転生した者は喜びの声を上げ   作:ガビアル

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転生した者は喜びの声を上げ

 胸元に迫る繊手を場違いにも「美しいな」などと思った。

 一瞬の衝撃、空に薔薇のような血が舞う。

 私はどこか痺れた頭でそれを見て、ゆっくりと倒れ伏す。

 

   ◇

 

 岩塊に潰された自分、それはもう酷い有様だった。

 痛いというより熱い、熱いというより寒い、寒いというより感覚がない。

 ある意味幸せだったのかもしれない、きっと失血性ショック、確かそんな名前だ。心臓が動きを止め、脳に血がいかない。息だけが荒くなるも、眠りにつくがごとく静かに意識は消えていった。

 

「……日本語というのも悪くない。さて気がついたかしら」

 

 一瞬の意識の空白の後、白い場所に居た。石灰岩の純白の床、装飾の施されたやはり純白の柱、そして純白の壁。思考が止まる、血を吹き出してぽっくり逝ったはずだと思ったのに。むしろあれは夢? そうも思いたくなる、手はある、足もある。頬を触れば顔もある。

 

「混乱しているのは理解できる、人は皆そう。記憶は残っている? どこで死んだかは?」

 

 美しい女性が目の前に居た、美しいというより凛々しく、凛々しいと言うには神々しすぎる。纏った乳白色のトーガ、いやヒマティオンというのだっただろうか、衣服を揺らし、手を差し伸べてきた。

 素焼きのコップに水、飲みなさいというので恐る恐る受け取る。なぜだか有り難みのある水を飲み、思考を落ち着かせる。

 

「記憶、記憶……そう、俺は旅行で、アテネに来て……パルテノン神殿に来て、地震が、崩れ……え?」

 

 はっきりしすぎている。あれは夢では、ない? 嘘。

 

「そう、お前は死んだ。ただ、望むならば生かしましょう、その為にハデスに頼み、冥界、レーテのきわより連れてきたのだから」

「死……冥界?」

「ええ、お前は我が名を冠する都市、我が神殿で捧げられた久しぶりの人の魂、機嫌もよくなろうと言うもの。ただ、オリュンポスに入れ、仕えさせるほどの資格は無い、それ故生かし、イアソン以来の祝福を与えようと言うのです。我が祝福を得、今ひとたびの人生を送れば英霊の一角とするだけの命にもなるでしょう。選びなさい、生か死か」

「そ、それは生きたい、生きたい……です!」

「そう、ならば知と美、そして戦を司るゼウスの娘、アテナの名においてお前を祝福しましょう」

 

 女性はいつしか手に持っていたオリーブを編み込んだ輪、それを俺の頭に静かにかぶせた。

 

「そして思いなさい、いかなる大地に生きるのか」

 

 なぜか少し前にあちこちのサイトを巡り読んでいた二次創作なんてニッチなジャンルの事が浮かんできた。待て、待って、何で今更そんなものが、似てる、確かに神様転生とかそんなのと状況似てるけど、止まれ、止まって脳細胞。

 しかし一度思い出してしまったものは止まってくれない、最近もっとも読んでいたアレを思い出してしまうなんて、いやまさか創作物の世界なんてあるわけもない。女性、いやさアテナ様……か? は微動だにしない。ただ静かに眉を顰めた。

 

「父よ、この者は我がものです……いえ、なれば」

 

 独り言を呟いたかと思うと、悩ましげに息を吐く。俺に目を向け、頬に手を当てられる。少しの感情がこもっているように思えた、これは、呆れとかすかな憐憫?

 

「我が父にも困ったもの。そしてオリュンポスは常に享楽に飢えています、むくつけき男などよりヘレネがごとき美女とせよ、などと」

 

 そして俺が何かを言う前に、景色は段々ぼやけ始め──

 

「せめてアフロディーテのものとは異なる、我が美を与えましょう、では次なる生を生きなさい」

 

 視界は白い建物よりさらく白く、塗り替えられた。

 

   ◇

 

 前世の記憶、そんなものを信じる方が馬鹿げている。

 正直信じたくない。そんなものを信じてしまうと、急に世界が壊れ物のように感じてしまい、不安になって、泣きたくなってしまう。ただの六歳児のように。

 そんな子供っぽい心とはちぐはぐ過ぎるほどに体の状態は異常だ、不釣り合いな知性、誰も教えなかったはずの日本語と辿々しい英語はすぐに話せるようになる。記憶力は馬鹿らしいほど良くて、地元の小さな教会が配布していた聖書など一回目を通しただけでそらんじてしまった。

 体も恐ろしく強かった。親に、そんなに乱暴に走り回ってはいけないとも言われるので自粛しているものの、全く鍛える事のない六歳児の体で全力疾走のシェパードに負けず、猫のように自分の何倍もの高さまで飛び上がることもできる。

 容姿については、男であった時の記憶なんかが頭にふとよぎってしまう現状だと微妙なのだが、綺麗な子、美しい子とは言われている。鏡を見れば、確かに目鼻立ちは整っている。茶色というよりもっと薄い色の髪はふわふわと猫っ毛で癖が付きやすいのが難点だが。

 

「うん、今ならまだ少年と見えなくも」

 

 髪は伸ばすのを酷く嫌がってみせるので、常に短い。親指と人差し指でVの字を作り顎に当て、ポーズを取ってみる。何だか鏡の中を自分を無性に殴りたくなった。

 

 極めつけの異常がある。異常過ぎて異常過ぎて扱いに困るもの。

 いつもの場所、地中海の風の吹き付けないオークの林、その奥にひっそりと佇む壁の崩れかけた遺跡。大きな建物ではあったのだろう、石造りの基礎はとても丈夫そうだ。近くに道すら無くて、忘れ去られている。観光客の一人どころか地元の大人達も知らない場所。かつても子供達が見つけて隠れ場所にでもしたのかもしれない。

 その一角で白樺の木を焼いて作った消し炭で模様を描く恐らく元はヘブライ語「白樺」「消し炭」名にも意味がある、それを読み解き数字とし、意味に意味を重ねれば、違う象徴に。本来は占事、自然を占うもの、しかしこれは象徴から現象を生む。回路を動かす、イメージは火。暗闇に蛍のような火が点る。転化された力が模様を走り定着。一瞬の後、発現する『炎』模様に作った象徴通りの現象。綺麗な炎だ。しばらく魅入る。

 魔術に他ならない。それがどんな系統のものであるかなどは全く判らないものの。何故か知識がある。魔術回路がある。何をどうすればそうなるのかが解る。とすると、やはり、どうもその……

 

「抑止力とか埋葬機関とか魔術協会とか、うようよ吸血鬼が居たりするのか」

 

 いかなる大地にと聞かれた時につい想像してしまった物語。

 そんな阿呆なと思い、信じたくなくて、何度も魔術を試した。あの時は混乱していたとしか言えない。試しているうちにどんどん魔術回路が何というか、感覚的にこなれてきた。苦痛が伴うとかどこかで聞いた事あるのだけど、どこに行った苦痛は。少し痺れの走るような気持ちよさすら感じてしまっている。

 足でごしごしと踏みにじり、描いた模様を消す。魔術師連中の狂いっぷりは半端じゃなかったはず。魔術なんかに近づかない方が良いというのは判ってるのに……つい使ってしまう。自分の精神の幼さを盾に取るわけでもないが、常識で有り得ない事を出来るというのはやはり楽しい、新しい事が次々と出来るようになる感覚も癖になる。この知識と労せず使えるこの力、これも女神の加護というものなのか。

 

 家に帰るまでに通りがかった広場で近所の子供に絡まれた。近所の子供といっても自分と同い年、育ちが良く、頭一つ大きい。

 

「ミュリエル! おとこ女のミュリエル! ちょっと待て、新しいドリブル技を覚えたんだ、勝負していけよ!」

 

 ミュリエル、自分の名だった。ミュリエル・クレール、それが新しい名。さすがに馴染んだものの当初は何と無い違和感にも悩まされたものだった。何というかまあ珍しい名前というわけでもなく、ごくありふれた名。そんなありふれた所がちょっと気に入っていたりもするけど。

 この南フランスでもやっぱりサッカー選手は英雄だ、さっきから腕を掴んで放さない少年もまたそんな英雄に憧れるサッカー少年だったりする。

 

「エディー、お腹空いてるんだけど」

「僕の知ったこっちゃない、とにかくきっかり勝負がつくまでやるぞ! いつものように一対一で勝負、シュートはゴールエリア内で蹴ったもののみ有効だ!」

「うおぁー暑苦しい奴だー」

 

 ずるずると引きずられる。勝負がつくまでと言いながら、こうなると自分が勝つまでやめないのだこいつ。そして実はこちらも結構血の気が多いところがあって、盛り上がると中々負けたくなくなってしまう。身体能力が阿呆なレベルで高止まりしているので、大抵暗くなるまでボールを蹴る事になってしまうのだった。

 結局その日も暗くなるまでボールを蹴りあってしまい、悔しそうにしゃがむエディと、腕を組んで勝ち誇る俺、そんな二人が両成敗とばかりに自分の親に夜遊びの罰として拳骨を食らうのだった。

 

 クレールというのは父方の姓なのだが、実は母には先立たれてしまって男手一つで育てて貰っている。この俺みたいな奇妙な子供を育ててくれて何というか、いやまあ、血の繋がりというものもあろうか、やはりかなり好きな父親だった。寡黙だが。プロヴァンス料理のレストランをしていて、ハーブの使い方がそれはもう見かけのごつさに似合わずとても繊細、父直伝のエルブ・ド・プロヴァンスのレシピは到底譲ることはできない。市販のものとはちょっと分量が違うだけなのにこれを使うと三割増しで美味しくなる、正に魔法のスパイスなのだ。

 

   ◇

 

 フランスの卒業式は初夏に行われる。ちなみに暑い。緯度は北海道より高いはずなのに暑い。路上には半袖の人ばかり、ひまわりは咲き乱れる。

 私はコレージュと呼ばれる、日本で言う中学校を卒業し、卒業パーティに参加していた。

 そう、もう自分の事は俺などとは呼べない。むしろそちらの方が恥ずかしさがある、いや自己認識はやはり男であり「俺」でもあるのだが。普通に月経も起き、二次性徴も経て体がもうどうしようもないくらい女になってしまっていた。こればかりはもう致し方ない。友人はやはり男友達が多く、そのくせ恋人として付き合う男はいない。女性を好きになる事にも抵抗がある。人からは不思議な存在と見られているようだが、自分でも不思議だ。話に聞く性同一性障害のようなものかもしれない、中性的な自分、ミュリエルという個性があることを理解してもらう他はない。

 

「それでエディ、この薔薇の花束は何の真似か教えて欲しいんだけど」

「言わせるのかミュリエル、それともシェイクスピアの言葉で飾ればいいのか?」

「いんや、どちらにせよ物好きを笑うだけ」

「僕はその物好きであったというだけだ、ただ、お前からただの誰かと見られるのは最悪だ。お前からだけは特別に見られたいんだよ」

 

 うむ、馬鹿だ。とびっきりの馬鹿がいる。

 私がどうしようもないものだと判っているのにどんどん突き進んでくる馬鹿が。

 どうしろと言うのだまったく。

 そして当然ながら肩をすくめ、首を振った。ため息と共に。

 

「だからさあ、私みたいなのじゃなくて普通の女の子を口説くべきなんだよ、我が幼馴染みよ」

「僕が諦めの悪い男であることは承知の通りだ、我が幼馴染みよ。しかしこの会話も何度目なんだろうな」

 

 少なくとも二十は超えている、面倒になって数える事はやめていた。

 クラスメイト達がなんだまたいつものやりとりかと笑っている。

 レストランの飾り用になら、と薔薇を受け取り、それでも何故か嬉しそうなエディの顔にちょっとした罪悪感を覚えた。

 

「いや本当に普通の女の子ならこれだけ毎回口説かれれば大抵成功すると思う、本当に勿体ない。時間の無駄遣いだ、お前の人生それでいいのか」

「人が旅をするのは目的地に到着するためではなく、旅をするためなのだ、僕の生き方も同じ事」

 

 私は北北東を指でさした。

 

「ゲーテに謝った方がいい、割と全力で」

「……時よ止まれ、お前は美しい!」

「命でも取られたいの?」

「ミュリエルの正体がメフィストならば是非」

 

 お望み通りに、と後ろに回ってチョークスリーパー……をかけようとして。

 

「エディちょっとしゃがめ、届かない」

「今や百八十の大台に乗ったからなあ」

 

 対して私の身長は百六十にも満たない。四捨五入すれば何とか、というレベルだ。届くわけがなかった。

 しゃがんだエディの首に腕を回し、きゅっと。

 

「うん、柔らかい、発展途上だが良い感触だ」

「何を堪能してるんだお前は」

 

 本当に絞め落としてくれようか。と腕の力を強め、エディは顔を青くしてギブギブと腕を叩く。そんなある意味いつもの光景を切り抜くように、クラスメイトの一人が写真に収めた。

 

   ◇

 

 リセ、と呼ばれる日本の高校のような扱いのもの、その一年になってもちょっと愚直に過ぎる幼馴染みとの交友は続いた。むろん人間関係はそれだけじゃない、

 渋みを増す職人肌の父親は健在、最近では何かと花屋のフローラさんとの付き合いも多いようで、男やもめに未亡人、もしかしたらもしかするかもしれない。

 ご近所の物知り婆さんとして知られているジゼルさん、パン屋のイレーヌおばさん、その娘のカティアは同い年だしクラスメイトなのだが、どうもエディが好きなようで、私とはちょっとばかり複雑な仲だ。

 男友達はやはり多く、それはリセになっても変わらない。ちびのアドリアンとのっぽのデニス、インドア派のゲーム好き、日本のゲームも大量所持しているジュリアン、地中海に泳ぎに行くと決まってバーベキューセットを持参してはしゃぐお祭り男のモーリス。

 季節は夏、からりとした暑さの中、私も十六の誕生日に近づきつつある。

 レストランと隣接している家に帰ると、父の料理を手伝い、あるいはウエイトレスとしてこまごまと働く。賃金もアルバイトとしては安いとはいえお小遣い以上のものを貰っていた。あまり服などにもこだわりがないので貯金に回している、一年もすれば安い車の一台も買えるかもしれない。その前に免許だが。

 

 楽しかった。

 だからこそ忘れていた。

 この世界には日の当たらぬ場所で蠢く存在もまた多いのだということを。

 

 始めは猫の死体だった。

 それだけなら珍しくもない、この町には猫が多い。猫同士の喧嘩もあれば、運悪く交通事故に巻き込まれてしまう猫も居る。そう、ただの死体なら。

 

「また猫の干物が発見されたらしいな」

「嘘でしょ、また?」

「ノルベール通りにだってさ」

「この手のは警察も面倒臭がって動いてくれないしなあ」

 

 クラスで噂になっている。そう、ここの所そんな妙な事件が続いていた。失血死した小動物、猫だけじゃない、鶏や鼠、小型の犬もやられている。そのくせ血の痕跡は見つからない。オカルト好きはキャトルミューティレーションなどと騒ぎ立て、どこで聞きかじったのか、イタチみたいな血を吸う外来生物でも来たかと言う奴も居れば、動物虐待を繰り返す変人が居る、危ないからエスコートさせてくれないかと、ここぞとばかりに好きな女の子にアプローチをかける男の子もまた居た。

 何となく視界の端に留めて見ていると、一言で断られている。哀れ。頑張れ男の子、くじけるな。

 

「ああいう断り方見ると私みたいなのってまだ温情主義なんだ」

「一々勇気を振り絞っても常に『のれんにうでおし』のミュリエルは温情主義とも違うと思う、この用い方で合ってる?」

「合ってる合ってる、同じ様な意味で『糠に釘』って言葉もあるよ」

「ぬか?」

 

 エディは糠という単語が判らないようで不思議そうな顔をした。うん、こやつ、私がたまに日本語で喋ってるのでいつの間にか覚えてしまったらしい。

 

「米のふすまの事、日本だとこれを使って漬け物作ったりするんだ」

「相変わらずミュリエルは日本通だな、日本でレストランでも開くのかい?」

「それも面白いか、こっちの料理は結構目新しいかもしれない」

「なるほど、僕もウェイターの修行を今の内にしておいた方がいいな」

 

 私は長机に肘をつくエディの額にデコピンを食らわせた。

 

「プロのチームから誘われてる選手が何を言っている」

「それを投げ打っても得る価値のある女って事さ」

「下手なアンドゥイエット(臓物ソーセージ)並に臭い事を言う、大体おまえね……」

 

 説教をする。いい加減ちゃんと未来を考えろと。

 子供の時遊んでいた、玉遊びとしか言えなかったサッカーについては、いつしか隣町のそれなりに有名なチームに入って頭角を現している。子供の時からの夢が叶いそうだと言うのに何をいっているのだろうこいつは。

 以前見に行った試合を思い出す。とんでもないボールのキープ力だった。

 

「今となっちゃ私だってお前からはボール奪えないよ、ちょっと悔しいけど」

「そりゃあ、自分より小柄で速くて力の強い奴から奪われないように散々鍛えた技術だからね」

 

 自慢げに胸を張るエディを頬杖をついて眺める、その後ろでカティアがこちらをちらちら気にしていた。いつもの事だが居心地が微妙だ。

 

 学校も終わり、地中海の水平線に近づいた太陽を眺めながら歩いていた。猫の血を抜いている猟奇な変態さんと遭遇するのも真っ平御免だ。足早にまっすぐ帰る。いや本当にそんなのが原因かは分からないが。

 あるいはもしかして吸血鬼……とも思わないでもない。何せ物騒な世界なのだ、三咲町なんて町も地図にあったし。もっとも、そんなモノが来たなら猫などではとても済まないだろうけど。

 

「うん、いざとなったらカレー先輩とかも居るだろうし、お願いするしかないよなあ、おもてなしの為に手広げてガラムマサラのアレンジでも考えておいた方がいいか」

 

 プロヴァンス料理はニンニク、トマト、オリーブオイルのみにあらず、魚介のレシピもまた多い、地中海風シーフードカレーでもご馳走して機嫌をとっておくのが吉だろうか。カレーさんが来るかも判らないけども。

 私もいい加減いろいろ変わった経験はしているとは思うが、まず戦うとか物騒な事に参加するなんて選択肢は無い、子供の時は夢中になっていた魔術なんてものも、やはりあれは子供だから楽しんでいたのだろう、今となっては随分ご無沙汰だ。

 

「……まあ、いざという時なんて来ないとは思うけど」

 

 ニュースを眺めていても、当たり前だがその手の情報は出てこない。情勢不穏な東欧の話の方が今は一番飛び交っている。むろん南フランスの小さくも大きくもない港街で起きている猫の変死事件なんてどのメディアも触れる事はなかった。

 

   ◇

 

 乾いている。

 乾いている。

 乾いている。

 ぺたり、ぺたりと無様に、足をもがれた蜘蛛のように歩いている。

 黒いモノが横切る。

 咄嗟に捕まえた。

 飲み物だ。あかい、飲み物。

 優しくしぼり、飲み下す。

 美味しい、美味しい。

 甘く、淡く、命に満ちあふれていて。

 足りない。

 足りない。

 こんな小さなものじゃ足りない。

 もっと大きいものがいい。

 いっぱい詰まっているはずだ。

 あかい、飲み物。

 

 ある日、猫の変死体のみならず、とうとう人の変死体が出てしまった。

 やはり血が抜き取られていて、失血死。これにはさすがに腰の重かった警察も動き始めた。新聞もこぞって取り上げ、蘇ったドラキュラ伯爵か、現代のエリザヴェート・バートリかなどとも書かれている。

 普段あまり口うるさい事を言わない父親もこれには渋い顔をした。新聞を読みながら。

 

「ミュリエル、しばらく仕事が忙しい、バス代は出してやる、早めに帰ってこい」

 

 などと言う。確かにマスメディアの人達が食べに来るかもしれないが、このレストランはどちらかというと地元密着型だ、あまり仕事が多くなったり少なくなったりという変動はない。こんな時くらい素直に心配してる様子を見せんかと言いたい。

 街も皆どこかいつもの空気ではない。何とはなしにそわそわとし、不安げな様子だ。

 もっとも私の内心で沸き上がっている不安にはとても及ばないだろうが。

 何せ知っている、この世界には吸血鬼なんてものが本当に居るんだってことを。確かそう、もう大分風化してしまった記憶だけど、死従と言うのだったか。昼の間は確か動かなかったはず。おお……もっとちゃんと思い返しておくんだった。かなり忘れている。カレーさんと麻婆さんと志貴君とアルクェイドくらいしか覚えていない、辛いもの繋がりで何か混ざった気がする。

 ともかくも、何かあったら教会に逃げ込もう。こちとら週に一回の礼拝は欠かさないカトリック教徒なのだ、あまり敬虔でもないけど多分守ってくれる。きっと、多分。確かそういう吸血鬼退治とかしている組織があったはず、そうだ、聖堂教会とかいったか。これだけ騒ぎになればきっと既に動き出している、調査とかに来ているはず。そう信じよう。

 正直かなり神経質になっていた、気もそぞろで授業に集中なんてできようはずもない。クラスメイト達には途中でばれてしまった。吸血鬼とかの単語が出てくるだけでびくりとしていたので、無理もない話であるけれど。

 

「まさか鉄壁ミュリーにそんな弱点があったとはねえ、ふひひ」

 

 などと日本のゲームに嵌るうちサブカルチャーにも染まったジュリアンなど、好き者以外誰にも判らないネタでからかってくる。

 

「難攻不落の要塞にも意外な落とし穴があったもんだなあ、エディ、付け入るチャンスだぜ」

「おお、苦節十六年、ようやく僕は報われるのか、報われて良いんだな!」

「普段ならまず応援なんかしないが、お前は別だ、そろそろ救われていい、応援するぞエディ!」

 

 妙な盛り上がりを見せる友人達の声を聞いてため息。

 いや、知らなければこんなものか。脳天気なと思ってしまってはいけないのだろう。

 窓の外は燦々とした陽光が照りつけている。うん、今日は早めに帰ってしまおう。友人達にも早めに帰るようには一応言っておくとして。

 

 ちょっとした違和感があった。

 帰り道、ハーブを手入れしているジゼルお婆さんと挨拶を交わす、その痩せた首になぜか手をやってしまい、何やっているんだ私は、と不思議に思う。咄嗟に肩を揉んで誤魔化したものの。

 

   ◇

 

 数日が経っても警察は何の成果を上げることも出来ず、捜査は難航しているようだった。ただ、警察が巡回するようになって以降変死体は出ていない。

 そんな中、私は十六才の誕生日を迎えていた。

 少々不本意ながらも、母親の形見だと言われれば否応もない。ドレス姿を皆の前に披露する。こんな事件の最中なのであくまで控えめではあるが、友達一同が集まり誕生日を祝ってくれているのだ。レストランの中、寡黙な父が腕を振るった美味しい料理に一同舌鼓を打つ。友人たちにそそのかされて、ダンスを申し込んできたエディとも一曲踊ってしまった。サッカーの技術に比べるとそちらは少々覚束ないもので、私は足を踏まれないようにドタバタとしたものになってしまったのだが、周囲の笑いは誘えたようだ。写真もまた撮られてしまっている。

 パーティが終わり、お日様の香りのするベッドに入る。

 今日は楽しかった。皆で騒いで、賑やかで、暖かくて、何もかも忘れて壊したくなった。潰して、抉って、殺したくなった。

 

「……え?」

 

 体が震えた。奥歯がカチカチと音を立てる。自分の体を強く抱き、折れよとばかりに締め上げた。頭が痛い、頭が痛い。震えは止まらない。

 一度認識してしまうと駄目だった、理解する、理解してしまう。なぜならそれを私は知っていたのだから。知っていたからこそ、私は私の中に潜むものを認識してしまう。

 

「あ、ああ、あぁあ……」

 

 恐怖か、何か。訳の判らない激情で涙が溢れる。ただの呻きに似た声しか出せない。

 アカシャの蛇、転生無限者。

 ロアが私の中に居た。

 

 私は奈落に落ちたい。ただ落ち続けたい。

 救おうと伸ばしてくれた手を壊す。愛を注いでくれたものを壊す。美しいものを壊す。そういう存在になりつつある。

 人の認識とは諸刃の剣、私はロアを認識した時点でそれの目覚めを促してしまった。

 パーティの片付けをしていた父の背後から牙を立て、血を啜る。異様な美味さと甘美さを感じた事を覚えている。

 それまでに猫などを襲っていたのは、私自身の掌握に手こずり、力を欲したため。漠然とした吸血衝動を流すことしか出来ず、得体の知れない動物の血なども飲んでしまったが。

 私はいまだ抵抗をする私のためを思い、様々なことをして見せてやっている。親しい者たちが苦痛に喘ぐ姿、それを慈悲なく踏みにじり壊す事の愉悦。知らずに消えるはもの悲しい。

 ああ、エディ、私に愛を注いだ哀れな幼馴染みよ。

 彼は私に犯されながら死んだ。苦悶に満ちたその首は未だに部屋に飾られている。それ以来実に私は大人しくなった。一つの魂に一つの意思となるのも近いだろう。

 

「何と素晴らしい肉体、そして魂であることか。英霊の器にすらなり得る」

 

 先代の折の不完全な転生、肉体的に私にふさわしいものを、としか決められなかった。

 しかしどうだ、このあまりに素晴らしい体は。まさに神代の英雄、その肉体に等しい。神々に愛されているとしか思えない。一人目の私でさえこれほどの素質は持ち得なかった。

 だが不思議な事に私は私の、ある程度以上の記憶を読み取る事ができない。ロアとしての私が変質し過ぎてしまったのか、あるいは魂そのものが異常なのか。恐らく後者であろう、魔術にでも関わったのかもしれない、ロアである私の名前すら知っていたのだから。

 

「念を入れておくべきか」

 

 先代の失敗もある、次代の転生先の選定は早めに行う事とした。

 

「私」は待っていた。

 涙を流したのは最初のうちだけ、四肢を落とされた幼馴染みの上で腰を振り、狂笑を上げた時が最後。

 町はゆっくりと、確実に壊れていった。

 狡猾とも言えたかもしれない、私は科学というもの、人というものを侮ってはいない。情報を断ち、恐怖で縛り付け、確実に一人一人、魂をしゃぶるように弄び、味わった。時には味つけを変え、怒りや、引きずり出した快楽と共にじっくりと。

 姿見に映った体は壮絶な美しさを秘めている。長い栗色の髪、どこか幼い無垢を秘めた顔、積もり立ての雪のように染み一つない体。ワイングラスに注いだ処女の血、確か私と同じ学校に通っていた娘だ、激しい狂気で味つけられたそれをゆっくり胸元から流す。血の彩りがあれば尚更映えるというもの。

 

 もはや町でも味わうべき人が少なくなってきた時。

 赤く染まった美しい月の夜だった。白の姫君が訪れたのは。歓喜、憎悪いずれともつかない感情が身を貫く。

 この体ならば負ける事はない。姫さえ凌ぐ、とまでは言わずとも。

 ──戦い。久しく使う事すら出来なかった固有結界をも用い、戦う。昂揚を覚えた。夢中になった。真祖とここまで戦えるなど、誰が考えたであろうか。

 たおやかな手が神速で私の心臓に迫る、美しいと思い、待っていた「私」はその瞬間、全ての自我を振り絞って動きを止めた。

 

   ◇

 

 私を縛り付けていた蛇はもう居ない。

 きっと選定していた極東の一族の誰かに移るのだろう。いや、知っている。思い出していた。今の私は知っている。

 それが遠野四季であり、ミハイル・ロア・バルダムヨォンもまた、遠野志貴によって完全に『殺』される事を。

 シエル、それは確か洗礼名だった。彼女……エレイシアは幸せなのだろうか、それとも志貴君に会えなくて不幸せなのだろうか。案外ロアなんて繋がりがなくても会ってしまうのかもしれない。人の運命は時に複雑な綾を見せる。

 

 目を覚ました私を囲んでいるのは無数の目だった。

 憎悪、恐怖、興味、嫉妬、悲哀、殺意、色とりどりの感情が込められた目。

 一様にカソックを着、胸元に十字を下げている。

 私はどこか壊れ、麻痺した頭で、これから起こる事を察し、諦念の溜め息を吐いた。

 

 恨み言、と言っていたような気がする。

 志貴君に愚痴のように語っていたそれ。

 確かに恨みたくもなるというものかもしれない。

 私は殺され続けた。

 聖堂教会は容赦をしない。異端、人から外れてしまった者には特に。

 何度焼かれただろうか、幾度斬られただろうか、何回潰されただろうか。

 数えるのも馬鹿らしいほど蘇生の度に殺され続けた。

 シエルさんにも起こった事だ。

 なんで目覚めてしまったのだろう。これも女神のご加護のおかげか、神のご加護はただの人間には重きに過ぎる。

 世界は矛盾を許さない、ロアのラベルを魂に貼られている私はロアが消滅しない限り死ぬ事もできない。殺されるたび世界が修正し、私を巻き戻す。おかげで痛みに慣れる事もない。ただ苦痛の記憶が累積していく。記憶力の良さを嘆きたい。

 鉄と血と炎、痛みと自分の悲鳴に彩られた記憶、そんなものに押しつぶされながら私は狂う事もできずにいた。こうなると狂わない方が逆に異常だ、どこか壊れてしまっている。あるいは狂えばその異常も世界によって修正されているのか。

 時間の感覚もない、呆れる程に死に続けたおかげで私に見えるのは細切れの時間のみ。

 ばらけたピースのような時間の流れが、いつしか一つながりになっている事に気付いた。

 震動がする。重いエンジン音。車輪が石を蹴散らす音。

 どろどろという遠雷のような音にいつしか眠気を誘われ、何年ぶりかにも感じられる眠りについた。

 

   ◇

 

 私はこの世界で起こる一連の事件に関わる事になるとは思っていなかった。

 関わる力があるとも、その性格であるとも思っていなかった。

 失笑するほかない。

 一度死んでから八年が経っていた。私は無関係だとばかり思い込んでいた事件の舞台、三咲町に居る。

 こんな形で日本に来る事になるとは思わなかった。複雑な郷愁と泥のような悔恨が押し寄せ、いつものように飲み下す。季節は秋、街路に植えられているキンモクセイが橙色の花を咲かせ、芳香を放っていた。

 

 埋葬機関の長はやはり私が覚えていたロアの魔術、そして特性に利用価値を認めたのか、無機物を見るかのような目で私を迎え入れた。使いものにならぬ、と見たなら封印処置をした上でロアの探査のためだけに使うつもりだという。本人に直接それを言う所がいかにも「らしい」

 復元呪詛じみた不死を持つ私はおざなりな戦闘訓練を二日三日やった後、実戦に放り出された。最初は悪魔憑きの餌として、二度目は範囲攻撃に巻き込んでも再生できる便利な囮として。三度目は拙いながら死者を一体葬った。

 死徒への憎しみより、自分への憎しみで一杯だった。八つ当たり気味に、敬虔さの一滴さえなく葬られた者達はきっと報われていない事だろう。 

 とにかく戦った。止まれなかった。私の中でのロアの記憶は風化することなく焼き付いている。こんな奇妙な子供だった自分にも優しかった者たち、寡黙で頼りがいのある父、喜悦の中で私が手にかけた幼馴染み。それを全て刈り尽くした記憶が残っている。昨日の事のように思い出せる。

 そんな暴れただけの荒れた日々。戦う事だけは上手くなっていく。当たり前だ、私に祝福をさずけたのは戦の神の一面も持つ。数々の英雄達に武器を与え、助言を与え、守護を与えた存在。ロアの残して行った知識でも判る、私の体は神代の英雄のもの、そのものだと。

 もっとも、一番守りたいものが無くなってしまった私にそれがどれほど価値があるのかといえば微妙だが。

 

「サリアさん、おはよう」

 

 通学路を歩いていると通りがかったクラスメイトが挨拶をする。

 父の付けてくれた名前はもう名乗れない。洗礼名というわけではないがサリアという名前をくれた、邪視を持ち、死を司る堕天使の名前から付けられたものだ。さすが埋葬機関のトップを張るだけはある、人の嫌がる事をよく心得ている。鈍った感性でも少々の恥ずかしさは覚える。

 私は暗示でもってひとまず高校に潜入を始めていた。私が立場を奪ってしまった彼女と同じ事をする必要もないのだが、遠野志貴を追うのはやはり一番手堅い。騒動の中心人物であり、今何が起こっているかの情報が必要だった。もっともそれも一日二日の事にはなるだろうけども。

 遠野の当主が交代したのは確認した、四季によって殺されたのだろう。ただ、正直どこに四季が潜伏しているのかは判っていない。私の感覚でもロアが近くに居るという事が判るくらいだ。まさかまだ遠野の屋敷に潜伏しているわけでもないとは思うが。

 教室に入ると喧噪に身を浸したような気分になる。本当にこの辺りの世代というのはエネルギーの塊のように感じる。

 シエルさんと似た立場になったからといって、私は先輩とは呼ばれていない。同じ学年の同じクラスに紛れ込み、視界の隅で談笑する遠野志貴、乾有彦の姿を収めながら席に着く。少し離れて弓塚さつきが話しかける機会をあからさまにうかがっていた。

 注意深い魔術師など、判る者から見ればその凄まじい出来の魔眼殺しのメガネが目につき、次いでそれで何を隠しているのかが気になってしまうかもしれない。直死の魔眼、予め知らなければ気づかなかった事だろう。魔術で探ってみたが、震えが走った。あれは知る事ができない。あんなモノを抱えて人は存在できない、私も通った「死」だが、無論その間の事なんて覚えていない、見ても私には理解できないから。そんなものを常に見続けている。

 酷い呪いだと思った。

 なのに彼は飄々と振るまい、分け隔てのない優しさすら見せる。ありえない姿。

 私なんて吐き出せぬ憎しみに暴れて、暴れて、八つ当たりに殺し回っていただけなのに。

 だからなのだろう、だからこそシエルさんは彼に惹かれたのだろう。壊れた真祖の姫も、反転の恐怖を抱える義理の妹も、虚ろと後ろめたさで歪んだ姉妹も。

 この時期まで待ったのは理由がある。むろん表に出てこない限り、ロアを滅ぼせないという事情もあるが、遠野志貴の中に眠る人外への殺害衝動、揺り起こすには極上の魔、アルクェイド・ブリュンスタッドとの邂逅が必要だっただろうからだ。

 直視の魔眼、それは重要な因子だ。転生批判の第七聖典のみで確実にロアを滅ぼせるかは判らない。私は大いにそれを利用させてもらうつもりだった。ロアの消滅にこだわらず、最速で解決するならもっとやり方もあったというのに、だ。

 そんな自分が酷く薄汚いものに思えた。

 

   ◇

 

 夜の町を歩く。意識を逸らさせているので、誰も私に気付かない。人混みの中、カバラと魔力感知のミックスでロア……遠野四季を探す。当然だが効率が悪い。人手が居ればと思わないでもない。

 私にナンバーの入った刺青はない。埋葬機関に所属しながら未だに番外。永遠のピーターパンに言わせれば機関に保管された生きた財宝、らしい。私にも不満はない。武器も技も情報も手に入った。無いのは権限のみだ。

(あるいはあの女の事だ、そこまで私に興味を持っていないか)

 自分自身を殺したがっているような者はつまらないのだとか。ただ雑多な仕事を片付けるには役に立つ、その程度の認識なのだろう。

 弱い反応を感じた。

 一蹴りで屋根まで飛び、空を舞う。私の感知は範囲が狭い、さらに建物の屋根を蹴り、飛ぶ。居た。

 ビルの屋上から見下ろす、死者が一揃い、三人? 散る前か。黒鍵を人数分、掴みだす。

 投擲。

 狙いはそぐわず、あっさりとその体を塵とする。死者には天敵のような概念武装、刀身を聖書で編んでいる、ロアの知識にある魔術とはひどく相性が良い。

 路上に下り、十字を切り、略式の祈りを捧げる。

 死者が多い、かなり手駒を作り出しているようだ。その分こちらも気張って塵に返しているが。そろそろ血を求め、本人が積極的に動いてくるかもしれない。

 襲われる可能性の高い弓塚さつきも含め、一応クラスメイトには暗示でしばらくの間真っ直ぐ家に帰りたくなるようには方向づけてある。こんな事をやっているとまたぞろ魔術協会と揉めてしまうかもしれないが、揉めたらそれまでの事だろう。

 

 地理の把握は基本中の基本だ、ただこの三咲町は路地裏など細く小さい道が多い。血を求める死者達が多く集まる繁華街、そこを中心に頭に入れていったので、外縁部は後回しになっていた。

 公園でうずくまっている人がいる。

 血に汚れ、自分の吐瀉物に顔を埋め、小刻みに震えていた。

 

「……まさか」

 

 地図を確認する、少し離れた場所、それなりに高さのあるマンションがあった。

 なるほど、と思う。何階の何号室だかは忘れたがきっとその一部屋は大変血生臭い事になってしまっているに違いない。十七分割された肉塊が転がっているはずだ。

 少し考え、うずくまる人影に近づき、様子を確認した。べたべたに汚れたその顔は苦悶に引き攣っている。完全に気を失っているようだ。

 どうしたものか、と首を傾げる。一つ小さな息を漏らし、公園のベンチに運んで寝かせた。

 起きないように軽い催眠をかけておき、ハンカチで丁寧に顔を拭う。困惑の呟きを吐いた。

 

「遠野志貴……どうしよう、屋敷まで運ぶ?」

 

 魔術で返り血をどうにかしようかと思ったが、考えるまでもなく、見る間に血は薄れていく。それもそうだ、真祖の姫の返り血だった。復元は既に始まっているらしい。

 学生服の内ポケットに無造作にメガネがしまわれている。それを顔に掛け、寝かせた頭の隣に座った。月夜に照らされて青白いその顔を何となく眺める。屋敷まで運ぶのは却下だ、今の段階で遠野に警戒される事はない。順当に交番にでも……

 ぽつりと水滴が落ちる。にわか雨。月が出ながらの雨とは、どこかで狐の嫁入りでも起きているらしい。

 修道服の上に着込んだ外套を広げ、青い顔をした彼を覆い隠し、雨除けとする。ざあ、という音の中に足音が聞こえた。身を翻し、隠れる。

 

「……志貴さま?」

 

 訝しげな女性の声、どうやら運ぶまでもなくお迎えが来たようだった。

 

   ◇

 

 風に吹かれた木の葉が一枚、こんな高い場所まで巻き上げられ私の前を通り過ぎる。

 ホテルの向かいにあるビルの屋上、給水塔の上から私はホテルの最上階を監視している。

 自分をさておき眠ってしまった、護衛のはずだった遠野志貴、そんな彼を最初は怒った様子で、次に興味深そうにいじり回しているアルクェイド・ブリュンスタッド。その姿はやけに楽しそうで、ロアの記憶にある白の姫君と同一の存在とはとてもとても思えない。やがていじる事にも飽きてきたのか、起こしにかかった。しかしこうしているとどうもやるせない気分になってくる。

 

「出歯亀か私は、出会ったばかりなはずの二人なのになんでこうも……」

 

 どれほど話す事があるのか、と言いたいくらいに二人は話している。遠野志貴は悠揚と、アルクェイド・ブリュンスタッドはひどく楽しげに、それはそれははしゃいで。

 どうもペースが崩される。

 こちらはネロ・カオスの襲撃に備えて緊張しているというのに。

 むろん私は聖職者などとは到底言えない、ただ、これ以上目の前で死人を見せられて楽しいはずもない。そして目論見もまたある。

 ふと、ホテルの窓際、アルクェイド・ブリュンスタッドの背中で飛ぶ蒼い鴉を見つけた。

 

「──来た」

 

 給水塔が凹むほどに強く蹴りつけ跳躍、ビルから飛び降り、壁面を蹴って地上に降り立つ。舗装炉に大穴が空いたが勘弁して貰おう。何しろ濃密な「魔」が私を巻き込み、ホテルに突貫したのだ。

 頭が割れるかと思う程の轟音と共にホテルの壁に叩きつけられた、壁が崩れる。

 

「ゲ……は、ぐ」

 

 それなりに魔力で強化しているというのに肋を軒並みやられた。馬鹿力め。血を飲み込み、獣の口に突き込み、食われ、皮一枚でつながっている右腕を無理やり千切る。ネメアのライオンじみた獣が現れその私を巨大な前足で殴り飛ばした。空中にあるうちに回転、壁を蹴り、床に膝をつく。ここでやっとロビーに居た人達が悲鳴を上げ、騒ぎだす。

 

「ぬ……う、貴様、何をした」

 

 ネロ・カオスは小刻みに体を揺すりながら立ち止まっている。体からは今にも出てきそうな獣、獣、獣。

 私は無言で残っている腕で瓶の水を彼の前に線を引くように垂らした。アラムの海の水、現代の聖人によって聖別済みだ。引かれた線を媒介とし簡易な結界を張る。内部に催眠作用がある。騒いでいた人達が静かになった。あくまで脅し、同時に人がこの古い死徒に近づかないための守り。

 

「六百六十六、ゲマトリアにも通じる獣の数字、その根柢を崩すイリエの異端反駁外典、写本だけど原典は年代物。悪食を呪って」

 

 ネロ・カオスにのみ通じる手。根幹を成す数字の神秘を否定する外典。ロアと共同研究もやった事のある彼だ、カバラも知り、数秘に耐性もあろうが、それでも猛毒に等しいもの。そして起こるのはネロ・カオスという存在をある意味構成しているとさえ言える固有結界の暴走。今は抑えるのに精一杯だろう。

 左手で黒鍵を持ち、誇示してみせる。

 

「死徒二十七祖が十位、ネロ・カオス。私はロアの抜け殻と言えばその困惑を解消できる?」

「……なるほど、私の事を知るはずだ。そしてその服、その概念武装、教会の犬と化したか、蛇の娘」

 

 唇を噛み切った。痛みと血の味で心を静める。記憶にも残っている。ロアは転生のうち、ネロ・カオスとは幾度か盟友として会っていた。

 

「ここは引きなさい混沌。今頃真祖の姫も降りてきている。下らぬゲームの代価が消滅ではつまらないでしょう」

「教会のものが死徒に引け、と?」

「三すくみは面倒、戦いたいなら戦うけど」

「やめておこう」

 

 そう言い、存外静かにネロ・カオスは退いて行った。戦っているうちに夜明けになると踏んだのだろう。死徒の中でもある程度理性的なおかげで助かった。そしてそろそろ私も急がないといけない。返り見て確認すればエレベーターは降りてきている、私はネロ・カオスに続くように壁に開いた大穴から飛び出した。

 

   ◇

 

 真祖の姫と遠野志貴はホテルから公園の近くのアパートへ移っていった。ホテルに撒いた聖水の残滓、壁の大穴で大体察したのだろう。力が大分弱っているのか、ネロ・カオスと交戦したわけでもないのに朝日の中、貧血持ちの少年に背負われている姫の姿は何とも言えないものだった。

 

 ネロ・カオスという死徒は正真正銘の化物だ。相手が私の事を知らず、私が相手の事をよく知っていたからこそ易々と取れた勝利。正直アレを食らっておいて、あそこまで人の姿を保てるとは思わなかった。一筋縄でいかないどころではない、上手くすればロアを滅ぼすまでは行動不能にできるんじゃないかとすら思っていたのに。

 

 梟が鳴く。虫の音が響き、闇の中、月の光を浴び、ひっそりと佇むアルクェイド・ブリュンスタッドはやはり美しかった。アパートにほど近い公園、前日の交戦がなかったせいか、少しは力が回復しているようだ。

 だがおかしい。遠野志貴がいない。一瞬ほっとした自分を殺したくなる。

 真祖の姫はどうするつもりなのか……どこかぼんやりと月を眺めている。その目がふと前を向いた。

 虫の音は止んでいる。じゃり、と重い足音、昨日と変わらぬ様子のネロ・カオスが居た。

 

「待たせたようだな、真祖の姫君。昨晩は邪魔が入り、騒がせるだけとなったようだ。失礼をしたな」

「ええ、待ったわ、ネロ・カオス。でもね、最悪な気分よ。出来の悪い劇を見ているようだわ。そんなゲームの盤上にあなたが乗ってくるなんて。教会も動いてるみたいだし、まるであなたの二つ名のように混沌とした舞台ね」

 

 アルクェイド・ブリュンスタッドは言い、ふと気付いたようにネロ・カオスは訝しげに目を細めた。

 

「ふむ……なにゆえそこまで衰退している。あの者は確かに代行者だったようだが、そこまで強かったとでも言うのか」

「……本当に最悪ね、来てるのはよりによって教会の殺し屋? ……ぷっ、ふふふ。でもね、ネロ・カオス。私がやられたのはね、教会とは全く関係ない殺し屋に、よ」

 

 アルクェイド・ブリュンスタッドは楽しげに笑い、それを収めると話はこれまで、とばかりに爪を見せた。興味を惹かれていたらしいネロ・カオスもまた臨戦態勢となる。深夜の公園に、真祖の姫と使徒二十七祖が互いを滅ぼさんと戦いを始めた。

 

 一体何匹の動物、何体の生物が屠られた事だろうか。真祖の姫の力は空想具現化能力無くしてもやはり桁外れだった。しかしそれでいてなお状況は段々とネロ・カオスが優勢になっている。

 こればかりはどうしようもない、相性の問題だ。私は出るべきかと黒鍵の柄を握る。しかしここでネロ・カオスを削りきり、追い返したとしても、次はアルクェイド・ブリュンスタッドとの戦いになる。私は──

 その時、声が聞こえた。少年の声が。

 

「アルクェイドーーッ!」

「志貴! 駄目!」

 

 遠野志貴がナイフをあらわにし、ネロ・カオスの背後から走り寄ってきた。普段の様子とは打ってかわって凄い敏捷さだ、走りに異常に無駄がない。

 ネロ・カオスに斬りつけようとし、湧き出た黒豹に驚き、それでも死点を見たのか、歯を噛みしめ、ナイフで突く。泥と化したそれが遠野志貴の全身にふりかかった。

 

「人か、よい養分になりそうだ」

 

 食え、と虎が飛び出し襲いかかる。なぜか私は、手に持った黒鍵でも刺せば良かったものを、阿呆にも突発的に駆けつけ庇ってしまって。

 ぞぶ、と首の肉が持っていかれた。ああ、この瞬間は痛くないんだけどなあと、どこか場違いな事を思う。熱くなって、次には気を失えない程の痛みになるのだ。気管も、頚椎もまとめて持っていかれた。声が出ない。体が動かない。手に持った黒鍵が落ち、レンガに軽い音を立てる。

 

「何と……昨夜の。人ゆえ庇ったか? いずれにせよ愚かしい。だがよかろう、蛇の娘よ、私の血肉としてやろう」

 

 ちぎれかけた首筋を噛まれ、虎は主人の元におもねるように帰って行く。私もまた共に、ネロの体内に引きずり込まれた。

 自由にならない体をまとわりつくコールタール、獣が闇の中にずらりと、私を包み、削り落とし、食らいつく。ごりごり、ぼりぼりと。私が食われてゆく。

 再生が始まらない。そうだ、固有結界の中では……世界の、修正も。

 何で庇っちゃったかなあ。シエルさんの代理なんてのが頭の片隅にでもあったのか。

 ああ、そうだ、直死の魔眼が無くなったら困る、そういう事に──

 意識が塗りつぶされてゆく。真っ黒に染まり、混沌の一部となり、私の憎しみもまた。混沌の海の中へ。沈んでゆく。

 

   ◇

 

 街灯の明かりが眩しい。瞼を通しても判る。仰向けになっているようだった。

 ぱちりと目を開く、何故か向こうを向いている遠野志貴とこちらを見て呆れた様子の真祖の姫が居た。

 

「志貴、ほら見て、目覚ましたわよ」

「ま、まてアルクェイド、さすがにさ、裸の女の子が目を覚ましてから、俺が見たらまずくないか?」

 

 自分の体を見る、肌色だ。一面の。なるほど、うん。

 離れた場所には私が着ていた外套が落ちている。聖書だの聖水だの黒鍵だのが多数結わえ付けられていたので、ネロ・カオスも嫌ったのだろう。とりあえず、とそれを羽織る。

 真祖の姫はどこか不機嫌そうだ、当然か。私の正体は最初から理解しているのだろう。遠野志貴は、こちらを見て、裏表のないほっと安堵した様子を見せる。

 

 無様を晒してしまったようだった。

 結局のところ。ネロ・カオスを倒したのは真祖の姫でも、元ロアの代行者モドキでもない、一番人間である少年だった。本当にこの遠野志貴という奴はとんでもない。

 ネロ・カオスと戦うにあたって、真祖の姫は遠野志貴が本当に「殺」せるかを危ぶみ、魔眼で縛って部屋に置き去りにしてきたらしい、その支配もはねのけてしまったようだが。何だろう、七夜にそんな性質でもあるのか?

 私はクラスに潜入していたとはいえ、極力接しないようにしていた。暗示まで使って。まず覚えられてないと思っていたのだが、甘かった。名前は覚えられてなかったが、クラスメイトの誰かさん程度の認識はあったようだ。結局名乗る羽目になった。

 身の上も曖昧に煙に撒いておきたかったのに、ほぼアルクェイド・ブリュンスタッドにばらされてしまう。不満を持っている。とても不満を持っている目だ。多分、同じ学校に居た事が気に入らないのだろう。勘弁してほしい、一応秘密の機関なのに。

 話していたら遠野志貴が疲れからかふらりと倒れてしまった。思わず支え、どうしようかと思っていたら真祖のお姫さまが私から奪い返すように遠野志貴を抱え、強い視線でこちらを睨む。

 

「おもちゃを取られた子供ですか」

「志貴はおもちゃじゃないわよ。それよりこの事を報告するつもり?」

「あなたを敵にする余裕はない、報告はしません、恐らく混沌を滅ぼしたのはあなたの仕業ということになるでしょう」

「そう、賢明ね、代行者」

 

 遠野志貴を背負い真祖の姫は私と語る事など無いと言わんばかりについと顔を向け、離れる。

 私は少年を背負った背中に向かい、聞こえるだろうぎりぎりの声で言った。

 

「アルクェイド・ブリュンスタッド、今後も彼と会うつもり?」

 

 真祖の姫は立ち止まり、こちらを振り向く。月の明かりで髪がほのかに青みを帯び、赤い瞳が困惑をたたえている。何か言いかけ結局言わず、そのまま去る。唇の動きは「わからない」と言っていた。

 

   ◇

 

 しばらくは死者を塵にする日々が続いた。すでに学校は行っていない。私は最初から居ない事になっているはずだ。ほんの少しだけ、郷愁じみたものを覚えて楽しかったのは事実。

 最初の思惑通りだ。遠野志貴とアルクェイド・ブリュンスタッドを邂逅させ、直視の魔眼によってロアを完全に滅ぼす。私はその流れを邪魔しないようにすればいい。不測の事態に備え、付随する障害を弱めればいい。ネロ・カオスも私が仕込んだものである程度弱ってはいたのだろう、二人の調子は悪くない。最後にだけアルクェイド・ブリュンスタッドにトドメを刺されぬように注意しておけばいい。

 ただ、すっきりと胸が晴れない。

 あのお人好しと真祖の姫、会わせて良かったのかと。ただのどこかで起こった物語であったなら俯瞰できた。ただ、実際に会い、話し、楽しげな様子を垣間見てしまうと心の奥底から膿に似たものがにじみ出す。

 未来には絶対に悲劇が待っているだろう二人。遠野志貴は吸血鬼などには関わらず、ブリュンスタッドは感情など知る事がない方があるいは幸せだったのではないか。ふとそんな事も考えてしまう。利用するのを決めていたというのに、今更な事だ。つくづく自分が凡庸な精神しか持ち合わせてない事にため息を吐く。

 

 アルクェイド・ブリュンスタッド、彼女は楽しそうだ。八百年の時を経て初めて持ちえた感情、きっと子供が初めて遊園地で遊んだ時のように、あれもこれもきらきらと眩しく、楽しく映っているのだろう。遠野志貴に絡み「セカイはこんなに楽しいものだったんだ」と言わんばかりの笑みを浮かべていた。

 そしてそれは真祖の姫の、ただでさえ迫っている限界、それに近づく事でもある。

 好意が高まるほど、愛情を感じるほど高まる吸血衝動、本当に、なんて呪い。

 ロアは未だに姿を現していない。遠野四季という特殊な存在に顕れてしまったために相当に変質しているのだろう。思考が読めないものほど厄介なものはない、このまま時間だけが過ぎると、真祖の姫の方が衝動を押さえつけられなくなってしまうかもしれなかった。

 

 そしてある日──

 予兆はあった。遠巻きに見ていたが、明らかにアルクェイド・ブリュンスタッドの力が弱まっている。否、吸血衝動を抑えるために力を割きすぎている。空を見れば満月、ほのかに赤く染まって見える月。

 

「持たなかった……か?」

 

 黒鍵を手に電柱を足場に飛ぶ、二人を囲んでいる死者達に投擲、苦しそうな真祖の姫に遠野志貴が近づき、姫は震えながら後ずさり、だが駄目だった。

 目を赤く輝かせ、遠野志貴にしがみつき、首筋に牙を立てようとし──

 その体がずれ込んだ。

 私が投げようとした黒鍵ではない。そんな効果はない。まさかアルクェイド・ブリュンスタッドが首を落とされるとは。

 全力で飛び出す。そこには包帯を体に巻き付けた長髪の男がゆらゆらと、幽鬼のように立っていた。

 

「あ、アルク……ェイド」

 

 遠野志貴は呆然と二つに分断され、血のしぶきをあげる姫の前に膝を落とす。

 その背に無造作に振るわれる男のナイフ。

 黒鍵を投擲、鉄甲作用で男を弾き飛ばす。何とか間に合った。

 

「ロア……ッ!」

 

 そうだ、この可能性をなぜ考えなかった。

 二人は命を共有、いや共融だったか、しているはず。それは遠野志貴の感覚をロア、四季もまた知ってしまうという事。例え四季の人格ベースで変異しているとしても今日は満月、ロアの意思が強く出るはず、そして真祖の姫に執着するロアが、新たな姫の死徒を作らせようなどとするわけがない。

 

「あ、ああ、サリ……アさん? アルクェイドが」

「大丈夫です遠野さん、真祖はその程度では死にません、いずれ復元します。ただ、彼女は既に限界、離れていてください、衝動に耐えきれなくなってますから」

 

 第七聖典、装飾過多な銃剣のそれを外套の下で握りしめる。ふらりと起き上がってきた男は私を目に止めるとぬたりと笑った。

 

「なるほど、久しいなミュリエル、私の娘よ。相変わらず匂い立つような美しさよ、そこな真祖の姫には及ばぬがな」

 

 娘、などと言われ、一瞬で頭が煮えたぎる。何でもいい、世界がどうなってもいいからこの銃剣を突き込んで抉ってしまいたくなる。乱暴に息を一つ吐き出し、気を落ち着かせた。

 

「……離れていろって、そんな事、できるはずないだろ」

 

 何しろ大馬鹿者がいる、ナイフを片手に、メガネを外し、倒れた姫と私さえも庇うように一歩出て。

 ロアは遠野志貴に目をやると別種の、全く違う人物の笑みを浮かべ、顔に巻いた包帯を解いた。赤い目はそのまま、調った顔が表れる。

 

「ああ、ああ、久しぶりだな志貴、どうだいオレになっていた気分は」

「なんッ……の」

 

 頭痛を感じたように遠野志貴は頭を抱えた。

 

「知って……俺はお前を、知っている?」

「ククク、忘れちまうなんて薄情なもんだ、なあミュリエル、お前は私を八年間も思い続け、こんな所まで物騒なモノを手に追いかけてくれたというのになあ」

「ミュリエル……? サリアさんの事か」

 

 ロアは目を開き、ナイフを背後の壁に突き刺した。

 

「ああまあ、そんな事はいいんだ。今はいい、思い出せないのか? 本当に思い出せないんだな志貴。は……はは、はっはは、親父もやってくれる。クソが! クソクソクソ。思い出せ! オレを殺したお前を思い出せ! オレから奪ったお前を思い出せ!」

「俺が殺し……奪った? お前は……が、は──」

 

 突如激昂したロアに対し遠野志貴は変調をきたした。胸を抑え呆然としていた。顔色は死人のようで、私は用意を急ぐ。

 梟の使い魔を動かし結界のための紋様を刻んだアクアマリンを五角に設置、強力なものではないがある程度外界と内界を遮断することはできる、どこぞの宝石魔術というわけではない、ただ象徴による増幅だ。

 準備が調い、なおも夢中に話しかけているロアに黒鍵を放つ。一度に八。

 

「……チッ!」

 

 ナイフで二本が切られた、まだ残っていたのか操り人形めいた死者を出し、防ぐ。私の手元でも狂ったか、逸ったか、数本は狙いを外し、逸れ、ロア本人にはかすりもしなかった。水葬式典、本来カトリックで忌避されるやり方。船上での葬送、その概念を魔術的に刻んだものだ、効果が発揮され、当たった死者や土、壁がどろりと溶ける。

 

「ほう、私の魔術を立派に継いでいるではないか、意味は水葬、そして海に帰すか、些か教会とは合わぬのではないか?」

「ぐ……」

 

 仕方無い、体に祝福を与えたのはアテナ、母方に水神を持つ女神、そして私の本来の名はそのまま海を意味する。他の属性は適正が薄い。しかしおかしい、何故だ。再び投擲、投擲──繰り返す。

 当たらない、当たらない、弾かれ、時には混ぜた鉄甲作用で弾き飛ばす事もあるが、決定的なダメージにならない。

 

「なんで、なんで届かない……!」

 

 第七聖典、本来ならば切り札になるもので接近戦を挑む。判っている。直死でないものの、今代のロアに接近戦が危険過ぎる事は。しかし、私の身体能力と魔力による底上げがあるなら、それにも劣らぬはず。

 

 ──だというのに、傷を負わせたのはわずか、私は慢心創痍、無様にも両足を落とされ、ロアの前に這いつくばっていた。

 

「なん……で」

「判らんのか、愚かな娘よ」

 

 ぐしゃり、と剣を取ろうとした手を踏み抜き、砕かれる。痛みと呻きを噛み殺し、ロアを睨み付ける。

 

「お前は八年間、無惨な目、ことごとく不運に遭遇したのではないか? 何度死んだ? 何度殺された? 少しでも頭をかすめはしなかったのか? 私の知識がありながら、一度も思いつかなかったというのか? 抑止の力の事を」

「抑止……? まさか、私は世界を相手どる気も、根源への、興味も」

「神代の英雄と同格の魂、肉体、そして膨大な魔力、全てを開放すればただの力で白の姫君とも真っ向から戦えるものを見逃すはずはあるまい、死徒であった時とは違うのだ、そして考えなかったか? 私を滅ぼせるのならば世界などどうなっても、とでもな」

 

 ──あ、あ……考えた、一瞬だが思ってしまっていた。

 力が抜ける、敵にしてはいけないものを敵にしていた?

 ざくり、と私の体をロアの爪が貫く。

 

「う、ぎ……あ」

「愚かな娘よ、本当に愚かな娘よ、自身の力が制限されている事にも気付かず、何を敵にしているかも気付かず、自滅の道を歩むとは。くく、抑止そのものが気付かせぬたぐいのものではあるが」

 

 心臓を背中から抉られ、潰される。蛙のような声が出、体が引き攣った。

 

「……おい、何だよ志貴、随分と苦しそうな顔じゃねえか、ええ? 気にするなよ、こいつはどうせ何やったって死なないんだ、よっと」

 

 頭を突き刺された。暗転し、時間が途切れる。

 

 蘇生し、私が最初に見たものは闇夜にあってなお青い目。

 そして追い詰められているロア。

 私の結界ごと地形を丸ごと「殺」す、ブロックの壁を「殺」す、穿つかのような蹴りを放ち、追い詰め、最後にはあっけなく、酷くあっけなく、ロアを灰にしてしまった。

 

   ◇

 

 何となく私の八年も一緒に志貴君に殺されてしまったような気がしないでもない。

 あれだけ憎んでいたのに、煮えたぎるように憎んでいたのに、まるでそれが悪い夢だったかのように終わりは呆気なかった。気を失ってしまいそうな疲れが心と体を蝕む。

 ロアに奪われていた力はアルクェイドに戻った、満月であった事もあり復元は速やか、ただそれでも吸血衝動を抑えるために割く力は相当なものらしいが、それを引き合いにか、良い事思いついたとばかりに顔を明るくさせ。

 

「疲れちゃったー、志貴、おんぶ!」

 

 などと子供のようにはしゃぎかかる姿は何とも言えない。

 夜道を同道しながら、私はここに居ない誰かのために「あーぱー吸血鬼ですね」とだけ言っておいた。そう、思い出したので言っておかないと。丁度、道の別れ際だ。

 

「では私はこれで、もう会う事もないですが、本当にお疲れ様でした。今後何か裏の事情で困った事があれば妹さんに相談すると良いでしょう、間違っても教会に行っては駄目です、私みたいなのははぐれもいいところですから」

 

 背中のアルクェイドは「志貴には私がいるもの」ときつい眼差し。志貴君は苦笑。それと、と続け、私はとっておきの情報を伝えた。地図の入ったカードと一緒に。

 

「フランスのパリ……パリと言っても片田舎なんですがベルシー駅から出てすぐにパン屋があるんです。とにかく絶品のパン屋さんなので近くに来られた時は是非来てみてください。おっぱいとお尻の大きい、遠野君好みの美人さんがいますよ」

 

 志貴君はむせ込んだ。案外当たっていたのだろうか。背中のアルクェイドがむーと唸っている。

 二人と別れ、夜道を歩く。行き先は三咲町を一望できる小高い山。ついでに使い魔の梟を呼び戻し、今回の一件を「適当」に記した報告の書類、こんな事に魔術使うなと怒られそうなそれを結びつける。ちょっと離れたところにある教会に梟を飛ばした。

 

 山の天辺、少し進むと切り立った崖になっているそこは登ると町が一望できる。深夜もいいところだと言うのに夜更かししている者が多いようだ。明るい月に負けぬよう、町もまた明るい。

 

「あー、終わった。長かったあ」

 

 吹き抜ける夜気に声が溶ける。私は夜空を見上げるよう仰向けに寝転がる。

 満天の星空、大きい月。

 

「ふふ」

 

 忘れていた笑いが浮かぶ。本当に何年笑っていなかったのだろう。

 そして私は懐に入れていた第七聖典を取りだし、祝詞を唱え、自分の心臓に突き刺した。

 神様への最後の反抗、私は神様の元になんか行かない。オリュンポスなんてまっぴらだ。

 魂が霧散する感覚。

 ゆっくりと、私という存在は無くなっていった。

 

 地中海の風の中、夕日を浴びてきらきらとした目でエディがサッカー選手の面白話を語る。

 実際面白い、私はふんふんと頷きながら時には笑い、時には幼馴染みと同じように目を輝かせた。

 ところで、と悪戯気な顔になり、何度目か、何十度目かも判らない告白を私にした。差し出した花は一輪の鈴蘭、五月一日じゃあるまいし。

 

「美しきミューズの足が痛むことの無いよう敷かれたパルナス山の鈴蘭の一輪、真心と誠意と思いやりの証と思って受け取ってくれると嬉しいね」

「んー、だからさあ、お前は私みたいなのじゃなくて他の女をね……」

「旅も大変だったんだろうミュリエル、僕だって色々ひねるさ」

「ん、そっか、そういう事なら貰っておくよ」

「ついでに僕の長年叶わぬ思いも受け取ってくれるとなお嬉しい」

 

 ばかめ、とおでこを指で弾く。いつものやり取り。

 でも、そうだ。心遣いを貰った事だし。うむ。

 幼馴染みと逆を向く。

 

「ちょっとだけ、ちょっとだけなら前向きに見当してみるよ」

 

 大げさにやったやったと騒ぎ立てる幼馴染みを蹴飛ばし、私は彼を置いて先に歩き出した。

 林檎のような顔を見られぬよう──




 ここまで読んでいただきありがとうございました。
 そしてタイトルでの引っかけすいません、喜びの声を上げてるのは無限者さんの方です。
 最近神様転生などの要素を捻ってくるのが多かったのでちょいと刺激され勢いで書いてしまったものです。
 4/28改稿しました、大体倍に増えてます。短編連載という形とはちょっと違うように思ったので追加投稿ではない形にしたのですが、逆にご不便をおかけしたかもしれません。
 後から大幅な改稿してしまったので、ちょっとずるい気もしますし、ランキングから外れさせてもらいました。評価等いただいた方には申し訳ありません。


原作前に最強系キャラがいればロアさん喜ぶだろうな、と昔考えたネタです。
考察を漁っている途中で、某掲示板でも似たような突っ込みしてる人が居ました、やっぱり結構だれかが考えたりしてるもんです。ネタ被りのSSが有りましたらお手数ですがお教え下さい、あんまり被り部分が多いようなら対処します。
あと美味しいアンドゥイエットはやたら美味いです。

捏造設定項目について
 ロアの転生についてはあちこちで考察されていますが、このお話の中の設定としては、一代前に次の世代の転生条件を決めておく事、本来は遠野四季でなくその子供に発現させるつもりだった、という事にさせておいて下さい。
 最初からロアの子として生まれてくる設定だと次はエレイシアさんがやはりロアになってしまいそうです。アルクェイドに健やかな眠りを。
 魔術の描写についても同様に捏造設定です、数秘紋による雷霆とか何じゃそれは、だったので。カバラっぽいかなーとでっちあげました。
 抑止力についてはこの場合働くかは判りません。
 獣の数字の否定書などはでっちあげです、616を獣の数字とする異読もあるようなので。

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