恭一の根底たる因、というお話。
「はあっ……はあっ……クソが!! 遠いとっからご苦労な事だぜ、ちくしょう!」
無精ひげを生やした男は、そう吐き捨てながらひたすら走る。自分が何処に向かっているのかも気にする暇はなく、ただただ何かから逃げるように走り続けていた。
「クソッ…! ここドコだよ? まるで樹海じゃねぇかよ…!」
まだ明るい時間だと言うのに日が射さないせいか、男の周りは不気味な空気に包まれている。
周りの景色にゾッとするのも束の間、ヤツらの声が聞こえてきた。
「○△×#&%##□!!」
「◇#%□$#&×○#$%!!」
日本語では無い言葉が男の耳に入るや否や、飛び出し逃げようとしたのだが。すでに遅かったらしい。
「ヤット見ツケタ。オ前、モウ逃ゲラレナイ」
男の眼前に2人、後ろに2人。
逃げられないと観念したのか、懐からタバコを取り出す。
それはただの去勢。
だが小悪党にも強がりを見せるくらいの意地はあった。
「ふーっ……ったく、俺みたいな小物のために海を超えて来るかね」
「オ前、劉青龍ノ信頼ヲ裏切ッタ…! 劉ハ、オ怒リダ。ドンナ事ヲシテデモ、オ前ヲ
連レテ来イト言ワレテイル」
「なぁにが信頼だ。面子潰されて腹が立ってるだけだろぐふっ!?」
「口ノ聞キ方ニ気ヲ付ケロ、糞リーベン」
この中で首格らしき男が腹に蹴りを入れ、周りに目で合図を送る。
「お、おい…! なんだよ、何する気だよ!?」
「マタ逃ゲラレナイヨウニ、両足ヲ折ル」
「なっ……劉は俺を連れて来いって言ったんだろ!? 命令に背くのか!」
男の意地と現実は違う。
自分の言葉に情けなくったが、人体を破壊されるという恐怖を前に、もがく様に暴れて抵抗しようとする。
「ボスカラワ五体満足デ、トハ言ワレテイナイ。ナニ、スグ済ム」
「や、やめっ…! やめてくれぇぇぇッ!!」
ジタバタしようにも、屈強な男2人に身体を押さえつけられ、まるで動く事が出来なかった。
「フン……ヤレ」
「ハッ…!」
指示を出していた男の横にいた手下が、命令を実行しようと前に一歩踏み込んだところだった。
「腹減った」
獣臭のするナニが現れた。
________________
一体、俺の目の前で起こってるのは何なんだ…? もう折られる。嫌だ嫌だと抵抗していたら、何かが現れたんだ。
「肉だ」
そんな言葉が聞こえたような気がする。いや、不確かなんだよ。だってさ……同時に1人の男が倒れたんだぜ?
喉から血を噴き出しながら…!
「&%$#%&%$&%$!!」
相変わらず何言ってるか分かんねぇ。だがあの表情から察するに、おそらく俺を押さえ付けていた手下2人に命じたのだろう。
屈強な野郎どもが、いきなり現れたモノに向かっていく…! が、交差した瞬間だった。
「ごふっ…!」
「あがっ!?」
何をしたのか、アイツらは何をされたのか。目ん玉ひん剥いて見てたのに、全然見えなかった。
だが結果は付いてくる。2人共同じように倒れたんだ。同じく喉と首を押さえながらよ。
「オ前……オ前ナニ!?」
先程まで手下共に指示を出していた男が狼狽えながら聞く。明らかにビビッてやがる……傍観者の俺だって、さっきから嫌な汗が止まらねぇ…! 立場の違うヤツの方はもっとだろう。
「…………………」
チャイニーズ野郎の言葉に対しても、特に反応する訳でもなく、ただただ無言のまま歩み寄る……男…いや、ガキ…?
劇的な事も起こらず、あっさりと首格の野郎は倒された。正体不明のガキによって……俺は助かったと思ってもいいのだろうか。
「あ、ありがとな…? おかげで助かったよ」
俺の言葉が聞こえているのか、いないのか。
何も言わずに近づいてくる…?
いや、何で近づいてくる? 言葉が通じないのか? いやいやいや何か言ってたはずだ、確かに日本語だった…! 思い出せ、俺、これは命に関わる事だぞ!
肉、と言ったような気がする……も、もしや…!
「お、美味しい飯ッ!!」
「………………む」
と、止まった……?
「は、腹が減ってるんだろ? 美味しい飯、食べたくないか?」
「……お前は美味しくないのか?」
こ、コイツやっぱりやべぇヤツ…!?
「美味しいわけないだろ! そっ、そそそれに、俺は病気持ってるから食べたら感染っちゃうぞ!」
足を折られそうになった時より必死である。
コイツに比べたらさっきの男達の恐怖など笑えるレベルだ。
「それは困る。お前は食わない。この4人は美味しいのか?」
コイツ……マジでやべぇ。
だが、もしかして使えるんじゃ…?
「……そいつらも多分美味しくねぇよ。それよりも礼がしたい。この山を降りた所に車を停めてあるんだ。飯でも奢らせてくれや」
男はこれ以上ここに留まっていたくなかった。喉が抉られている4つの死体と、何故共に過ごさなくちゃいけない。
「さあ、さっさと行こうぜ少年」
飯を奢るという提案。
それは助けられた事に対する純粋な厚意からではなく打算からだった。何故なら男は小悪党なのだから。
しかし少年と呼ばれた者は動かない。
「どうした? 腹減ってんだろ? うんめぇトコ知ってんだぜ俺」
「……山を降りるのか?」
「降りなきゃ飯食いに行けねぇだろ。まさかこんな山奥にピザでもデリバリーする気か?」
少年の境遇など知る筈もない男は、冗談めいた風に言い放つが。
「俺……山……降りた事ない…」
「はぁ? 自分は山の住人とでも言う気か少年?」
「小さな頃からずっといる」
「ずっと?」
「人間に会ったのも久しぶり。母さんと別れてから初めてだ」
もしかして捨て子なのか?
いつもなら茶化す場面だが、変にコイツが逆上しても困る。コイツはたった今、人を簡単に殺した奴なんだ。
「腹が減ってたみたいだが、飯とかはどうしてたんだ?」
「山は良い。生き物がたくさんいる。下っていけば川もある」
「生き物って……」
「樹の中には幼虫が。樹には昆虫が。樹の上には鳥の巣、樹の下には鳥、兎、鹿、猪、蛇が。川の方には魚、蛙、亀「分かったありがとう」そう?」
淡々と羅列されていく言葉の中身を想像してしまい途中で遮った。しかし、疑問に思った事くらいは問うてみてもいいだろう。
「それならどうして俺を食べようとしたんだ? 聞いた感じじゃ、究極に腹が減ってるワケじゃ無さそうなんだが」
「自然の流れは急に変わるんだ」
「どういう事だ?」
「今日食べられたからと言って明日も食べられるとは限らない」
「ええっと、つまり…?」
何となく分かってきたが、言葉にするのは嫌だ。
「もしもの時のためにしっかりと準備しておかないと」
「やっぱり保存じゃねぇか!?」
事なしげに何てコト言いやがるこのガキ…! 人間だぞ? 人間を保存食にするってそんな馬鹿な話があるかよ…!
だが、やっぱりコイツは使える。
いや、コイツの力は使える。どうやら頭の方は弱そうだしな。
「そういや名前、まだ聞いてなかったな。俺は香月亮ってんだ」
「……九鬼恭一」
へへへ、俺にも運が回ってきたかな?
________________
「ほれ、メニューあっから好きなん頼みな」
「……それじゃこの、なんとかハンバーグセットがいい」
決して読めない漢字ではない文字を指で指し示す恭一に対し、男の想像は表情にこそ出さないが、ほぼほぼ確信にまで至る。
「……和風ハンバーグセットな」
.
...
......
「どうだい、美味かったろ?」
「うんまぁ」
「何だ? 含みのある感じだな」
「美味しかったよ。これだけ食べたら今日も生きられる」
山の中でも思ったが、香月は恭一との間にズレのようなものを感じた。それが何かまでは分からないが、自分の目的の為、一つ一つ話を進めていく事にする。
「恭一は何歳から山にいたんだ?」
「確か……5歳くらいだったかな」
「!?……そうか」
見た目は14~5歳ってとこか。しかし思った通りだ。そんなガキの頃から山ん中に居続けりゃ、和風も読める筈がねぇ。
知能はガキのまま、力だけが獣並みってとこだろう。
だが、感性はどうだ…?
……確かめてみるか。
「しっかしアレだな。お前さんのおかげで俺は助かったんだが、お前さんは大丈夫なのかい?」
「何が?」
「お前さんが殺った4人だよ。どうやったかはまるで見えなかったが、4人も殺したんだぞ? いや俺はお前のおかげで助かったから否定するつもりは無ェけどよ」
「否定? 何を?」
恭一は香月が何を言いたいのか、まるで理解出来ていない様子だった。しかし、出来なくて当然なのかもしれない。
恭一は母が死んでから、いや、母に否定された時から人間を人間たらしめる感情が喪失してしまったのだから。
感情を失った恭一に待っていたのはどこまでも『野生』だった。人間は感情を失っても欲求までは失われてくれない。幼い恭一に『性欲』は流石に無かったが、『睡眠欲』と『食欲』は存在した。
生きる目的を無くした恭一は、本能に従って行動するしかなかった。食欲を満たすために命を狩り、睡眠欲を満たすために寝る。
人間らしい感情が失くなった恭一は、恐ろしい程に野生に順応していった。ただ、決して何もかも初めから上手くいったわけでは無い。
恭一は人間的には超人とも言える力を持っていたが、相手は人間ではないのだ。何もかもが究極的な『野生』が相手だった。
食べた物のせいで体調を崩した事もあった。ハチの群れに追いかけられた事もあった。狩り終えた餌を横取りされた事もあった。自分を餌と認識され襲われた事もあった。
それでも負の感情は一切生まれなかった。
『野生』の世界とは、謂わば『喰うか喰われるか』のみに限る。存在するはその一点。それが自然の摂理であり、そのような環境下で10年以上も生き抜いてきたのだ。
幼少時には『鬼の子』や『バケモノ』と揶揄されていたが、今の恭一はまさに『ヒトの言葉を話す野生』である。 "
それ故に、香月の言った4人と対峙した時、理性を持つ人間特有の葛藤など皆無で、ドコを狙うのが狩るのに合理的か? 脳内に占めるのは、それだけだった。
「なぁ……俺と来ないか?」
「アンタと? 何で?」
「お前さんが何者か? 何があったか? んなモン、どうでも良いんだよ。俺はお前さんの腕っ節が欲しいんだわ」
「どういう意味?」
「お前さんが殺った4人は香港マフィアなんだよ」
「……まふぃあってなに?」
「あー、まぁなんだ……悪い事してる奴、だな」
「ふーん」
人としての感性が損なわれているのはアレだが、知能の低いコイツは扱いさえ間違えなきゃ利用できる。こんな機会逃すもんじゃねぇ。
「これからも俺を狙って海を渡って奴らが来るだろうよ。お前さんにゃ用心棒になって欲しいんだよ」
「よーじんぼーってなに?」
「あーっとだな……俺を襲ってくる奴を追い返す人って意味だよ」
「俺が追い返すの? アンタを襲ってきた奴を? なんで?」
「美味い飯と安心して寝られる場所を毎日お前さんにやるぜ?」
「ならやる」
決まりだな。
「よし、んじゃ家に行くか。あぁ、その前に本屋に寄るからな」
「なんで?」
「国語辞典を買って帰る。暇な時はそれ読んどけ」
「……?」
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それ以来、恭一の行動内容が2つ増えた。
香月を襲ってくる奴らを殺さない程度に、しかし容赦はせず狩る。喰う狩る寝る以外の時間は国語辞典を読む。
そんな日々が1年程続いた。
お互い、特別仲が良いというわけでは無かったが、2人の間に軋轢は無く、良好と言えるものだった。だが2人は一緒に住んでいるワケでは無かった。香月は身分上、各地を転々とするので、寂れたアパートをいくつか事前に借りており、その横部屋を恭一が住む、という形になっていた。
「zzzz……zzz………zzzz…」
「………………」
年相応な寝顔を見つめる男の影。香月は恭一を起こさないように息を潜め、さらに近づいていく。
そして、ナイフを心臓へと突き刺―――「何をしてる?」
「ヒヒッ、ウヒヒヒ! お前さんを殺せば今よりもっと金ごふっ…!」
眼を血走らせた香月は「どうしてこんな事をする?」という意味で問われたと思ったが、恭一の言葉の意味は「俺を殺そうとしてるのに、何だその工夫の無さは?」だった。
そんな香月は言い終わる前に、恭一の右手により喉を頚椎ごと抉り取られ、体を痙攣させながら沈んでいった。
「ヒュー……コヒュー……」
「………………」
1年を共にした者を殺した。恭一にとって、ただそれだけだ。そこに感傷や感慨など生まれる筈もなく。直に死ぬであろう香月に一瞥もくれず、血の汚れを落とすため風呂場に行った。
香月亮は一体、何故こんな行動を起こしたのか。そもそも香月亮とは何者なのか、何故マフィアに追われていたのか。恭一は香月自体に興味は無く、香月自身も話さなかったので、恭一は香月亮という男を何も知らない。
香月は麻薬の斡旋者であり、香港まで食指が動いた。その結果、とあるマフィアのシマを荒らす事となり、そのシマを仕切っていたボス劉青龍の怒りを買ったのだ。
しかし、いくら刺客を送っても撃退される状況に業を煮やした劉は、内側から毒を吸わせようと出る。それが今回の香月の行動であり、恭一を殺せば麻薬の件は許すどころか、一部の権利を譲るとまで約束が成されていたのだ。
もちろんそれは劉の策略であったが、元々極悪人では無いが善人でも無く金が好きな香月である。さらに、何度も何度も襲われ続けている状況に辟易していた香月は、これを飲むしかなかった。
彼の血を流し浴びていた恭一だったが、その時頭に有ったものは「何故、香月は自分を襲ったのか」では無く「それなりに香月は金を持ってたから、まだ喰うには困らないな」それだけだった。
九鬼恭一と香月亮が共にした1年間。
野生は未だ人に成れず。
野生のままを過ごす。
まだ回想は続きますよってに。