‥‥ただ最近ちょっと、帰宅してないので手作りの料理と縁がない。
記憶を探るのは難しいですね。
涼やかな風が吹き込む道場の朝は、彼女の特等席だった。
私室に荷物らしい荷物を(いくばくかのぬいぐるみを除き)置かない彼女にとって、むしろ私室よりも寛げる空間と言ってもいい。
本来ならば戦場での心構えさえ説くべき場所で落ち着けるのは、花が光を求めるように当たり前のことなのだろう。
当然その手にあるべき稽古道具、竹刀は道場の隅にまとめて収められている。彼女は稽古のために来ているわけではないのだから当然だ。
金砂のような美しい髪と透き通った湖の底のような瞳は到底日本人ではあり得ないというのに、真っ直ぐに伸びた背筋と緊張なく畳まれた足は侍にも似ている。
「―――相変わらず早いのだな、セイバー」
「‥‥貴方でしたか、アーチャー」
「ふっ、気づかれてしまっていたか。いや、私もまだ未熟だな」
ミシリ、と僅かに廊下の床が軋み、振り返った。身の丈は二メートルにも達するかというすらりとした巨躯。浅黒い肌にくすんだ白髪の同居人だ。
新聞でも読んでいたか、縁のない老眼鏡が若い癖にやたら似合う。しかし赤いエプロンとモフモフの スリッパが精悍な印象を妙な方向に崩していた。
この男、こういった“外した”ファッションがべらぼうに様になるのだ。普段ならば彼の主や賑やかな他の住人達が許さないのだが‥‥今日は誰もいない。
「凛達から連絡は入りましたか?」
「いや、まだだ。なかなか忙しいようだな。そも、こんな時間に電話などかけてこないだろうよ。デリカシーのない小僧なら別かもしれんが」
「時差がありますから、その点は心配ないでしょう。余計に気を回すに違いない」
「ふん、だといいがな」
主の話は誇らしげに、あるいは父のように。しかし主の恋人である少年の話題には、一徹して冷たい。突き放すならともかく、わざわざ背後に回って全力で突き飛ばす辺りは、むしろ不器用な親切なのかもしれないとセイバーは少し笑った。
その微笑みが憎たらしい小僧に向けられたものかと、一段と皺が深くなる。
「‥‥まぁいい。朝食の支度が完了した。まだ此処にいるかね?」
「喜んで向かいましょう。貴方の作る朝食は久しい」
「む。まぁ、二人しかいないからな。無駄に凝ったものは作っていない。期待に答えられんかもしれんが」
「過ぎた謙遜はよしなさい、アーチャー。楽しみにしていますとも」
二人連れたって廊下を歩く。四月も半ばを過ぎたというのに、やたらと涼しい朝だった。
差し込む陽の光は暖かだが風が寒い。馴染みの弓兵も流石に今日は長袖だ。
そういえば、この同居人は中々露出の差が激しいと、歩きながらどうでもいいことを考えた。
「夏は変態チックですからね」
「何か?」
「いえ、なんでも」
程なく食堂へたどりつく。既に用意されていた朝食が食卓に並んでいた。
家主が厨房に立つ時にはやたらめったら多い料理の皿が、今日は若干ながら少なめだった。
なるほど、質実剛健で差をつけたか。この男、中々子供っぽく負けず嫌いである。
「さて、まだ出していないものがあるな。スープを持ってこよう。先に食べているといい」
「私とて待つことは知っていますが」
「そういう意味ではない。冷めては美味しくないだろう。すぐに戻る」
「‥‥まったく、強情ですね。では、お言葉に甘えるとしましょうか」
今日はどうやら洋食。イングリッシュブレックファーストか。
凝り性だからか、トースターラックまで据えてある。わざわざ買うまでもなく、おそらく投影物だろう。山ほどのトーストが入れてあった。
皿にはシンプルな、レタスとスライスオニオン、それからトマト。サラダというよりは生野菜の盛り合わせか。ドレッシングではなく、オイルで食べるのか。
「少し酸っぱい。レモンですね。これは爽やかだ」
薄切りのハムを丸めてフォークに刺し、野菜と一緒に頬張った。ハム独特の匂いがサラダで和らぎ、肉の歯ごたえの中に混ざった爽やかな匂いが実に良い。
半分ほど飲み込んで、残りをおかずにトーストを口へと運ぶ。先ずは何もつけずに。ふむ、彼の作るものに外れがあるわけもないが、やはり悪くない。
バターもジャムもつけないトーストは、少し焦げた匂いとパリッとした触感がお気に入りだ。オイルとごくごく僅かな肉汁と混ざって、いくらでも食べてしまいそうになる。
「ちょうどいい焼き具合です。チーズとバターも無しに食べられます。これはおかずが捗りますね」
しかし他のものにも目移りしてしまう。我慢していたわけではないが、そろそろ調味料にも手を付けよう。
バターやマーガリンは当たり前だが、薄切りのチーズはこだわりだ。
最初から薄切りの市販品ではなく、どっしりと重い塊からナイフで切り分ける。勿論マーガリンはすでにトーストに塗っておくのだ。
焼きたてのトーストにマーガリンはよく染み込む。匂いが既に美味しい。テーズは流石に溶けはしないが、先程みたいにサラダとハムと合わせて食べれば幸せになれる。
「満足してくれているようだ。手抜きで悪いな、セイバー」
「手間をかければいいというものでもないでしょう。‥…それは?」
「ほうれん草のスープだな。ベーコンとハムで肉の種類が少し被ってしまったか‥…まぁいい。熱いから気をつけて飲むといい」
形だけは対面を保つためか、皮肉な笑みを浮かべて出されたのは、ドロドロの緑色のスープ。かなり濃く見える。食べたことがないスープだ。これは面白い。
ドロリと抵抗の強いスープを、スプーンで掬って丁寧に口へ運ぶ。意外にも思ったよりも薄味。舌を刺激する濃い味ではない。塩とコショウでささやかに味付けされている。舌で味わい、鼻へと空気を抜けさせると優しい緑の香りがした。
「ミキサーの音がしていましたが、成る程。これはいいものですね」
「食欲をそそらんかと思ったが杞憂だったようだな」
「この程度で私は臆しはしません。……タコは別ですが」
「ク、そうだったな。安心したまえ。偏食を克服するというなら手伝いもするが、相手が嫌うものは出さん」
ふむ、ふむと頷きながら食べ進める。スープなのに食べ応えがある。向かいに座って自分も食べ始めるアーチャーの真似をして、トーストを千切って浸してみると、スープをすくうことが出来た。これも美味しい。トーストが進む。
いつの間にか淹れられていた熱い紅茶は、遥か先の時代に流通するようになったものだというのに不思議と舌と喉に合った。遺伝子レベルでイギリス人に合う飲み物なのだろうか。遥か古代の人間である自分も、イギリス人なら紅茶であると思わず主張してしまいそうになる。
次に手を伸ばしたのは甘味。黄色い熊のキャラクターをあしらった黄色いツボには衛宮家では珍しい、自家製のマーマレード。
市販のものに比べると甘みは控えめだが、しっかりとオレンジの形が残っている。これもまたトーストにたっぷり乗せて頬張った。
酸味と甘みを堪能し、熱い紅茶を一口。思わず満足げな溜息が零れるのをどうにも止められなかった。
「ふむ。その調子だと、食後の紅茶は要らんかね?」
「何を言うのですかアーチャー。食後にも飲むのです。紅茶の文化はブリテンが誇るべきものだ」
「産地はインドだかな」
「広めたのは我が祖国だ」
「やれやれ、イギリス人は自尊心が強い。もう食べないなら、すまないが食器を下げてくれたまえ」
洗い物も含めて台所は弓兵の戦場だ。限られた者しか共闘は許されない。
せめて食器を下げ、食卓を拭き、紅茶を注いでまた一口。洗い物の水音を背中で聞きながら、テレビの電源をつけた。
ロンドンは今頃何時だろうか。あの二人なら身の危険とは無縁だろうが、余計な騒動は量産しそうである。
「チョコレートがあるのだが、食後にどうかね?」
「頂きます。それとアーチャー、二人の帰国は」
「予定では明日だ。駅までは迎えに行くとしようか」
ふむ、とチョコレートを齧りながら考える。となると、あと丸一日は自分の好きなものを弓兵にねだれるわけである。
こんなチャンスはそうそうないことだ。
趣味が料理、というプロ顔負けの家庭料理人が飽和しているこの屋敷だが、それぞれ好みが違うために献立の決定については議論が紛糾する。好きなものを最高の料理人に頼めるチャンスは得難い。これは逃さず、好機を満喫するべきだろう。
「アーチャー、午後の買い物には私も行きましょう」
「君が?‥‥あぁ、成る程。しかし買い食いは控えたまえよ?」
「荷物持ちに行くと言っているのです!貴方は私を何だと思っているのですか!」
「食欲魔人‥…とはとてもとても、そんな失礼なことは考えておらんよ」
「‥‥いいでしょう、ならば先ずは道場だ。貴方の私に対する認識を改める必要があるようですね」
ぴしり、と空気が凍りつく。
これは自分が悪いわけではない。明らかに向こうから喧嘩を売ってきたのだと理論武装を重ねた。
うん、問題ない。これは説教の一種であって折檻ではない。
「先に三本とった者が江戸前屋の大判焼きを奢る。それで構いませんね?」
「私とて負けるつもりは毛頭ない。大丈夫かね、既に勝ったつもりでいるが。足元を掬われても知らんぞ?」
「無論。奢り云々よりも、貴方をギャフンと言わせたいものですね」
「‥‥よかろう。ならば加減は無用だセイバー」
「こちらこそ全力で来なさい」
うららかな初春の空気の中、仲良く言い争う二人。
結局この時に約束した稽古に白熱するあまり疲労困憊。
ありあわせながらも工夫を凝らした料理にセイバーは満足することになる。
またセイバーが初めて包丁を握ると言った小さな事件もあったのだが。
それらはまた、後日にて。