ゴールデンカイトウィッチーズ   作:帝都造営

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第一話 「クリアランス~みちしるべ~」後編

 ひとみの家は東京の郊外にある。海軍の街である横須賀からは電車でそこそこの時間がかかるものの、どうにか陽が傾く前に帰ることができた。

 ドアを押さえている空気圧が抜ける音がして、目の前にほぼ一ヶ月ぶりとなる故郷のプラットホーム。

 

「帰ってきちゃった……」

 

 夏までは帰れないと思っていただけに、なんとも言えない気分がひとみを包む。ぱらぱらと降りた人の流れに乗るように、ゆるゆると改札へ向かう。ICカードを押し当てると「残額不足」と赤字で表示、改札は大きな音を鳴り響かせて閉まった。

 

 と、そんなひとみを呼ぶ声が。

 

「あっ! ひとみちゃん!」

 

 振り返るとひとみへと手を振る、まだ真新しいセーラーブレザーに身を包んだ人影……彼女の姿を見た瞬間、ひとみの顔も輝いた。

 

「そらちゃん!」

 

 弾かれたように駆け出すひとみに応じるように相手もぱっと駆け出して、すぐに二人はランデヴー。

 

「やっぱりひとみちゃんだぁー! ひさしぶり!」

 

 そうやって目の前で笑う彼女の名前は麦野(むぎの)氷空(そら)。ひとみの幼馴染で、小学校ではいっちばんの親友だった。ひとみが航空幼年学校に進む一方で府内の一流私立女子中へと入学、電車通学をすることになるという話は聞いていたけれど……まさかこんなところで会えるとは。

 

「こんなところで会うなんて、すっごい偶然だね!」

 

「そうだね!」

 

 と、ひとしきりの感動が済めば急に周りが見えてくるものである。周りからジロジロと視線を感じるひとみ。

 そういえば……ここ改札の目の前だったっけ。

 

「えっと……とりあえず退けよっか?」

 

「そ、そうだね」

 

 

 ひとみは精算機へと向かい、そらも続く。そういえばひとみが改札に引っかかったのを彼女は見ていたわけで……そう考えると、なんだか何とも言えない気分である。

 

 精算機にICカードを投入して、表示された不足額にちょっと驚いていると、そらが横から聞いてきた。

 

「そういえばひとみちゃんって、確か夏までは帰ってこないんじゃなかったっけ?」

 

 その通りなのだ。本来ならば。

 

「ま、まぁ……ちょっと、ね」

 

「ふーん……」

 

 ひとみはいそいそと紙幣を投入。微妙に足りないので小銭を探して……小銭なんてほとんど持っていないことに気付いた。致し方なく千円札をもう一枚投入。お釣りとして大量の硬貨が転がり出てくる。

 

「あーあ、チャージにすれば良かったのに」

 

「あぁ、その手があったかぁ……」

 

 全くもって調子が出ない。財布に硬貨を収めつつ、ひとみは小さくため息。このあとに待ち受ける問題も相まって、余計に気分が重くなる。

 

 とりあえず改札を通過。駅前ロータリーへと向かう二人。

 

「そ、そんなに気にすることじゃないって、ひとみちゃん」

 

「う、うん、それはそうなんだけど……」

 

 もう通学にも慣れたのだろう。地元の利用者以外にはあまり優しくない動線配置の駅構内をずんずんそらは進んでいく。ひとみは後ろから追いかける。

 

「それで、いつまでお休みなの? みんなも会いたがってるよ?」

 

 みんな、か……そういえば、毎日とても忙しくて小学校の友達のことなんてすっかり忘れていた。みんな元気にしているのだろうか?

 また会いたい。でも。

 

「ごめんね、明日には戻らなきゃいけないんだ」

 

「え? そうなの?」

 

 そらが振り返った。驚くのも当然だろう。

 

「うん……ごめん」

 

 ひとみは小さく肩を落とす。目の前のそらちゃんは制服をしっかり着こなしていて、まだまだ幼年学校の制服に()()()()()()感じがするひとみよりもずっと似合っていた。

 

 

 無言。嬉しいはずの再会なのに、なんだか微妙な空気。

 

 そんな沈黙を破ったのは、『あるもの』に気付いたそらだった。

 

 

「あれ……?」

 

「どうしたの、そらちゃん?」

 

「あれって……」

 

 そうしてそらちゃんはロータリーの一角、そこに停車した乗用車を指差してみせる。

 

 見間違うはずがない。なんせあの車は……

 

「……お父さんの、車?」

 

 社用車兼自家用車であるひとみの父の車。側面には何のためらいもなく『米川硝子加工(株)』と書かれ、せっかくの自動車国内有名ブランドを台無しにしてしまっている。

 

 

「おう、おかえり」

 

 ひとみはその声に驚いた。いきなり予想外の方向から声をかけられたことじゃなくて、その声が信じられないほど心に響いた自分自身に驚いた。ベンチに座って待っていたのだろう。お父さんがタバコを携帯灰皿に落としながら歩んでくる。

 

「お父さん……ただいま」

 

 

 

 

 

 

 

 

 変わってない。いや、たったの一ヶ月なのだから変わるわけがないのだけれど。

 

 自動車の窓の外を流れてゆくひとみの町。お父さんのちょっと荒っぽい運転も変わらない。後部座席にはひとみと「近いから送るよ」と言われたそらが乗っていて、全部座席で運転するひとみの父親と同様に無言でいた。

 

 

 無言で続く根比べ。先に根を上げたのはひとみだった。

 

「ねぇお父さん……最近どう?」

 

「どうって、なにがだ?」

 

「えっと……工場の調子、とか?」

 

「特に変わったことはない。いつも通りだ」

 

 突き放すような父親の言葉。バックミラー越しでも彼の眼は見えなかった。

 

「そっ、か……」

 

 

 またしても沈黙が流れかける。それをどうにかして止めようと、そらが口を開く。

 

「あ、ひとみちゃんのお父さん、五つ先の信号機を右です」

 

 ちょっとどころか早過ぎる進路の指示。それを聞いたひとみの父親は笑った。

 

「はは、分かってる……ところで麦野さん、いま携帯持ってる?」

 

「え? はい、持ってますけど……?」

 

「じゃあ今日はうちで晩御飯を食べていくって、連絡してくれないかな?」

 

「えっ……?」

 

 せっかくひとみが帰ってきたんだ。積もる話もあるだろう」

 

 バックミラー越しの父親がそう言い、そらはちょっと迷うようにひとみへと目配せ。もちろんいいに決まっている。ひとみは頷いた。

 というか、ただトンボ返りするだけだと思っていた一時帰宅に「親友との夕食」というビックイベントが入りかけているのである。断る阿呆がいるものだろうか。

 

「……じゃあ、よろしくお願いします」

 

「ん」

 

 

 そして車内はまた沈黙へ。でもさっきまでとは違って、ちょっとだけ温かい沈黙だった。

 

 

 

 

 

 車が止まり、ギアを入れ替えると軽い警戒音と共に後ろに滑り出す。慣れたハンドル捌きで駐車を完了した父親に促される形で、ひとみとそらはアスファルトの上に立つ。

 

「……」

 

「ひとみちゃんの家、なんだか久しぶりだね!」

 

 そらがそう言って、ひとみはまじまじとその建物を眺めた。大正の頃にひいおじいちゃんが買ったという土地。帝都の郊外にあるとはいっても交通の便があんまり良くなかったから安く買い叩けたというこの土地に、ひとみの一家は住んでいる。昭和の中頃におじいちゃんが立て替えたらしい家は平屋で、その奥にトタンの外壁に覆われた建家。ペンキで刻まれているのはやっぱり『米川硝子加工(株)』の文字。

 

 ああ、帰ってきたんだ。

 

 いつの間にか身体が動いて、鞄の底へと忘れたように仕舞っていた家の鍵を取り出す。ひとみが鍵を差し込むとそれを鍵穴は受け止め、カチャリと開錠。

 

 開けようとして、でもすぐには開かない……すっかり忘れてた。(ウチ)の扉、すっごい立て付け悪いんだっけ。

 

「ふんっ……」

 

 大げさに力を入れてみれば、競争するように大げさに音を立てながら横へとズレる扉。この平成の時代において正面玄関がスライド式、しかも立て付けが悪いときた。いったいどれほどお父さんに扉の買い替えを陳情したことだろう……いったい何回、「防犯にもなって一石二鳥、何が悪い」と一蹴されたことだろう。

 それを思い出したひとみは、どこか胸が締め付けられる気がした。なんでだろう。

 と、そんなひとみの耳に届くまたまた懐かしい声。

 

「あらあらひとみ、帰ってきたのね!」

 

「……お母さん」

 

 また少し、胸が痛くなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ()()()()、良質な羊肉が手に入ったらしい。そんな理由でひとみの目の前にはジンギスカン。

 

「こ、こんなのもらっていいんですか?」

 

 扶桑人の特徴的な性格として遠慮がちなところがあるのは知っての通りで、ジンギスカンという一見豪勢な料理を前にそらはその特徴を遺憾無く発揮していた。

 

「いいのよ、麦野さんにはいつもひとみがお世話になっているもの」

 

「ね、お母さんもこう言ってるし、そらちゃんも食べよ!」

 

 そしてそれを汲んだ上でもてなすのが扶桑人である。そらは頷くと食卓につき、ひとみの父親に従う形で食前の挨拶。目の前で待ち受けるアツアツのお肉をついばむ。

 

 基本的に食材の「クセ」を嫌う傾向のある扶桑では、羊肉などを食べる機会はなかなかないのだが、母が北海道の生まれなひとみにとって羊肉(ジンギスカン)とは生活の一部だ。東京生まれの父だって大学で学ぶために北の大地を踏みしめて以来、すっかりジンギスカンと母の虜である。だから東京に戻ってきてからも何かあればジンギスカン。別に特別な料理という意味合いはなく、普段の中に散りばめられたちょっとの贅沢。

 

 いつも通りにテレビもラジオも切られた部屋で、そらとひとみだけが会話を交わす食卓。時計の短針が全世界共通の間隔で時を刻み、い草の香りと市販のタレの匂いが混ざり合う。通算で10年近くは過ごしたはずの家なのに、妙に真新しく、そして落ち着く空気が出来上がっていた。

 

 

 

「――――ごちそうさまでした」

 

 腹八分目を忘れる頃にはもう、皿の上は綺麗になっていた。ひとみはそのまま畳に寝転がってしまいたい気持ちであったが、一方でそれは絶対にしないと確信している自分もいた。だって食事が済んだら次の行動が待っている。食休みという概念を可能な限り省略するのが軍隊だ。一応ひとみはそういう所で一ヶ月間教育を受けてきた。生活態度が変化するのには十分な時間だ。

 

 でも、それは理由じゃなかった。ひとみは目の前の母親へと視線を注ぐ。その時ちょうど目を伏せていた彼女はゆっくりと顔を上げ、ちょうど向かいに座っているひとみと視線を重ねた。

 

「ねぇ……ひとみ」

 

 子供というのは、その生存のために大人の気持ちを読み取る術を持っている。それは本能のようなものであり、理屈とかそういう段階にはない。だからひとみは、母が次に何を言うのかを理解していた。

 

「今日、あなたが帰ってくる前……電話があったわ」

 

 誰から、それは言わずとも伝わるだろう。

 

「……そう」

 

 ひとみは、もちろん何も返したくなかった。しかし会話のキャッチボールが始まってしまった以上、何か返さないといけない。だから返したのはなんとも中途半端な相槌。

 ひとみは自分の空っぽになった食器に目を落とす。茶碗には一粒の米も残っておらず、食事は終わってしまったのだと強く主張している。

 

 

「お母さんはね……反対」

 

 

 小さな声だったはずだが、いやによく響いた。父親が視線を宙にやり、状況を察してしまったそらが押し黙る。ぶら下げられたLED電球の光が部屋にいる全ての存在を照らす。

 

「……ひとみがね、なんで飛行学校に行ったのかは知ってるわ」

 

 数秒ほどのいやに長い沈黙を置き、母は耐え切れぬように言葉を紡ぎ出す。

 

「それは立派なことだと思うし、決心した以上は応援する。それは当然のこと」

 

 ひとみが目指す機械化航空歩兵(航空ウィッチ)。人類の、世界の平和を脅かすネウロイと戦う存在。それは素晴らしいことであり、全ての人間が享受出来るわけではない特別な資格だ。だからそれを否定することなどしないし、許されない。

 

「でもね、ひとみ……まだ一ヶ月よ?」

 

 

 それを出されてしまっては、ひとみに反論の余地はない。それを知っているからこそ、母親はそう娘に問いかけるのだろう。

 

「どのくらい練習したの?」

 

「……赤トンボを、十時間」

 

「あかとんぼ……?」

 

 一旦会話が止まり、そのせいでまた歪む母の顔。それは困惑とかではなく、ただただ悲痛であった。一ヶ月という時間は既にもう、母娘の間に少なからずの溝をこさえているのだ。

 

「赤トンボ。二人乗りの富嶽T-7型初等演習脚……そうだな、ひとみ」

 

 意外というべきか、潤滑油役となったのは父だった。ひとみは頷くことで肯定。赤トンボというのは、教官である現役航空ウィッチと共に飛行の基礎を学ぶための機体だ。

 

「じゃあ……ひとみは一人で飛んだことがないってこと?」

 

「うん……ないよ」

 

「なら余計に反対。幼年学校の校長先生もひとみの意思を尊重するって言ってたわ、どんなことがあったって、絶対にひとみの意思を守ってくれるって。私は校長先生を信じるわ、あなたは選ぶことが出来る。それはつまり『行かない』っていう選択が出来るってことなのよ?」

 

 それはその通りなのだろう。母親のいうことは何一つ間違ってない。

 

「でも、私は……ヨーロッパに」

「何ができるっていうの!」

 

 

 沈黙。父親は大げさな動きでポケットより煙草を取り出すと、ライターお供にのらりくらりと部屋を出ていった。

 

 

「あなたの夢は知ってる。よーく知ってるわ。ウィッチになる。みんなを守る。有名な部隊にはいる……どれも素敵な夢」

 

「なら……!」

 

「でもね」

 

 母はしっかりとひとみを見据えた。

 

 

「でも、それは今なの? 今じゃなきゃいけないの?」

 

 

 ひとみは言い返しもせず、目を背けもせず。ただ母を見つめる。母は焦るように言葉を急ぐ。

 

「昔は、どの国も10歳になるかならないかの子を招集して、半年かそれ以下で戦えるようにしたって聞くわ。ガリアやカールスラントといった先進国すらその有様で、今でも最前線のオストマンや華僑ではそうだっていう話……でもね、あなたは扶桑(ここ)で生まれたの。今すぐ戦わなくちゃいけないなんてことはない。それはあなたの持つ立派な権利なのよ?」

 

 

 それが扶桑皇国に生まれた人間としての――――。昼の丸眼鏡の言葉が思い出される。どっちも権利だった。

 

 

「あなたには、私が娘を乱暴に言い聞かせようとしている風に見えるかも知れない。こんなことを言う私は「非国民」だって言われるのかもしれない……でもね、まずは現実を見て、ひとみ。あなたはまだ小学校を卒業したばかりで、どこにでもいる女の子よ? 幼年学校の試験が難しいのは知ってるし、あなたはそれに合格した。でも問題全部解けた? 百点満点だった? あなたは本当に最優秀? 看護学校で一時は従軍してたから分かるけど、戦争は最優秀の人でも簡単にいなくなっちゃうの。あなたの夢ってそんな簡単なこと? 誰でもなれるもの?」

 

「でも! 校長先生は! 私にしか……出来ないって……」

 

「あなたはまだ12じゃない。学校は二年間なんでしょう? そこでじっくり学んで、それで出来るようになるんじゃないの?」

 

「それは……」

 

 航空系統に限らず、ウィッチは大変短命な職業だ。そんな事情から「飛び級」制度は存在する。でも制度として認められているのは早くて一年。一年学ぶのが普通なのだ。

 ひとみはまだ、一ヶ月しか学んでいない。

 

 

「お母さんの言っていること……間違ってるかな?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜の闇に暗く沈んだ空港。そこそこ数が整備されている街灯と人々の営みが浮かび上がる大地では、滑走路はポッカリと空いた穴になる。

 丘の上でその穴を覗くひとみ。春の陽気をほんの少し残した、でも肌触りの冷たい風が肌を撫でる感覚。

 

 ここは、生まれ育った町が一望できる小高い丘。飛行場が一望できる、絶好の撮影場所だと言って何度もお父さんに連れられてきた小高い丘。今夜は、ひとみだけ。

 

 

 結局、ひとみはなにも言い返せなかったのだ。そらも家に帰って現在時刻は午後零時。家族が寝静まるのを待ってからこっそり抜け出してやって来たのはいいけれど、しかし見るものもやることもない。

 

「……」

 

 ひとみは縮こまるように――――そう、所謂「体育座り」というヤツである――――座っていた。税金により人為的に整備された芝生の座り心地は柔らかく、冷たい。

 空を見上げれば星空。北海道の空と違って都会の光にその大部分は殺されてしまっているけども、しかし遥か彼方からひとみを見下ろしていた。ひとみはどこかぽっかり穴の空いたような気分になって、地面に手を付く。

 

 この瞬間も、時間は一秒一秒減っていく。ひとみは明日――――厳密に言うなら今日――――には「結論」を出さなきゃいけない。家で寝ていてもこうしてうずくまっていても、時間はどんどん減っていくのだ。

 

 でも今日は、ほんとうにいろんなことがあった。校長先生や鎮守府司令、外務次官補。ひとみにとってはそれこそ「雲の上の存在」が自分の目の前で、自分に関する議論を交わしていた。でもなんでだろう、ひとみはそこにいなくて、なんというか……いないのである。

 

 

「……やっぱりここにいた」

 

 突然、星空が喋った……なんてことは無いわけで。

 

「え?」

 

 そらちゃんだった。

 

「麦チョコ持ってきたよ、好きだったよね?」

 

「え? あ、うん……」

 

 そらはひとみの隣に座る。別に咎める気はない、でも。

 

「ここにいるかな……って思ったから」

 

「……」

 

 ひとみは顔を膝にうずめる。そうだ、そらちゃんだってご飯の時の会話を聞いていたのだ。あのまま流れでお開きになってしまったけれど……そらちゃんにきっと、心配させてしまったのだろう。

 

「話、聞いちゃってゴメンね?」

 

「……ううん」

 

 そらは無言でコンビニのレジ袋から麦チョコを取り出して、そして二人は無言でチョコレートのほんのり甘くて、どこか苦い味を噛み締める。やっぱり目の前の滑走路はぽっかり大穴で、星空は広かったけど、さっきみたいなどこか抜けた気持ちではなくなっていた。

 

 だから、聞きたくなった。

 

 

「ねぇ、そらちゃん……わたしさ、なにがしたいんだろう」

 

 そらは何も言わない。それはひとみにとってもありがたいことだった。そらちゃんがここで何か言ったら、ひとみは次の言葉を紡げなくなってしまったかもしれない。

 

「ウィッチにはなりたいんだよ? そのために学校に入ったんだもん。それはわたしが自分で決めたこと……ウィッチになって、501空に入って……みんなを守りたいっていうのも、嘘じゃない」

 

 でもね。ひとみはそこで小さく息を継ぐ。空気が肺の中に入って出て、もう一度。

 

「でもね、分かんなくなっちゃった。わたし」

 

 

 校長先生は、君にしか出来ないと言う。丸眼鏡の人だって――――厳しい口調だったけど――――わたしにしか出来ないことだと思ってるのだろう。そうじゃなかったら、あんなに真剣に怒らないはずだから。

 でも、お母さんは違うって言う。まだダメっていう。そんなことは分かってるのだ。まだまだ全然勉強したりないって自覚はあるし、もっとあの学校で勉強したい。でもそれでいいのかと聞かれると、迷ってしまう。だって、夢が目の前にあるから。

 

 

「ひとみちゃんが羨ましいな」

 

「え?」

 

 羨ましいな、なんて、そんなことはないだろう。だってそらちゃんは東京の一流私学に入学してるじゃないか。駅で再会した時もそうだ。もう小学校のころとは全然違くて、輝いてたはず。

 そらはそんなひとみに顔を向けると、それから逸らして続ける。

 

「だってさ、私はひとみちゃんみたいに自分で決めてないよ? ひとみちゃんみたいな夢だってまだ決まってないし」

 

「……でも、そらちゃんだって」

 

 そう言うとそらはゆっくりと首を横に振った。

 

「私は、お父さんとお母さんが私立に行きなさいって言ったから、そうしちゃったんだと思うんだ。そうするのが、一番楽だから」

 

「一番、楽……?」

 

「逃げたの。お父さんとかお母さんから。言いなりになったの。私はひとみちゃんみたいに、悩もうとすることも、考えることもしなかった。できなかった。ぜーんぶ、お父さんとお母さんが決めてくれたから。……そんな私が、嫌で嫌で、たまらなくなった時だってあるんだよ」

 

 そう言うとそらはひとみの肩にそっと手を置いて、そのままゆっくりと抱きしめた。

 

「だから、私はひとみちゃんが羨ましいんだ。いつか、私もひとみちゃんみたいになりたいって、ずっと思ってた」

 

 だから、ね。と言葉を紡ぐそら。抱きしめられたせいで、ひとみからはそらの顔は見えないが、どこか声色が揺れているのを耳で感じる。

 

「ひとみちゃんの答えは、ひとみちゃんで出してほしい。私のわがままかもしれないけど。ひとみちゃんには、私みたいにならないでほしいの」

 

 初めて聞く、親友の声。

 

「つらいかもしれない。怖いかもしれない。でも、そうやって悩んでるひとみちゃんのこと、私は大好きだよ。だから、私みたいになっちゃだめ。ひとみちゃんの答えを出して」

 

「私の、答え……」

 

「明日、行っちゃうのかもしれないけど、いつか、答えを私にも聞かせて。私にひとみちゃんの答えを見せて。それまで、信じてるから。それまで私も、頑張るから……!」

 

 そういう声はどこか震えている。ひとみはそっとその体に手を回した。

 

「そらちゃんが、泣いてるところ、初めて見た……」

 

「だって……恥ずかしいもん。こんなみっともないの」

 

「みっともなくなんてないよ。そらちゃん」

 

「なら、ひとみちゃんも」

 

「……うん」

 

 回された手に力がこもって、ひとみにもそらの心の音が聞こえてきた。暖かい、音がする。それを聞いてゆっくりと目を閉じてそらを抱きしめ返す。

 

「ありがとう、そらちゃん。そらちゃんが友達で、本当によかった」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜が明けた。地平線から昇ってきたばかりの太陽が、『米川硝子加工(株)』の文字をさんさんと照らしている。

 

 まだ工場の人たちは出てきていなくて、工場も家の中も静か。それを確認したひとみは、外へと出ようと玄関扉の前に立った。いつの間にか丁寧にアイロンがけされた制服を着て、忘れ物がないことを確かめる。

 

 

「お母さん……ごめんなさい」

 

 ひとみは小さくポツリと呟く。玄関を開ければ大きな音が出る。きっとお母さんはすぐに気付いて、そして追いかけてきてくれるのだろう。でも大丈夫。足の速さにはそこそこ自信があるのだ。いっきに駆け出して、曲がり角を曲がってしまえば……お母さんの顔は見なくて済む。

 

 

 そう思ってたのに。

 

「……ひとみ」

 

 ひとみの肩が跳ねた。なんで、まだ扉に手を掛けてもないのに。勝手に出ていこうとしたことを怒られる気がして、ひとみは恐る恐る後ろを振り返った。

 

「はいこれ、列車の中で食べなさい」

 

 差し出されたのは、巾着袋。その中におにぎりが入っているのは容易に予想がつく。

 お母さんは、それ以上何も言わない。

 

 

「ありがと……いってきます」

 

 お母さんに背を向ける。お母さんから一歩離れる。扉に手を掛ける。

 

 

 相変わらず騒がしい音を立てて扉が開いた。外の世界は春らしい爽やかさで、雀のさえずりが聞こえた。

 

 もう一歩踏み出せば、家の外だ。まだ厳密には米川家の敷地だけど、もう外の世界だ。

 

 

 なのに、踏み出せなかった。

 

「ひとみ……!」

 

 お母さんが腕を回してきたのだ。お母さんとひとみはまだ顔二個分くらいの身長差があって、ひとみはお母さんに包まれるようになる。ひとみは自分の表情が見られるのが怖くて――――一歩前に踏み出した。

 

 秒針が何針か歩みを進める、お母さんは動かなかったけど、ひとみを留めることはしなかった。

 ひとみは家の外へ。最後にひとこと言いたくて足を止めるけど、振り返ることなんて絶対出来ない。

 

 だから言うのだ。ひとみの声が朝の故郷に響いた。

 

 

 

「米川ひとみ――――いってまいります!」

 


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