ゴールデンカイトウィッチーズ   作:帝都造営

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2-6-1"Maneuver"

「な、なんだあれは……」

 

 荒い息を吐きながら男が加賀の廊下の壁にもたれかかる。肺臓が新鮮な酸素を求めているせいで、いくら空気を送っても落ち着いてくれない。

 

 こっそりと角から廊下の様子を窺う。誰もいない。どうやらうまく撒いたようだ。

 

「こうしちゃいられない。はやくこのことを艦橋に……」

 

 少し呼吸を落ち着ける時間ができたおかげで冷静な思考を取り戻すことに成功した。近くに設置されている通信機に駆け寄ると、艦橋に向けて発信する。

 

《こちら艦橋。どうした?》

 

「た、大変です。加賀の中で……」

 

 続きを言おうとした瞬間、真後ろで足音がした。早く伝えなければ。そう思っているのに凍りついたようにこの体は動いてくれない。

 

「みつけまーしたっ」

 

「ひ……う、うわああああああああ!!」

 

《おい! 何があった? 応答しろ! おい!》

 

 どさりと重いものが倒れる音。そして通信が切られた。男を打ち倒した人物はきょとんと首を傾けてから廊下の向こう側へ歩いていく。

 

 『加賀の衝撃』。後に加賀の乗員たちによって語り継がれていく伝説の事件はこうして幕を開けたのである。

 

 

 

 

 

 軍艦というのは戦闘をする場所である以前に数百人を越える人員が生活する空間である。したがってその中には売店(しゅほ)があり、床屋があり、郵便局もある。当然仕事場であるオフィスもあるわけで。

 

「歓迎レセプションの後で済まないな。やっと君たち用のPCが使えるようになったのでな」

 

 石川大佐がそう言って連れてきたのはブリーフィングルームのすぐそばにある隊員用のスペースだ。いくつもの事務机が並ぶ姿は普通の陸上にあるオフィスルームを思わせる。……もっとも、船の動揺に備えてすべての引き出しがロック付きのものになっていたり、椅子のキャスターが外されていたりと細かいところは海上仕上げだ。 

 

「ここがこの艦における我々の仕事場になる。デスクの数も足りている状況だ。この規模である間は個人のデスクとして割り当ててかまわない」

 

 石川大佐がそう言いながら書類整理用のパソコンの山をデスクに置いていく。ひとみやのぞみ、夢華にコ―ニャと旧来の203空の面々にとっては見慣れた部屋だが、新入りの面々には違和感があるらしい。ティティがきょろきょろと周りを見回して口を開く。

 

「さすがにタタミマットにはならないんですね……」

 

「扶桑をなんだと思っているんだゴールドスミス少尉」

 

 石川大佐はそう言ってため息。レクシーが一瞬ポカンとしてから続ける。

 

「扶桑といえばワシツでサドーでチャンバラじゃないのかしら?」

 

「何を言っているんだ君は。茶室に刀を持ち込むな……畳を入れる予算で業務効率が向上するなら導入を検討するがな」

 

「興味があったんですけど、残念です」

 

 レクシーがそういって少し残念そうに笑う。それを見たひとみが横ののぞみをちらりと見た。

 

「やっぱり扶桑のイメージって畳なんですね……」

 

「まぁわかりやすく『ワーォ、ジャパニーズ・カルチャー』だからねぇ」

 

「そんな感じなんですねぇ……畳、好きですけどなくてもなんとかなっちゃいますし」

 

「扶桑人がリベリアンの事を四六時中ハンバーガーとポテトフライとコーラを喰ってると思ってるようなモノよ」

 

「なによ、毎食食べてるけど文句ある?」

 

「……リベリアンはこーゆーのがいるから話がしづらい」

 

 会話に割り込んできたレクシーに頭を抱えたのぞみ。

 

「なにおぅ! 文句あるかイエローモンキー」

 

 もちろんレクシーが即座に反応した。リベリオン人は祖国と人民をけなす存在は許さないのだ。それを聞いたのぞみは楽しげに口角を吊り上げながら向き直る。

 

「おう文句しかないから表でろヤンキー」

 

「け、ケンカしないでくださーい!」

 

 ひとみが二人の間に入って止めるが周囲はどこか冷めた反応だ。その間に夢華がちらりと石川大佐を見た。

 

「席順の要点はどうなってやがります?」

 

「基本は自由だ。ポクルィシュキン中尉以外は皆少尉なわけだからな。俺が向こうのデスクに座ることになるから、そこに一番近い席に連絡役をおいてくれればそれでいい」

 

 それを聞いておずおずと手を上げる。ティティ。

 

「連絡役というと編隊長、ですか?」

 

「通例ならな」

 

 そう答える石川大佐。言われてみれば、確かに前まではこの席にのぞみが座っていた。

 

「ならあたしは関係ないでやがりますね」

 

 そんな会話を器用にもケンカしながら聞き分けたのぞみがそそくさと連絡役の席に腰掛ける。

 

「じゃあここが私の席ってことで」

 

「なんでそうなる」

 

「ヤンキー、文句ある?」

 

「なんであんたが編隊長なのよ」

 

 どっかりと座り込み、事務用の椅子にふんぞり返って大村のぞみ少尉は笑う。ご丁寧に御御足を大仰に組んで笑って見せた。

 

「203の一番機は私、大村のぞみだ。これまでもそうだったしこれからもそう、古事記にもそう書いてある」

 

「乞食がなんだか知らないけど、階級順ならポクルィシュキン中尉じゃないの?」

 

 レクシーがもっともな事を突っ込むと当のコ―ニャは首を横に振った。

 

「私は戦闘隊長にはならない。AWACS役で、今度からコールサインも変わる」

 

「え? コ―ニャちゃんカイトフォーじゃなくなるんですか?」

 

 驚いた声を上げたのはひとみだ。それになぜか自慢げな顔で親指を立ててみせるコ―ニャ。

 

ストリックスワン(S T R I X 1)。我、夜の猛禽、梟の名を冠する賢者となりて、この宙を俯瞰し命を刈り取る狩人とならん」

 

「まーた始まった。†夜の覇者†ことパリコレクション中尉の大演説」

 

 どこかじとっとした目を送るのぞみには我関せずでコ―ニャは続ける。

 

「その叡智を以てこの夜を飛び、無音の白刃を忍ばせる尖兵たらんと欲する我は、今名実ともにその術を得たことをここに認め――――」

 

「あーはいはい分かった分かった。すごいですねー。で、指揮権にはどう関わりやがりますか」

 

 夢華がめんどくさそうに彼女の演説をぶった切る。珍しくむすっとした表情を浮かべるコ―ニャは渋々ながらもそれに答える。

 

「……私は203空隷下の第2032戦術偵察飛行隊の所属と言うことになる。203空のメンバーであることには変わらないけど、大佐たちに的確な情報を提供し、支援する役割に正式につくことになった」

 

「ならしばらく一緒というのは変わりないでやがりますね」

 

「うん」

 

 コ―ニャが頷いたことで一応の収束。それを聞いたのぞみがふんぞり返ったまま話を進める。

 

「分かったかな諸君。203の戦闘機部隊は現状最先任であるこの大村のぞみ少尉がやることが実力的にみても順当ということだ」

 

「なんでそうなるのよ」

 

「あれれー? なにか文句あるかなぁ。演習で大敗を喫したアレクシア・ブラシウ少尉殿」

 

「あんな演習だけで強い弱い決まってたまるかっ! それに飛行経験ならこっちの方が上だし、第一、演習でのMVPは高少尉でしょう」

 

「あたしでやがりますか?」

 

 編隊長なんてめんどくさそうなこと……と夢華が言ったタイミング、レクシーが彼女の肩をつかんで耳打ちした。

 

「編隊長には管理職手当でお賃金アップくるし、士官食堂でも好待遇よ? そんなものをあのクソ扶桑人に取られ続けるのは癪じゃない?」

 

「ーーーーっ!」

 

 一瞬にして目を輝かせる夢華。

 

「……し、仕方やがりませんね。そーだーそーだー。我こそ編隊長にふさわしいでやがりますー!」

 

「ちょろい」

 

 夢華が棒読みのシュプレヒコールを挙げ始めたことに、彼氏(ルーカス)の前ではしないであろう黒い笑みを浮かべるレクシー。それを見たのぞみはあきれ顔だ。

 

「安易にリベリアン式物量交渉術に踊らされてるんじゃないわよ華僑人。お前はブリタニア寄りではないのか。同盟国扶桑に組みしたまえっ!」

 

 もうのぞみを椅子から引きずり下ろさんとする勢いで迫り来る夢華の両手をがっしりつかみ押し合いへし合いが始まる。

 

「もう和食は食い飽きでやがります。洋食をよこすのです! ハンバーグ! ビフテキ! オムライス! ナポリタン!」

 

「ハンバーガー! ハンバーガー! ハンバーガー!」

 

「ナポリタンは扶桑発祥だゆめか! それにリベリアン、謎のハンバーガーごり押しはなんだっ!」

 

「なんだリベリアンの国民食に文句をつける気かっ!?」

 

「なんでもいいでやがります! もう健康的な食事はお腹いっぱいに決まってるです! 不健康でおいしい食事をよこせくださいっ! ギヴミービーフ! ギヴミーオイル!」

 

「オリーブオイル漬けにでもなってろっ!」

 

 既に趣旨がズレ始めているが当の夢華は関係ない。瞳には「$」マークが浮かんでいる。

 

「その金の椅子をいますぐよこせ大村(ダーツォン)!」

 

「金の亡者がガタガタ言ってんじゃねぇえええええええっ!」

 

 のぞみの叫びに追い打ちをかけるようにレクシーが声を上げる。

 

一本バター(バターバー)が着いていていい席じゃないんだ、さあその席を渡せっ!」

 

「だれがバターだ。こちとら立派に少尉だ」

 

 胸を張ってみせるのぞみ。

 

「……ばたーばー?」

 

 全く聞き覚えのない言葉が飛び出して周囲を見回すひとみ。よく分からない言葉が出てきた時は誰かに聞くしかない。

 のぞみ先輩は渦中のヒトなので教えてくれないだろうが、同じくブリタニア語が得意なティティなら教えてくれるはずだ。

 

「えっと、ティティちゃん、バターバーって……あれ?」

 

 

「あれ? ティティちゃんは?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「結局、あんまり話せなかったな……」

 

 食堂の隅に寄せた椅子に座り込んでいたティティがぽつりと寂しげにつぶやく。手に持ったオレンジジュースのコップをくいっと傾けると、きつい酸味が喉に引っかかって残る。

 

 本当ならもっと新しい仲間たちと話したかった。輪の中に入っていろんなことをおしゃべりして、笑い合いたかった。けれどやっぱりうまくいかないのだ。どうしても物怖じしてしまって、結局はこんなところまで逃げてきてしまった。

 

 だからティティはオフィスから離れ、ひとりぼっちで食堂に来ているのだった。

 

「だめだな、私って……」

 

 レクシーは険悪そうでありながらすでに馴染み始めている。その証拠に気がついたら周りには誰かがいた。本人に言うと全力で否定しそうなものだけれど。

 

 喚くようにレクシーが否定する姿をいとも簡単に思い浮かべることができて、思わずクスッと笑ってしまう。

 

 視線をグラスに落とすとオレンジ色の液体に不安げな自分の顔が映る。なんとなく嫌になって、オレンジジュースを一気に飲み干した。

 

「なーんか嫌なことあったの?」

 

「ひゃうっ!? キ、キャプテンキリドー……ど、どうかしましたか?」

 

「硬いなあ。明日菜でいいんだよ?」

 

「で、でも……」

 

 さすがに階級も年齢も上の人に対してそんなに気さくな話し方をするのはティティにとってハードルが高すぎた。もじもじとティティがしていると、霧堂艦長がどこからともなくコップを2つ取り出した。そこに薄い黄色の液体をほんの少量、注ぎ込むと片方をティティに差し出す。

 

「ま、これから加賀に乗る仲間ってことでよろしくねん。乾杯」

 

「は、はい。えっと、乾杯」

 

 コップを小さく打ち付けあう。不思議な香りのするその液体におそるおそる口をつけるとほのかな甘みが舌の上を転がる。嫌いな味じゃない。底に浅く残る液体もコップを傾けて飲み干した。

 

「いい飲みっぷりだねー。せっかくのパーティーにお酒がないもんだから厨房からみりんを拝借してきたのよ。ま、アルコール入ってるけどこれくらいなら……」

 

「ヒック」

 

 霧堂艦長の言葉が途中で小さなしゃっくりに遮られる。なんともかわいらしいしゃっくりだが、問題はそれではない。

 

 念のため霧堂艦長が食堂を確認するが、ここにはティティと霧堂艦長の2人だけしかいない。

 

 もちろん霧堂艦長はしゃっくりをしていない。ということは、だ。

 

「キャープテーンさーん。あはははっ」

 

「あー……どうしようか、これ」

 

 隣でとろん、とした目のティティがふらふらと左右に揺れていた。

 

 みりんにはアルコールが含まれているのは確かだ。だが日本酒などと比べればそこまで度数は高くない。加えて言うのなら、注いだ量もほんの少し。これで酔うことなどまずありえない。

 

 そのはずなのに。

 

「うふふふー」

 

「あちゃあ……部屋に運ばなくちゃいけないね、これじゃ」

 

 目を細めながら霧堂艦長がティティに寄る。口元にたくらむような笑みが浮かび、ティティの全身を嬲るように見つめた。

 

「……」

 

「…………」

 

「………………」

 

「……………………ふふふ。諸君、不可抗力って知ってるかな?」

 

 2人以外は誰もいない食堂で霧堂が誰に言っているのかわからない言い訳がましい言葉を紡ぎながらティティに近づく。

 

「いやー、この大きいの触ってみたかったんだよねえ」

 

 わきわきと動く手がティティの胸部へ向かっていく。不可抗力もへったくれもないが、あえて言おう。

 

 私は揉みたい、と。

 

 その柔らかな2つの山を揉みしだかんと霧堂艦長の手が徐々に間を詰めていく。そしてついにその間がゼロになった。

 

「おお……」

 

 柔らかい。だが同時に手を押し返してくる弾力と、優しい包容力がある。

 

 控えめに言っても上物だ。それは今まで霧堂艦長が触ってきた数々のウィッチたちが持つそれとは比べ物にならない。

 

 そう、素晴らしい(エキセントリック)な胸だった。

 

「やーん、えっちさんですぅー」

 

 ふらふらのティティが謎の感慨に浸る霧堂艦長に向かって振り向く。ぴょこっと獣耳と尻尾がが飛び出して。

 

 目にも止まらぬ速さの拳が振り抜かれた。

 

「げぼぶぅぅぅぅぅ!」

 

 ティティの拳は正確に霧堂艦長の腹部を捉えると。そのまま5m以上も吹っ飛ばした。ばたり、と壁に激突してようやく勢いが止まってから霧堂艦長が地べたに倒れこむ。

 

「ふふ……我が生涯に一片の悔いなしッ…………」

 

 それだけ言い残すとサムズアップをして霧堂艦長は意識を手放した。殴って吹き飛ばした本人のティティは不思議そうに小首を傾げている。

 

「ふぅ……あついよぉ」

 

 ティティがプチプチと胸元のボタンを外すと幾分か締まっていた胸が楽になる。風通しがよくなり、少しは涼しい。

 

「ねぇ、キャプテンキリドー。ねちゃったんですかぁ?」

 

 近くに来てからティティが揺さぶってみても霧堂艦長が起きる様子はない。反応を返してくれたのは制服の圧政から解放された揺れるティティの胸くらいだ。

 

「むぅー、ねむっちゃうなんてひどいです……」

 

 不満げにティティが頬をぷぅ、と膨らませる。起こすことを諦めたティティは霧堂艦長のそばを離れると、食堂を歩き回り始めた。

 

 しばらくうろうろしていると、ばあっと花が咲くような笑顔でティティが両手をパン、と合わせた。

 

「そうです! ほかのひとにあそんでもらいましょう!」

 

 せっかくの歓迎会もあまり参加できなかったから、ここでいろんな人と交流を深めよう。そう考えての行動だ。

 

「だれかわたしとあそんでくださーいっ」

 

 軽やかにスキップをしながらティティが食堂を出ていく。まずはどこへ行こうか。そんな思いに胸を膨らませながら満面の笑みでティティが加賀を進んでいった。

 

 

 

 

 

 催し物の最中といえど「加賀」は航海のまっただ中。艦橋には当然要員が配置されている。マラッカ海峡は地図で見れば確かに狭く、シンガポール付近の最峡部では二キロほどしかないが……そこを抜けてしまえば浅いだけの海である。ここから陸地が見えないくらいには広いのだ。

 

 

 

「……」

 

「どうした?」

 

 怪訝な表情を浮かべながら受話器を戻す曹士。声をかけるのは当直士官だ。

 

「いや、通話が途切れました」

 

「途切れた? もう少し正確に報告してくれ」

 

「は。どこの科を名乗らず「加賀の中で」とだけ言った直後に悲鳴、その後不通です」

 

 その言葉を聞いた当直士官は顔を歪める。言うまでもないが通信において自身の所属と名前を述べるのは常識である。それをわざわざ破り、しかもダメージコントロールに用いられる艦内電話を使ってきたのだからただ事ではない。

 

「誰か確認しに行かせろ! 艦長呼んでこい!」

 

「はっ!」

 

 見張り員の一人が駆け出していく。当直士官は別の受話器を取った。

 

「艦橋CIC、艦内にて何らかの事態が発生した模様。詳細不明」

 

 何もなければいいんだが。当直士官の呟きは誰にも聞かれることなく消える。

 

 

 

 

 

 

 そのころひとみは加賀に謎の事態が起こりつつあることなど露ほどもしらず、廊下をのんびりと歩いていた。

 

 加賀に乗船したばかりの頃は夜に廊下を歩くことが怖くて堪らなかったが、何ヶ月も乗っていれば自然と慣れてくる。もう道もほとんど頭に入っていた。

 

 それでも用事がなければ出歩かないで大人しく部屋で寝ている。けれど今夜に限ってひとみの喉は渇きを訴えていた。

 

「お水、お水」

 

 ジュースばかり歓迎会で飲んでいたので口の中が甘ったるくなってしまっていた。寝てしまってもよかったが、糖分で口の中が粘ついたままなのは歯の健康的にも気分的にもあまりよろしくない。

 

「んっ……」

 

 食堂の扉を押し開けると第一目標の水を求めて厨房へ。食堂は薄暗いが、見えないほどではないため明かりはつけない。ガラスコップに大型冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを注ぐ。

 

「んくっ……」

 

 冷たい水で口内を満たす。夜とはいえ赤道に近い南国。どうしても蒸し暑い。だからこそ喉から食道へと流れ落ちていく冷水の感覚が心地よかった。

 

「ふぅ……」

 

 まだ日が落ちたばかりとはいえ暑いものは暑い。いくらエアコンが入っていても喉は渇く。脱水症状で倒れるウィッチなど洒落にもならないため、こまめな水分補給は重要だった。

 

 まだ寝るには早いため、もう少し部屋でのんびりしてから寝よう。そろそろブリタニア語もちゃんと話せるようにならなければコミュニケーションが取れないから、寝るまで勉強してみるのもありかもしれない。

 

 のぞみに仕込まれた大村式ブリタニア語講座の内容を思い返して復習する。うんうん唸りながら食堂から出て行こうとすると足元にぐに、とした感覚が走る。

 

「ふえ……?」

 

 おそるおそるもう一度、踏んでみると、ぐにぐにと謎の弾力性を足に返してきた。冷たくもなく、かといって暑いわけでもない。気味の悪い生暖かさ。怖くなって足を引っ込めようとした瞬間、急にがしっとひとみの足を掴まれる。

 

「ぴぃやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」

 

 何かわからないものに足を掴まれたひとみが叫び声を上げる。力強いというわけではないが、パニックに陥ったひとみは振りほどくに振りほどけない。

 

「いや、いやぁぁ! 食べないでくださいぃぃぃぃぃ!」

 

「どうした米川!」

 

 食堂のドアを荒々しく開けてのぞみが飛び込んでくる。パチン、と電気を入れると食堂に光が満ちた。

 

「せ、先輩……」

 

 いつもは自分勝手なテンポで周囲を振り回すのぞみだが今のひとみには女神に見えた。今すぐにこの状況から解放してほしい以外にひとみは考えられない。

 

「……米川、下を見てみなよ」

 

「へっ……ああっ、霧堂艦長!?」

 

 さんざん逃れようとひとみが抵抗したせいで横たわる霧堂艦長はボコボコに蹴られていた。どこか満足げな表情で気絶しているのは気のせいか。

 

「あー、どうしよう……」

 

 疑いようのない上官への暴行。のぞみも困ったように頭をかく。

 

「あ、あの……」

 

「ま、しょうがない。それに寝てるみたいだし。逃げるよ、米川」

 

「ええ!? で、でも霧堂艦長は……」

 

「いいの。寝てるなら気づいてないだろうし。あんたはここに来なかった。OK?」

 

 のぞみがひとみの手を引いて食堂から連れ出す。なぜ霧堂艦長が食堂で寝ているのかどれだけ考えても思い当たる節がない。だが触らぬ神に祟りなしとも言う。そしてたいていの場合、加賀にトラブルを招き寄せるのは霧堂艦長なのだ。

 

「ま、戻るよ。おおかた酒でも飲んだんでしょ」

 

「風邪ひいちゃいますよ……」

 

「南国だから寒くて風邪をひくなんてことはないでしょ」

 

 確かに気温は夜でも高いため、毛布のようなものをかけなくても風邪はひかないだろう。さすがにそのまま置いていくのは躊躇われたが、酔っているのなら仕方ないのかもしれない。

 

「ま、いろいろ歓迎会は盛り上がってたしさ。そのノリで飲んじゃったんでしょ。今日くらいはってやつよ」

 

「はあ……あ、そういえば先輩」

 

「ん? なに、米川?」

 

「さっきからティティちゃんを見ないんですけど……どこへ行ったか見ませんでしたか?」

 

「あれ? そうだっけ? あー、言われてみればいなかったような……お腹でも壊したかな?」

 

「艦長みたいにどこかで寝てることはないと思うんですけど……」

 

「それはさすがに……てか米川、あんた何気にひどいね」

 

 じとっとした目でのぞみがひとみを見つめる。気まずくなったひとみは目を逸らした。

 

 それにしてもいくら南国とはいえ夜は気温も落ちる。ましてここは海上。水は地面よりも熱しやすく冷えやすいため、夜の冷え込みはけっこう厳しいものになったりする。

 

「先輩、やっぱり冷えちゃうといけないしもどり……むぐっ」

 

 戻りませんか、と言おうとしたところでのぞみが急に立ち止まったせいで背中に激突した。ひとみが鼻を擦りながらのぞみの背中から離れる。

 

「米川、何か聞こえない?」

 

 のぞみは振り返らずにそう言う。

 

「えっ……そうですか?」

 

「うん……ほら、また。叫び声みたいな声が遠くから」

 

「お、脅かそうとしてもだめですよ!」

 

「そうじゃなくて……ほら」

 

 言われてひとみも耳を傾けてみる。確かに遠くの方で何か聞こえると言われればそんな気がしなくもない。

 

「ま、まさかお化け……」

 

「あのねえ、米川」

 

 呆れたようにのぞみは振り返る。

 

「加賀に亡霊がいるとか初めのときに言ったけどお化けなんて非科学的なものがこの電子の時代にいるわけないでしょ」

 

 そう小声でひとみを嗜める。だが事実としてのぞみの耳は声を捉えていたし、ひとみですら耳をそばだてると何か聞こえているような気がしてきていた。

 

「……」

 

 叫び声とうめき声と悲鳴が混ざったような音。それが薄暗い加賀の廊下にひっそりと響いているのだ。

 

「か、風の音ですよね、きっと!」

 

「風の音ならもう少し法則性がありそうなものでしょ。これは不定期すぎる」

 

 なんとかお化け説を自分の中で否定したいひとみが必死になって考え出した予想もすげなくのぞみに却下される。

 

「行くよ、米川」

 

「ええっ!? へ、部屋に戻りましょうよ!」

 

「もし加賀に何かあったら、あんたどうするつもり?」

 

「わ、わかりましたよぅ……」

 

 仕方なくひとみがのぞみのあとに続く。のぞみは油断なく気を張りつつ、前方を探るようにじりじりと進む。

 

 薄暗い廊下に生暖かい南国の空気が流れ込み、ぞわりとひとみの背筋が粟立つ。だんだんと近づいているのか、音は聞こえやすくなっていく。

 

 明らかに隙間風の音ではない。これは人の声だ。

 

「先輩……」

 

「静かにして」

 

「は、はい……」

 

 きつい言葉尻でのぞみに制止され、ひとみが口を閉じる。足音を立てないようにひっそりと加賀の廊下を進む。正直にいってひとみは怖かった。慣れたとは言ったが、現実に声が聞こえていると足が竦んでしまう。現時点で歩けているのはのぞみが前を歩いてくれているからだ。

 

「米川、気づいた?」

 

「な、なにがですか?」

 

「もっと気を配ろうか米川。声、聞こえなくなってない?」

 

「あっ、そういえば!」

 

 耳を慎重に傾けてみるが、もうさきほどまで聞こえていた声らしきものは聞こえなくなっている。

 

「じゃあ引き返しませんか?」

 

「なにを寝ぼけたこと言ってんの? 確認だけはするよ」

 

「引き返しましょうよぉ……」

 

 ずるずるともうほとんどのぞみに引きずられていくような形でひとみが歩く。水だけ飲んだらすぐに部屋に戻ってのんびりとすごすつもりだったのに、どうしてこんなふうに夜の加賀を引きずり回されているのだろう。

 

 なんだか面倒なことになってきたと思いながらひとみが角を曲がる。するとまたしてものぞみの背中にぶつかってしまった。

 

「ふぎゅっ! せ、先輩?」

 

「米川……これヤバいやつかも」

 

「えっ……あっ!」

 

 のぞみのいつになく真剣な声を聞きながらひとみが肩越しに覗く。飛び込んできた光景にひとみはあっと息を詰まらせた。

 

 そこには倒れ伏す加賀の乗員がいた。

 

「だ、だいじょうぶですか!」

 

 ひとみが倒れている乗員に駆け寄る。気絶しているだけで幸いにも命に別状はないようだ。だがもうひとつ問題がある。明らかに暴行を加えられたらしき痕跡があり、証拠として乗員は殴打されたような痕があるのだ。

 

「加賀でなにが起きてるんでしょうか……?」

 

「わからない。でもあんまりいい状況じゃなさそうだね」

 

 眉間にしわを寄せたのぞみが周囲を見渡す。艦橋への連絡用に設置された通信機を壁に見つけるとのぞみがそれに近づく。なにが起きているのかわからないが、とにかく艦橋に報告する必要があるからだ。

 

 いつの時代も報告(ホウ)連絡(レン)相談(ソウ)は必須だ。特に自分だけで対処できないと思われるケースと遭遇した場合は。

 

「艦橋へ。こちら大村のぞみ少尉。応答せよ」

 

 のぞみが通信機に呼びかける。連絡をのぞみがしてくれているのなら、とひとみは介抱に力を注ぐ。気絶したままの乗員をなんどか呼びかけてみるが意識が戻る様子はない。

 

「米川、艦橋に行くよ」

 

「じゃあ私がこの人を運んで……」

 

「いや、いい。私が担いだ方が早いから」

 

 のぞみの頭に犬の耳がぴょこっと生えると、ぐったりと気絶したままの乗員を軽々と持ち上げる。持ち前の固有魔法である怪力を使ったのだ。

 

「何よ、その目は?」

 

「えっと、その……」

 

 バツが悪そうにひとみがのぞみに合わせていた目を逸らす。ついさきほどまでのぞみに向けてものすごく胡乱な視線を送っていたのを見られたので、気まずいことこの上なかった。

 

「大方、私があんたに押し付けないで自分で運び始めたから不審に思ってるとかそんなんでしょ」

 

「う……」

 

「いつもなら大村式お仕置き術でとっちめるとこだけど今は勘弁しといてあげるわ」

 

「お、お仕置きってそんな……」

 

「しないって言ってるでしょ。それに……」

 

 乗員を担いだのぞみがひとみに背を向ける。その時、一瞬ではあったが確かにひとみはかつてないほど険しい表情になったのぞみをしかと捉えていた。

 

「先輩……?」

 

「間違いない。これはサボタージュだ」

 

「ポタージュ?」

 

破壊活動(サボタージュ)。この(かん)をぶっ壊そうとしてる奴がいる」

 

 いまだかつてないほど声に緊張感を滲ませたのぞみに唾を飲み込んだ。ここまでのぞみに言わせたということは本当に並大抵の事態ではないのだろう。

 

 

 いやに静まり返った艦内。あるのかも分からぬ鈍い脅威にひとみは身構えた。

 


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