初冬の乾いた風が落ち葉を巻き上げながら街を吹き抜け、震える体をさらに凍えさせる。かじかんだ指を息で温めると、トグサは車に乗り込んだ。徹夜明けで無性に欠伸が出て仕方なかったが、カフェイン入りのタブレット菓子を何粒か手に取って口に放り込むと、躊躇うことなく噛み潰す。ミントの風味がこれでもかというほどに口に広がり、嫌でも目が覚めるほどの凄まじい刺激だった。
あまりの強さにタブレットを取り過ぎたことに少し後悔していると、マンションの玄関からようやく愛娘が姿を見せる。サイドウィンドウ越しに手を振った彼は、イグニッション・ボタンを押して車のエンジンを掛けた。
トグサがこうして家に戻ってきていたのは、久々に娘の送り迎えをすることになっていたからだった。何日か前に、娘から無邪気に「たまにはお父さんに送ってもらいたいなぁ…」と言われてしまったため、どうしても断り切れなかったというわけだ。しかもあいにく今回の航空機テロと重なってしまったため、こうして徹夜明けに職場を抜け出して一時的に家に戻り、送り迎えをする羽目になったのだった。
それでも、愛しい我が子の姿を見ると、そんな疲れもどこかへ吹き飛んでしまう。すぐに駆けてきた娘は自分で後部座席のドアを開けようとしていたが、まだ背が届かないので悪戦苦闘しているようだ。車を降りたトグサはすぐに彼女の元へと向かう。
「パパ、おはよう!」
「おはよう。昨日はすまなかったなぁ、ママとちゃんといい子にしてたかい?」
「うん!もっちろん!」
元気よくそう答える娘に、トグサにも思わず笑みがこぼれる。後部座席のドアを開けた彼は、娘をチャイルドシートに座らせるとベルトを締めようとした。
「自分でできるもん!」
少し不満げにそう言われ、トグサはやや驚いた。見れば、しっかりと自分でチャイルドシートのベルトを伸ばし、手間取りながらも金具に差し込んで締めている。もちろん念のために娘が締め終わった後で自分も確認してみたのだが、まったく問題はなかった。
こうして知らず知らずのうちに、子どもは成長して大きくなっていくのだろうか。と、ぼんやり考えながら、トグサは後部のドアを閉める。そのうち、大きくなったら助手席に座らせることもできるかもしれない。娘とドライブするのも、なかなか楽しみだ。
運転席に乗り込んだ彼は、バックミラーを見て娘の姿をもう一度確認すると、車を発進させた。朝のラッシュの時間帯なので、歩道には背広姿のサラリーマンや学生が多く見られ、道路も通勤通学のバスや自家用車で混雑している。そのため、娘を事故に巻き込んではいけないと、いつも以上に運転には注意を払っていた。
信号で止まると、彼はふと空を見上げてみた。灰色の雲にすっぽり覆われた寂しい新浜の空には、今にも雪がちらつきそうだ。一応、天気予報では雪は降らないらしいが、娘はそれを残念がっていた。何でも、何か月か前に観たアニメ映画が冬を舞台にしたものらしく、すっかり雪や氷がマイブームになってしまっているらしい。
青に変わった信号を見て、彼は再びアクセルを踏み込む。ごくわずかな、娘と過ごす私服のひと時。時間が許す限りのんびりと進みたかったが、自分の仕事もまだたくさん残っているので、そういう訳にもいかなかった。
何せ、突如起こった航空機テロに加えて、ロシア工作員の不穏な動きなど、対応しなければならない仕事が多すぎるのだ。特にテロ事件の方は犯行声明すら出ておらず、実行犯が単独犯なのか組織的なものなのかさえ絞り込めていない。まさに、猫の手も借りたい状況だった。
「ねえパパ、聞いてる?」
はっとしたトグサは、思わず訊き返した。どうやら娘は幼稚園の友達の話をしていたらしかったが、自分がまったく返事をしないので拗ねてしまったようだ。まだあどけない顔立ちながらも、一丁前に口を尖らせてそっぽを向いているその姿は少し可愛らしかった。
バトーには親馬鹿だとからかわれそうだが、自分の娘を見て可愛いと思わない親がどこにいるのだろうか。特に最近はあまり家に帰ることもできていないのもあってか、娘の一挙手一投足全てが愛おしく思えてしまう。さすがにこれは言い過ぎだが、それでも娘の可愛さは言葉にできないほどだった。
だが、このまま嫌われてしまっては元も子もないので、トグサはすぐに謝る。なのに、どこで覚えたのか、娘は「ぷん!」と言ったままそっぽを向き続け、耳を貸そうとしてくれなかった。
「ほんとにすまない…。謝るから、な。だからパパにも話してくれよ」
「・・・とくべつだよ!」
その言葉に一安心するトグサ。だが、途端に娘が興奮気味に声を上げた。
「お父さんお父さん!あれ、何やってるの?」
バックミラー越しに見ると、窓の外を見ながら娘が興奮した様子で指をさしていた。前の車に追突しないよう注意しながら、トグサも少しだけ視線を横に向ける。だが、そこで見えた光景に、彼は思わず自分の目を疑ってしまった。
猛スピードで道路を突き進む一台の路線バス。行き先表示には『回送』と書かれているが、客を乗せていないとはいえその走り方は異常だった。信号も無視して交差点に進入し、クラクションがけたたましく鳴り響く。数台の乗用車と接触するもバスはなおも止まらず、こちらにまっすぐ突っ込んできていた。
(危ない!)
我に返ったトグサはすぐにアクセルを踏み込んだ。前は混雑でほとんど進んでいなかったが、強引に車の隙間に入り込み、そのまま歩道に半分だけ乗り上げる。一方、バスは大きく蛇行しながら横断歩道を渡っていた数人をはね飛ばし、先ほどまで自分の車がいたところを通り過ぎた。
クラクションがなおも鳴り続ける。バスはほかの車と激突しながらも進み続け、歩道に乗り上げた。しかし、タイヤから白煙を上げて無理やり突き進み、花壇を片っ端から押し潰しながら逃げ惑う通行人に襲い掛かる。
これはどう考えても事故ではない。明らかに故意のものだ。
「ちょっとお父さん出るから!絶対、車から出ちゃだめだぞ!」
真剣な口調で娘にそう言ったトグサは、車を降りると全速力でバスを追いかけた。歩道から車道に戻ったバスは、周りの車を押しのけてUターンしようと試みる。だがそこに、1台の車が突っ込み、バスの行く手を塞いだ。それを見て、ほかの車も次々とバスに体当たりし、動きを封じ込める。
それでも暴走しようとするバスは、エンジンを獣のように唸らせてマフラーから煤まみれの黒いガスを噴き出し、周りの車を無理やり蹴散らそうとしていた。けたたましい悲鳴に響き渡るクラクション。ボディが擦れる凄絶な破壊音が辺りに響き渡り、バスの大型タイヤが乗用車のボンネットに乗り上げる。
そこへ駆けつけたトグサは、迷うことなくバスの乗車口に取り付いた。肘を使って力強く外からガンガン叩くものの、運転手は見向きすらせず、発狂しながらハンドルを握り続けている。
突然、ギヤがバックに入って後ろに進み始め、トグサは危うく振り落とされそうになった。しかし、とっさにサイドミラーに掴まって何とかこらえ抜く。再び前進を始めたバスは、エンジンを吹かして全力で行く手を塞ぐ乗用車に突っ込んだ。ガラスが粉々に砕け散り、車体は大きく拉げて押し潰される。このままでは、バスがまた暴走を始めてしまうだろう。
やむを得ないと判断したトグサはマテバを抜き出すと、乗車口のドア越しに運転手に狙いを付けた。頭を狙えば一発で仕留められるが、それでは真相が究明できない。少佐の教えを思い出した彼は、ハンドルを握る腕やアクセルを操作する脚を狙う。
間もなく鋭い銃声が響くと、バスの動きが一瞬だけ鈍くなった。すぐに再びエンジンが唸りを上げたものの、そこへもう一発の銃声が響き渡る。そこでようやく、暴れ狂っていたバスは沈黙した。遠くからようやく警察と消防のサイレンが聞こえ始め、車を降りたドライバーたちが周りの状況に唖然としつつも、負傷者の救護を始めていた。
そんな中、トグサは乗車口を叩き割って無理やりこじ開けると、車内へと足を踏み入れる。
運転席にいたのは制服姿の正規のバス運転手だった。トグサの放った銃弾は、左腕と左太ももに命中したらしく赤黒い血がどくどくと流れ出ている。右腕も負傷していて、どうやら左腕を貫通した銃弾がそのまま突っ込んだようだ。
「大丈夫か、おい!」
呼び掛けには答えがない。撃たれたショックで気を失っているのか、もしくは電脳をウイルスにやられているのかは分からないが、死なせるわけにはいかなかった。手早く自分のネクタイを取った彼は、一番出血の酷い太ももの傷に巻き付けると、きつく締めて圧迫する。
ちょうどその時には、ほかのドライバーたちも車内に乗り込もうとしていた。ひとまずトグサは彼らと協力してぐったりしている運転手の体をバスから降ろすと、歩道まで運んでゆっくりと体を地面に横たわらせる。
現場はいまだに混乱の中にあったが、渋滞する車の列を掻き分けてついにパトカーが到着した。続いて、救急車を始めとする救護車両も到着し、救急救命士がいち早く負傷者のもとに駆け寄って容体を確認している。
「こっちだ!早く来てくれ!」
トグサは大声でそう叫び、近くにいた警官と救急隊員を呼び寄せた。とりあえず、逃亡しないよう監視を付けたうえで、病院に搬送することが先決だろう。彼は警官に男が暴れ出す可能性があることを伝えると、後の処理を彼らにまかせて現場を少し離れた。
そして、野次馬や警察など多くの人間で溢れかえる歩道を抜けて、自分の車の方へと戻る。もはや娘の送り迎えどころではなくなってしまった。こうなると、妻に直接迎えにもらい、娘を預けるしかないだろう。だが、何よりも心配なのは娘の心だった。
まだ幼い娘に、とても怖い思いをさせてしまった。せっかく、2人で過ごしていた楽しい時間だったのに、何という事だろうか。過ぎてしまったことを悔やんでもどうにもならないが、やはりやりきれない思いは強かった。この暴走の背後には、いったい何が潜んでいるのだろうか。何としてでもそれを暴き出し、もう二度とこんな惨劇が起こらないようにしなければならない。トグサの胸に、熱い思いがこみ上げてきた。
「どうなっているんだ・・・?」
9課のオペレーティングルームでは、荒巻課長が壁面に埋め込まれた大型ディスプレイを見つめながら、眉間に皺を寄せて考え込んでいた。周りの席に座るオペレーターは普段よりも増員され、情報収集に努めている。
映し出されているのは、新浜とその周辺地域を映した広域地図。それに、民放などのニュースチャンネルだ。地図の方には発生した事件・事故の類がそれぞれ赤と青の点として表示され、テレビ画面の方ではアナウンサーが緊迫した様子で何度も繰り返して事故の情報を報じ続けている。臨時ニュースと書かれた赤いテロップの下には、『新浜中央線で脱線事故 負傷者多数』の文字が大きく描かれていた。
「関係各所の状況はどうだ?」
「新浜県警より、管轄内で事件事故多数発生との連絡を受けています。また、消防にも通報が殺到していて、現場への到着に通常より時間が掛かっているとのことです」
「事件事故の内訳は?」
「現時点で交通事故22件、暴力事件7件発生。いずれも重傷者が出ています」
手口こそ明らかになっていないが、これは偶然の出来事ではない。明らかに人為的に引き起こされたものだろう。荒巻課長はそう予想していた。新浜市内で路線バスの暴走事件が起こったという一報が入ったのが今から12分前。そして、それから1分も経たないうちに新浜中央線脱線事故の通報や、通り魔事件発生の連絡を立て続けに受けていたのだ。
常識的に考えても、あまりに重大事件が続き過ぎている。それに、調べられる限りの情報を鑑みると、驚くべきことが分かってきていた。何と、発生時刻がいずれの事件・事故も一致していたのだ。午前7時43分。通勤通学のラッシュで公共交通機関が混み合う時間帯を狙った、一種のテロではないか。課長の頭には、そんな推論が浮かんできていた。
「遅くなったわね」
後ろのドアが開くと、少佐が急ぎ足で部屋の中に入ってきた。元々彼女は朝から例の航空機テロで異常行動を起こしていた機長の電脳に潜り、ウイルス感染の形跡がないか解析することになっていた。だが、この件を受けて課長が緊急で呼び寄せたのである。
「今のところ、新浜を中心に事件事故が29件発生しておるが、おそらくまだ増えるだろう」
「ウイルス感染の可能性が大ね。各事件の容疑者は確保できてる?」
「ああ、生きている場合に限るがな。新浜中央線の件は運転士死亡、そのほか通り魔と暴行事件では容疑者が射殺された。それ以外は所轄が押さえている」
それを聞いた少佐は少しのあいだ考え込んでいたが、すぐに指示を出し始める。
「所轄には容疑者の情報をすぐに持ってこさせて。あと、事件時の監視カメラ等の映像を可能な限り集める必要もあるわね。イシカワとボーマに当たらせましょう。サイトーとパズは現時点で押さえた容疑者を所轄から移送。タチコマ2機を護衛につけるわ」
瞬時に課員たちに的確な指示を出していく少佐。相変わらず頼もしい限りであったが、課長として感心している暇はない。
「容疑者を移送するのか?どうするつもりだ?」
「これがもしウイルス感染によるものだったとしたら、初動対応が重要よ。下手に電脳を弄らせるより前に、警察病院などに送って痕跡を確かめた方が確実だわ。それに、時間が経てば感染源が突き止めづらくなる。なるべく急ぐ必要があるわね」
「分かった。所轄には連絡しておこう」
そこへ、再び後ろのドアが開くと息を切らせてトグサが駆け込んできた。締めていたはずのネクタイはなくなり、シャツもすっかり汚れてよれよれになっている。普通であれば、何があったのか問いただすような酷い身なりだった。
「遅いぞ。バス事件の詳細は洗えた?」
「ええ、何とか」
一度深く息を吸い込んで荒い呼吸を整えた彼は、すぐに報告を始める。実は彼はここに来る途中に、同時多発的に発生した事故の一つに遭遇していたのだった。幸い、彼と同乗していた彼の娘には怪我はなく、最終的に事故自体もトグサが運転手を制圧して抑えたものの、その被害は甚大なものだった。
すでに2人が心肺停止、1人が意識不明の重体となっている。また、重傷者も数人出ていた。現場の国道は封鎖され、いまは証拠品などの収集が行われている。
「運転していたのは新浜交通社員の石井という男で、バス運転歴は11年。前科はなし。事故を起こした357号車には、回送のため乗車していました。出勤時の様子をほかの社員に聞き取りしましたが、特に変わった様子はなかったそうで、営業所の防犯カメラの映像もそれを裏付けてます」
「なるほど。だけど、暴走時はまるで気が狂ったような有様だったそうね」
「はい。こちらの呼びかけにも一切応じず、まったく理性がない状態でした。制圧した後はずっと意識がなく、昏睡状態のままです」
それを聞いた少佐は軽く腕を組むと再び考え込んだ。事故時の状況があまりにも自分が昨日遭遇した航空機テロの機長と似ていたからだ。通報を受けている他の事件や事故なども、今の段階では発生時の詳細な情報は分からないものの、今回のバス運転手と同様の状況となっていた可能性が高いという。現場に最初に駆け付けた所轄から上がっている報告にも、似たようなものが出ていた。
発生時の状況が同じだとすれば、考えられる原因は一つしかない。ウイルスによる同時多発的な電脳汚染である。
しかし、電脳関連技術が普及して間もない黎明期であれば納得できるが、現在では技術も発達しておりそう簡単には電脳汚染は起こり得ない。セキュリティ対策ソフトも普及し、個人用の防壁ですらハッカーが易々と突破できる代物ではないのだ。
ウィザード級と呼ばれるほどの天才ハッカーが組み上げたウイルスだとすれば、不可能ではないだろう。だが、現時点での感染者は30人近くに上っている上、彼らの共通点はほぼ皆無に等しかった。それだけの不特定多数の人間に対し、どのようにして感染させたのだろうか。その感染源だけが気掛かりだった。
「とりあえず、事態に進展があったら連絡をお願い。私は機長の解析に戻るわ。トグサ、お前は少し休め、疲れがたまっているはずだ」
「了解しました、少佐」
オペレーターたちが絶えずキーボードのタイピング音を響かせる中、そう言うと少佐は静かに部屋を後にした。一方、トグサは溜め息をつくと軽く目を押さえる。無理もなかった。あの事故のあと、すぐに迎えに来た妻に娘を預けた彼は、事故の詳しい情報を所轄の捜査官たちから聞き出すと大急ぎでここに戻ってきたのだった。
休む暇は、まったくといっていいほどなかった。しかし、いくら人手が足りないとはいえ、疲労がたまっていては集中力が切れるし、何よりヒューマンエラーの元となる。それこそが、事件解決への手掛かりを見落としたり、命取りにも繋がりかねないのだ。
それらを心得ていたトグサは、彼女に言われた通り休むことにした。捜査資料や報告書を軽くまとめた彼は、欠伸をするとゆっくりと休憩室へと歩き出す。少しばかり仮眠を取ろうか。トグサは薄手の毛布を手に取ると、静かにソファに腰を下ろした。鉛のように重い瞼が閉じるのに、あまり時間は掛からなかった。
2018/10/4 一部修正