椅子が倒れる音が響いた。それを聞いて米川
「
そこで戦いた表情で背中を壁に預けた姿勢で震えている妻を見て、光治は彼女の側に駆け寄り、震える肩を支えた。
「みっちゃん、ひとみが、ひとみが……!」
「ひとみがどうした、なにがあったんだ」
一人娘の声を呼ぶ由里に問いかけると、机の上のスマートフォンを指さしていた。慌ててそのスマートフォンのホームボタンを押す。ロックを震える指で解除。そこに表示されたのはニュースのヘッドラインがまとめられたページだ。ひとみを空軍に送り出した後から、妻は一日に何度も、新聞の国際面やニュースアプリの国際欄のまとめを確認している事は光治も知っていた。嫌な予感が頭を過ぎる。
「ひとみが……ウルディスタンの方に……」
その声を聞きながらページをスクロール。『人類連合軍・インディア帝国を支援へ』というタイトルの記事がある。
「……きっとひとみなら、大丈夫。そう信じよう、由里」
「でも、あの子は、あの子はまだ13なのに、軍隊に入ってまだ四ヶ月も経ってないのに、最前線に送られるのよ?」
「まだひとみが送られるとは決まった訳じゃない。俺たちが作ったお守りだってある。とびっきりの
「でも、でもぉ!」
「由里。君よりもひとみの方が怖いはずだ。それにあの子は耐えているはずだ。その親が情けなくてどうする。あの子を信じて、信じて、帰ってくるまであの子の絶対の味方でいるんじゃなかったのかい」
光治はそう言って妻の体を抱きしめる。
「大丈夫だ。あの子は、必ず帰ってくる。まだ子どもで、弱虫で、泣き虫で、甘えん坊だけど、誰よりも芯が強い子だ。空を飛びたいって決めたらテコでも動かずに必死に頑張った子だ。あの子が本気になったら誰も勝てない。ネウロイでも勝てないはずだ」
「そんなの、男の理屈よ」
その非難を聞いて彼は笑った。
「そうだ。それでも信じようって決めたじゃないか。私はあの子の味方だ。君もそうだ。だから信じて待ってあげよう。あの子がSOSを出してきた時が、私達の出番だ。全世界を敵にしてもあの子を助け出すって決めたじゃないか」
さめざめと泣く妻の頭を撫でながら、彼は無機質な天井を見上げた。親としてできること、人としてできることは尽くした。後は待つことしかできることがない。
ひとみ、無事で。無事に帰ってこい。
冷房が緩くかかった休憩室で埃に汚れたシーリングファンがゆるりと回っていた。
「ひとみ」
コーニャが声をかける。かけられたひとみはベンチレストからライフルを取り上げ。立ち上がる。WA2000には真新しいスコープがついていた。
「調子はどう?」
「ゼロインを750で再調整したし大丈夫。このスコープやっぱりすごいよ。高倍率でもしっかり見える」
「……銃の話じゃなくて、ひとみのこと」
そう問い返したコーニャにひとみは時間を少しおいてから答えた。
「うん。制服の下がけっこうきつくて少し気になるけど」
ひとみはそう言いながら自分の制服の襟首を引っ張った。
「防弾ジャケットに
いつもの制服の下、ワイシャツの上にはたくさんの装備がこれでもかと言わんばかりにごてごてとつけられていた。一番重いのは砂や破片から体を守るためのセラミックス製のプレート入り防弾ジャケットだ。普段はシールドを使えるウィッチにとっては無用の長物なのだが、今回ばかりは薄手のやつを持って行った方がいいだろうということで着用するように言われた。
「しかたない。今回は後ろから鉛玉が飛んでくる可能性もある」
「考えたくはないけどね」
そう言いながら更衣室から出てきたのは大村のぞみだ。すでに装備を完了しているらしい。
「ウルディスタンとインディア帝国がいがみ合ってるところに颯爽と203空がしゃしゃり出てネウロイを殲滅することになるんだ。ネウロイの戦争の間に両国の紛争に巻き込まれる可能性も無きにしも非ず……そのあたりってプライオリティ中尉がなんとかしてくれるわけ?」
「Покрышкин。保証はできないから着てもらってる」
「そりゃそうだわ。いらんこと聞いた」
のぞみはそう言って右肩に下げた64式自動小銃を揺らして肩をすくめる。
「のぞみ先輩、二丁持ちでしたっけ? たしかA-10でガトリング砲持って行くんでしたよね」
「ん? あぁ、違う違う」
のぞみはそう言ってケラケラと笑う。質問したひとみは首を傾げるだけだ。
「ロクヨンは着剣用だからね。ほら、一丁はシンガポールの演習の時にダメにしちゃったから。それを銃剣突撃専用にさせてもらったの」
「そ、それ普通にロクヨン一丁じゃダメなんですか……?」
ひとみがかるく笑みを引きつらせてそういった。確かに曲がった小銃じゃ照準どころじゃないし、確かに撃つのに使えないのは分かる。もったいないのもわかる。だけど、だからといってそれを再利用して銃剣突撃専用に持って行く意味はわからないのだ。
「これで銃の破損を気にせず思いっきり振れる!」
「そ、そんなものなんですか……?」
「わかってないなぁ米川。銃剣は現代の
そういって自慢げに笑うのぞみを見てコ―ニャがひとみの肩を叩いた。黙って首を横に振るコ―ニャ。ひとみはため息で返した。
「さて、そろそろいこうか」
のぞみがそう声を掛ける。ひとみが立ち上がって、左肩に狙撃銃を背負った。重い。いつもより重く感じる。それでも、よろけずに立ち上がり歩き出す。体が重いのは防弾チョッキのせい。今から行く任務は誰かを助けるための戦いだ。だから、重いものなんてない。
「米川」
そう思っていると、横からのぞみがぽんと肩に手を置いた。
「今から行くのはいつも通りの鉄火場だ。ウサギ狩りみたいなもんだ。気楽にいこう」
「……ウサギ狩りもしたことないですけど」
そう返せばなぜか吹き出すように笑うのぞみ。
「そう返せる余裕があるなら声かけなくても良かったかな。ならいいや。まぁ問題はそのウサギの量が多すぎることでもあるんだけど、そこは考えても仕様がない。気楽に行こうじゃないか、我が同胞よ」
「似合わない」
「あんたには言われたくないわよプラスコーヴィア!」
のぞみが噛みつきながら外にでるドアを開けた。日の光が目を射る。それでもすぐに順応し、あたりの様子を示してくれた。ムンバイは快晴。絶好のフライト日和だ。
「さて、それぞれの乗機は……みんな鎌首持ち上げて元気元気」
エプロンに引き出されているのはGiG-29K艦上戦闘機。インディア帝国海軍の最新戦闘機でオラーシャ航空機設計局製造の戦闘機だ。のぞみの鎌首という言葉にひとみは少し引っかかったが、言われてみればなるほど、確かに鎌首を持ち上げた蛇のようにも見える。
「あんな戦闘機に乗るのなんて初めてです」
「私もよ。というより固定翼戦闘機にまともに乗ったことのあるウィッチなんて少ないんじゃない?」
気楽な様子でそういうのぞみが敬礼。フライト前のチェックをしていたらしいパイロットや整備士がそろって敬礼をしていた。ひとみも足を止めて答礼を返す。そこに駈けてきたのはツナギみたいなフライトジャケットを着た男性だ。インディア帝国海軍の階級章はよく分からないが線がいっぱい。たぶん大尉か大佐か……どちらにしても上位階級だろう。
「インディア帝国海軍航空群ヴィクラマーディティヤ部隊第三戦闘飛行ユニットを代表し、貴隊の協力に敬意を表します。ユニット長のマハヴィル・ヴァージペーイー大尉であります」
「人類連合軍第二〇三統合戦闘航空団前線隊長、大村のぞみ少尉であります。敬意を表するのはこちらの方です。道中ご一緒できること、光栄に思います」
「はは、東洋の淑女はお上手ですな」
「上手もなにも、当然のことを述べたまでであります」
のぞみはそう言って笑みを深めた。
「人類の危機にはせ参じてこそ人類連合の名を名乗れます。そしてまたその最前線に立つのは軍属ウィッチの義務であり栄誉、それも同じ戦場に立った者のみが理解可能な他に代えがたい至高の名誉であります。しかし、貴官たちは義務ではなく志願としてそこに名乗りを上げられています。それに対して我々は敬意を抱くのであります、大尉殿」
のぞみが流暢な英語でそう答え敬礼を解いた。
「お話をしたいのは山々ですが、出撃命令が下っております。続きは帰還後のデブリーフィングでいたしましょう」
「……では、こちらに」
何かを飲み込むような表情をして大尉が戦闘機の方に皆を連れて行く。
「皆ベテランです。
「なるほど。それで私達はどれに乗れば宜しいのでしょう?」
そういえば大尉は横に並んだ機体を見やった。
「手前から一番機二番機で並んでいます。カイトフライトの皆さんはコールサインの逆の順番でご搭乗いただき、ストリックス1は六番機へ」
「なら一番機にカイト5、五番機にカイト1の私ということことですか。万が一の時に司令機全滅を避けるためですね、了解いたしました」
のぞみがそう言って敬礼。それぞれが散っていく。
「あの、のぞみ先輩」
「どうした米川」
五番機の方に向かって歩いていくのぞみを追いかけて走りながらひとみが声を掛けた。ひとみは四番機に搭乗予定だから方向も一緒だ。
「ティティちゃんともんふぁちゃんは?」
「ティティはほら、向こうで
「そ、そうでしたっけ?」
「米川、いつまで引っ張る気だ?」
のぞみが足を止めて振り返った。
「割り切れ。あんたは人間だ。神様でも仏様でもない。救えるものも救えないものもある。そもそも動き出してないのに何を怖がっている?」
のぞみの目はいつもより鋭く、ひとみはそれに射止められたように動きを止めてしまった。勢いでものを言えなくなっては答えるべき言葉はなかった。
「千手観音でも一度に救えるのは千人だ。私達には二つしか手がない。それでも目の前には万もの人が助けを待っている。私達が全力を尽くしても間に合わない人がきっといる。それで恨まれたり呪われたりするはずだ。でもね、米川」
のぞみはそう言ってひとみの目をじっと見つめた。
「私達だから助けられる人がきっといる。だから征くの。ここで待っていたら誰も助けられない。だから征くの。それが扶桑軍人としての責務だから。だから征くの」
ひとみの肩にのぞみの右手が乗った。
「失うことを恐れているうちは誰も守れない。守りたければ銃剣を携え、先陣を切り激戦地に飛び込み、我々の敵を排斥し、撃滅し、殲滅せよ。――――――私の恩師の言葉よ。救いたければ、守りたければ、割り切りなさい。失う事を受け入れなさい」
ひとみはそう言われ俯いた。
「……失わなきゃ、守れないんですか」
その声はどこか悲しく響き、のぞみの声に諭すような色が帯びた。
「その覚悟なくして、どうやって飛び続けるのよ。一回目はいいかもしれない。でも一度失ったら飛べなくなるぞ。それは私が許さない。あんたはカイトフライトの一人だ」
「それでも、わたしは守れるって、絶対に守れるって信じたいんです!」
その答えを聞いてのぞみは盛大にため息。
「……あんたそれ、割り切るよりも馬鹿でかい覚悟がいるって分かってるんでしょうね。銃乱射しながらラブ・アンド・ピースって叫んでるようなものよ。守り切れない度に自分のせいだって責めるんならあんたの命一つじゃとうてい足りない」
「それでも、守りたいって思うのは、おかしいですか?」
ひとみの言葉にのぞみは何か言いたげにいくつかの表情を見せる。が、それだけだった。のぞみは茶髪をかきむしって、それから叫ぶように言う。
「――――――あぁもう! 勝手にしなさい! ただし、大見得切ったんだからちゃんとやり遂げなさいよ!」
「はいっ!」
こういうときの返事だけはいいんだから、とのぞみは言ってひとみに改めて背を向けた。
「あんたも搭乗準備、駆け足!」
「はいっ」
ひとみは指定された四番機へ。四番機のところには既に加藤中尉とストライカーの入っているキャニスター、そしてGiG-29K艦上戦闘機のパイロットが待っていた。
「ヒトミ “パイカ” ヨネカワ少尉、シーヴァフライト四番機操縦士を務めます。アーカーシュ・シャルマ飛行士であります」
「米川ひとみ少尉です、よろしくおねがいします」
敬礼を交わしてから戦闘機を見上げる。間近で見たのは初めてかもしれない。改めてみると大きい。海上迷彩の濃い青が砂にまみれて汚れて見える。
「少尉殿は珍しいですか」
アーカーシュと名乗った飛行士はそう言ってひとみの横で同じように機体を見上げた。ひとみよりずっと大きい背丈の彼の目元には深いしわが刻まれていた。
「はい、乗るのは初めてです」
「安心してください。これでも隊では一番のベテランです。若いものには負けません」
そう言ってアーカーシュ飛行士はそっと笑った。
「さぁ、カトー中尉がお待ちです。私もフライトの準備を続けます故」
「わかりました。よろしくおねがいします」
「話はまた後で、積載後はインカムでも話せますから」
「じゃぁ、また後で」
そう言いあってそれぞれの持ち場へ。ひとみは小走りでGiG-29K艦上戦闘機の右翼の下へ。
「ひとみん、バッチリ?」
加藤中尉が聞いてきた。ひとみは大きく頷いて答え、横に寝かせて置いてあるキャニスターを眺めた。
「機体はバッチリ仕上げた。せっかくの晴れの日だ。ピカピカに磨き上げたよ、みんなで」
「ありがとうございます……」
「慣れない機体だからいろいろ大変だと思うけど、基本は変らないから気楽にね」
キャニスターが開かれた。そこに入っているのはリベリオンの星マークが刻まれたA-10攻撃飛行脚。武装マウントには大量のミサイルや爆弾が既にセットされていた。
「A-10の頑丈さは証明されてる。片翼吹っ飛ばされても、エンジンを片方吹き飛ばされても飛んで帰ってきた、頑丈さは折り紙付だよ。オーグメンターは使えないけど、対地上戦闘がメインの今回なら使う機会も少ないだろうし、問題ないはず」
「分かってます」
「米海兵隊に感謝だね。アレクシアちゃんにも後でお礼言っておきなよ。珍しく、しおらしく整備をお願いしてきたんだから」
加藤中尉の言いぐさに少し笑ってひとみは横を向いた。それに気がついた加藤中尉が笑った。戦闘機の翼につるされた
「EXINT POD-01……ウィッチの積載、空中輸送と展開に特化した輸送ポッド。通称『
「はい、わかってます」
「ならよろしい。じゃぁ乗り込む前の簡単な儀式をしてから乗り込もうか」
「儀式、ですか」
「そ、儀式よ」
加藤中尉がそういって小さい缶をひとみに渡した。
「スプレー缶……?」
「それで中に落書きするの。計器のじゃまにならないところに願い事とか、思いとか、思いっきり書いていいわよ」
「そんなことしていいんですか? これ、備品ですよね?」
「そうよー。使い捨てだけどね。恥ずかしいことも書いてもいいけど、使い終わった後で民間人に見つかってもいいやつでお願いね」
加藤中尉に示されたのはハッチの内側の鉄板だった。左側だけがぽっかりと開いている。なんて書こうか考える。あまり時間はないから急いで決めないと。そう思って、悩む。
「ひとみん?」
「い、いえ! 何書こうか、迷ってしまって……」
「そっか。なんでもいいのよー? 迷ったらKILROY WAS HEREとでも書いときなさいな」
キルロイ・ワズ・ヒアと言われても何が何だか分からないひとみだったが、とりあえずラッカーがよく出るように缶をを振る。からからと音がして中身が使えるようになる。
「じゃ、じゃぁ……」
青い線をきざみながらなんとか仕上げていく。少し楽しい。
「ははーん、ひとみちゃんらしいわ」
加藤中尉は訳知り顔で言ったがひとみは真剣。下の開いたスペースに「
「ほんと
天使の羽と加藤中尉が言ってくれたあたり、絵はなんとか及第点といったところだろうか。絵心は皆無だったからまあよしとしたい。そう思っていると手からスプレー缶が引き抜かれた
「じゃぁ、乗るかい」
「……はい」
「大丈夫。後から私達も追うし、ね」
そう言われキャニスターから引き出されたA-10を見て、一度深呼吸。薄いクッションが貼り付けられた鉄板とも言うべきものの上に腰を下ろして足を飛行脚に通す。エンジンのスタートはしない。外部電源用のコードは空飛ぶ棺桶に吸い込まれている。どうやら棺桶を投下するまでは戦闘機から電力を借りられるらしい。
「はい、背中を固定するよ。射出後はハーネスだけ残して後ろはパラシュートで勝手に外れるからね。ハーネスが苦しければ空中投棄してもいい」
加藤中尉がそう言いながらクッションから伸びたハーネスをひとみの胸の前で固定した。遠慮なく締められ、少し肩が痛いが空飛ぶ棺桶の中で揺さぶられて頭を打つよりはマシだ。
「はい、空気マスクの試験。空気が来ていることを確認」
そう言われ棺の中から引き出された酸素マスクを受け取る、鼻と口に押し当て息を吸ってみる。シュッ、という音と共に息ができた。ソレを見た加藤中尉がハーネスに小さな黒いボンベを括り付ける。
「はいオッケー。フライングコフィンが投下された後、3分間はこの酸素タンクから酸素が供給される。その三分の間に魔力による防護幕張ってね。そうしないとあっという間に気絶するよ」
「気をつけます」
「そのままで、次、機内インカム試験。右手下ろしたところのハンドルの上にプレストークスイッチがあるから押して話してみて」
「はい、えっと。カイト・ツー、ラジオチェック、わんつーすりーふぉーふぁいぶ、ふぁいぶふぉーすりーつーわん」
《ラジオチェック、シーヴァ・フォー、リーディングファイブ、クリア&ラウド》
コックピットにいるはずの飛行士から答えが返ってきた事を確認して右手でサムズアップ。
「よし。全体無線は魔導無線でやってもらうけど、これでも聞くだけならできるから、魔力温存したいなら、魔導無線を待機モードにしといてもいいよ」
「わかりました。ありがとうございます」
「ん、じゃ。思う存分暴れておいで」
「はい」
そう言われ、送り出される。胸にWA2000があることを確認してそれをしっかりと抱く。ここから先は、本当に戦場だ。棺の中は豆電球に照らされて簡単な計器が見えた。電圧計と高度計、あと速度計だ。
「あ、そうだひとみん」
棺が閉まる前に加藤中尉が笑って声を掛けた。
「スペル間違ってたよ。あれじゃ
「えぇっ!?」
ひとみが「なんで言ってくれなかったんですか」とか「もっとはやく教えてくださいよ」とか言う前に完全にハッチが閉じられた。豆電球と両脇にある横の小さな丸窓――ひとみのてのひらよりも小さい――しかあかりがなくなる。そんなときに機内用の通信が繋がった。
《ははは、愛されてますな、ヨネカワ少尉殿》
「愛されているのか、からかわれているのか……」
《それは愛されているのですよ。よい仲間を持たれた。大切になさい。銃も生活もお金で手に入るが、愛してくれる人と命はお金があっても手に入らないのです》
「はい……!」
優しい声にそう返せば、笑った声が響く。
《こんなに和やかな出撃用意は初めてですな。レディのエスコートがこんなに楽しいものだとは思いませんでしたよ》
その声と同時に機体はゆっくりとタキシングを開始。仰向けに寝たまま運ばれるのはどこか変な気分だ。小窓からは加藤中尉や整備員が敬礼をしているのが見える。見えないだろうが、答礼。豆電球に照らされた棺の中にはコピー用紙に出力された作戦要綱や空域図が張ってあることに気がついた。そこに見覚えのある字が見える。
「これって……」
作戦報告書のサインでよく見た几帳面な字、間違いなく石川大佐の字だ。作戦要綱の余白に小さくメモが書いてあった。
てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた
時々見返す、あのノートの最後のページにあったものと同じ言葉。それが几帳面にボールペンで書いてあった。
それを見て、笑う。
あぁ、そうだった。わたしには、たくさんの待ってる人がいるんだ。前にも、後にも、きっと。
《離陸します。ご注意を》
「はい。用意良し、です」
必ず、帰る。いってきますと言ってきたのだ。ただいまと言わねば。
現地時間10時34分、203空を積載したインディア帝国海軍機6機がチャトラパティ・シヴァージー国際空港を離陸。一路パンジャーブ地方、アムリトサル方面へと舵を切った。