憑依に失敗して五河士道が苦労するお話   作:弩死老徒

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 英国(イギリス)――――ユーラシア大陸に在る四つの国からなる連合王国。

 首都ロンドンにある定番観光スポット大英博物館。世界的ロックバンド〝ビートルズ〟の出身地リヴァプール。サッカー界屈指のビッグクラブ〝マンチェスターユナイデット〟。偉大なる劇作家シェイクスピアの劇場が再現されたグローブ座。挙げればまだまだあるこの国の街並み、其処彼処に紛れる威風と古風、歴史が漂う熟達した国と思わせる。騎士道物語の頂点アーサー王物語。劇場型殺人の元祖ジャック・ザ・リッパー。世界的知名度を誇る有名な伝説と史実を持つ善悪美醜の時が刻まれている国―――英国。

 由緒ある国の一つであることに間違いはないが、なにも古いだけが取り柄ではない。なにせこの国は世界の中心に立っていると言っても過言ではない超最先端技術を持っているからだ。

 その名を顕現装置(リアライザ)。三〇年前に発見された至上にして至高のテクノロジー。現実を演算処理で歪め、物理法則を書き換える魔法の技術装置。一般にこそ普及されてはいないものの、一般ではない人間、ひいてはそういう(・・・・)組織には御用達の逸品の製造を唯一行なうことのできる大企業の本社が英国に存在するのだ。

 

 デウス・エクス・マキナ・インダストリー社。通称DEM社。

 人外の怪物・精霊と戦う武力を製造できる世界屈指の会社(メーカー)

 顕現装置だけでなく、幅広い事業にも手を広げているDEMは、財界は当然、政界にも顔が利くほど多大な影響力を有している。既存の機械文明を容易く破壊する顕現装置が有るか無いか、多いか少ないかは国防に関わり、精霊への対抗手段にも復興にも必須であり、国の死活問題になるからだ。それだけの価値と力を生産し利益としてきたDEMに頭が上がらない人間は内外問わず数多い。

 

「………………」

 

 それはこのジェシカ・ベイリーも例に漏れない。

 彼女は端正なその貌を唇と共に引き締め、赤い髪を靡かせながら毅然とした態度で広々とした本社の廊下を歩き、奥へ見えてきたエレベータに入って最上階を示すボタンを押して上へと昇っていく。

 ジェシカはDEM社に直接所属している魔術師(ウィザード)である。自衛隊のASTのように、会社の都合上(・・・・・・)DEMにも当たり前に魔術師は在籍している。しかしその錬度はそこいらの特殊部隊の魔術師とは比べ物にならない差が開いている。特にジェシカはDEMでも類稀な実力を誇る魔術師だ。

 与えられた栄光のコードサイン・アデプタス3はDEMの中でも上位の実力を持っている事を表すエリートの証。ナンバースリーたる自負、矜持はジェシカを元々の高慢な性格を冗長させる原因に一役買っていたが、そんな他人を見下しがちで自分に絶対の自信を持っている彼女でも、敵わぬ相手がいる。

 

 エレベーターが最上階に着いた到達音が鳴る。直後にドアがスライドし、ジェシカは再び歩いていく。感覚がさっきまでとは別空間と思うのは、他の階と違い廊下が一本道となって進むことしか許されないからと、その先に居る人物がジェシカにとっては篤い忠誠を誓う君主であるからだった。

 その部屋に近づいていく度に身体は嫌でも畏まっていく。緊張もあったが、それ以上に喜びの方が大きい。敬愛なる〝あの御方〟に通信越しではない、直接御会いして声を頂けるのだ……これを歓喜と言わず何と言えばいいのだ。

 やがて道は一つのドアを境に途切れて足を止める。軽く、しかし深く息を吸って吐く。手に汗をかいている事に今更ながら気付いた。

 

「アデプタスナンバー3・ジェシカ・ベイリー、出頭致しました。入室許可を」

 

 ドアに備えられたIPボタンで声帯認証を行ない、施錠が解錠され「失礼します」と足を進めて境界を開けていく。

 広がったのはガラス壁一杯に差しこむ日差し。目を細めて映るのは応接用のテーブルとソファー、横長のデスク。個室にしては大きくスペースを取っているのに家具はそれに見合わぬ少なさだが、飾り気がない故にきちんと整理整頓されていて清潔感溢れる部屋になっていた。

 

 その中に一人、ジェシカが求めてやまない崇拝の対象が、悠然と存在していた。

 

 

「―――やあ、ジェシカ。よく来てくれたね」

 

 

 窓側に設置された執務机にそのまま腰がけていた男がジェシカに振り返る。

 歳は三〇代にさし入ったばかりか……目は鋭い刃物を思わせるほどに細く鋭く、底が見えない深い黒で塗り潰されている。髪はくすんだアッシュブロンド、というには色素が抜け落ち過ぎて病に冒されているかのようだった。肌の色も同様に、白すぎるほどに白い。顔立ちは悪くなく、美形と言って差し支えないのに、それらの要素がこの男をどこか妖しげに見させてしまう。

 だがジェシカはそんな思い露ほども感じない。あるのは拝謁を許された天上の喜びのみ。ジェシカにはこの男がミロのヴィーナスより美しく、阿修羅像よりも荘厳なオーラに包まれているようにしか見えなかった。

 

 ―――アイザック・レイ・ペラム・ウェストコット。

 役職はDEM社業務執行取締役(マネージング・ディレクター)、即ちこの社のトップである。

 その齢にして一企業の、世界を代表する大企業の頂点に伸上れる手腕はいか程のものか、それだけでも一目置かれてしかるべきだが、真に恐ろしくは彼がDEMを〝作り上げた〟というのに他ならない。零から一に、一から徐々に会社を作り上げたのか、それとも全く別の意味なのか(・・・・・・・・・)は定かではないが、DEMの根幹に関わっている事に間違いは無く、尊敬と畏敬を持って接するのが礼儀であるのにも間違いはないが……稀代の革命家と呼ぶにしても、彼の見た目は若すぎる。

 

「急に呼び出したりしてすまなかった。本来ならいつも頑張ってくれている君に、休暇の話を切り出したいところなのだが、どうしても無視しかねる案件があってね」

「いえ! 御気持だけで十分な報奨です。ウェストコット様の(めい)に従うのが私の責務。何なりとお申し付けください」

「そう言ってくれると助かるよ。……ああ(ただ)、様付けなどする必要はない。公共の場でなら兎も角、今は君と私の二人きりだ。楽にしてくれ。遠慮なく私を〝アイク〟と呼んでくれて構わないよ?」

「そ―――ッ!? そんな……恐れ多い……っ」

 

 気さくに、ウェストコットは偉ぶるでも鼻に掛けるでもなくフレンドリーに部下と接するのが常であった。若者特有のギラギラとした眼差しはなく、そこには老獪な達観と余裕のようなものが垣間見え、彼が見た目通りの年齢ではないことを窺わせる。

 楽しげにからかい、うろたえる様を眺める。相手がウェストコットでなければ相応の報復をするものだが、ジェシカは借りてきた猫のように大人しく縮こまるだけであった。

 

「フフ、相変わらずだね君は」

 

 

 ―――相変わらず、得難いほどの、優秀な部下だ。

 

 

 微笑みかける上司に、ジェシカは幼い少女のように照れくさそうに眼を逸らしてしまった。好意も親愛も込められた言葉に、ただただ恐縮するのみ。

 なにか気の利いた返しをしなければいけないのに、こういう時高圧的(エリート)気質は役に立たない。見下す事は得意でも、敬うのは不慣れだから。

 そんなジェシカの考えを見透かしたようなタイミングで、ウェストコットは話を進めた。

 

「さて、来て早々だが本題に入ろう。せめて紅茶でも御馳走したいが、仕事を疎かにしてはいけないからね」

 

 応接用ソファーに移動し腰をかけて、ジェシカにも座るように勧める。

 気を使わせてしまったと、自分の不甲斐無さを憎みながら「失礼します」と断り、ジェシカは腰を下ろした。対面する形となって、ウェストコットは本題に入る。

 

「ジェシカ。君を呼び出したのは他でもない。まあ、大凡予想はついているだろうが、――――精霊に関すことでね」

 

 否定せず、大凡どころかジェシカは確信していたが、口を出さない。

 他会社・他国との会談、契約、取引なんて雑務、態々ジェシカを呼ばなくてもウェストコットなら一人で勝手に(・・・)やってしまうだろうし、何より彼には〝最強〟が常に居る。部下として、秘書として、ボディーガードとして、魔術師として、……パートナーとして、彼女以上の存在はいない。

 そんな〝最強〟がいるにも拘らず、態々ジェシカを呼び出すという事は、叱責か、重大かつ重要な任務かの二つに一つだろう。

 当然ジェシカは叱責されるような愚かなミスなどしない。よって呼び出された理由は後者になり、ウェストコットでも手古摺ってしまうだろう業務など、精霊の殲滅以外に無いからだ。

 

 それに、なにより―――

 

「君も知って……いや、今は〝見てのとおり〟が適当かな。

この場にエレンが居ないのは、その精霊の対処に当たっているからだ」

 

 推測通りだが推理とは言えない。納得ではなく確認でしかない。

 

 エレン。エレン・M(ミラ)・メイザ―ス。

 その名はウェストコット以外の人間でジェシカが敬服している、否、してしまう人物であった。

 

 DEM社第二執行部部長。コードサイン・アデプタス1。そして―――世界最強の魔術師。

 その実力は、精霊をも超えていると断言できる絶対性を持ち、魔術師の中でも異端にして畏怖されるほど。権力の肩書など二の次、エレン・M・メイザ―スとは最強。それが一番であり、最も有名で相応しい代名詞である。

 その称号に嫉妬が無いと言えば嘘になるが、ジェシカをしてエレンに対しては荒波が立たぬように細心の注意を計り接しているのだ。

 たった二つ違いの称号なのに、そこには反目すら抱かせてもらえない隔絶した壁を感じさせられる。それほどの圧倒的強者が、エレンという魔術師なのだ。

 

「メイザース執行部長が本社を留守にしているのは、知っています。他のアデプタスメンバーも率いているというのも。皆その事に疑問を持っていましたから」

「おや、そうなのかい? わざわざ伝える事でもないと黙っていたのだが、要らぬ詮索をさせてしまったか」

 

 やれやれと、なんてことのないようにあっけからんとするウェストコットだが、DEM社内ではそれなりに騒然となっていた。貴重な魔術師(アデプタスメンバー)が少なくない部隊数を編制して出撃させるなんて……ジェシカも含める他のアデプタスメンバーなら兎も角、秘書であり護衛であるエレンを含めているのは異常だった。

 どんな時でもウェストコットの側に仕えているエレンが、共に本社を留守にするのではなくウェストコットの側を留守にしているのはかなり目立つ。それ故に俗な噂も吹けば、これを機にとウェストコットを心地好く思わない取締役達(反ウェストコット派)が陰謀を画策しているらしき動きも見えている。実際それだけの抑止力としてエレンが見られていたのは事実で、性質の悪い(ブラック)冗談(ジョーク)ではすまない可能性が僅かでもあるのだ。そんなのをエレンが承知していないとは到底思えない。

 

「よく執行部長殿が応諾しましたね。―――それだけ切羽詰まった状況ではないと思うのですが」

 

 まだ何も言ってないというのに、事前にどんな指示を出すのか知っていたかのような言葉にウェストコットは「うん?」と不思議そうに首を傾げた。

 だが、ややあって「ああ」と、ジェシカが何のことを言っているのか納得の頷きをした。

 

「もしかしなくても、ジェシカ。

 

君は<ハーミット>の件(・・・・・・・・・)について言及しているのかな?」

 

「……違うのですか? 目下の精霊で一番不可解足りえるのは<ハーミット>ですし、現状の精霊達の様子からすれば、イの一番に対処されるべきは<ハーミット>なのでは……?」

「―――アレに関しては私も君と同じ意見だよ。確かに<ハ―ミット>が巻き(・・・・・・・・・・)起こしている異常現象(・・・・・・・・・・)()無視できないが切羽詰まった状況でもなし、エレンや君を動かすにはまだ軽い」

「…………」

 

 思わず言葉を無くしてしまう。

 あれだけ界隈で騒がれている<ハーミット>の奇行(・・・・・・・・・・)よりも重く、優先すべき有事が、エレン・メイザ―スを動かす程の精霊がはたして現界したのか。

 

「<ハーミット>でないのなら一体どのような精霊なのですか? 執行部長ほどの魔術師が出撃されるとなると、……<ベルセルク>あたりですか?」

 

 自分の記憶する中でも人類に多大な悪影響を齎している精霊の識別名を挙げる。

 <ベルセルク>は世界各地に現れては〝台風の目〟となり周辺一帯を撒き散らす風の精霊だ。

 どういう訳か、この精霊は〝双子〟と言うべき世にも珍しい〝二人で一つの個体〟であり、これまたどういう訳か、この双子は互いが互いを討ち取らんと常に争っているらしき特徴がある異常種であった。

 

 精霊と精霊が闘うというのは、ある意味願ったり叶ったりの状況だ。

 片方が死ねば良し。相討てば尚良し。たとえ両方死なずとも、疲弊した所を狙えば漁夫の利に肖れる。

 だが精霊同士が戦えば唯では済まない―――それは当事者だけでなく戦う場所も世界も、人間も巻き込まれる事が必然で、特に<ベルセルク>のソレは酷過ぎた。

 風のように自由に流れ、奔り、世界を股に掛けながら、人間の眼も、暮らしも厭わず闘っているのだ。<ベルセルク>は他の精霊と違い空中で空間震を起こして現界するのが殆どで空間震警報も作動せず、地上で現界したとしても警報を鳴らした地区をあっという間に駆け抜け、遥か数キロ先の島から島へ、国から国へと散らかしながら(・・・・・・・)一っ飛びしてしまう。

 その所為で避難も何も出来ていない民間人の<ベルセルク>目撃例が世界中に増えていき、機密事項に等しい精霊の中で最も人間の眼に止まっている傍迷惑も甚だしい悩みの種なのであった。

 

「なるほど。優先目標に指定されている<ベルセルク>ならば、エレンが駆り出されても可笑しくない。人工も、自然も、関係なく破壊する大嵐ならば猶更に、確実に息の根を止めたいだろう。

しかし、ハズレだ。アレの脚の速さは如何ともし難いと、本人から御墨付きを貰っているからね。追い駆けっこをするくらいなら他の精霊を相手取った方が効率がいいそうだ」

 

 ―――妙な物言いに、一瞬腑に落ちない気持ちになるもすぐに消えたので気にしない事にした。

 それよりも気になるのはウェストコットの言う精霊の方だ。

 <ベルセルク>でないとするなら、残るは最悪の精霊<ナイトメア>くらいしか思いつかなかったが、アレの対処は〝あの〟憎たらしいアデプタス2が一任している。最強の魔術師が出払うまでもなく処理し続けている(・・・・・・・・)のだから<ベルセルク>より可能性は低いだろう。

 

「……申し訳ありません。私の無能ではどの精霊が該当するのか見当がつきません。

 新たに発見された精霊としか、今は……」

「ああ、ジェシカ。私はまだ何も言ってないのだから解らなくて当然だよ。そんな風に自分を卑下してはいけない。

君はよくやってくれている。ジェシカ・ベイリーが優秀だというのは私が誰よりも理解している。君が無能であるなどと思った事は無いし、誰にも言わせるつもりは無い。例えエレンであってもね」

「………恐縮、です」

 

 身に余る光栄に、恐れが多すぎて今度こそジェシカは言葉を無くしてしまいそうだった。

 かろうじて吐けたのは無愛想な一言のみ。不敬と取られてしまわれかねない雑な返しに嫌になってしまう。もはやどう言うのが正解なのか、社会人としての一般常識が抜け落ちてしまっていた。

 

「それに、新たに発見された精霊という推測は決して間違えではないよ。やはり君は優秀だ」

「…………と、言いますと?」

 

 間違ってない、といっても正解ではないのだろう。

 新たに発見された精霊、とも言えるし、そうではない、とも取れる。

 奇妙な表現にどういう事なのかと思うと、ウェストコットはデスクに備わっていたコンソールを操作して空間ディスプレイを表示し、映像を映しだした。

 

 そこに映っていたのは少女だ。

 子供の、ハイスクールに通う程度の年齢に達している、大人になり掛けの少女。

 きめ細かな肌、潤い満ちた髪、通信機器の間接越しであろうとも溜息をしてしまう人外の美しさが見て取れる。

 世の女性を劣等種と落としかねないその存在をジェシカはよく知っている。語るまでも無く、精霊である。

 

「今回エレンが討伐に向かった精霊は、〝コレ〟だ」

 

 ウェストコットは次々とその精霊の画像を呈示する。

 映っているのは例外なく戦闘場面であるようで、魔術師との攻防が爆炎を伴って激しさを物語っている。

 戦闘記録云々には興味が無かった。エレンが出向く以上、この精霊を討ち取れる魔術師がその場に居ないのは明明白白であり、弱者の群れの負け戦を見たって参考にならない……というかエレンが戦うならばその精霊は〝終り〟だから戦術・戦略を組むなど無駄だ。

 だからジェシカが注視したのは精霊そのもの。身体的特徴から霊装、天使が如何なる形状であるか、それがウェストコットが言った意味を測れると思ったからだ。

 そして、理解した。

 ジェシカの脳内にあった精霊のデータベースから此度の精霊との顔が一致した。既に認知されている個体であり、危険度でいっても<ベルセルク>や<ナイトメア>に勝るとも劣らない。エレンが駆り出されても可笑しくはない精霊だ。

 

 ―――既存の資料と一致しなかったのは霊装と、……〝もう1つ〟。

 

 この精霊の霊装が変形可能な程の多様性があるのかどうか詳しくないが、ここまで様変わりする(・・・・・・・・・・)のは初めて見た。 

 それに加え、霊装よりも解らないのは精霊の手に持っているモノ。

 精霊の武器である天使……とは到底思えない、異様なモノ。

 

「解ってくれたようだね。私が言った意味を」

 

 名状しがたい、と言うのには間違いない。

 自分の記憶違いであるかもと今一度記憶を反芻するが、それよりも観測機のデータを見れば確実―――と考えたところで、そんなのとっくにやってるだろうと無意味な思考を止めた。

 

「驚いているのは私も同じだよ。こんなのを見るのは初めてでね。霊力値も胆を冷やす数値を叩きだしてたよ」

「では、やはりこれはあの……しかしこれは、何なのですか? こんな姿……見た事が……」

「それを調べるためにもエレンに行かせたんだよ。データを取るなら実戦の観測に勝るものはないし、ASTの方々では荷が重すぎるときた。なにより手に持ってる物が物だからね(・・・・・・・・・・・・・)。事を慎重に運びたいのと、今後人類への情勢も考えて<ハーミット>よりも今も現界し続けているコレの方を野放しにするのが危険と判断して日本に行って貰ったんだ」

 

 小さく呟いた後の聞き逃せない単語に、ジェシカは耳を疑った。

 

「……日本? 待ってください、では……執行部長はイギリスに居ないのですか?」

「ああ。日本に居る出向社員からの報告で事が判明してね。私もすぐ行きたかったが、予定していたスケジュールが推してキャンセルする訳にもいかなかったから、やむを得ず先にエレンを行かせたんだよ。まあ、大分渋られたけどね」

 

 どこまでも、軽い調子でとんでもない事を宣う。

 本社を留守にしてるにしてもそれは国内の範疇(すぐ駆け付けられる距離)だと思っていたが、まさか国外に出向いているだなんて―――メイザース執行部長殿は相当頭を痛めたに違いない……心から気苦労を労った。最終的には納得したのだろうが、ウェストコットの傍を遠く離れてでも対処しなければならない程の脅威をこの精霊に見出したのか。

 あるいは、ウェストコットの純粋(・・)()興味でしかないのか。

 どちらにせよ、ジェシカのやる事は定まった。

 

「つまり、私の任務は日本まで護衛としてウェストコット様と御供し、現地に入り次第メイザ―ス執行部長のサポートに回ればいいのですね」

「うむ。まあ日本に行くまでにエレンが事を成している可能性も高いが、念には念をも兼ねて双方二つを十全にこなせる君に声を掛けさせてもらった」

 

 ――――君にしかこなせない役目だ。

 

「やってくれるね? アデプタスナンバー3・ジェシカ・ベイリー」

 

 こんなにも遣る気に充ち溢れる任務を今まで受けてきただろうか。

 短い間でもこの御方(ウェストコット)の側に、こんなにも近くで御仕え出来るなんて、頷く他あろう筈もない。

 どんなことをしてでも御守りする使命を誓う。あらゆる面でサポートを充実させるよう早速準備に取り掛かる必要がある。不安の種は……日本語があまりうまくない点か(曰く、カタコトになっているとか)。だが然したる障害ではないだろう。立ち上がり、見事な敬礼をウェストコットへ送る。

 

「承ります。不肖ながら、このジェシカ・ベイリー、全力で任務にあたらせていただきます」

「よろしく頼むよ」

 

 

 

 

 嘘をついてるわけでもないのに、冗談みたいな口出しで満足気に微笑むウェストコット。

 無邪気な子供ぶった法螺吹き加減に、上司の粋な接触(コミュニケーション)につき合っているジェシカに困惑はあれど疑惑なかった。

 心酔しているから。ウェストコットの言葉は絶対だから。

 〝冗談〟を〝冗談だ〟と言われなければ〝遊び〟だと気付かない。

 遊ばれている事に気付かない。

 ジェシカを使って遊んでいる事に気付かない。

 

 

 

 

 それを見ていた〝オレ〟は、気分が悪くなった。

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

 

 

 プツンと、停電が起きたように夢が千切れて暗黒に沈殿するが、復旧の目処はすぐについた。

 

『―――っ』

 

 覚醒の兆候が頭に拡散していく。心身の節々に電力が冴え渡り〝停止〟から〝活動〟へとスイッチが切り変わる。

 このまま眠っていたい欲は無かった。目が覚めても温もりが無いから、鬱陶しい眠気も無い。

 開眼を押し止める錘が圧し掛からないのはいいかもしれない。でもそこに生きている気配は感じなかった。

 血が沸き立たず、肉が踊らず、活力が漲らない。機械を機動させたように〝作業開始〟をさせるだけで、何の余韻も無い。

 それは精神的な問題でなく〝この身体〟がそれを許さず感じさせまいとしているのだ。

 

『夢の方がずっと生き活きしてたな……』

 

 気落ちげに喋るのは、喋っている筈(・・・・・・)なのは(・・・)、コミカルな意匠をしたウサギのパペットだ。

 パペットは体操の要領で腕を伸ばしたり背伸びをしたりして今日一日の調子を確かめる。動きは人形の割に滑らかで、しかし人形相応にぎこちない。

 

 こんな動作に何の意味があるのだろうか。

 眠っていたい欲は無い?

 鬱陶しい眠気も無い?

 血が沸き立たず、肉が踊らず、活力が漲らない?

 当たり前だ。オレは、人形(パペット)、なんだから。

 

『でも、オレは……』

 

 〝オレ〟は、自分を人形だとは思えなかった。

 〝オレ〟には自我がある。意思がある。―――名前を思いだせない愁いと嘆きがある。

 

 人形にそんな情緒があるものか。

 人形は決まった動作しか出来ない。意思などある訳もなく、操り手の赴くままに動かされるのが使命なのだ。

 

 ならばオレは……

 オレは、

 オレは、誰なんだろう。

 オレは、何なのだろう。

 人形に在らざる人格を持ち、人間に在らざる身体を持つ俺は、いったい何なんだ。

 どれか一つ(・・・・・)に定まらない彷徨う魂は、今日も自らの存在に疑問を抱き、……考えても解らず見つからず、何度この難題に取り掛かったのかおぼえてもない。

 

『……なあ』

 

 だったら、自分で解けないのなら他人に聞くしかない。

 〝オレ〟みたいな奇天烈な存在を持っている(宿している)人物なら答えてくれる。〝オレ〟の正体を知っている筈だ。

 

『なあ、えっと……キミ……その、起きてるか?』

 

 慎重に声を出して、丁寧に言葉を発す。

 相手は〝オレ〟を左手に装着している女の子。

 蒼い髪をした可憐な、溶けて消えてしまいそうな儚げな少女。

 口と目は閉じたまま。

 反応はない。ピクリとも動かない。

 人形よりも人形なままでいる女の子。

 

「――――」

『……はぁ』

 

 少女に声を掛けたのも何回目になるんだか。

 少女が誰なのかが知りたくて、少女以外に誰もいないから不安で、それ以上に自分たちが居る場所によって時間感覚が乏しくなった為に数える前に気が狂いそうになった。

 

『すごいところではあるんだけどな……』

 

 上を見る。

 右を見る。

 左を見る。

 下を見る。

 

 上下左右綺羅綺羅と輝く星が、幾千にも散らばっている。

 真っ黒な一面の闇に浮かぶ小さな(てん)も、千を超えれば月に、万を超せば太陽にだって迫っている。

 

 宇宙(ソラ)が、あった。

 綺麗と、素直にそう感嘆するものが此処にあった。

 七色に変化する星星は、宝石を贅沢にも砕いて、それでも尚輝きを発揮している力強さと、触れれば溶けて消えてしまいそうな繊細さで。

 非の打ちどころを見つける方が難しいであろう幾重の輝きの真価は、人が価値を鑑定するには荷が重すぎる感動を与えてくる。

 宇宙に未だ進出していない人間は地球(ちじょう)から見上げなければ宇宙が映らない。来たとしても肌で感じる間も無く死に絶える。

 

 少女の(オレ)ように、肌を晒して触れ合いながら眺めるなんてまず出来ない。宇宙の感触なんてどんなものなのかも判るまい。

 かなり貴重。すごく非常識。

 そんな宇宙(ところ)にいるオレ。

 ―――ほんとにそうなのか、わかったもんじゃないが。

 

 蒼い少女の跳躍距離は大気圏を超えた。

 重力の重石を加えて空気の壁を突き進んだ負荷は人形にもその凄まじさを圧し付け、 地上を脱出しても勢いは止まらず、むしろ目に何も写さぬ加速をもってして駆け抜けていった。

 宇宙に居る、それが唯一の情報。そしてそれは主観でしかないすかすかな憶測。

 月も見えない。太陽も。その他惑星も同様だ。太陽系の中なのか、そもそも此処が本当に宇宙なのかも怪しいのだ。〝オレ〟にはただそういう風に感じているだけなのだから。

 宇宙空間は真空状態。空気がない。息ができない。それだけで人は死んでしまうのに、オレは、この少女は、ただ漂い続けている。人形(オレ)は兎も角として、脆く壊れてしまいそうなあどけないこの少女の体になんともないなんて考えられない。返事こそないが彼女は決して死んでない。それだけは確信していた。

 じゃあ此処は何所なんだと振り出しに戻ってしまうが、仮に異世界だとしても驚きはない。此処に来る以前と直後で蒼い少女が人間ではないのは決定的で、人間じゃないなら跳躍で宇宙に行こうが異界に行こうが一応納得はできる。一応、だが。

 だからこそ少女が何者なのかが知りたくて、彼女と話せれば諸々の謎が解けるのではないかと期待して、希望を見出して、オレは彼女に声を捧ぐ。

 

『今日も星が綺麗だな』

「―――」

『星が点いたり消えたり』

「―――」

『流れ星とか流れたらもっと綺麗だろうな……』

「―――」

『ははは…………』

「―――」

『………』

 

 碌に喋れず、終には黙る。これも何度も繰り返している。一人寂しい人形劇をしでかすパペットに、観客(しょうじょ)は白けたままだ。

 

 人形という〝玩具〟。それが今のオレ。

 木を削り取った模型を糸で操ったり、金属で組立てて電池で動かしたりするのと同じ、細かい繊維で編まれた〝オレ〟を手に嵌めて遊ぶ。楽しませて、慰める。

 人形には人が必要で、パペットは手に嵌めて動かすための人形だ。一人ではどうしたって動けない、動いたって意味がない。

 

 一人で勝手に動く人形とは、これいかに。

 疑問が輪廻(ループ)する。オレは何者なのか。少女なら知っているのか。

 何度もやって、それでも駄目で、最後には眠る。

 疲れを癒すのもあるが、もしかしたらオレが眠っている間に少女は目を覚ますのではないか……もしそうなら立場を逆転してみれば、起こす側でなく起きる側になれば何か変わるのではないかという思いがあった。

 

 もしくは、オレが最初のように少女に乗り移れば何か分かるのだろうか。

 オレはこの少女の体で目が覚めて、後から人形に乗り移った。

 その時に思った事は―――これはオレの顔じゃない、オレの姿じゃないという心身の不和。

 しかしそれは人形でいるよりかは遥かに小さい。

 

 それに……それに、なんでだろうか。

 こうして人形になった今、少女の身であった時を冷静に思うと、言いようのない感情になるのは。

 〝少女自身〟ではなく、少女の〝存在そのもの〟に何か懐かしさに似たものを感じるのは、なんなのだろうか。

 

 奥底に沈んだ記憶が刺激されて〝オレ〟を引き摺り込む。義務として、使命としてそれを取り戻さなくてはいけないとしてくる。

 

 そう思っていて、……考えが浮かぶ。

 

 ……オレが見たあの夢には、なにか意味があるのだろうか?

 

 眠ったのは何度もあったが、夢を覚えているのは初めてだった。

 あの夢には特別な意味があって、オレの記憶のヒントが、少女が目覚めるヒントがあるんじゃないだろうか。

 

 ―――――――何もしないよりかマシか。

 

 変化を求めた無聊の意識を動かし集中させる。

 心にメスを入れる感覚で、脳無き頭を開闢させて思い起こす。

 

 呼び出した男と呼び出された女。

 話をするふたり。

 命じて、了承した。

 これだけ。この中で何を探せばいいのか。

 胆なのは話の内容だ。何故呼び出し何故命じたのか。

 穴のある夢を手繰り寄せて、思い出せと念じて埋める。

 

 

 ―――AST―――精霊―――ハ―ミット―――討伐―――

 

 

『うぅ……っ』

 

 頭痛、吐き気、眩暈、いずれも人形に不似合いな生理現象が襲ってきた。

 覚えがあるような、馴染みがあるような。

 知らないのに知っているような、ヘンな感じ。

 この感情は過去の遺物なのか、忘れてしまった自分自身を思い起こさせる鍵であるのか。それともこれは蒼い少女の物なのか。少女を介して見ている記憶か何かなのか。

 

 違う。ズレている。

 オレが向かい合っているのはまだ夢の中。夢の中にまだ思い出せていないものがある。それがオレを責め立てている。

 

 呼び出した―――何のために?

 話をした――――何に対して?

 命じた―――――何を?

 了承した――――何を?

 

 何を? なにを、ナニを、なにを、なに、対して、なんのため、……………。

 

 男は画面を見ていた。女も。

 その中に映る者を。

 

 ……少女だ。

 蒼い少女ではない、オレと同じぐらいの(・・・・・・・・・)女の子。

 

 画面の中の画面は殊更見にくいのに、顔なんて見えないのにやたら鮮明にオレの目に焼き付く。

 水を飲み込むようにその姿が蔓延する……蔓延しすぎて溺れ死そうなくらい、苦しくなった。

 

 ―――もう見たくない。

 

 この苦しみから解放されたくて逃げ出したくなってるのに、目が逸らせない。

 

 忘れてしまえばいいと、楽になりたいオレがいるのに、忘れられるワケがないと殴りつける誰か(オレ)がいて。

 

 辛くて、でもどうしようもなく惹かれてしまって。

 

 思い出したら、痛い目を見る。自分の非力と醜さを直視する羽目になる。

 

 思い出せない。違う、思い出そうとしない(・・・・・・・・・)

 

 怖くって。怖くて怖くて仕方がない〝自分〟がいて。

 

 でも思い出さなければいけないと思う〝知らない自分〟がいて。

 

 誰が好き好んで自身の欠点を見たがるものかと思う〝自分〟がいて。

 

 でも彼女の為にもそうしろと急かす〝知らない自分〟がいて。

 

 

『―――なんで』

 

 

 血を吐くように、問い掛けていた。

 

 

『――――そんな、顔をしてるんだ』

 

 

 忘却の彼方から這い上がる既視感。

 苦しくて、辛くて、気持ち悪くて、泣いてしまいそうで。

 

 

『きみは……っ』

 

 

 呼び声は二人称。それに強烈な違和感と悲壮感が生まれた。

 

 キミ、じゃない。

 

 名前を。

 

 少女の名を。

 

 少女に相応しい名を呼ばなければいけない……のにッ。

 

 

『うぁぁぁ……』

 

 

 ぐるぐるぐるぐる、ぐちゃぐちゃぐちゃぐちゃ。

 

 オレのなにもかもがそう(・・)なっていく。

 バラバラだった己が融け合う。

 心ならず〝オレ〟という自己が樹立していく。〝前〟と〝後〟の〝オレ〟が一致する。

 だがそれは決して記憶喪失の快復ではなく、安定でもなかった。

 苦しみ。ひたすらの苦しみ。

 虚無が故の求める苦しみと、忘却に沈めたい真実の苦しみ。

 板挟みで鬩ぎ合う二つは〝オレ〟を殺そうとするみたいに苦痛しか齎さない。

 

 もう記憶など無くなってしまえと思いそれだけはやめろと怒鳴り散らされてじゃあどうしろと思い出せオモイだせオレはかのじょをしっているでも見えにくいんだ映像が荒いし画面もちいさいしイイワケするなニゲテルダケダかのじょをワスレタママニナンテ出来ないシタクナイでも格好が違うなフンイキもだいぶダカラ人違いヒト違いちがうちがうちがうちがう見間違うものかカノジョだぜったいにかのじょだ名前はナマエ名前なまえなまえはわからないけどでも知ってるんだシッテルハズナンダだってこんなに悲しくて苦しいんだくるしくてくるしくてかのじょをおもうとどうにかなってしまってだから忘れろ全部リセットしてしまえばいいコレにくらべれば記憶喪失なんてヤスイだろ軽いだろナキニヒトシイダロふざけるなフザケンナヨかのじょはどうなるんだ見ただろあの姿をあれをほっとくなんてどうかしてるんじゃないかあんなアンナあんなあんな傷ましい顔してるのにでもおれになにができるかのじょにたいしてなにができる何も知らない何もオボエてない思い出したいのにおもいだしたくないそれに俺はオレが分からないオレは誰だなんで人形になってるオレは人間だニンゲンのおとこだ名前なまえはまた名前だまた名前がわからない知らないことばっかりがあたまにつまって爆発しそうになってそれすらも口実にしてるオレをおもいだしたらかのじょのことも思い出すからしまったままにしているんだオレ自身のつごうのためにオレがこれ以上くるしくならないようにかのじょをぎせいにしてるだからだからおもいださなくちゃいけないんだろでも痛い死にそうだココロが心が死んでしまうこの痛みを皮切りになにものこらなくなるオレにはなにもできないだってああしたのはああしてしまったのはオレがやったからオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれがオレがオレがオレがオレがおれがおれがおれが―――――――

 

 

『オレがっ、――をっ……オレはっ、―――に、……取り返しのつかないことをした……っ』

 

 

 拒否しても、沁み込んでくる想いがある。

 滲みだす痛みが、より強く苦しめる。

 ……いよいよもって限界になる。

 

『ごめん……っ』

 

 氾濫した思考の海は津波となって呑み込まれ、肺に溜まった嫌悪の水に溺れて溺死する。

 もがく気力もなく、心も魂も錆びて腐っていく。

 もうダメだ。もうどうしようもない。

 オレはもうなにもない。

 身体も、記憶も、心も……命も消えていく。その隅っこに潜むきみを見捨ててブザマに死んでいく。

 

『ごめん……―――、ごめん………―――、っ。オレ、おれ……っ』

 

 謝罪に意味はなく、本当に叫びたい言葉(なまえ)を言えなくて……それでも言うしかなくて。

 無念を抱き、後悔に曳かれながら孤独になっていく。

 深海は重く冷たく、極寒地獄に導かれる。

 深く、深く、暗く、暗く。

 

『ゴメ―――っ?!』

 

 〝オレ〟が靄となって人形という入れ物から消えゆこうとした。その時だった。

 

 

 

 

 光が、届いた。

 

 

 

 

『え?』

 

 

 深海にあるはずのない光が、宇宙空間にない暖かさが〝オレ〟を包んでいた。

 

 

 

 ―――――泣かないで

 

 

 

 澄んだ響き。

 声に質量が宿り、触れるだけで安心させられる不思議な音色……。

 

 

 

 ―――泣かないで

 

 

 

 それだけで、もう寒くなかった。身体の強張が和らいで心の枷が解かれていく。

 優しい光から成る、優しい温もり。

 冷たい深海から掬い揚げられて冷えきった体に広がる人の肌、人形に感じる筈のない、あたたかい感触が〝オレ〟に伝わってくる。

 

 

 

 ――もう、泣かないで。あなたはもう泣かないで。

 

 

 

 だれ?

 あなたは、だれ?

 俺なんかを抱きしめてくれるあなたは、だれ?

 

 

 光に慣れない目でなき目を開けて見上げれば、そこにあったのは清らかなウェーブを描く()色だった。

 

 

『……きみは?』

「―――っ、な……泣か、ないでっ……ください」

 

 

 女神の如くだったそれは未成熟な声音に、庇護欲が沸くほどに危いものに変化した。

 目は潤み、いまにも崩壊しそうなほどに揺れている。肩を叩けば、胸を押せばそれだけで死んでしまいそうな脆さなのに―――。

 

 でも、そんな脆弱な少女は、オレを抱きしめる腕を離しはしなかった。

 


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