荒涼とした砂の大地が見える。

 

「私はきっとこの国が大好きだって言えないです。でも、いつか好きだって言えるようになりたいなって、思います」

 

《……あなたは、聡い子だ》

 

「シャルマさん……?」

 

 しばらく黙ってから、通信機の奥がぽつりと語った。

 

《私は、この国が嫌いなのです。ダリッドの私にとってこの国は苦い汁を煮詰めたような場所なのです》

 

「ダリッドって……?」

 

不可触民(アンタッチャブル)の事です。ジャーティの外に置かれヒンドゥーの掟の中で不浄な物に触れる仕事をする者の事です。父がなめし革職人(チャマール)だった私はどうやったってダリッドになってしまう。それが嫌で、ジャーティに左右されない空軍に入ったのです》

 

 エンジンの音は穏やかだ。高速巡航しているはずだが、そんな事を感じさせない静けさが満ちている。

 

《それでも変らなかったのです。この国も私も。いつまで経っても私は貧者(ダリッド)でした。どれだけ憎んでも、苦しくとも、それでもインディアは私の祖国なのです。この国が、私を育てた。私が守るべき国なのです》

 

 そういう言葉は重かった。

 

《人類連合の少尉殿に言うことではないのかも知れません。ですが、あなたはこんな国で死んではいけないのです。ここは、私の空です。インディアの、空です》

 

「シャルマさん……」

 

《我々の空でなければならなかった。我々だけの戦場でなければならなかったのです。少なくとも、少女に銃を預け、命を散らせるような空であってはいけないはずなのです。軍人が守るべき存在であるはずのあなたを、あなたたちに死ににいけと言わねばならないこの国が、この空が、私は憎くてたまらない。それに従ってしまう私が情けなくてたまらないのです》

 

 そう言って彼は自嘲するような笑い声を上げた。

 

《ですがこの国はあなたたちを頼らざるを得ない。この国を守るために、この国に風穴を開けてもらうために。ですから、この願いはただの一兵卒のわがままです》

 

 シャルマ飛行士はそう言って悩むような間を開けた。

 

《どうか、せめてあなたが空に飛び立つまで、守らせてほしい。私はあなたを戦場に叩き込む悪魔かもしれない。それでも、どうかあなたを守る事を許して欲しい》

 

 それを聞いて、ひとみは頷いた。ここからだと見えないのを思い出して、慌ててインカムに言う。

 

「おねがいします。わたしを連れて行ってください」

 

 そう言うと、向こうでどこかほっとしたような気配。

 

《エスコートできて光栄です。命に代えてでも必ずお守りいたします》

 

「……生き残らなきゃ、意味なんてありませんから。命に代えてなんて言わないでください」

 

《わかりました。そうすることといたしましょう》

 

  笑ったシャルマ飛行士の声に父親の声色に近いものを感じた。すこし胸が痛くなる。それでも声を明るくして、言葉を掛ける。

 

「そういえばシャルマさんのご出身ってインディアのどこなんですか?」

 

《チェンナイという都市です。南の海沿いで、小綺麗な街です、年中暑いので――――》

 

 話しているとシャルマ飛行士は案外饒舌だ。ちくりと痛い胸を押し隠すようにしながら、ひとみは彼の話を聞く。その間にも、眼下の風景はどんどん変っていた。砂漠を越え、若干の緑が見えてくる。

 

《降下ポイントまで240秒。降下前確認手順(テイクダウンチェックリスト)開始》

 

 全体無線に英語でのぞみの声が乗り、ひとみはゆっくりと唾を飲み込んだ。喉の奥が張り付いているような嫌な感覚。それを飲み込んで、豆電球に照らされたチェックリストを指でなぞる。

 

「テイクダウンチェックリスト、スロットル・ミニマム、フューエルコントロールスイッチ・カットオフ、マスターアーム、オフ、IFFアライン、VHFアライン、INSアライン……ジェットエーテルスタータ、オフ、Vmaxオフ……電圧計32AHオーバー確認、正常値……えっと……」

 

 外部電力の供給をGiG-29K艦上戦闘機からウィッチ輸送用ポッドのバッテリーに切り替え、ストップウォッチをスタート、エンジンスタートにだけ使う電力とはいえ、ここから先の電力は十分。脈拍が上がっていく。

 

「グラスデバイス起動確認、フライトアシストコンピュータノーマル、ファイアワーニングテスト、コーションライト、ターンオンチェック。ブラックパネル、ノーライト、チェック。フライトシステム、オールグリーンライト。酸素供給(LOX)ライン、カット、グリーンライト、チェック」

 

 酸素マスクのホースを外して、壁の方に固定。壁にイラストでやり方が描いてあるから迷わずできた。テイクダウンチェックリストあと一つで終わる。機内用のインカムのライン切断だ。切り離したら、もう接続することはできない。その前にもう一度だけ、言葉を交わしておきたかった。

 

 インカムの通信ケーブルに手を掛けながら、回線を開く。

 

「行ってきます、シャルマさん」

 

《ご一緒できて光栄でした。あなたに神妃(ドゥルガー)のご加護があらんことを》

 

「死なないで、くださいね」

 

《あなたもです》

 

 それを聞いて、ゆっくりとケーブルを抜いた。耳からイヤホンを外す。指定された箱にそれを突っ込んで蓋を閉める。

 

「テイクダウンチェックリスト、コンプリート」

 

 そう言って、覚悟を決める。窓の外には煙が立っているのが見える。人がいるのだ。街があるのだ。

 

 何万人もの人が、今、ネウロイに飲まれようとしているのだ。その最前線に今から飛び込む。

 

「大丈夫。必ず、帰るから」

 

《降下30秒前》

 

 無線を聞きながら、作戦概要をざっと見る。余白の文字を見て、笑みを浮かべてみる。笑えなくても、無理に笑った。そうしてから、気を引き締める。

 

《降下10秒前》

 

 WA2000を握りしめる。スコープをそっと撫でて深呼吸。息を吸った。8割まで吸って、止める。

 

《降下》

 

 世界が回った。もう戻れない。

 


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