攻殻機動隊 -北端の亡霊-   作:変わり種

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第12話

車窓から見える景色は辺り一面の銀世界。木々に厚く積もった新雪は凍り付き、風に揺れてはパラパラと塊となって地面に落ちていく。遠くに見える山々の山頂は真っ白なシルクのようにどこまでもなめらかで、朝日を照り返して光り輝いている。

 

サイトーはそんな峠道を疾走するバスの中にいた。定員20人ほどの古びたマイクロバスで、座席にはサイトーと同じような身なりをした男たち10人あまりが座っている。皆、行き場に迷った退役軍人や元傭兵たちで、巧みな勧誘を受けて乗車したものが多かった。彼自身も、勧誘を受けて乗車したうちの一人であったが。

 

このバスが向かっているのは、網走の近くにある共同宿泊所である。表向きは生活に困窮する人々を低額で宿泊させ、職業訓練や生活支援を行っていくと謳っているが、実際のところは何一つ分からなかった。行き先こそ伝えられているものの出発前の説明は極めて曖昧なもので、具体的な情報はほとんど告げられてはいなかったのだ。

 

なぜ、サイトーがここにいるのか。

 

それは昨日の昼まで遡る。

 

あの日の朝、例の宗教団体に繋がっている可能性のある勧誘を受けたサイトー。彼はすぐに周りのホームレスたちやこの辺りの事情に詳しい情報屋に接触し、できる限りの情報を集めたのである。そして、それらから出てきた結果は思った通りのものだった。

 

話によるとあの慈善団体は2年ほど前からあのような炊き出しをしては、集まってきたホームレスたちに低額宿泊所の案内を渡していたのである。しかも、勧誘を受けた人間には共通点があった。今の彼が装っているような、退役軍人や元傭兵。連中はそのような人間にしか勧誘せず、他の人間にはあまり興味を示さなかったというのだ。

 

加えて、興味深い情報もいくつか出てきた。知り合いが勧誘を受けてその宿泊所に行ったという男に話を聞いたところ、最初は普段通りしばしば電通やメールでやり取りしていたが、ある時を境に急に音信不通になったという。しかも、その前には気になることも言っていたらしいのだ。

 

『まずいところに来た。死ぬかもしれない』

 

それを最後に、彼とは連絡がつかなくなってしまったそうだ。

 

もう一つ、聞いた話ではその宿泊所というのは札幌ではなく、道東のどこかにあるという。それはまさに道警が監視していた例の宗教団体の拠点とも一致する。可能性を考えると、勧誘を受けたこの宿泊所こそが、例の宗教団体の施設という線が濃厚だった。おそらく、そうして集めてきた人間たちに食事や住処の提供を餌にして、入信を強要させているのかもしれない。

 

しかし、分からない部分もある。なぜ、退役軍人ばかりを勧誘するのかという点だ。道警の話でもそれは出ていたものの、それは結果論として軍人の入信者が多いという情報だった。だが、今回得られた情報は明らかに連中が元軍人ばかりを意図的に勧誘しているというものだ。その差は到底無視できない。結果的に多くなったのか、意図的に集めていたのかでは、全く状況は違ってくるからだ。

 

いずれにせよ、それは潜入して明らかにしなければならない。リスクの高い作戦ではあるが、9課のバックアップもある。踏み込めるだけの証拠さえ手に入れば、あとは道警の協力のもと強制捜査を行って、真実を白日のもとに晒せば良いのだ。

 

そうしてサイトーはその日のうちに案内のカードに書かれていた事務所を訪ね、トントン拍子に話が進んだ結果、このバスに乗ることになったのだった。幸運なことに、週に一度のバスの出発日に重なったのも一つの要因だった。

 

バスは三国峠を越え、田園地帯を走り続けていた。といっても、今は雪と氷に閉ざされた白い大地が広がるのみ。ひとたび風が吹けば舞い上がった雪が地吹雪として周囲を覆い、視界がホワイトアウトしかけてしまう。雪と氷の砂漠と例えた方が、正しいのかもしれない。

 

乗っている他の男たちはここに来て不安を感じ始めているようだ。行く当てこそ何もないから勧誘に乗ったものの、考えてみればこれほどおいしい話はどこか怪しかった。食事や住処も出る上に、職業訓練や仕事の斡旋までしてもらえる。そんなことが果たしてあり得るのだろうか。それに、連中は施設を抜けて自立するときのことを何一つ話していなかった。

 

もしかすると、一生奴隷のような生活を送ることになるかもしれない。もしくは即座に解体されて臓器を売られるのではないか。そんな不安が、彼らの心の中に渦巻いていたのだ。

 

そんな中、サイトーはぼんやりと外を眺めながら、タチコマに電通を入れる。

 

《ちゃんとついてきてるか?》

 

《雪と氷で光学迷彩が効かないので、距離を開けて追ってます。それにしても冬は滑りますねぇ…。さっき危うく路外に落ちそうになりましたよ》

 

通信状態が悪いのか、時折ノイズが混ざっていた。距離にして5キロほど離れたところを走っているのだろう。タチコマのタイヤでは直径も小さく、雪に脚を取られやすいのは目に見えていた。元々、これほどの長距離移動を考慮していないのだからやむを得ないのだろうが、一抹の不安が残る。とはいえ、出発前には赤服に専用仕様のスタッドレスタイヤに取り替えてもらっているので、全く準備がないわけではないのだ。

 

《定期的に位置情報を発信するから、それを辿って来い。間違っても事故るなよ》

 

《もう、サイトーさんてば。少しはボクを信用してくださいよ!》

 

タチコマはやや不服気味にそう答えた。サイトーは姿勢を伸ばすと、顔に帽子を乗せて目を閉じる。外は何も見えず、中の男たちもこれといって何かを話す素振りもないからだ。それに一応、警戒のため意識は保っているものの、休息も時には必要だった。特に、これから何が待ち受けているのか分からない自分にとっては。

 

エンジンの唸りと時折聞こえる風の音。

 

何分が過ぎただろうか。目を開けて帽子を取ると、バスはちょうど道を右折し、林道へと入ったところだった。雪の積もった白い田園が広がっていたはずの景色はいつの間にかエゾマツやトドマツが生い茂る森の中へと移り変わり、バスは急な山道をゆっくりと上っていく。

 

先ほどまでの道路と違ってあまり除雪されていないのか、車体の揺れは尋常ではなかった。右へ左へと大きく揺さぶられ、手摺りに掴まっていなければそこら中に体を打ち付けてしまいそうなほどだ。

 

それでも、数分余りで山道を抜け、バスはようやく目的地に到着した。停車と同時に枯れたような音でブザーが鳴り、ドアが開くと冷気が車内に吹き込んでくる。暖房の暖かさにまどろんでいた男たちの目は一瞬で覚め、寒さで体が縮こまる。

 

他の男たちが荷物をまとめる中、サイトーは曇った窓を指でこすると外を見回した。居住区と思しき長い平屋建ての建物が右に3棟。左にはガレージと思しきシャッターの降りた蒲鉾屋根の建物が2棟と、三角屋根の小屋が1棟。いずれも所々に剥がれそうなトタンが見える、粗末なつくりだった。奥には道がさらに続いているが、わだちは見当たらない。少なくとも今朝雪が降ってから車は通っていないようだ。

 

粗方の配置を確認したところで、サイトーも男たちの後に続いてバスを降りる。積もった雪に足がずぼっと埋まった。寒さに凍えてポケットに手を突っ込んでいると、居住区の方から男が出てくる。背が低く顔は真ん丸で、雪だるまみたいな男だった。彼は頬と鼻先を真っ赤にしながら、案内を始める。

 

「ようこそ。私は君らの支援担当の下田だ。まずは寒いだろうから、中に入ろう」

 

連れられるがまま、サイトーを含めバスに乗っていた男たちは長屋の中へと入っていく。風除室付きの二重玄関を抜け、すぐ目の前にある集会室に案内された彼らは、ひとまず荷物を置いて用意されてきた椅子に腰を掛けた。

 

「まずは長距離の移動ご苦労と言いたい。はるばるこんな辺境までよく来てくれた。感謝する」

 

下田といった男は、被っていたフードを脱ぎながら皆にそう言った。

 

「次は簡単に施設の案内といこう。今いるこちら側の3棟が居住棟だ。そのうち、君らには中央のB棟に寝泊まりしてもらう。で、さっき見えていたシャッターの降りた小屋がガレージ。夏場の作業で使うトラクターが入っている。その隣の三角屋根の小屋が作業棟だ。冬の間はここで職業訓練を行ってもらう。以上だ」

 

男たちは表情一つ変えずに沈黙を貫いている。今まで散々な仕打ちに合ってきたのだから、何一つ信じていないのは無理もなかった。まだまだ深い疑いの目を、この下田という雪だるま男に向けていたのだ。

 

「まあ、すぐに慣れるさ。居住区は全て4人部屋、この表の通りに入居してくれ。飯は朝昼晩の3食で、それぞれ6時、12時、18時。食堂はここだ。他の入居者もいるから、くれぐれも仲良くしてな。職業訓練の内容は夕飯後にまた説明するから、飯が終わっても残るように」

 

はきはきとした口調で説明を終えた下田は、部屋割りの書かれた紙をバインダーファイルごと残すと去っていった。その場に残された男たちは若干の間を開けた後、それぞれ部屋割りを確認していく。

 

サイトーの部屋はB棟の12号室。手前から4番目の右側の部屋だった。一緒に載っていた建物の構造図にも目を通したが、至ってシンプルなもので、中央に廊下が1つに左右に部屋が8室ずつ計16室あるつくりだった。単純計算で64人もの人間がこの建物で暮らしていることになる。建物の大きさを考えると、明らかに釣り合っているとは言い難い。

 

それでも、ここに来るような人間はもともと住むところがないような人間ばかりだった。住むべき場所があること自体、彼らにとっては大きな違いだったのだ。誰一人文句を言わず、黙々と部屋の中へ入っていく。サイトーも押し黙ったまま細く暗い廊下を進み、自分の部屋へと入る。

 

(ま、予想通りだな)

 

部屋の左右に2段ベッドが1台ずつ。それだけで部屋の大部分の面積が占有され、共有スペースはベッド間の僅か1メートルほどの空間だった。雰囲気的には客船の2等船室にも近いが、ここはそれよりも遥かに狭い。窓には屋根からの落雪避けのためか、木の板が外から3枚ほどはめ込まれ、ただでも光の差し込まない部屋は余計に暗くなっていた。日中でも明かりを付けなければ手元すら満足に見えないだろう。

 

「よろしく頼む」

 

既にベッドに陣取っていた2人にぶっきらぼうに挨拶したサイトーは、残っていた右上のベッドに登る。天井までの高さは60センチかそれよりも少ないくらいで、中腰どころか四つん這いにならなければ移動できない。ずっとここで暮らしていたら腰が曲がりそうだった。

 

とりあえず荷物を枕とは反対側に置いた彼。見ると、枕元には作業着のような上下真っ白の服が置いてある。これを着ろという事だろうか。隣には筆文字で入団のしおりと書かれたものが一冊。軽く中身に目を通してみると、施設紹介や職業訓練の内容など必要なことが事細かに記されていた。

 

しかし、それ以外にも書かれていたのが一つ。旧約聖書の一節とその解釈だった。内容としてはアダムとイヴの創造から楽園追放までが独自解釈を含みながら膨大に書き記され、また近年の遺伝子研究の結果も織り交ぜながら、人類総兄弟説を説いているものだった。

 

天地創造の終わりにヤハヴェにより創造されたアダムとイヴ。彼らは命の樹と知恵の樹の生い茂る楽園で暮らしていたが、ある時イヴが蛇に唆された結果、掟を破って知恵の実に手を付けてしまう。そして、イヴの誘いに応じたアダムも知恵の実を食べた結果、互いに裸であることに気づき、腰をイチジクの葉で覆ったのだ。そして、原罪を犯した彼らは主なる神によって彼らは楽園を追放され、地に降り立ったのである。

 

また、遺伝子研究の見地からもミトコンドリアDNA解析で辿った結果として一つの共通祖先に行き着くことから、科学もがこれを裏付けているとこの筆者は主張していた。皆、人類はみな一つの祖先から生まれた兄弟なのだ。最後に筆者はそう唱え、等しく平等な愛を追求していたのである。

 

サイトーは軽く読み漁ると、静かに冊子を閉じた。

 

突っ込みどころなら山ほどある。確かに何十年か前にミトコンドリアDNAの塩基配列の解析によって、人類の共通祖先が一人の女性に行き着くことを示す研究結果は出ていた。しかし、それはあくまでも現生人類のミトコンドリアの塩基配列を辿った結果として行き着いた女性であって、それがすなわち人類すべての単一祖先であるとは示していないのだ。

 

分かりやすく言い換えるならば、今の人類に遺伝子を残した祖先の“一人”。こう解釈した方が正しいのだろう。俗にミトコンドリア・イヴと呼ばれてはいるが、彼女一人から人類が派生していったわけではなく、彼女と同世代の女性たちもみな祖先であるといえる。ただ、彼女のミトコンドリアDNAが運良く絶えることがなかった。それだけなのだ。

 

彼はベッドに体を横たえると、体を大きく伸ばす。どこかカビ臭い天井に、シミのついたシーツ。住環境としてはお世辞にも良いとは言えないが、難民街での暮らしに比べるとまだマジな方だ。

 

ひとまず冊子を枕元に置くと、彼はおもむろに用意されていた衣服に着替え始めた。隣のベッドの男も、何やらブツブツと独り言をつぶやきながら着替え始めている。紐付きの白いズボンに長袖のTシャツ。思ったよりも薄手なので、暖房の効かないこの部屋の中では肌寒かった。

 

着替えを終えたサイトーが荷物を片づけていると、突然ドアが乱暴に開く。

 

入ってきたのは無精髭を生やしたいかにも強面の男。ここに集まる男たち自体、元軍人が多くそれなりに顔つきは険しく恐ろしいものであるのだが、この男はそんな彼らとも比べ物にならなかった。

 

彼は入ってさっそく、自分のベッドが一つしか残されていないことに腹を立てたのか、あからさまに大きく舌打ちをする。もちろん最後に来た本人が悪いのだが、左下のベッドの男が初っ端からのその態度に頭に来たのか、じっと男を見返すと同時に立ち上がった。一気に張り詰める空気。サイトーは横になり無関心を装いつつも、冷静に状況を観察する。

 

「何だよ、お前」

 

睨み合っていた両者だったが、先にベッドにいた方の男が先に手を出した。相手の胸倉に掴みかかろうと、一気に相手に飛びかかったのだ。しかし、無精髭の男は掴みかかってきた相手の腕を片手だけで軽々捻じ伏せると、ぎょっと目を見開く相手の腹部に強烈な一撃を叩き込む。

 

一瞬の出来事だった。

 

相手は膝を折って崩れ落ち、咳き込みながら苦悶の表情を浮かべている。一方の男は掴んだままの片腕を強引に引くと、止めとばかりに相手の顔面に膝蹴りを食らわせようとする。が、既のところで思いとどまったらしい。そのまま相手を突き飛ばすと、無言のまま残った最後のベッドに荷物を置いて横になった。

 

「ひ、ひぃ…」

 

一部始終を見ていたもう一人の男はあまりの出来事にすっかり怯え、口を半開きにしたまま気の抜けた声を漏らす。サイトーはというと、壁の方に体を向けながらも注意は男に向け続けていた。この男、多少の戦闘経験はあるらしい。プロほどではないが、動きの無駄が少ない。どこかで実戦格闘術を学んでいたか、戦地である程度従軍経験があるのか。

 

その時、廊下から鐘の音が聞こえきた。夕食を告げるものらしい。

 

サイトーは静かに起き上がると、さりげなく視線をその男へと向ける。着替えないままベッドを降りた彼は、ほかの2人が縮こまっているなか足早に部屋を出ていった。その後ろ姿を見送ったサイトーは、ベッドの上で少しばかり考え込む。

 

あの無精髭の男には注意した方が良さそうだった。ここで問題を起こされては、色々と面倒なことになりかねない。サイトーはそう考えていた。だが同時にそれは、この施設の対応を知る非常に良い手段にもなり得る。彼への対応こそが、この施設の真意を知る手掛かりになるのだ。

 

他の2人も部屋を出たところで、サイトーもそれに続いて部屋を出た。潜入はまだ始まったばかり。まずはここでの生活に逸早く慣れ、溶け込むこと。探りの入れるのはその後になるだろうが、リスクは冒せない。常に緊張を強いられる極限の生活が、これから幕を開けるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「いまだに網に反応はなし。しばらくは潜りそうね」

 

9課のオペレーティングルームでは、少佐がじっとモニターを見つめながら一人そうつぶやいた。無人機が消えてから12時間余り。周辺には所轄の検問が網目の如く敷かれ、さすがの相手でも回避するのは不可能だった。にもかかわらず引っ掛からないということは、相手はまだ現場からそう遠くないところに潜伏しているのかもしれない。もっとも、既に現場から遥か彼方に去っているという可能性もあるが。

 

セオリーに忠実といえば忠実だった。強盗にしろ殺人にしろ、移動ほどリスクの高いものはない。逃げるならば犯行後すぐか、ほとぼりが冷めてからかのどちらかに限られる。今回の犯人は後者を選択したらしいが、武装状態の無人機を盗んで早々無事に抜けられるわけはない。このまま潜伏し続けても捜索範囲が絞られている以上、発見は時間の問題だった。

 

だとすれば、道は一つしかない。無人機を解体して運ぶのである。分解してパーツごとに分ければ超大型トレーラーなど目立つ車両ではなく、ありふれた車でも輸送は可能だ。ただ、航空機に相当精通した技術者がいなければ、解体することはできても組み立てることはできないが。

 

しかし、テロリスト側にそのような人材がいないとは限らない以上、あらゆる可能性に備えるのは常に必要だった。

 

「所轄に伝えて。対象車両を大型トレーラーから普通自動車までに拡大。積み荷の確認と運転手の身元確認を徹底させて」

 

「了解しました」

 

オペレーターが瞬時に手配情報を書き換え、検問中の全警官へ更新情報が送られる。現場の負担は圧倒的に増すだろうが、こちらもみすみすテロリストを逃がすわけにはいかない。ここで押さえなければ、もう後はないのだ。

 

その時、後ろのドアが開く。

 

「状況はどうだ少佐?」

 

「見ての通りよ。目立った動きはなし」

 

退屈しのぎにやってきたバトーは欠伸をしながら、腕を組んで壁に寄りかかっていた。課長が見ればすぐにお小言を言われるだろうが、今はそんな心配は無用だった。

 

なぜなら課長はいま、外務省に探りを入れているからだ。

 

テロリストが狙っている武田氏。確かに彼は元アジア局長で在任中に沖縄消失事件も起こるなど、命を狙われてもおかしくは存在だった。だが外務省絡みとはいえ、なぜ6課がこちらに何も告げずに動いていたのか。それが妙に引っかかるのだ。

 

まるで、彼が狙われていることを隠したいかのような動きだった。見本市の件でもあらかじめ9課では警備要員全員の身元をチェックしていたものの、武田氏だけはボディガードの存在を事前に知らせてはいなかったのだ。

 

もしかすると外務省もしくは6課にとって、彼が狙われているのが明らかになっては不都合なことがあるのかもしれない。探られたくない“何か”があるからこそ、外務省側は身内だけで武田氏の護衛をさせていたのではないか。課長は薄々そう直感していたのだ。

 

もっとも、それを暴き出すのは容易ではないだろう。6課にも優秀な人材は多数いる。それに彼らの本業は諜報活動であり、そうした工作にも手慣れているはずだった。そんな彼らがそうそう尻尾を出すとは思えない。

 

「全く、じっとしてるってのはどうも俺の性には合わねえな。モグラみたいに潜ってないで、さっさと出て来いってんだ」

 

「叩けるモグラがいればいいんだけど」

 

少佐がぼそっとそう返す。ぎょっとしたバトーはすぐに彼女を振り向いた。

 

「何?まさか、もう抜けられてるかもしれねえってことか?」

 

「分からないわ。だけど、相手も相手よ。無人機なんて盗み出して、これだけの包囲網を抜けられると思う?私なら盗み出したら何が何でも真っ先に逃亡するし、もしそれができないのならこのゲームから降りてると思うわ」

 

「もしかすると、ここにきて犯人がボケたとか?」

 

「冗談はよして。確かにリストから上がってきた元諜報員たちの実年齢は60近いけど、それならこんな事態になる前からボロが出てるわ」

 

振り返りもせずにモニターを見つめながら答える少佐。今になって少佐自身も、やや不安を感じ始めていた。もしかすると、犯人たちは既に包囲網から抜け出しているのではないか。自分たちがこうしている間も逃げ延び、どこかでにやりとほくそ笑んでいるのではないか。そんな気がしてならないのだ。

 

何より盗難判明が遅れたということが大きな痛手だった。その間の移動距離も見越して十分余裕をもった包囲網を設定してはいるが、犯人側がそれを上回らないとも限らない。念のため包囲網外側のIRシステムも9課で監視対象に指定しており、今のところ目立った反応は出ていなかったが、安心はできない。

 

このまま事態に進展がなければ、この場は所轄に任せて自分たちは早いところ見切りをつけた方がいいのかもしれない。いつまでも当てのないものを待ち続けるわけにもいかないのだ。義体メンテのために自分とバトーこそ本部に引き上げてはいるが、パズとボーマはそのまま茨城に残ってタチコマとともに待機状態にある。彼らをそのままにしておくのは、捜査の観点からも得策ではなかった。

 

考えあぐねる少佐。その時だった。

 

《つくば市郊外にて604発生。犯人はなおも逃亡中》

 

「ほら、心配するこたぁなかっただろ?」

 

「全員出動、犯人を押さえるわよ」

 

少佐はバトーには答えず、指示を出す。ここでモグラが顔を出したのは予想していなかったわけではないが、正直意外だった。本当にこれは叩くべきモグラなのだろうか。ふと、そんな疑問がわき上がる。自分にはどうも、相手の思惑に嵌っている気がしてならなかったのだ

 

だが、モグラが出てきて叩かないわけにもいかない。そのまま放っておけば、確実に逃げ延びていずれ自分たちを脅かすことになる。それを避けるには、ここで止めるほかないのだ。

 

大きく息を吸い込んだ彼女は、静かに歩き出した。

 




2018/10/22 一部修正

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