「ふぅ~……」
<フラクシナス>艦橋、一番偉い者が坐る艦長席にドッカリと腰を下ろした少女・五河琴里は体の中に溜まった疲労を吐き出すように深く息を吐いた。
一仕事終えた労働者の姿そのままの琴里は、実際にこの艦長席に座るまで仕事をしていた。
兄である五河士道を精霊対処の実行者とする手続きに色々と障害が有ったのだ。
有志によって結成された組織<ラタトスク>。精霊を保護し、幸福な暮らしを送らせることが結成理由にして最大の目的ではあるのだが、全員が全員その志を同じにしている訳ではない。
肥大化した組織に有りがちな思想の食い違い―――と言えばまだ聞こえはいいが実際は琴里の作戦を渋っただけなのだ。
それもしょうがないと言えばしょうがない。琴里の作戦は単純明快で「デートしてデレさせる」という一笑に付されても、というより舐めているとしか言えないふざけた内容なのだから。
作戦ですらない、一組織としてそんなオママゴトを実行するなど正気の沙汰とは思えないだろう。それが世界を殺す精霊の相手であるなら尚更だ。文句の一つも言いたくなる。
だがそんなオママゴトで平和的解決を成し遂げ得る存在が五河士道だ。
その特異性は五年も掛けて確認されたことであり、だからこそ<ラタトクス>最高幹部たる
もっとも批判的な輩は単に作戦内容だけでなく、五河琴里という14の小娘の作戦を実行するのが気に食わないのだろう。昨日今日と再三に亘って難を示してきたときは他にやることは無いのかと呆れたものだった。他の立案もせず、いざ実行の段階に移しても喚くのみ。彼らの裡は精々万が一にでも成功したのなら、その精霊を如何に利用しようものかという助平心くらいしかないだろう。
しかもそれが
「……お疲れのようだね、琴里」
「ん、令音?」
眠たそうに労わる声に振り返ると、そこには案の定<ラタトクス>解析官・村雨令音が艦長席の後ろに近づいてきていた。琴里はつい令音の方が疲れているだろうと言い返しそうになったがこれが常である彼女に言ったところで詮無き事だと思い止まった。
「疲れてはいるけど苛立ってるって方が強いわね。お偉方が小心者ばかりだといざってとき動けないのに、現場の意識もしっかり理解してほしいわ」
「……まあ、良くも悪くも普通で平凡な人達ということではないかね。臆病と言えばそこまでだが、そっちの方がよっぽど人間染みているだろう」
「普通で平凡………ねぇ」
今日に至るまでの働きを共にした友人に、そうやって愚痴の一つも言わないから疲れが溜まるのだと、そのマイペースぶりに苦笑を洩らす琴里は一層物思いにふけていた。
令音の言葉に何か感じるものが有ったのか、さっきよりも顔が深刻になっている。
「……本当に大丈夫かね琴里? 随分と悩んでいるように見えるのだが……何か気になることでも?」
「まあ、ね」
目を伏せながら口に出そうかどうか迷っている琴里に、令音は少し驚いていた。
いつもの琴里―――というより司令官モードの五河琴里なら、悩み事があったとしてもそうそう打ち明けたりはしない。部下にも友人にも家族にもだ。
他人を信用していないのではなく、心配させまいとする彼女の優しさと
そんな琴理が心中を言おうか言うまいかと逡巡しているということは、なにかよっぽど重大で一人では解決できそうもない懸念事項があるのかもしれない。
「あのさ令音。聞きたい事が有るんだけど、時間いいかしら?」
「……来禅高校に行くまでの間でよければだが」
今日から令音は士道のサポート及び訓練を施す一環で来禅高校に教員として世話になることになっている。
何時如何なる時に精霊が現れるかが分からない以上、無駄に時間を使うのだけは極力避け、円滑に訓練を進めるために登校中も士道の口説きスキルを向上させておく措置だった。
通信機器を使えば遠くにいてもサポートも訓練も出来るのだが、あらゆるアクシデント、不備を考慮すれば本人の近くには一人でも協力者がいた方が都合が付くので琴里が一番に信頼している令音が選ばれたのだ。
「そんなに掛からないから大丈夫よ………たぶん」
「……ふむ? ……で、聞きたい事とは、何かね?」
「おに―――うちの阿呆兄についてよ」
「……シンの?」
令音は疑問に思いながら首を傾げる。
可笑しな話である。長い時間の中で兄妹をやってきた琴里の方が何倍も士道の事を知っているだろうに、昨日会ったばかりの令音に対して聞きたい事が有るというのか?
実際に令音がわかっているのは彼を胸で抱いたときの愛おしさくらいのものではないか……。
「……私に答えられることは限られていると思うのだが?」
「別にそんな気負わなくていいわ。率直な気持ちを聞きたいだけだから」
「……気持ち?」
いまいち琴里の言わんとすることが分からず、令音は更に首を傾げてしまう。
「令音――――あなた、士道のこと……どう思ってる?」
「……………………」
―――感じたことのないプレッシャーに、身を竦む。
厳しい表情で厳かに言う琴里は、まるで娘に言いよる男を戒める頑固親父のように佇んでいた。要領を得ない質問故に自分で意図を汲んで答えなければいけないと、何故だか聞き返すことも出来ぬままに翻弄される令音。
頑固親父のよう?…………いや、違う。
どうやらプレッシャーにやられて思考が鈍っているみたいだ。
今の琴里は頑固親父ようではなく、頑固親父そのものになっている。
その上で「士道のことをどう思ってる?」なんて聞かれれば彼女の言わんとしている事など決まっている。
言うなれば今の状況は付き合っている彼女の父親に自分を紹介されている彼氏。
結婚を前提にお付き合いをさせていただいている上で避けては通れぬ登竜門。
「……ああ、なるほど」
ポンっと右手で開いた左手を叩く納得の動作をした。
「……シンを手に入れたければ私の屍を越えていけと……そう言いたいのだね、琴里」
「ごめんなさい。我ながら主語がなさすぎたわ」
にべも無く琴里は得心した爽快感を味わっていた令音をあしらった。
「……む、違うのか。では兄を取られたくない妹、みたいな気持ちなのかね?」
「普通に妹よ私は。ボケはいいから真面目に話を聞いてちょうだい」
呆れるのもほどほどに、琴里は咳払いをして本題に入る。彼女の
「私が聞きたいのは〝此処に来たときの士道〟のことよ」
「……<フラクシナス>に……?」
「ええ。あなたから見て此処に来たときの士道のこと……どう思った?」
神妙な顔をしながらどこか不安げに声を吐き出す琴里を見て、今度こそ令音は真剣になる。
だから琴理がどういうことを聞きたいのか、どういう意見が聞きたいのかが理解できた。
「……一般人にしては豪胆すぎる……と、思ったかな」
「……その理由は?」
「……目が覚めた後から精霊に関する説明を受けていた時までのシンは極めて平穏だった。混乱しすぎて現実処理が追い付いていないわけでもなく、ちゃんと話を聞いている様子だった」
精霊という次元違いの生命体と相対し、命が奪われかねない状況に居た割には
艦橋にて話をしているときも、此処が何処で妹が何をしているのかも聞かずに、ただ琴里の言葉に耳を傾けていた。
「……動揺もせず、余計な口も挟まず、一度聞いただけで諸々の事情を把握していた。精霊が被っている理不尽さを理解し、信念と言って差し支えないほどの憤りを懐いていた。
……同級生のAST隊員に一部の事情を聞いていたとしても、あの場であそこまでの覚悟を持てるものなのか、疑問ではあったね」
「なるほど……それだけかしら?」
「……いや、まだある。何よりも可笑しいと思った点だ」
「何よりも――――?」
それはなに、と琴里が気になって先を促す。
「……シンの発言だ。交際経験の無い男の子が、会ったばかりの女の子を『デートしてデレさせる』……なんて言葉が出てくるだろうか? ……益してや恋をさせるだなんて」
「あぁ~~……やっぱりそう思うわよね。あれには本当に度肝を抜かれたわ」
本人が聞いたら「それが何よりの理由ッ?!」と悲憤を撒き散らしながら嘆いていたかもしれないが、哀しきかな、2人は心底疑問に思っていた。ふざけている訳でも士道を馬鹿にしている訳でもなく(琴里は若干その気があるが)、純然たる不可解が有るのだ。
見た目の容姿で言えば精霊は―――十香は間違いなく傾国の美女である。一目でも見れば男として彼女の気を引こうとありとあらゆる手を尽くそうとするのは無理からぬことではある。特にデートなんて典型であり、最高のシチュエーションの一つだろう。
しかし一方で彼女の美しすぎる見た目は多くの男を尻込みさせる凄味があり、迂闊に近づこうものなら体が動かなくなってしまう程の〝恐れ〟に支配されてしまう。
高嶺の花どころか宇宙の星を超える圧倒的距離感のある十香をデレさせようと考えるなんて軽薄な男か、色男か、ともかく〝普通〟ではない男なのは確かだ。
五河士道はそのどれにも当て嵌まらない。
前述の通りチャラくなれるくらいの女付き合いはないし、性格からしてそんな変貌を遂げるなんてない。顔立ちは不細工ではないし、少し化粧を施せば女装が大層似合いそうな中性的な造りをしているが、それを鼻にかけて女にちょっかいを出すことは、やはり性格からしてない。よって当初は士道に精霊との対話、もとい精霊をデレさせるように仕向け、説得する手筈だったのだ……だったのに、予想に反して士道は最初からその気だった。
女っ気が無い、女に対しては初心丸出しになるであろうことが断言できる。
それだけ五河士道を身近で見てきたからこその疑念が琴里を悩ませていた。
「私もスっっっっっっっっっっゴく気になったけど、ラタトクスとしては都合が良いし、やる気になってるところに水を差すのも何だったから挑発程度に抑えたけど――――――やっぱり変よ。士道があんな事言うなんて…………あり得ないわ」
「……それだけ十香に魅せられてしまった、という考えもあるが……」
「無くはないわね。一目惚れが一番可能性高いし」
でも、と……それで十香に進んで関わろうとしていると言われても、内心琴里は納得がいかなかった。士道が十香に関わろうとする動機は彼女に、精霊に絶望の影が見える以外には無いと思っていたからだ。女としての魅力よりも個人の苦悩に目がいく程にお人好しの兄なのだ。
一目惚れも無いわけではないが、さっき言った通り、士道の場合進むどころかしどろもどろになって後退していく方が余程らしい姿だと思える。誰よりも五河士道のことを知っている、自負以上の感情は持っている琴里としては、士道が初めからあんな事言う訳がないと感情が訴えていた。
(不吉の予兆ってヤツかしら? 吹雪でも吹くのか、大嵐が来るのか……)
はたまたユーラシア級の空間震が発生するのか、言い知れぬ漠然とした不安でしかないのに、あながち本当に起こるんじゃないかと危機感が沁みるように広がっていく。
これだけでも頭を悩ませていると言うのに、傷口に塩を塗るような悩みの種が琴里にはもう二つあった。
その一つが司令官モード―――黒いリボンを付けている琴里への態度だ。
琴里は公私の切り替えとして白いリボンと黒いリボンとを使い、性格を
(なんにも変わってなかった……いつも通りの
そっと、琴里は髪に括られている黒いリボンに触れる。
艦橋での初顔合わせこそ信じられないモノを見た顔になっていたが、話をしていくにつれて士道は元通りの調子に戻っていった。
そこは、まだ見過ごせる。
自分と似た過去の境遇を十香に見て、妹の変化に気を配っていられなかったのかもと思うし、何より性格が変わった程度で兄妹関係が悪化してしまうほど自分達は柔な付き合いをしていない。釈然とはしないが、うろたえずに琴里の変化を受け入れた士道を尊敬してもいいくらいだった。
そして最後の一つが―――
「令音。士道の右手なんだけど、怪我の具合はどうなってるの?」
「……む? ……ああ、医務官の話では皮膚の傷が相当深いらしくてね……日常生活の範囲で動かすのは問題ないそうだが、完治しても傷跡は残ってしまうだろうとのことだ」
唐突な話題変換に怪訝そうな声を漏らしながらも令音は士道の右手の状態を報告した。
「治す手立てはないの?」
「……治療用
「………そう」
精霊に怪我を負わされても、生きているだけで最上の幸運なのだから傷跡が残るくらいは甘んじて受け入れるべきだ。士道が女であったなら傷跡に関して深く悲嘆したかもしれないが、彼は恐らく、 イヤ絶対気にしないのだから妹とはいえ他人がギャーギャー騒ぐのは頂けないだろう―――が、それはあくまで心情の話。琴里が気にしているのは士道が
士道は〝とある理由〟によって、どんな大怪我を負ったとしてもその場で〝再生〟することができる特質を持っている。
この利点が五河士道を精霊との交渉役に選ばれた要因の一つでもあり、危険の塊である精霊との命綱の役割も果たしているのだ。でなければ琴里が兄をむざむざ死地へと追い遣ることなどしやしない。
しかし、実際士道は怪我を負って、傷が治らないどころか傷跡が残ってしまう有様になっている。〝再生〟が発動しない落とし穴として、士道本来の身体でも自力で完治する傷、異常には効果が無いのが分かっており、これに照らし合わせれば右手の傷はどう考えても〝再生〟が発動する条件は整っている筈である。
五年間の検査に不備が無ければ、考えられる原因は傷を負わせた張本人たる十香の持つ〝天使〟の能力だ。というより
再生、治療といった命を救う力に反する力。即ち、命を
恐らく毒のような、死そのもののような力が十香の〝天使〟なのだと考えれば右手の怪我にも説明が付く。そして同時にとても厄介だった。
(天宮市から沖縄へ瞬間移動できる能力に加えてそんな力………性質に一貫性が感じられないけど、複数の能力を持つのは不思議じゃないし……問題はそこじゃない)
琴里の推測した通りの能力だとしたら正に士道にとっては天敵となってしまうモノだ。
もちろん戦う訳でもなし、天敵も何も無いのだが、命懸けの行動を取ることには変わりないし、まして士道はまだ交渉術はおろか女の扱いすら慣れていない始末。
一人目にしてあんな力を持っている精霊を相手取るなんて士道には少々荷が重すぎる案件だ。下手したら本当に死んでしまう可能性が有る。
「令音、今日の訓練だけど―――」
『し、司令ッ!』
学校の放課後に行う訓練内容を繰り上げて早急に対処技術を身につけてもらう必要があるだろうと、訓練の一部変更を伝えようとしたが、甲高い艦長席への通信で途切れてしまった。
自分の部下を身内同然と思っている琴里にとって、顔を合わせていない末端の者であろうと名前も所属も階級も把握しており、通信を入れたのは<フラクシナス>の空間観測員だと声だけで理解した。
切羽詰まったその声質で緊急事態の出来事が起こったのだと、琴里の脳細胞は高速で司令官としての自覚を取り戻し、威厳ある態度で応答した。
「なに、何事?」
『は、はい。数分前に小さな空間の揺らぎを観測して、映像を捕捉してみたのですが―――』
言って、観測員は艦橋に備えられている大型モニタリングに映像を送った。
そこに映っていたのは―――
『なん、だ……この人間共は……? コイツら全員貴様が集めた尖兵どもか?! おのれェ、謀ったなイツカシド―!! こうなったら【
『やめいィ?! なに物騒なモン出そうとしてるんだおまえは!? 敢えて策略に乗ってやるって言ったくせに沸点低すぎるぞ?! もう少し落ち着いてくれ!!』
『私が落ち着いていないだと?! 私は落ち着いている!! 落ち着いてこの人間達の数を見据え、慎重になって最善の戦術を見極め、冷静に<
『何にまいればいいんだナニに!? 落ち着きのオの字も慎重のシの字も冷静のレの字も見えなかったわッ?! とにかく待ってくれ、この人たちは俺が集めた人たちじゃないしお前を殺そうとなんて思ってないから―――』
『殺そうとしていない……ならば補獲か!? 一斉に私に飛びかかっていすに座らせ怪しげなコォドを身体中に取り付けて尋問する気なのだな?!』
『違ぁぁぁああああう!!? それどこの機械仕掛けの会社だよ!? お願いだから話をややこしくしないでくれぇぇぇぇぇッ!!』
「………………………」
「……なまらびっくり」
口をあんぐりと開けたまま、画面に映った人物達のやりとりを見ることしかできない琴里と、なぜか北海道方言で動揺を表している令音。
映しだされたのは天宮市商店街の大通り。そこにできた人垣に戦慄する精霊・十香と必死に彼女を宥めて大声を凝らす五河士道の掛け合いだった。
十香は精霊最強の盾たる霊装を拵えておらず、その身には士道と同じ来禅高校のブレザーを着用しており、うまいこと普通の人間として群衆に紛れることが……できていない。
それはそうだ。あんな大声で叫びあっていて周りに気にされないなんてありえない。ある者は奇異の目を向け、ある者は微笑ましい者を見る目を向け、十香の容姿と相俟ってそこいら中から注目を集めてしまっている。
「そっくりさん……な訳ないわよね。ちゃんと確認したんでしょ?」
『はい、存在一致率九九・五パーセント。この誤差は霊装の有無に関わる数値と見られますので……間違いなく<プリンセス>かと』
観測員の報告に琴里は眉間を押えてしまう。対策を練ろうとした矢先にコレとは……真剣に眩暈がしてきた。
今の今まで琴里が令音と話せていたように、画面越しに映っている人々が平和に士道と十香に視線を向けているように、<フラクシナス>にも天宮市にも空間震警報は鳴っていない。これが意味するものは精霊には此方に感知されずに現界する〝静粛現界〟によって現れたということを物語っていた。
―――非常にまずい。
住民の避難もなにも出来ていない状況で精霊の出現ほど緊急で危険なものもそうそうない。しかも十香は見るからに激昂して〝天使〟を使うとまで宣言している。
琴里は直ぐさま部下に指示を出すべく艦長席の通信回線を開いた。
「<フラクシナス>司令官・五河琴里から各員に通達。現在天宮市商店街にて精霊<プリンセス>が此方の観測機をすり抜けて五河士道と行動を共にしている事が判明したわ。
一般市民が紛れ込んでいる状態での作戦実行は困難と危険を伴うため、作戦コードF-08・オペレーション『天宮の休日』を発令。作業班は至急持ち場について2人を誘導するように。攻略班は
「……やる気かね、琴里」
「当然。あんな無様を晒してて放っとくわけにもいかないし。悪いけど令音も準備してちょうだい」
「……了解した―――ああ、その前に来禅高校に連絡を入れなくては」
緊急事態で士道共々学校に行けなくなった旨を伝えるべく、いそいそと携帯端末を取りだして一旦艦橋から出ていく令音を横目で確認しながら琴里はこれからの戦術と戦略を構築し始める。
さっきまで兄への疑念が頭の中の大部分を占めていたが、今は十香攻略に全力を尽くすよう意識を切り替える。そうするだけで疑念と共にあった焦燥と不安が、霧が晴れるかのように消え去っていった。
それは琴里の司令官としてのレベルが高いというのではなく、自分自身すら感知していない無意識の内に、女の子を相手に慌てふためいている士道を見て安堵しているが故の落ち着き方だった。
どんなにらしくない言葉を言っても、おにーちゃんはおにーちゃんだったと呆れることができて安心していたのだ。
「さあ―――私たちの
口の端を上げて、得意げに宣戦する琴里の姿に悩める姿は微塵も無い。
自分の知っている士道の〝らしい〟姿を見て調子を取り戻すことができたのだろう。
……それが良い事なのか悪い事なのか、今はまだわからない。
○ ○ ○
「ぬうぅぅぅ~~」
「……はあぁぁぁぁ」
自分の身体に余すことなく蓄積させられた疲労を空に居る妹と同じように吐き出し、五河士道はグッタリと首をぶら下げた。疾っくのとうに溜まりきっていた疲労を更に上乗せられたこの倦怠感を何とか解消したいと思っての所作だったがそれも一瞬。後には土砂崩れが落ちてくるかのようにドスンと容赦なく残った疲れを背負わされる。
あれから先行する十香に何とか追いつくことが出来た士道だったが、こんな人気が集まる場所に辿りつかせてしまったのは十香の都合上からも非常に不味かった。おかげで制止と説得にライフポイントはゼロを過ぎてマイナスへと突入したが、そんなのお構いなしに彼女は尚も士道を振り回していた。
「おいイツカシド―。此処に集まっている人間共が貴様の尖兵ではないと言うならコイツらは一体何をしに来たというのだ? 私たちを見て爛々と輝かせているあの目は猛禽にしか見えんぞ」
「……そりゃ、あんだけデカイ声で叫んだら爛々になっちまうだろうよ。まるっきり珍獣だし、珍味だし。この人たちは会社の通勤とか学校の通学とか、買い物をしに来たりとか、人それぞれに違う目的があって行動してるんだよ。ここの商店街はただの通り道で、たまたま人が集まってるだけだ」
士道が説明するも、十香は敵地に侵入している兵士さながらに落ち着きが無い。辺りを其処彼処にキョロキョロと見ては険しい表情をしている。
「ではこの中には私を殺す目的を持っているヤツがいるかもしれんではないか。メカメカ団が来ないとも限らぬし……やはりここは先手を打って―――」
「だから無いって。それにこんな人ごみの中でそんなことしたら確実にメカ……ASTの連中がやってくる。そんなんじゃデートどころじゃなくなるだろ?」
「むうぅぅ、煩わしい。霊装さえ纏えていたならここまで警戒しないというのに……」
自分の格好を見ながら十香は不満げにブツブツと呟く。
今の彼女は荘厳なドレスで着飾られたものではなく、極普通のありふれた
その際の構築する元となる設計図は士道が手書きでノートに書いたスケッチによるものだった。丁寧に、繊細に、何より綺麗に十香が制服姿でいるスケッチをした絵は十香だけでなく描いた本人である士道も他人事のように魅入ってしまった。
美術の成績など可もなく不可もない自分がなぜ画家もかくやと言っていいほどの技巧を持っているのかを、士道は敢えて無視してこの姿になってくれと十香に頼んだのだった。
「……まぁ、いい。何処から来ようがあんな奴らに殺られる私ではないからな」
無精無精と一応の納得を得た十香は歩調を緩めながら歩いていく。
話が功を奏したのか幾分もゆっくりとしていて後に続くのが楽になったが、それは士道の歩調に合わせるものではない。
ヒト一人分が開いただけの、辛うじて一列歩きになっているだけの、連帯感のない纏りだった。
自分達の心の距離を表している……なんて言えば切ない気持になる。
人間との心の距離を表している……なんて言えば悲しい気持になる。
どっちにしろ、この些細な間隔が十香との隔たりであるのに違いはなかった。
今までの彼女の生がそうさせていると思うと、やりきれなくなってくる。俺がなんとかしたいと強く願う反面、具体的に何をすればいいのかと悩んでしまう自分がいた。
いや、やるのはデートだというのは決まっているのだ。
決まっているのだが……決まっていない。
(デートって…………なにすりゃいいんだ?)
ここにきて士道は重大な事実を突き付けられた。自分は生まれて此の方、一度もデートをしたことが無いことに。デート自体は知っていても、ぶっつけで実行するだけの知識が全く無いことに。
年齢=彼女いない歴なのだから当然というか必然の不名誉であるのだが、こうして自覚してみると、かなり惨めな気持ちになってくるが、それ以上に「デートしてくれ」と誘っていながらデートしたことがないなんて、滑稽すぎて泣いてしまいそうになった。
「でだ、イツカシド―。ずっと気になっていたのだが〝デェト〟とは何なのだ?」
「え゛ぅ?!」
そんな士道の内心を読み取ったかのように疑問をぶつけられて奇声を漏らしてしまった。
「……どうしたイツカシド―、どこか苦しいのか?」
「な、なんでもない。ちょっと噎せただけだ…… で、えっと、デートがどうかしたのか?」
「だから〝デェト〟とは一体なんなのだと聞いている。いつ始めるのだ? いい加減待ちくたびれたぞ」
「……は?」
その言動に士道は違和感を感じた。十香が何を言ったのかが分からない……ではなく、十香が何故そんな事を言ったのかが分からないと若干の思考停止に陥ってしまった。
「ちょっと待て十香。おまえ、もしかして…………デートの意味知らないのか?」
「仕方なかろう。貴様が変なことを言うから聞きそびれてしまったのだ」
「いや、そうじゃなくて……」
まさか自分以上にデートを知らずに会いに来たとは思わなかった。否、知らないからこそ学ぶ為に会いに来たのだというのを忘れていた。そういえば〝アレ〟を見た時も十香はデートの意味を履き違いまくってたのを士道は思い出した。どうやら勝手に先入観に嵌ったようだった。
「ほら、さっさと〝デェト〟とやらが何なのかを教えろイツカシド―」
「……ええっと、だな。デートってのは―――」
デートの意味を教えようとするも口が止まってしまう。まさに今自分が考察中の議題なのだから他の誰かに伝えられるほど情報を整理できていないのだから当然だ。
「ぬ? 〝デートってのは〟……なんだ?」
「デ、デートってのは、だな、ってぇーのは……ええ~~っと、あれだよ、あれ……男と女が一緒に遊んだりすることだよ……」
それでもなんとか伝えようと脳をフル回転させ、拙い言葉を紡いでいく。
結果としてセリフを忘れてしまった三下役者の棒演技をやってる気分になりながら、それでも意地を見せて言いきった……言った手前の責任とも言えるが。
だがしかし、そんな引っ込み思案な態度に十香は納得しがたいと、明らかに不機嫌になったと士道に訴えてくる。
「……なんだその腑抜けた言承は? 貴様―――適当に答えるとはいい度胸ではないか」
「て、適当じゃねえよッ! そりゃ、俺もデートしたことないから絶対あってるなんて言えねえけど、噛み砕いて言っちまえばそんなもんだって」
「―――は?」
又しても怒らしてしまったと、慌ててフォローを入れているが、十香は氷漬けにされたように士道を見て止まってしまった。
奇しくもそれはついさっきの士道との立場が逆になった状態だった。士道が何を言ってるのかが分からないのではなく、士道が何故そんな事を言ったのか十香には分からなかったのだ。
「まて、イツカシド―。聞き違いか? ……貴様、今デェトするのが初めてだと言ったように聞こえたのだが」
「……ああ、そうだよ。俺デートしたことないんだ」
「――――――――」
絶句、というのがここまで的確な体現はないと、十香は信じられないモノを見るように士道を見詰める。
「じゃあなにか、貴様は自分がやったこともない事をしてくれとほざいたのか? あれだけデェトデェトと喧しく連呼していたのに?」
「連呼してたのはお前の方だよな確実に…… まあ、そうなんだけどよ」
二度目の絶句が十香を凝り固め、気まずげに頬を掻くしかない士道。
そのまま暫しの間が過ぎ、十香が口を開く。
「―――イツカシド―」
「お、おう、なんだ?」
神妙な顔と声に緊張を奔らせながら言葉を待っていると―――
「ひょっとしておまえは………………バカなのか?」
「バカとは失礼だなオ?!――――い」
まさか直球に罵倒を投げてくるとは思わず、素っ頓狂な裏声を出してしまったが、十香の至極厳然とした冷めた雰囲気に充てられて声が止まってしまった。
あからさまな怒りではない、怒りを上回る感情が士道を強張らせた。
「え、あ、……十香?」
「貴様は自身がよく分かっていない事柄を私に要求しているのだぞ? バカ以外のなんだというのだ。 其処にどれだけの価値があるか不明瞭なのに、何故私をデェトに誘った? 口から出たデマカセか」
「……! そんな、俺は!」
「―――もういい。今日は偵察と観察をしに来たのだ。おまえが嘘を吐こうがどうでもいい…………デェトなど事のついででしかない」
「―――あ」
暗く、吐き捨てるように、どこまでも冷たく突き離された士道は、言の刃で傷つくよりも先に十香の顔を見て胸が苦しくなっていた。
気付いたのだ。十香が怒りよりも抱いている感情を。
普段は他人の感情に疎い士道は絶望に対しては頗る敏感に反応する。
今の十香はそれに近しい顔をしていた。
絶望の一歩手前の感情。五河士道に対しての
失望―――それの意味するものは唯一つ。
十香は期待していたのではないのか? デートをするのを。自惚れれば、五河士道とデートをすることを。
この世界に来る際のデメリットを度外視してでもなお、デートするのを楽しみにしていたのではないのか?
なのに士道はデートが何なのか分かっていなかった。なんにも知らないクセにそれが十香のためだと闇雲になってデートをしようとしただけだった。勝手に憐れんで、上から目線で保護者気取りをしていただけだった。
そうじゃないだろ。五河士道がすべきなのはそうじゃない。
彼女はそんなの知ったことじゃない。
彼女にとっては、初めての
「すまん、十香」
「…………何を謝って―――ッ!」
謝罪と共に士道は動いた。十香との距離を一気に詰めて彼女の左手を自分の右手で掴んだ。
どうしてこんなことを……気付いたらそうしていた、としか言えなかった。右手を使ったのが良い証拠だ。
怪我をしている手を使ってしまいそこを起点に流れる痛みが駆け巡っていくが、立ち位置の関係上仕方が無かったし、とにかく一刻も早く十香を捉まえたかったのだ。
「な、おいっ、なにをするイツカシド―?!」
手を取られたまま振り払えもしない十香は慌てふためくしかなかった。
いきなりそうされれば混乱させてしまうのは必至だったが士道は繋いだ手を離したくなかった。
「すまん、十香」
「だから何を謝っている?! いいからこの手を離せ!」
「俺、おまえをデートに誘うことしか考えてなくて、おまえとデートできればいいってだけ考えてた。なんつーか、その……」
世界の崩壊を防ぐとか、そんな御大層な考えを持ったつもりはないが、気負いすぎていたのはあったかもしれない。
十香を助ける。
十香を救う。
その気持ちに変わりはないし、今も強く思ってる。
でも、楽しもうという気持ちはなかった。こんな可愛い子とデートしようとしてるのにドキドキもワクワクもしないで救うやら助けるやら考えるなんて御門違いもいいところだ。
―――デートするなら対等でいよう。
「……十香、さっき言ったよな。どれだけの価値があるか不明瞭なのにデートに誘うなんておかしいって」
「〝デェトを知りもせずに〟が抜けているッ! それがなんだ!」
「いや、違う。確かに詳しくは知らないけどさ……ひとつだけ、デートに欠かせない要素があるのは知ってる」
「……?」
断言する口調に荒げていた声が鎮まり静寂が生まれる。
大したこと言うわけじゃないのにと緊張してしまうのを抑えて士道は口を開く。
「〝楽しい〟って気持ちになること。それがデートの必要最低条件だ。
「私たち……ふたり?」
「ああ。デートは一人だけじゃできない。デートは
ならさ、一人だけ楽しいだけでもう一人はつまらないじゃ意味ないし、虚しくなるだけだろ? んでさっきの十香の言葉だ。〝どれだけの価値があるか不明瞭なのに〟ってヤツ」
俺は何を言ってるんだと、恥ずかしさで身体が爆発しそうになるが自分なりのデートの意味を伝えなければ十香は納得しないだろうと言葉を紡いでいく。
「まさにその通りなんだよ。デートってそうなんだと思う。どれだけの価値があるのかは最後までやらなくちゃ不明瞭なんだ。終わりよければ総て良しってわけじゃないぞ? 過程も含めてどれだけ二人の〝想い出〟になれるかで価値が決まるんじゃないかって、俺はそう思ってる」
「だから」―――と、士道はギュッと十香の手を握り締める。そこにある感触で〝二人〟になっていることを確かめる。
「十香……改めて、俺とデートしてくれないか? せっかくこの世界に来たんだ。偵察と観察だけじゃ疲れるだろ? どうせなら俺と一緒にこのデートを価値のあるものにしないか?」
言いたい事を言い切り、残るは十香の返事だけとなった。
十香を精霊としてだけじゃない、一人の女の子として接する。
まずは純粋に十香を楽しませよう。目一杯この状況を楽しもう。
それこそが彼女のためになる。
きっと彼女の笑顔に繋がる。
「……手を離せ」
沈黙の果て、十香は絞り出す声でそう言った。
しかしそこに拒絶の色は感じられない。あるのは気遣いと後ろめたさだけだった。
「別に貴様の右手でなければいけない理由はないだろう……だから、離せ」
「あ……悪い」
言われたとおりに右手を離し、自由になった十香は士道の左側へと回り込み、そっと左手を握った。
優しく包み込むその仕草は士道に怪我をさせた手を使わせてしまった負い目があるのか。……もしかしたら「離せ」と叫んだのは士道に気を使ってのことだったのかもしれなかった。
「……これで、いいのか?」
「……ああ」
こうして暗黙の了解を示した十香により、人間と精霊の異色のカップルが誕生した。
どうにもぎこちなくて不器用な男女に見えるが、こそばゆくて初々しい男女のようにも見えて、なんとも甘酸っぱい青春の1ページに加わるであろう絵面だった。
「……それで? おまえは何がしたいんだイツカシド―。 結局のところ肝心の中身がなければどうしようもないではないか」
「そうだな、とりあえずはこの街を―――」
この街、天宮市の案内をして十香の興味を引いたものに付き合ってみようと考えた時、グーーウゥゥっと、力が抜けてしまう音がお腹から発せられた。
「………………」
「………………」
言っておくと士道のお腹ではなく、十香のお腹からだ。
「―――の、前に、なにか食べるか。それからこの街を案内するよ」
「……………うむ」
力だけでなく気も抜けてしまう生理現象に緊張が解けていくのを感じながら士道は十香と共に歩きだした。
同じ歩幅で同じ道を共に行き、漸く彼女とスタート地点に立てたと確かな繋がりを感じながらこの近くにある飲食店を目指していった。
「それじゃあ、十香―――俺たちのデートを始めよう」
「………………」
士道の宣誓に十香は何も言わない。
ただ静かに、コクリと頷いた。