ゴールデンカイトウィッチーズ   作:帝都造営

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第十二話「レーダーコンタクト~ひとり~」後編

 どこにいっても、そこは肥溜めだった。

 

 

 

 そこにいたから気が付かなかったけれど、遺伝子上の母親を追いかけていって、見つからずに戻ってきた時に、そこがどれだけ肥溜めに近しいかを知った。

 

 ネオンの輝きも血の付いた毛布も、お情け入りの冷たい粥も歯形がついたチキンの残骸も、全てが等価であったはずなのに、それからはどれも黄ばんで傷んだ世界にしか見えなかった。ここで女が生きていくなら身体を売る以外にほとんど道がないと知ってしまってから、世界は黄ばみを強くした。

 

 世の中ではそれを慰み者と言うらしいと教えてもらったのはニヤニヤ顔の坊主からだ。尼僧になれば買ってくれると言ったが、とりあえずは股間を蹴り上げておいたのも記憶に残っている。痛快だ。

 

 どうせ同類、蹴落とさねば喰われる。

 

 肥溜めには肥溜めにふさわしいものしか流れてこない。食事も服もゴミもニンゲンも。そこしか知らなければそれで満足できたのだろう。それでも半歩外に出ただけでもうダメだった。

 

 香港。それは光輝く街。スーツに軍服、ドレスに宝石が闊歩する街であり、新聞紙に段ボール、使い捨てのゴムの残骸を肥溜めに恵んでくれる街だ。大量の恵みは肥溜めに居場所を与えた。

 

 居場所の外、あちら側にはこの半歩すら下ろす場所がないのだとしても、この肥溜めから抜け出したくてたまらなかった。『あちら側』に行きたかった。

 

 

 いつだったろう。どこかのおっさんがこんなことを言っていた。「威張り腐った『ぶるじょあ』が我々を食い物にするからこんなところでこんな生活をせねばならないのだ」。そうだというならば、その『ぶるじょあ』の生活はどれだけ楽しいことに満ちているのだろう。

 だとしても、私は肥溜めから出られない。おっさんが言うには、ガッコウに行って勉強をした人しか行けないらしい。『ぶるじょあ』のものは肥溜めにはない。肥溜めにないものを奪おうとして痛いことになった人はたくさん見てきた。そんなことは勘弁だった。吐いた後みたいな酸っぱい炒飯も、蠅に刺される鈍い痛みももうこりごりだった。

 

 でも肥溜めから出ることはできなかった。自分には夢のまた夢と諦めていた。

 

 

 

 

 

 ――――――魔法力が開花する、その日まで。

 

 

 

 

 

 何が理由だったのだろう。何が切っ掛けだったのだろう。そんなことは知ったことではない。覚えていない。だがそこからは早かった。大切なのはそこだ。

 

 勝手に周りが祀り上げてくれた。初めて残飯やごみではなく、にんまりと笑う『ぶるしょあ』が描かれた紙を何枚ももらった。『しほん』があれば、何でもできた。それは逆もまた然りで、この『しほん』というやつを手に入れるためにニンゲンは何でもする。

 

 そう、何でもする。

 

 まず、それまで身を寄せ合って来た暖房器具(なかまたち)が裏切った。返り討ちにしてやれば、私を「うらぎりもの」などと罵った。よく言うものだ。先に『しほん』を奪おうとしたのはそっちじゃないか。

 

 次に、『しほん』をくれたはずの大男が裏切った。異国人と取引して、その対価が自分だったらしい。いくら『しほん』をくれるとはいえ、あの大男に従う意味はなかった。あいつも肥溜めのニンゲンだったし、僅か数千メートル先に輝く摩天楼は、まだ「あちら側」だった。

 

 異国人とやらはそこから来たに違いない。どうせ大男は『しほん』をもうくれない。だからさっさと鞍替えした。また裏切り者と言われたが知ったことか。勝手に裏切って、勝手に泣かれても困るのだ。この時は異国人が守ってくれた、黒い『テッポウ』とやらは本当に便利らしい。じっと見つめてたら、異国人がヒッドイ発音で『謝謝(シェイシェイ)』と言った。感謝される覚えもないが、してくれるならもらっておくべきだ。また『しほん』をもらった。

 

 背中や腕に仰々しい絵を描く異国人たちは、「あちら側」の人間だった。肌に描いているその絵――リュウというらしい――が大きい人ほど『ぶるじょあ』だったらしい。ひどい発音のおじさんが結構上の方にいるのはすぐわかった。周りの人間が肥溜めの人間が『ぶるじょあ』を見る時と同じ目をしている。その人がどうやら『しほん』で自分を買った。飼い主は俺だとか言っていた。

 

 魔法力万歳。飼い主の袖をちょいちょいと引いて『テッポウ』で死なないようにするだけで、こんなにも『しほん』が手に入る。肥溜めの返り討ちのほうがよっぽど怖かった。相手が撃つなとかやめろとか勝手に言ってくれるから本当に楽だ。

 

 『しほん』は貸せば何倍にもなって帰って来るし、粉とやらはそうとうにもうかる商売らしい。連中は自分が異国語を理解できていなかったと思ってるらしいが、そんなことあるものか。必死に連中の言葉を覚え、一字一句理解しようと努めた。

 

 

 その結果分かったことがある。ここは「あちら側」ではない。その境界線なのだと。

 

 

 まだいけないのか。どうやら肥溜めと「あちら側」には、当たりもしないライフル提げた兵隊やフェンス、それ以上に険しく、そして見えない壁があるらしい。

 なんで自分は「あちら側」に行けないのか? 足りないものがあるからだ。『しほん』だ。まだ『しほん』が足りない。だったら『しほん』を手にすればいい。『ぶるじょあ』が『しほん』を使うなら、『しほん』を持っているニンゲンが『ぶるじょあ』だ。

 

 いわれるままに動いてやった。魔法のことを知らない馬鹿な賭場を欺いてもやった。恨んでくる奴はぜんぶ返り討ちにした。いつの間にか軍隊とやらに連れていかれてパイロットをやらされているが、肥溜めから抜け出せるなら何でもよかった。あの肥溜めに比べれば命の危険がなんだというのか。

 

 それ以外は正直どうでもよかった。あそこに戻らなくていいなら、「あちら側」にいられるのなら、正直どこへでも行ってやる。

 

 そのためなら嫌でも納得できる。銃を撃つのも前より上手になった。肥溜めを抱える香港だって、それを守ることで自分が『ぶるじょあ』になれるなら喜んで守ろう。『ぶるじょあ』になれば、あそこに戻らなくて済む。ゴミだカスだクソだと言われていた自分でも生き残って見返せるなら喜んで引金を引こう。

 

 それだけで何が悪い。それ以外を引きずって何ができる。引金が重ければ死ぬのはこちらだ。弱ければ負ける、負ければ死ぬ。それなのに、なぜ皆は理由をつけたがる。

 

 肥溜めから永遠にオサラバできるなら、それはそれで一つの勝ちだが、それよりは生きて『ぶるじょあ』になるほうが楽しいに決まってる。それだけでいいはずだ。

 

 

 

 

 

 ……うるさい、なぁ。

 

 

 

 

 

 迷うな。悩むな。疑問を持つな。いつもそれで切り抜けた。いつも未来は視えていた。

 

 

 

 

 

 それを信じてなにが悪い。あたしは間違ってない。

 

 

 

 

 

 寝返りを、一つ。ドアが開いて閉まる音。薄ぼんやりと目を開ける。コ―ニャが部屋を出ていったらしい。

 

 目を閉じる。これでいいのだ。勝手に消える様なバカに心を乱されるいわれはないはずだ。

 

「……うるさいよ」

 

 まぶたの裏に浮かんだ小さな影を、夢華は忘れたふりをした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 夢華が必死にその影を忘れようとしていたのと同じころ、件の扶桑皇国空軍准尉、米川ひとみもいろいろ苦戦していた。

 

「ストライカーはとりあえずあれでいいし、武器は確保してあるし、次は……」

 

 水の確保以外にも、やらなくてはいけないことがあったはず。ひとみのうろ覚えサバイバル辞典を頭の中で必死になってめくる。

 

「そう、火だったはず!」

 

 というわけで次のミッションは火を起こすこと。火は重要だ。だんだんと太陽が落ちてきている今は特に。

 夜になってしまうと、気温は下がっていく。そして気温が下がれば体温も下がってしまう。スペースブランケットがあるから大丈夫ではあるが、まっ暗というのはなんとなく怖い。なにせ無人島に街灯はないのだ。明かりとしての役割、それに加えて煙を出すことができれば狼煙代わりにもなるかもしれない。

 つまり火の確保は、太陽の落ちかけている現状においては急務だ。さっき調べた時、サバイバルパックの中には防水マッチがあったから、それを使えば火をつけることはできる。

 

「問題は薪だよね……えーっと、燃えるもの燃えるもの……」

 

 生木は燃えないとどこかで聞いた気がする。乾いた流木か、それとも落ちた枝とかがいいらしい。

 

「砂浜に流れ着いたのもあるけど、マッチで火をつけただけじゃ燃えないよね?」

 

 薪に火をつけるためには火種を大きくしなくてはいけなかったはず。アウトドアならば新聞紙などを使うが、無人島に新聞配達のおじさんが自転車をこいでくるなんてことは起こらない。つまり代用品を探さなければいけないのだ。

 

「燃えるもの……燃えるもの……」

 

 燃えるもので次に思いついたのが布だったがさすがに服を燃やすのは自殺行為過ぎる。紙も非常食の包み紙ぐらいしかないからとりあえず却下。どうしても思いつかなければの最終手段に取っておく。

 

「あっ!」

 

 難しい顔で考え込んでいたひとみの頭にひらめきが舞い降りる。がばっと立ち上がって早歩きでさっきの錆びたストライカーを見つけた場所へ。

 

「あれ……燃えないかな……?」

 

 そう思ってナイフを持ってシュロの木かヤシの木……ともかく、南国にありそうな木に寄ってみる。

 

「……表面にある毛みたいなものは燃える……よね?」

 

 北海道でおじいちゃんと山を歩いた時に火種にしていたものを思い出す。さすがにヤシの木はなかったが、松の葉っぱやおがくずを火種にしていたはずだ。少し触ってみる。かなり硬くて、乾いた感触。焚付にはなりそうだ。

 

「は、ハサミのほうがいいよね」

 

 ナイフで力づくでやって汚しましたなど笑えない。とりあえず救急キットの中にあった服を裂くためのハサミを取ってきて、それでシュロの木の樹皮から伸びる硬い繊維を切る。ごわごわとした固い繊維状のシュロの皮を持てるだけ持って、再びライトニングの元へ。

 

「シュロの木の繊維を集めて、その上に小枝を置く……でいいんだよね?」

 

 シュロの樹皮、そしてその上に乾いた流木。小さな山のようにうず高く積み上げると防水マッチを擦って樹皮の中へ投げ入れた。繊維が身を捩り、火種が生まれる。ちりちりと樹皮を火の粉が侵食していく。

 

「お願い……燃えてっ…………」

 

 砂浜に伏せて生まれた火種に息を吹きかける。儚げで小さかった火種がゆっくりと勢いを増していき、ついに小枝に燃え移った。

 そこまで来てしまえばあとは早い。だんだんと火は勢いを増していき、火の粉を散らしながらあたりを明るく照らし出す。

 

「やった! 燃えた!」

 

 ひとみが小さくガッツポーズ。決して大きくはない焚き火だが、自分で火を起こしたので、達成感があった。

 

「あったかい……」

 

 火に手をかざす。パチパチとはぜながら燃える焚き火はじんわりとひとみの身体を温めてくれた。その暖かさに、少しだけ安心した。

 もう既に日は落ちて真っ暗だ。黒い海が不気味に波を寄せては返す。だがひとみには焚き火がある。赤々と燃える炎はひとみの周りに光を与えてくれていた。

 

「う……ぅん…………」

 

 まぶたが重い。無人島に不時着してからずっと動き回っていたせいで、今まで気づかなかったが、かなり疲れているようだ。

 ここまでくれば別に起きている理由はない。手に持っていた流木を焚き火の中にくべて、少し火の勢いを強くするとスペースブランケットを引っ張り出して包まった。

 

 波の音がサラサラと聞こえる。ひとりなのに案外賑やかだ。

 

「……!」

 

 ひとり。

 

 そう思った途端に寒気のような震えがきた。慌ててスペースブランケットをきつく体に巻き付けた。

 

「南の島って案外寒いんだね! 知らなかった!」

 

 言い聞かせるように、努めて明るい声を出す。そして、ちょっぴり後悔。答えが返ってこないことが少しだけ怖くなる。……答えが返ってきたら返ってきたで怖いのだが。

 

 誰かが返事をしてくれるわけではない。でもすぐに返事をしてくれる人たちが迎えに来る。信じよう。きっとそのほうがいい事がある気がする。

 

 眠れるならば眠っておいた方がいい。疲れを溜めたままではすぐに倒れてしまう。ひとみはそう言い聞かせながら瞼をギュッと閉じた。目の端が冷たい気がしたが、砂がそれを吸ってくれる。

 

「おやすみなさいっ!」

 

 そう大声で言って、ブランケットごとゴロンと横になった。波の音と薪の音を聞かないように耳を塞いだ。

 

(大丈夫、きっと来てくれる!)

 

 眠りに落ちるまで、ひとみは長いことそのまま耳を塞いでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

「夢華」

 

 ドアの脇にもたれかかって、コ―ニャはそう呟いた。溜息をついていても仕方ない。やるべきことがある。……自分を責めてもどうにもならない、夢華の言う通りだ。動かねばならない。

 

「……分水嶺は、まだ先」

 

 その時、廊下に響く足音。どんどん近づいてくるが、成人の歩幅ではない。

 となればあり得るのは一人だけだった。

 

「なーに怒ってんのよ、ポストオフィス中尉」

 

「Покрышкин……のぞみは?」

 

「いや? 単に散歩というか、今回自分が飛べてなかったからね、体力があり余っちゃって」

 

 のぞみはそう言うが、その目はギラついている。……休んでおけと言われても興奮で休めないのだろう。

 

「で? そっちも華僑人に怒ってるクチなんでしょ、Прасковья(プラスコーヴィヤ)

 

「……別に」

 

 コーニャはゆっくりと歩き出す。のぞみもついてくる。

 

「冬が来るまで我慢するのがオラーシャ人ってか。米川が凍え死ぬわよ?」

 

 黙ったまま進む。士官居住区から程なく歩けば、自動販売機がある。どちらともなくそこで足を止めるが、どちらも硬貨を投入しようとはしなかった。

 

「のぞみ、夢華は203の僚機」

 

「ああ知ってるって、知ってるよ」

 

「なら――――」

「だからこそさ」

 

 のぞみはゆっくりと、深く息を吐く。

 

「アレが華僑軍人だって思ってた私がトンデモなく憎い。こんなトラブルが起きたんだ、どうせ二人は険悪なまま哨戒任務に突入したんでしょ?」

 

「……」

 

「私ね、石川大佐に言っちゃってるんだよ。あの後直掩任務の説明を受けた時、石川大佐に二人の口論のことを聞かれて『いえ、些細な問題です。米川も問題の解決を望んでますし、高少尉も問題をこじらせようとはしないでしょう』って……だから大佐は哨戒任務に米川をそのまま送り出した」

 

 強く拳を握りしめるのぞみ。歯を食いしばっているのだろう、コーニャから見るその横顔は、ひどく歪んで見えた。

 

「些細な問題なんかじゃなかった。高少尉を信じた私が馬鹿だった。あれでも軍人なんだろうって、それを信じた私が馬鹿だった」

 

「違う……今回のは、本当に事故」

 

 コーニャは目を逸らしながら言う。嘘を言うのは、コーニャの最も苦手とするところだ。

 

 ひとみと夢華が救難信号を受信する直前、ひとみの心拍数が俄かに跳ね上がったのをコーニャは知っている。その直後にひとみが回避運動(ハーフロール)をうっているのも。

 

「本当にそうなんでしょうね?」

 

 のぞみが剣呑な眼でコーニャを見据える。コーニャは表情を崩さない。

 

「……ごめん、私がどうかしてたわ。仮にもПрасковья(プラスコーヴィヤ)を疑うなんてね」

 

 のぞみは息をふっと吐くと、かぶりを振って見せる。

 

「それで、あのバカは何処に消えたんかね……」

 

 そう空を仰いでみせるのぞみ。空と言っても、ここは艦内。真上を塞ぐのは配管むき出しの天井だ。そんなのぞみを背にして、コ―ニャは速足で廊下をあるき始める。

 

「……目途はついた」

 

 緑色の滑り止めが効いた床を彼女の軍用ブーツが音を立てて蹴っていく。後ろからのぞみが追いかけてくる気配。

 

「そなの?」

 

「……届いてるはずの電波が届いてない。なら、逆もあるはず」

 

 コ―ニャはそう言ってラッタルを登る。その先にあるのは艦長室だ。何歩か昇って、後ろを振り返った。のぞみがコーニャを見据えている。

 

「のぞみ」

 

「なによ」

 

「……のぞみは、飛べる? 仲間(ひとみ)のために、どこまでできる?」

 

「扶桑軍人を舐めるな、Прасковья(プラスコーヴィヤ)

 

 半ば噛みつくように言ってからのぞみはコ―ニャを睨むようにして続ける。

 

「米川は私の僚機だ。僚機を守るのが編隊長の務めだ。米川は命令を守って飛んで、いなくなった。命令に殉じていなくなった。命令を信じて飛んだ米川を救い出すのは――――カイト・ワン、金鵄飛行隊(ゴールデンカイトウィッチーズ)一番機の栄誉を頂く私の義務だ」

 

 そう言ってのぞみは自分の胸の前で右手で拳を握る。

 

「扶桑軍人はその義務を愚直なまでに果たすことにより、この国を、この世界を守ってきたんだ。その延長に私が、米川がある。アイツは馬鹿で素直過ぎてダメダメかもしれないけど、軍人だ。私達の仲間だ。扶桑の武士(もののふ)だ」

 

 拳が宙を切る。大きな風切り音を残してコ―ニャの方に突き出された。

 

「なんでもやってやる。命懸けだろうがなんだろうが、米川ひとみ空軍准尉は、私が救い出す」

 

 その答えに、コ―ニャはいつもの無表情を、僅かばかり歪めた。

 

「――――――それが、聞きたかった」

 

 そう言って踵を返してラッタルをずっと登っていくコ―ニャ。拳を強く握りしめたままのぞみがそれに続いて艦長室のドアをノックする。

 

「はいはーい。どちら様ー?」

 

 いつも通りの明るいトーンの声が響く。

 

「ポクルイシュキン中尉、大村准尉、以上二名、入ります」

 

「入っといでー」

 

 許可が出たのでコ―ニャがドアを開ける、のぞみが続いて入り、ドアを閉めたところでそろって敬礼。海軍式のコンパクトなのぞみの敬礼と肘をしっかりと張る空軍式のコ―ニャの敬礼を受けて、中にいた二人の将校が答礼を返した。

 

「石川大佐、霧堂艦長」

 

「どうした」

 

「こーにゃんとのぞみん二人ともってことは穏やかじゃないかな?」

 

 執務机に寄り掛かり左手をついたままのラフな敬礼を解いた霧堂艦長はそう言って僅かに笑った。小さな息遣いが空気を渡る。コ―ニャたちは決して狭くはない艦長室を歩いて石川大佐と霧堂艦長が待つ反対側へと寄っていく。応接室を兼ねたこの部屋のソファやテーブルを超えて二人の前に立てば、デスクの上を見て取れた。散乱する書類は全てブリタニア語で記載されているが一目みればすぐにわかる。「加賀」がスプラトゥーン諸島に向かうために必要な承諾や必要書類の山だった。

 

「作戦を提案する。検討を」

 

 石川大佐は口笛を吹いた霧堂艦長を睨んでからコ―ニャを見つめ返した。

 

「……目途がついたのか?」

 

「やってみないと分からない。でも、今取れる手段はこれしかない。状況が揃うのを待っている間に、ひとみの生存確率は絶望的になっていく」

 

 コ―ニャはそう言った。この段階で抑止する声がないことを確認して続ける。

 

「石川大佐、ひとみは、どれだけ訓練を積んでる?」

 

「米川准尉は早期錬成組だ。1月半で幼年学校卒業扱いとなり、准尉任官されている」

 

「ひとみは、全てのプログラムを修了してる?」

 

「していない。緊急派遣だったから補填も行われていないため卒業扱いだ。正規の卒業とは違う。未修了のカリキュラムも多い」

 

「これで前線送りだもんね、趣味が悪いと言えば否定はできないかな?」

 

 霧堂艦長のぼやきを聞いたコ―ニャがわずかに間を取ってから続けた。

 

「……ひとみが修了したカリキュラムのなかに、墜落時のサバイバル訓練は入ってる?」

 

 石川大佐は苦い顔だ。

 

「受けていない。その状況で米川がまとも生きていられるのは」

 

「エマージェンシーキットの食糧が尽きるまでと思うのが妥当。つまり、3日前後。南の孤島じゃ飲み水も確保できるか怪しいから、下手をすると、明日が限界」

 

「食べ物についても、米川に毒の有無は見分けがつかない、か……」

 

 石川大佐の声にコ―ニャが頷く。南国の小島にある生き物は限られる。しかし、毒があるものも多い。熱帯魚なんて有毒魚類の宝庫だ。何が飛び出してくるか分かったものではない。

 

「食べ物も水もなくなったら死なないために危険でも手を付けるはず。……その前に助け出さないと、加速度的に危険が増す。……石川大佐」

 

「……そのために、情報が一切ない場所に飛び込むのか」

 

「危険は承知」

 

 コ―ニャの声に石川大佐は黙り込む。アナログ時計の時を刻む音が間を埋めた。

 

「……大村、どう見る?」

 

「すぐにでも助けに行くべきだと考えます」

 

 即答だった。

 

「スプラトゥーン諸島沖が魔の海域だというなら、その原因たるなにかに米川が接触している可能性が高いでしょう。ならば、近海の安全確保のためにも現状、どこの海域・空域の鎮守にも組み込まれていない遊撃兵たる203空による強行偵察は理にかなっています。我々が万が一消え去っても、周辺各国に即座に脅威が及ぶとは考えにくい。我々の出撃が最適であると確信しています」

 

 のぞみはまるで用意してきた原稿を読むかのようにすらすらと答えてみせる。

 

「霧堂艦長はどう考えます?」

 

 敬語で飛び出した問の意味を過たず捉えた霧堂艦長は笑う。

 

「第五航空戦隊としては加賀の直掩を残していただきたいところですが……どうせ4機じゃその余裕もないでしょう? それに、消えた米川機の機種が大問題でしょう。万が一の際には機密保持のためF-35A飛行脚の破壊を確認しなければならない。人類連合の飛行が扶桑皇国の国益に適う以上、止める理由はありません」

 

「元ウィッチとしては?」

 

「私が飛べるならすぐにでもぶん殴りに行きたいかな。夜? ネウロイの巣かもしれない? 国際問題が発覚するかもしれない? 知るかそんなこと。知ったことじゃないから今すぐ単騎駆けでもいいから飛び出してしまいたい……そう思う程度には頭に血が上ってるよ」

 

「だから霧堂、貴様はそんなにがっつくな」

 

 そう言って石川大佐は髪を掻き上げ溜息をついた。

 

「……石川大佐、ご決断を」

 

 のぞみが急かすようにそういう。石川大佐は目線を上げる。

 

「ポクルイシュキン中尉の案を聞かずに決断できるか。作戦を聞かせろ。話はそれからだ」

 

 コ―ニャが頷いた。タブレット端末を取り出しテーブルに置く。

 

「……まだ荒削りだから、意見が欲しい。途中で止めてくれていい」

 

 そう言って差し出されたタブレット端末に表示されていた文字列を、皆が覗き込む。記されていたのはシンプルな作戦名、ドラゴン退治の英雄にして、兵士や旅人の守護聖人の名を冠したものだった。

 

「……オペレーション・ユーリィの説明を開始する」

 

 

 部隊が動き始めた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 スペースブランケットに包まったひとみがもぞもぞと動く。やがてぱっちりと目が開いた。

 

「朝……」

 

 水平線から太陽が顔を出す。海面に反射した陽光がきらきらと輝いた。焚き火の燃え残りが燻り、一筋の煙が所在なさげに空を漂う。

 

「また、水を汲みにいかないと…………あれ?」

 

 ひとみは立ち上がって大きく伸びをした。その瞬間、視界がぐるりと反転する。

 

「身体が……あつい、よ…………」

 

 ひとみが砂浜に倒れ込む。ぼーっとしてうまく頭が回らない。全身を気だるさが包み込み、動くこともままならない。

 

「おかしい、な……ウィッチは風邪なんてひかないはずなのに…………」

 

 立ち上がろうとしても力が入らない。身体が熱を持ったように火照り、目が潤む。呼吸もかなり弱々しい。

 

 昨日はちゃんとブランケットを巻いて暖かくしてから寝た。だから体温が下がってはいないはず。

 

「どうし、て……」

 

 思い当たる原因はひとつ。水だ。ろ過はしたが、完璧ではなかったのかもしれない。それにあの時はひとみ自身がかなり疲れていたし、魔力も底をつきかけていた。つまり抵抗力は大幅に下がっていたのだ。可能性としては十分にありえる。

 

「うぅ……」

 

 くらくらする視界の中には砂浜と、そこに横たわる狙撃銃。

 

 それもすぐに遠くなり、ひとみの視界は完全にブラックアウトした。

 


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