憑依に失敗して五河士道が苦労するお話   作:弩死老徒

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 高台の公園から遠く離れた宅地開発中の台地。

 都市部からも離れた建設途中の骨格が疎らに立ててある平面の、一段、二段上の高所から鳶一折紙はうつ伏せに身体を倒し銃を構えていた。スコープを覗き見れば<プリンセス>が無防備な姿を晒している。

 

 言うまでもないだろうが、折紙は今まさに暗殺者となって狙撃する体勢でいるのだ。

 本部にて装備を装着した折紙は日下部鐐子と合流し、別働隊の隊員と連携して<プリンセス>を追跡、監視していた。現在獲物(ターゲット)は高台公園に留まっており、絶好のハンティングが整っている。

 忠実で正確な機械(ロボット)兵士のように静かに好機を待っている姿は先程まで嫉妬に狂っていたとは思えない冷静ぶりだ。

 預けた嫉妬は殺気に変わり、漏れそうなそれを飲み込み、息を殺した。精霊(ターゲット)との距離は約一キロ圏内。いかに精霊とてこの距離から息遣いを聞くことなど不可能であろう。こうしているのは殺気を抑える自制と殺気を削る研磨のため。〝殺〟を謳いながら相手に気取られない為にある種の矛盾した感情を操る〝殺し〟に必要な技術(スキル)だ。

 狙撃となれば折紙の持っている銃は当然それに特化したライフル銃であるが、一キロもの有効射程(精霊を殺せる)範囲をもつライフルは限りがある。そして折紙が構えているのはその限りある特別な銃である。

 

 対精霊ライフル<C C C(クライ・クライ・クライ)>。

 折紙の身長よりも長いことからも、この銃の射程も長いのだと想像はつくが〝対精霊〟が頭に付いていれば突出しているのは射程ではなく威力にあるのは魔術師(ウィザード)専用武器ならではといったところ。

 この名称の由来はその名の通り泣いてしまうことにあるが、泣くというのは〝必ず泣く〟効果があるのではない……〝死ぬ(なく)ほど痛い〟から来ているのだ。

 弾が当たる目標は元より。弾道が悲鳴を上げているような音を出すのは元より。使用者にすら涙する痛みが伴う代物なのだ。具体的に言えば、射撃反動で腕の骨が折れてしまうほどの……。

 随意領域(テリトリー)を展開すれば骨折は免れるが、例えそうでも骨が折れてしまう諸刃の剣(けっかんひん)を進んで使おうなどと誰も思いはしない。現実的に見てもライフルである以上、一定の距離を置かなければ特性を生かせない欠点がある。不定期に現れる精霊相手に態々狙撃ポイントに移動するのも追い込むのも困難であるし、そもそもそうしたとしても斃せるかどうかがデータ上の数値でしかなく、実証されているわけではないのだ。労力に見合っての成果が見込めない頭がオカシイ武器を平常装備に含めるはずもなく、使う機会のない、良い所でこれから造りだされる新装備の試作品といった側面が強い。それが<C C C(クライ・クライ・クライ)>である。

 折紙がコレを使わなかった理由は単に特性を生かせない後者だけであって、骨が折れようが砕けようがどうでもよかった。故に特性を生かせ、霊装を纏ってない精霊を斃せるかもしれないこの状況で<C C C(クライ・クライ・クライ)>を使うのに躊躇いはない。鐐子は渋っていたのだが、随意領域(テリトリー)さえあれば身体に問題は無いので許可するに至ったのだった。

 

「―――――――折紙」

 

 鐐子が耳に手を当てながら言う。二人一組(ツーマンセル)のパートナーは折紙に代わり上層部からの命令を待っていた。

 攻撃か様子見か、目を丸くしていた様子からするとおそらく……

 

「狙撃許可が下りたわ…………正直意外だけど、下りた以上仕事をするわよ。まあ撃つのはあんただけど、いいわね?」

 

 是非も無し――――沈黙で返す。

 確かに意外ではある。鐐子曰く頭ん中が日和ってるお偉方が攻撃許可を出すとは……どこか薄ら寒いものが感じなくもないが、どうでもいい。こんな夜間近になってまで協議を待っていた甲斐があったものだ。折紙には好都合と即切って集中する。

 雨に濡れて湿った土は僅かにぬかるんでいる。靡く風が鬱陶しいが、折紙の意識はスコープの向こうにしかいっていない。憎くても憎くても憎み足りない精霊にしか向いていない。

 

 この時ばかりは五河士道にも意識を割いていなかった。彼の奇行を目撃せず、彼の精霊(プリンセス)に対する想いを耳にする事はなかった。

 

 聞いていたならばやめるか……それはない。

 激劫か動揺かはするだろうが、〝やめる〟はない。

彼女の憎しみは見境が無い(・・・・・)ほどに狂い踊っているから………誰が何と言おうとやめない。たとえ五河士道であろうともだ。

 

 

 折紙は特殊弾頭に功性結界を付与する。

 

 距離―――――――

 

 風向き――――――

 

 風速―――――――

 

 摂氏―――――――

 

 RH―――――――

 

 周辺―――――――

 

 異常無し(オールグリーン)

 

 とうとう来た。

 

 必殺の準備、条件が整った。

 

 この手で精霊を殺せるときが。

 

 感慨もなく、躊躇いもなく―――――鳶一折紙は引き金を引いた。

 

 憎しみに溢れていながら、殺せる段階に入っても、折紙はいつも通りの無味で乏しい貌でいた。

 

 

 

 

 もし………。

 

 もしも、折紙が<プリンセス>の近くに五河士道がいることを強く意識していたならば、その事に、少しでも躊躇を懐いていたならば、あんなこと(・・・・・)にはならなかったかもしれない。

 

 折紙が、精霊への憎しみよりも、五河士道への愛を強く持っていれば、ああは(・・・)ならなかったかもしれない。

 

 だがもう遅い。引き金は引いてしまった。弾は発射された。後戻りはもうできなかった。弾丸は道を指し示すように真っ直ぐと精霊へと突き進んでいく。

 

 

 

 鳶一折紙の運命が、暗く反転した瞬間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 私は――――

 

 私は―――――――――――

 

 私は――――――――――――――――――――――……………………………?

 

 

 

 私は――――――なんだ?

 私は……そのあとの言葉は、なんだ?

 十香は何を言おうとしたんだ? 

 

「……………十香?」

 

 辛抱堪らず士道は訊ねる。

 肯定か、否定か、気になって気になって落ち着かない。

 まさか聞き逃した? ……それはない。十香は何も言っていない。

 迷っているのか? 自分でも急過ぎると思っているのだ。不自然過ぎる流れからの告白。呆れてる、いや怒っているのか? ワケワカメなのか? ありえる。言葉もないと言った感じで。

 

 びくびくと待っていた士道に、十香はまだ何も言わない。

 本格的にヤバくなってきたのか、身震いする士道はそれでも待つ。

 

 そうしていると…………………十香の身体が、よろめいた。

 

「えっ」

 

 なんだ? どうしたんだ……? 

 十香は大きく身体を揺らし、ぐらりと地面に倒れそうになる。

 

「あ……ッ」

 

 士道は駆け寄り、抱き支えた。

 危なかった。あのままだったら顔から落ちてヘタしたら鼻が折れてしまうかもしれない。あるいは自分と同じように頭がカチ割れたかも。

 

「十香? おい、十香……? どうした、大丈夫か?」

 

 名前を呼ぶも、十香は返事をしない。抱き合う体勢だから表情が全く見えない。

 もしかしなくても気分が悪いんだと分かった。だって倒れたんだ。自分の足では立てなくなるくらいの状態異常が起きたのだ。

 立ちくらみの類か、じゃあ公園のベンチで横のなればいいのか、そう考えていて………

 

 士道は十香の胸の辺りが異様に温かい事に気が付いた。

 

 その温かいのは流動しており、下へ下へと下降する。

 士道の身体をなぞり、服が吸水し、しきれず下へ落ちていく。

 

 なんだ、これ? とても、温かい。

 

 温かい。暖か過ぎるくらい温かい。なのに、温かいのに触れているのに、士道は寒くて身震いしてしまう。

 胸だけでなく背中にまわした手にも温かいのが広がっていた。触覚が著しく高い手に触れたことで所載にソレの感覚が分かった。

 

 瑞々しく滑らかであるのに、どこか気持ち悪い感触。

 これには覚えがある。

 つい昨日のこと。十香に右手を攻撃されたときだ。

 

 コレは、なんだっけ? 

 士道は、ナニにさわっている?

 考えてると触覚だけでなく、匂いもしてきた。……鉄臭い匂い。

 これも経験している。ついさっきのこと。額に流れた――――

 

 

 

 

 額に流れた―――――血から匂ったもの。

 

 

 

 

 

 ………………………血?

 

 

 

 

 

「……………ぁ?」

 

 

 十香を支えながら、自分の右手を見る。

 

 

 紅くて、赤くて、朱い。

 琴里の髪の色と同じ……否、妹の髪はこんな黒くない。

 

 クロ、そう、黒だ。

 士道は下を見た。

 よく見ると、あかではない……やっぱり黒だった。

 水たまりのように溜まっていき、足を踏み直しただけでビチャっと音が鳴り、革靴でなければ靴が濡れていたかもしれない。それぐらい大きく深く広く溜まっていた。

 

 士道は、零れる血を見て、血は(紅 朱)よりも黒に近いんだと認識を改めた。

 

 

 

 十香の胸から血を流している事でそうなった。

 

 

 

 十香―――――十香、十香………………?

 

 

「と、ぅ……………か?」

 

 

 

 なんで、十香の体に、穴が空いているんだ?

 

 

 

「ぅ……、ぁ、あ、あ――――」

 

 呂律が回らない。視界が定まらない。

 足に力が入らず、ガクガク震えて膝から地面に着いてしまう。

 

 

なんだ?

             なんだ?

なんだ?

                なんだ?

なんだ?

 

 

 なにがあった? 十香になにがあった?

 

 返事を待っている間になにがあった? 

 

 思い出そうとして、そういえばものすごく大きな(・・・・・・・・)まるで泣いているような音(・・・・・・・・・・・・)が聞こえていたのを思い出した。

 

 あとのことは……………駄目だった。

 

 士道は自分のことで精一杯だった(・・・・・・・・・・・・)

 

 自分の告白に全力を尽くそうと、他の一切を寄せ付けなかったのだ(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 十香が何か言うまでは、余計なことは考えないようにして(・・・・・・・・・・・・・・・)いたのだから(・・・・・・)

 

 「十、香? ―――とうか? …………トウ、カ?」

 

 なにも思い出せず、一巡して同単語しか繰り出せなくなっている士道。

 壊れた機械が動作不良を起こす物真似をするのなら、士道のコレが最適な見本だろう。

 無気力で無感動。何も考えられない(・・・・・・・・)精神異常と、目に光が差さない無機質の体。観客がいたのなら今の士道は紛れもないロボットになっていると絶賛することだ。

 

 

「――――あ、ああぁ」

 

 

 しかし、そんなものは芝居にすぎない。そのときだけの、極短い間での〝なりすまし〟でしかない。

 

 五河士道は、人間なのだ。

 

 

「ぁぁあああああ」

 

 

 殴られれば痛いし、血が流れる。

 斬られれば痛いし、血が流れる

 

 

「あああ、あああああっ」

 

 

 ……………撃たれれば痛いし、血が流れる。

 

 知っているヒトがシねば―――――――――血が流れるみたいに、ココロがイタイ。

 

 

「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ――――ッ!?!」

 

 

 痛かったのは十香だろうに、血を流しているのは十香だろうに、士道は身を裂く苦痛に吐き気を催した。

 壊れた機械と見ればあるいは、断続に震える声を出す今の方がよっぽど感があるも、聞く者に悲哀を湧かせる響きは機械では決してありえない感情の荒波があった。

 

 …………自分は悪夢を見ているのか?

 現実逃避とは違う、現在の進行状況の不可解さが士道には理解できなかった。

 

 こんな事態はありえない。

 

 こんなことは起きるわけがない。

 

 一縷の冷静な思考が、こうなるのは士道だった(・・・・・・・・・・・)と慌てふためいている。

 

 通例となった頭痛(ノイズ)が鳴った後に浮かぶ見覚えのない光景。

士道(じぶん)が撃たれ、十香が怒り狂って大剣を振り回している。

ほどなく復活し、<フラクシナス>に回収され、十香を止めるために上空に投げ出される士道。

 危なげながらも十香を抱きしめて宥めることに成功し、最悪の事態は免れ、またデートに連れていくと約束をする。

 

 これにて一件落着。士道と十香は心を通わせ、平和を享受する……はずだった。

 

 ……そんなもの、欠片のカスも残っていない。

 ハッピーエンドが見えもしない。

 

 ここには、無能の騎士(ナイト)がお姫様を護れず、無様で目も当てられない哀れな終幕(デッドエンド)しか演出していなかった。

 

 夢なら、早く醒めてくれと願わずにはいられない。

 夢でも、こんなものは見たくなかった。

 

 

 醒めろ、醒めろ―――――しかし悲しむ暇も無く、無慈悲に事態は進んでいく。

 

 

 

「……っ!?」

 

 混乱する士道は、それでも状況を把握しようと生存本能の如く目と耳を動かして、音が聞こえてきたのを捉えた。

 公園からではない………空からだ。

 顔を向ければ、いつぞやに見た機械の鎧を纏った人間たち。そこかしこから二人組でこっちにやってくる。

 

 ASTだ。

 

 精霊を殺そうとする組織。十香を、殺そうとする魔術師達。

 直後、士道の働かない頭でも、直ぐに理解できた。

 十香がこうなったのはASTがやったからだ。

 

 今も尚、此処へ来るのは、死を確かめるために首でも獲ろうとしているのか。

 

「………くるな」

 

 からだを、くちを、のどをふるわす。

 

「…………………くるな」

 

 威嚇するように。嘆くように。

 

「……………………………来るな」

 

 

 士道は、咆える。

 

 

「くるな………クルナクルな来るな――――来るなアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!????????????!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 

 猫に追い詰められた鼠のように、圧倒的弱者の恐怖の雄叫びが木霊する。だが士道(ねずみ)(AST)を噛むことは無く、うじうじと恐怖に怯えていただけ。十香をこんなにした連中が怖ろしいと、誤魔化すように(・・・・・・・)喚いただけだった。

 

 

 

 

 

 

「ッ!?」

 

 変化は瞬く間に起きた。

 士道の叫びに呼応し、本の頁を捲るみたいに容易く、辺りの景色が変わった。

 ASTがいない。柵が無い。ブランコもシーソーも無い。

 開放感ある公園とは正反対の閉鎖された空間に出ていた。

 

「こ、こは……」

 

 見覚えがある。

 窓から刺す夕日が机に椅子、教卓に黒板を茜色に染めている。

 最新鋭のシェルターがある建物とは思えないレトロな風景。

 此処は、学校の教室だ。

 しかも士道の通ってる来禅高校。二年四組のクラスだ。初日で碌に入らず入口で気絶した場所。放課後の時間のためか、他に誰もいなかった。

 この感覚、昨日の沖縄と似たような……違うような。〝思った〟ことで叶った願望機のような現象。

 

 なぜ、ここに? 逃げようと思ったから……? でも。

 なんで、よりによってここに―――

 

 

「―――――――――シ、ドー」

 

「?! 十香!?」

 

 自分を呼ぶ声に、耳を疑った。

 空耳などではない生の囁き。

 あれだけの血を流して、服越しでも体はとても冷たくなっていた。

 胸に穴が空いていたのだ。心臓を壊されて生きていられるわけがない。

 

 もう事切れていたと思っていた十香が、まだ生きていた。

 

 精霊だから? ……わからない、でも、十香が生きていることが、士道の中に希望を芽生え始めた。

 

「十香ッ、十香!? 生きてるのか?! しっかりしろ!? 待ってろ! いま―――――――」

「――――シドー。私の話を、聞いてくれ」

 

 十香の意識を保たせるために話しかけた士道の言葉が止まる。

 胸に穴が空いているとは思えないくらい流暢で穏やかな声だった。撃たれたことなど気にも留めていない。何処か気押されたように息を呑むも、士道は反論する。

 

「こんな時に何言ってんだ?! 後でだ!! 後で聞いてやるからッ、今はおまえの体を―――」

「――――私は、もう持たない」

 

 告げられた宣告に、また士道は止まった。

 逸らしていた現実を、覆したかった運命を、灯った希望を、他ならぬ十香自身によって否定された。

 

「……………………モタナイって……なに、いってんだ十香?」

「――――私自身のことだ。私が一番分かってる。もう長くない。だから、今のうちに、私が生きている内に、言っておきたいから、そのまま聞いてくれ」

「……なに、言ってんだよ」

「――――シドー。私もな、今日のデートは、楽しかったぞ」

「なに言ってんだ」

「――――案ずるな。おまえだけじゃない。私も楽しかった。シドーと一緒に楽しめたんだ。今日の私たちは立派にデートだったぞ」

「なに言ってんだッ!? なに言ってんだよ十香ッ?!」

 

 死に掛けのヒトに耳元で怒鳴り揺さぶる暴挙を、士道は行った。行わずにはいられなかった。

 死にそうになってるのに、十香の言ってることは死ぬ前に言うことじゃない。そもそも喋らせるべきじゃない。

 

 こんな、遺言みたいな言葉……言わせてはいけない。

 

「もういい! もういいからッ!! 後で……ッ、傷が治ったら聞くから………ッ!!」

「――――今日のデートで、私は世界のことを少し学んだ。世界は優しくて、世界は楽しくて、世界は綺麗だ。世界は私を殺そうとしているだけではなかったのだ。何もかも優しさに満ちていた」

「ああそうだよッ!! お前を殺そうとする奴ばっかりじゃないんだ!! 人間も世界も、優しいトコがいっぱいあるんだよ!!! だからもうしゃべ―――」

「――――私が居ないだけで(・・・・・・・・)、人間たちはもっと平和に暮らせているのが、よくわかったのだ」

 

 

 自棄になっていた士道は、数秒間息ができなかった。

 呼吸のやり方を忘れてしまう強烈な忘我に囚われたのだ。

 

 

「…………………………………………………………な、………ぇ、……十香?」

 

 喋らせてはいけないと怒鳴り散らしていた筈の士道が聞き返した。同じ聞き返しでも、密度が違っていた。

 意味不明すら言葉が足りない、心底からの疑問。

 否、士道は、十香の言葉を理解したくなかった(・・・・・・・・・)

 

「――――世界(ここ)に現れるたびに、私はパン屋を壊して、ゲェセンを壊して、ドリィムランドを壊していた。他の建物も、道路も、公園も、世界(ここ)に在る物のなにかを壊していた。人間が生きていくために必要なものを、壊してしまっていた」

 

 士道の脳裏に、壊れた天宮市が翳った。

 夢と現実と、双方共に十香は瓦礫の中心に立っていた。討ち果たした国を値踏みするかのような冷然とした佇まいで。紛れもない、十香が引き起こした惨状として……その場に立っている姿が蘇った。

 

「それはっ、……でも……ッ、壊したくて壊したわけじゃない!! おまえの意思でやったんじゃないだろ!?」

「――――随意不随意かは関係ない。私が壊したのだ(・・・・・・・)。それは変わらない。ASTが私を……世界が私を殺そうとするのは道理だったのだ。正当防衛、というやつだ。………………私がこうなるのは、当然の末路だ」

 

「知らなかった」で許されるのは子どもだけ。空間震の被害にあった人に「知らなかったから許してくれ」で許されるなんて虫が好過ぎる。無知とは、それだけで罪に手を染めてしまう。それを抜きにしたって、生きていく上で邪魔な障害は取り除くのが世の常。出る杭は打たれるのが宿命だ。五河琴里もそう言っていた。

 

 十香は嘘を言っていない。

 十香は今日の出来事(デート)を心の底から楽しんでいた。

 彼女の言う通り、世界の暖かさと優しさを知って、世界を知った。

 ………知って、しまった。

 楽しかったから、優しかったから、暖かかったから、こんな素晴らしいものを、自分の手で壊してしまっていた。

 

 その罪悪感が、十香を追い詰めてしまったのだ。

 

「――――すまない、シドー。私は、おまえと一緒には生きられない。

 

 …………私は―――――――この世界にいない方がいい」

 

 苦笑していた。十香の顔は見えていなくても、重傷とは関係ない弱弱しい声は、そうだと思わせるには十分だった。

 士道は理解(わか)ってしまった。

 十香は、死を受け入れているのだ(・・・・・・・・・・・)

 此処に至るまで、十香は恨み言の一つも言っていない。士道にも、ASTにも、怨嗟の一つもない。

 世界と人間に怒りと絶望を懐いていた十香は、デートによってその偏見を解いたから、異質なのは自分だと認識を持った。士道のセイで、士道が、デートに誘ったから、そうなった。それが現状にして惨状の根幹。

 

 

 ―――――士道のセイで、十香が死のうとしている。

 

 

「………………わかった」

 

 消え入りそうな、耳元でも小さすぎる声で士道は言う。

 

「十香は、俺と一緒にいられない。俺はフラれた。……玉砕だ。それでいい。でもそれだけだ(・・・・・)それだけなんだ(・・・・・・・)ッ!!! だってそうだろッ!? 今日は何も壊してない! 責められるようなことはしてない! 空間震が心配なら<隣界>に帰らなきゃいい話だ! ずっとここにいればいいだけだ! それで問題解決だろッ!? 寝床だって食べ物だってなんとかする! 十香が死ななきゃいけない理由なんてないんだ……ッ!」

「――――そういってくれるのは、きっとシドーだけだぞ? 他の人間は……」

「俺だけじゃねえよッ! 琴里だって令音さんだって神無月さんだって椎崎さんだって中津川さんだって川越さんだって幹本さんだって箕輪さんだって殿町だってタマちゃんだって亜衣麻衣美衣だってッ!! みんなそう言ってくれる! 他の人たちだってそうさ! 生きてみりゃわかる!!」

 

 だって、士道がそうだった。

 昔の自分は、誰にも愛されていないと思っていた。誰からも存在を否定されていたと思っていた。

 そんな中でも出会いがあった。真っ暗な闇の中で、光があったのだ。今の父と母、そして(ことり)が居てくれたのだ。

 士道を救い、士道に生きる意思をくれた人たち。そこから始まり、今もずっと増えている大切な人たち。……十香だって、その一人だ。

 士道がそうであったように、十香にだって同じように増えていくはずなんだ。

 

「おまえはまだ出会ってないだけなんだッ! もっともっと、生きて歩いて話しをすれば絶対見つかる! おまえは生きていられる! 手始めに、学校に行けばいい!」

「――――ガッ、コウ……?」

「俺たちが今いる此処だ! 俺たちくらいの歳の男女が集まって勉強するところだ!」

「――――ココ? ぬ、いつの間に……?」

「大勢の人が集まる場所なんだ! 十香と気の合う友達だって絶対いる! 絶対できる! そいつらといっぱい色んな事をすれば、おまえに生きていてほしいって、一緒にいたいって思ってくれる!!」

「――――そんな場所が……………。そうか、それは…いいな……楽しそうだな、ガッコウは」

「〝楽しそう〟じゃねえッ!! 〝楽しい〟に決まってる!! 誰かと一緒にいれば楽しいんだよ! 俺なんかとでも一緒に、いれ、…いれ……ば………ッ」

 

 紡いだ声に、嗚咽が混じっていく。

 言葉と共に出てくる情景が士道をより苦しめた。

 珍発言で周囲を騒然とさせる十香。冷汗をかき、純粋ゆえに十香を誑かしていると勘違いする面々に人望が下がるばっかりの士道。

 バカバカしく、騒がしい日常。まだまだ起きるトラブルの数々。これから辿る筈だった光景。

 それが、十香から流れる血と共に零れ落ちていく。いつのまにか血だまりは、公園のよりも広くなっていた。

 暖かい未来に包まれている筈の二年四組の教室が、水の中よりも寒く、苦しくなっていた。

 

「――――シドーが言うのなら、本当に楽しいのだろうな。私も行ってみたくなったぞ」

「だったらッ」

「――――でも駄目だ」

 

 拒絶を明確に、十香は言う。

 

「――――私はやっぱり精霊なんだ。仲良くなんてすればASTに敵として処理されるかもしれない。友をそんな目に、シドーを、こんな目に合わせたくない」

「……ッ!?」

 

 そうだ……十香はデートの時既に言っていた。同胞に討たれるかもしれないと。だから帰れと。鳶一折紙の死線を浴びていた時……もしかして、あの時から思っていたのか? こうなるのは仕方がないと? 自分は生きるべきではないと?

 話している間にも、見る見るうちに血は出続けている。

 今尚死にかけているのに、十香が心配しているのは士道のことだけだった。

 

 なんで? どうして? 

 

 十香……どうして――――ッ

 

「どうして……ッ どうしてそんなこと言うんだ!? 俺はっ、俺の所為でっ、十香がこんなになってるのに……っ、なんで?! なんでだ?! なんでだ?! なんでだ?!」

 

 涙はぐちゃぐちゃに、ダムが決壊したように止まらない。

 十香が死にかけているのは、士道が霊装を解いてくれと頼んだから。

 死線を感じた時、こんな街中で撃つわけがないと楽観していたからだ。

 士道が告白に夢中になってこうなった。

 士道がデートに誘ったからこうなった。

 士道のセイだ。

 全部士道のセイだ。

 責めて憎んで呪うのが正当なのに、十香は罵声どころか士道の身を案じている。

 

「なんでだよ……十香……っ。…………なんで十香が、こんな目に合わなくちゃいけないんだ……っ」

 

 無力だった。途轍もない罪悪感が士道に降りかかり、度々蓄積されていった自己嫌悪が―――自己憎悪が満タンに溜まっていた。

 昨日と今日。五河士道のやること成すこと全てが裏目になる事実に、いま自分が何をするべきなのかがわからなかった。

 病院に連れていく? 普通の病院に精霊を治療できるとは思えない。

 <フラクシナス>に連れていく? 現実的だが連絡手段が無い。

 十香の重傷をなんとかしなければいけないのに、なにもできない。なにをするのが正しいのか分からない。

 わからない未来(さき)が怖くて、士道は終わってしまった過去を振り返り、後悔に浸るしかできなかった。

 

 告白なんてしなければよかった。

 霊装を解いてくれなんて言わなければよかった。

 デートになんて誘わなければよかった。

 ……俺が十香と会わなければ、こんな――――ッ

 

「――――巫山戯たこと、考えているな……? シドー」

 

 思考が言い切る前に、力なく垂れ下がっていた十香の手が士道の背中に回り、締めあげるように強く掴む。

 十香が、ようやっと怒りの感情を出した。しかしそれは正すもの。悪さをした子供を導く為の母の手引きだった。

 

「――――私を侮辱するな。世界(ココ)に来たのも、デェトに応じたのも、私の意思だ。こうなるのを覚悟で来たのだ。シドーがどうこうじゃない。なんでも自分の所為にするな」

「…………ちが、……ちがう、違うんだっ! 止められた、おれは止められたんだ! こうなるのを……ッ、止められたんだ! 俺が、余計なことをしなければ………っ おれが居たから……こんなことに……っ」

「――――だから………………いや、………………………………………そうなのか」

 

 苛立ちの否定からなにを思ったのか、十香は沈黙の後肯定へと言い直す。しかしそれは……

 

「――――そうだな。……シドー、おまえのセイだ。おまえの御蔭(セイ)で、私は生きることができて(・・・・・・・・・)死ぬことができるのだ(・・・・・・・・・・)

 

 え…っとシャックリをあげ十香を見るも、動かすわけにもいかず後頭部しか見えない。十香がいま、如何なる顔をしているのか、なにを想っているのか、士道にははかりかねた。

 

 だって、その声は、とても嬉しそうにしていたから……。

 

「――――ずっと戦っていた。剣を振って、振るわれた。砲を撃って、撃たれた。否定して、否定された。怒りでそれだけしかやってこなかった。無味無臭の無意味な行動原理しか私にはなかった。……悲しいな、私はそれすら気付いていなかった。

……それを変えてくれたのは、シドーだ。なにも無い私を、『十香』にしてくれた。私を認めて肯定してくれた。私に〝生きること〟を教えてくれた。私の生を無意味から意味あるものへ変えてくれたのだ」

 

 世界と人間から否定され、孤独であることを義務付けられた。

 壊すことしかできない手。殺意でしか動かない鼓動。がらんどうな心。

 疲れていた。なにもかもが鬱陶しくなって、何も考えていなかったんじゃないか……。一番多く関わっていたASTに対してだって、本当に怒っていたのか如何か怪しいものだ。否定の行為しか見てないから鏡のように否定し返すしかなかったから……孤独になっていたのは必然だったのかもしれない。

 さびしい。とてもさびしい生き物。

 全てを破壊する天使も、全てから身を護る霊装も、何の役にも立たない。

 孤独を払うことも、心を護ることもできない。

〝死なない〟だけ。それだけで、生きているのかどうかも曖昧。それが精霊(わたし)だった。

 

 そんな精霊(わたし)に転機をくれたのが士道だった。

 四月一〇日。

 あの時……士道が必死な顔で「十香」と声をかけ、会いに来てくれた。

 最初は士道を信じなかった。あいつは私を騙そうとしているんだと、自分自身を騙していた。素直になるのが怖くて、脅しや暴力に走ってしまった。長々と言い訳をして、世界(ここ)に来る理由も偽った。

 嗚呼、でも。それが〝生きている〟事なのではないか?

 十香は初めて自分の意思で心と体を動かした。疑って疑って、士道の本質を見極めようとしていた。それは本能ではなく、間違いなく関心による心の働きであった。

 士道が歩み寄ってくれたから感情が蘇った。突っぱねていた自分を根気強く接してくれた。デートをして、ドリームランドで〝五河士道〟に触れ、今日この時、やっと〝生きる〟ことができたんだと思った。……遅すぎる。一体どれだけの月日が掛かったのだろう。

 

 四月一〇日以前の精霊(わたし)は私に非ず。

 四月一〇日をもって精霊(わたし)は『十香』となり、生まれ変わったのだ。

 

 最後に、士道は生きようと言ってくれた。これからも一緒にいようと言ってくれた。

 士道がいてくれるなら、どんなに辛くてもなんとかなると思った。この世界でも生きていけると思った。

 嗚呼、嗚呼、想像しただけでなんて幸せなんだろうか。

 今日起きたことがこれからもずっと起きるなんて、奇跡以外のなにものでもないではないか。

 いや、デートする必要も無い。士道の傍にいられるだけで、十香は幸せになれる。

 皮肉にも、死ぬ間際になって、余計にそう感じていた。

 

 ……でも、やっぱり駄目だった。

 胸からくる痛みと血。これが世界の答えだった。分不相応の望みを得ようとした罰なのだと思った。

 なぜだろう? 十香は潔くそれを受け入れている。士道もそう言ったが自分でもよく分からない。 あれだけ剣を持って抵抗していたのに、今は安らぎすら感じている。

 ……それは多分、もしこれが士道の身に起こると思うと耐えられないからだ。十香の為に悲しんでくれる人を死なせるなんて、あってはならない。十香は自分を許せなくなる。

 十香ひとりだけで死ぬのなら、その方が良い。

 

「――――たった一日だったが、充足していた。夢のような時間だった。シドー。おまえの御蔭で、私はやっと生きられたんだ。戦いながら生き永らえるよりもこの気持ちのままに眠ったほうが何倍も良いのだ。だから、そんなに泣かないでくれ。泣く必要なんてないんだ。私はもう、十分にシドーに救われたのだ。シドーはとっくに、私の救いの存在になってくれていたんだぞ?」

 

 だから胸を張ってくれと、十香は言った。

 士道は何も言えなかった。

 ああ、今の十香は、まさに生きることに絶望した頃の自分で、そこから生きる意欲を取り戻した自分そのものだった。

 二人の違いは、希望を胸に刻み生きるか、死ぬか、その違いだった。

 世界を知り、世界の訴えを聞き入れ、一日だけで十香は人生を全うした老人のように満足気に逝こうとしている。

 

 士道は十香の絶望を知らない。士道も絶望を味わっていても決して同じものではないし、比較の問題でもない。

 十香には十香の〝今迄〟があって、そこから照らし合わせてなにが一番かを決めたのだ。

 士道は間違いなく、十香の絶望を払拭した。

 

「救ってなんて……ない」

 

 しかし、それは十香の尺度。

 士道がそれで満足なわけがなかった。

 

「……俺はッ! 俺はおまえに生きていて欲しいんだ! 世界なんて関係ない! それが邪魔すんだったら俺も一緒に世界と、ASTとだって戦う! だから………だからッ!!」

 

 士道は十香の胸に手を当てる。血を止めるように。穴をふさぐように。

 認めない。認めてなるものか。こんな終わり方は間違ってる。

 夢のような時間だったと十香は言った。大したエスコートもしていない士道との時間をそう言った。だったらこれから先、もっとデートを重ねて、もっと訓練すれば、自分たちはもっと充実した毎日を生きられる。そんなあたりまえ(・・・・・)を十香は享受できるのだ。

 

「治れ! 治れよッ!! 傷を治すくらいできるだろ!? 治れよ! 治ってくれッ!!!!」

 

 神様に訴えかけるように、祈るように手を添える。

 公園から教室に来たのは自分の仕業だ。どういう原理か理解できなくとも願えば叶う安易なものと思った。

 幾度となく乞い続けた。声が擦れ、喉が痛くなり、血反吐すら吐きそうになってもやめることはなかった。もうそれぐらいしかできることがなかった。

 

 だが……何も起こらない。

 

 神は奇跡を聞き入れてくれなかった。手に肌色は無く、赤か黒かの色に変色していた。罰当りな奇跡を願おうとする愚か者を呪う泥のように士道には見えてしまっていた。

 

「治れ! 治れ、治れ!!」

「――――シドー」

「治れ! 治れ……! ……お願いだ……っ 治って……」

「――――シドー、もういい。もういいんだ」

「…ぃ………やだ……っ…いやだ………言ったじゃ、ねえかよ………………〝ここにいる〟って言ったじゃねえか……俺の傍にいてくれるって……言ってくれたじゃねえか……っ、なのに……なんだよこれ……っ!」

 

 いやいやと首を振り、子供のように泣きじゃくる。

 醜い姿だ。十香がいいと言ってるのに生にしがみ付かせようとしている。我儘を断行し、十香を苦しめている。

 このまま眠らせ楽に逝かせるしかやれることがないのに、士道はそれに気付いているのに。

 捨てられなかった。どうしても見逃せなかった。

続く筈だった十香の人生を、十香との日々を、歩み寄る幸せを、こんなところで終わらせたくなかった。

 逃がしたくなくて、強く、ただ強く、より強く抱きしめる力を増やす。

 

「死ぬな、十香……っ。たのむ……っ、十香………死なないでくれ……っ」

「――――……シドー……」

 

 士道の貌は見るに堪えないものだった。目は充血し腫れ簿っている。鼻水も垂れて汚れまくっている。そして何より悲痛だった。

 見えずとも、声を聞くだけで十香は苦しかった。

 士道の声を聞くと、胸から血を流しているよりずっと痛かった。士道が十香のことで苦しんでいるなら、十香も士道のことで苦しんでいだ。

 

 護りたいと思っていた士道の心が、あの輝きが、失ってしまう。他ならぬ自分の手によって。

 

 でも……もうどうしようもない。

 自分が助からないのは〝決定事項〟。だが、それでは士道が助からない。

 〝何とかしたい〟……こんな気持ちだったのか? 士道が自分を助けようとした気持ちは。

 なるほど、十香は同感した。この心境に至ったら、誰だろうと構いたくなるなと微笑する。

 霞んでいく頭で、関係ない冗長の中、何とかならないか考えて……

 

 ひとつだけ、思いついた。

 

「――――シドー。最期に、私の願いを聞いてくれないか?」

 

 〝最期〟と、そう口にした十香は悟りを開いた御釈迦様のように、どこまでも落ち着いていて……死を感じさせない程の優しさに溢れている。

 士道は一際大きく震えるだけで何も応えない。涙を流し嗚咽するしかなかった。

 それでも構わず、十香は続けた。

 

「――――もしこの先、他の精霊たちが現れたら、救ってやってほしいのだ」

「……………ぇ?」

「――――精霊は、他にも多くいるのだろう……? 私と同じような者が、望まぬ戦いに巻き込まれる者が。人を殺さざるをえない者が。……そんなの可哀想だ。この先、そんな精霊が現れたら、救ってやってくれないか?

――――シドーならきっと、戦わずに精霊を平和に暮らせられるようにできる。私は間に合わなかったが、まだ間に合う精霊がいる。……その者たちを救ってやってくれ。私を悲しんでくれるなら、悔んでいるなら、もう二度と同じ過ちを犯すな。今度は、ちゃんと護ってやれ。シドーが納得するまで、とことん救ってやれ」

 

 士道は呆然と聞くしかなかった。

 これが十香の考えだった。

 自分の死を教訓とし、自分以外の精霊を助けるために、未来への礎となる。

 息を呑む士道の当惑が伝わる。彼にとっては残酷な願いであろう。こんなのは呪いに等しい。これから精霊と相対する度に士道は思い出してしまう。護れなかった十香を。救えなかった十香を。こびり付いた血を思い出し、そのたびに悲しみ涙するのだろう。精霊を懺悔と十字架の対象でしか見えなくなるのだろう。

 だが士道は言った。生きていれば出会いがあると。大切にしてくれる人と大切だと思える人に出会えると言った。なら、出会いという名の機会があればきっと何とかなる。心の支えとなるヒトと巡り合える。精霊でも人間でもかまわない。その人に出会えれば士道はきっとその先を乗り越えられる。 その役目が自分でないのが残念だが、士道が幸せでいられるのならそれでよかった。

 

「――――シドー。お願いだ。どうか、たのむ」

「………………………………………」

 

 縋るような懇願に、士道は沈む。耳に入った〝最期〟という単語を拒絶しても離れない。

 

 ……わかってる。わかっているんだ。

 

 十香は死ぬ。了承をすれば、間も無く死ぬ。コレを聞き届けることこそ救い。十香のためにやれることは安心させることしかない。安心を裡に眠りに堕とさせるくらいしか、士道にはできない。

 

 何がいけなかったんだろう……?

 

 今日から始まる筈だった。十香の苦労と受難が、それと同等以上の達成感と幸福の生活が訪れるはずだったのに。

 士道の考える後悔は十香によって否定された。自分のやったことは十香には救いだったと。

 じゃあ、なにがどうなって十香と〝死〟による別れが決定づけられたのか。

 士道の関知しない所による結果。十香の運命か、神の意向か、世界の否定か。そんな不確かなモノでこんな事になったのか。そうなるのを良しとするのか……

 

 なにかある、なにか、あるんじゃないか? 不確かなら、確定はしていないのだから。あるはずだ。方法が、逆転が、十香をなんとかするなにか。

 

 

 なにか、ないのか

 

 

 なにか、

 

 

 なにか、

 

 

 考えて、

 

 

 考えて、

 

 

 なにかないか、考えて、

 

 

 

「………………十香」

 

 彼女の頭と肩をさする。

 彼女を、安心(・・)させるために(・・・・・・)

 

「……まかせろ。精霊はみんな、俺が救う。みんな、人間の敵にならないようにする。普通に、仲良く、学校にも行けるように、する。友達だって、ちゃんと、つくれるように…幸せにする。…だから、大丈夫だ……………」

 

 

 

 安心してくれ(・・・・・・)

 

 

 

「十香の、ぶん、まで…………………っ」

「――――ああ」

 

 考えても……他に、何も無かった。

 ……結局、それしかなかった。

 士道は……諦めるしかなかった。

 無様。無力。無能。なにより、邪悪だった。

 ……それでも

 

「――――ありがとう。シドー」

 

 それでも……十香は感謝していた。

 心底嬉しそうに、微笑んでいると分かった。

 士道に、笑い掛けていた。

 

「――――シドーなら、きっとやれる。きっと、精霊を救える。きっと……きっと」

 

 トン、と十香は顎を士道の肩に乗せた。抱きしめていた腕は解き放たれて、全体重が圧し掛かった。華奢な体の割に、酷く重かった。

 

 息遣いが小さくなった

 肌は氷よりも冷たくなっていった。

 血以外のモノが失っていくのを体感している。

 血以外のモノが遣って来るのを体感している。

 疑問を挟む間もなく確信する。

 失っていくのは生気で、

 遣って来るのは……〝死〟だ。

 

「………、……………………………………………まってくれ、……十香」

 

 荒荒しい震えが士道に沸き起こる。瞳が揺れに揺れる。激情が大火となって胸を灼いていく。

 

「十香。まだ、ないのか? 頼みたいことはないのか? 頼みじゃなくてもいい。聞きたいことでもいいんだ。なにかないか? 十香はさ、まだ天宮市のことしかしらないだろ。日本の有名所とか全然しらないだろ? 富士山とか、金閣寺とか、外国なんてもっとしらないだろ? 自由の女神とか、エッフェル塔とか、まだまだしらないことがあるだろ? 俺もよくしってるわけじゃないけど。十香に教えられることはまだいっぱいあるんだ。デートで行ける場所がたくさんあるんだ」

 

 諦めたと思っていた心が不活発に再起する。十香をこの世に繋ぎとめようとしてしまう。

 途方もない焦りにもがくたびに底なし沼に嵌まっていくようだった。

 十香の身体に巣食おうとしている〝死〟を実感して、士道は〝死〟というものが本当に取り返しのつかない摂理であることを思い知った。

 

「なんでもいいんだ。ホントに、くだらないことでも、なんでも……十香」

 

 繋ごうとするも、刻一刻と〝死〟が遣って来る。十香を連れていこうとする。

 

 何をしても無駄だ。〝死〟は平等。死ぬ時は死ぬしかない。

 

 

 そして、

 

 

「十香……なあ、まだ、もうすこしだけ、すこしでいいんだ……はなしを………………」

 

 

 

 ――――――――――――――――――――――――。

 

 

 

「…………………………十香?」

 

 〝死〟が十香の全てを余すことなく〝死〟に染めていった。

 

「…………、………十香? 十香?」

 

 心音はとっくに心臓(そうち)ごと消失していた。にも拘らず生きていた奇跡は、もう終わっていた。

 

 終わってしまった。

 生まれて初めてのデートが。初めての初恋が。初めての死別が。

 

 士道が到底思い起こせない最悪の形で終幕を下ろした。

 

 

「あ、……ぁあ………まってくれ十香。まて、まって……まってくれ

 

 ………………………まっ………て」

 

 

 

 

 

 

 いかないで

 

 

 

 

 

 

 士道は、弱弱しい声で言う。

 

 

 まるで――――母親においていかれる子供のように、そう言った。

 

 

 そう言って、士道は…………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………。

 

 …………………………………………………………あれ?

 

 

 士道は、不思議に思った。

 

 自分は、悲しんでいる。

 苦しんでいる。

 嘆いている。

 

 なのに、なんで?

 

 

 涙が止まった。消えてしまった。

 

 

 悲しいなら、苦しいなら、嘆いているなら、泣いて涙を流す筈なのに。

 

 どうして止まってしまうのだ?

 

 

 十香は、十香は、いま―――――――

 

 

 納得がいかず、なんとか泣いてみようとするも泣けなかった。

 

 何度もやってみても、士道は泣けなかった。

 

 理由を考えて………あれ? と、また不思議に思った。

 

 思考がうまくできなかった。

 

 思考だけじゃない。なにかが、低下する。抜けていく

 

 全身が、糸が切れたみたいに力が入らない。

 

 血の気が失せていき、表情が無となっていく。

 

 慣れ親しんだ自分の大切なものが消えていく感覚に堕ちていき、

 

 

 士道は、ああ、まただ(・・・)。  と思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 銃弾の雨が途切れることなく高台の公園に降り注ぐ。

 雨が再び舞い戻って嵐となったのではない。本当に銃弾が降っているのだ。

 公園の破壊のみならず高台そのものを破壊しかねない局地的気象にして危険極る異常気象は天による災禍ではなく、AST の魔術師(ウィザード)による人為的な天候操作によるものだった。

 銃声だけでもかなりの弾丸が使われているのが分かるのに加え、込められた魔力も一発一発は小さくも撃ち続けたことによって周囲の魔力密度が濃くなっていった。それだけ多量の攻撃を行ったというのに、〝対象〟には何の変化も見られない。

 

 集中砲火を受けているのは黒い球体(・・・・)だった。

 半径10メートル程のドーム状に鎮座しているナニカ(・・・)は上空から見ると……どこから見ても球体というより孔に見える。削岩機を使って孔を開けたようなものではなく、黒の絵の具を使って孔を画いたような、塗り潰したかのような不自然な物体。

 否、物体かどうかも定かではない。なにせ撃っているのに当たっていないのだ(・・・・・・・・・)。銃声が鳴っているのに着弾した音がせず、撃ち落とされてもいないのに消えてしまっているのだ(・・・・・・・・・・・)

 一体自分達はナニに攻撃しているのか。近いもので言えば本当に孔としか言えない。底なしの孔に物を投げ込んでも底に当たった音がしない……そうとしか言えなかった。

 魔術師であるのなら、物体ではないと思った時点で随意領域(テリトリー)を想起するのが普通かもしれないが――――

 

「気味が悪いわね……霊力でも魔力でもない(・・・・・・・・・・)()ですって……?」

 

 鐐子は誰に聞かせるでもなく一人言を呟く。違う、アレは違う。あんな不気味なものは知らない。

 どういう原理で成り立っているのか……自身と本部とでドームを解析(スキャン)してみてもなにもわからなかったのだ。霊力でも魔力でもないのがわかっている……というのが胆であるのだろうが、それで済む問題ではない。随意領域による解析が何の反応も示していない(・・・・・・・・・・・)のだ(・・)。霊力でも魔力でもない。重力でも磁力でも圧力でもない。固体でも液体でも気体でもない。熱が無い。光も、電気も、原子核も無い。現代の科学で成立しているエネルギーが無い。つまりはあそこには何も無い(・・・・・・・・・)という結果に他ならなかった。

 

 あるいはこれは、精霊が死した時に発生する現象なのかと真剣に考えてしまう。

 

 <C C C>の狙撃が<プリンセス>に命中し、その胸に風穴を空けた事実を目にした時、鐐子のみならず他の隊員たち、あの折紙でさえ数秒の間呆けてしまった。いつもあれだけ苦労と辛酸を舐めさせられた精霊を呆気なく致命傷を与えた手応えのなさ(・・・・・・)。今まで何を手間取っていたのかと過去の自分すら馬鹿にしてしまうくらいに上手くいった狙撃にしかし、直ぐさま気を取り直し追撃の為一斉に飛びかかった。あの状態なら絶命していても可笑しくは無いが相手は精霊。どんな奇妙(トリッキー)底力(しかけ)があるかわからない。致命傷は必至にしても<プリンセス>の傍には一般人の少年がいるのだ。彼を保護するためにも迅速に<プリンセス>の死亡を確かめなければならなかった。

 

 なぜか精霊と共にいた人間の少年。何者なのかと鐐子が思えば折紙と同じ高校のクラスメイトらしい。一体どういう関わりを持って少年は<プリンセス>と行動を共にしたのか。偶然出会ったにしてはどこか出来過ぎている巡り合わせを感じていたが、それはこれから保護した後に詳しく聞けばいいと安易になっていた。

 だが、少年は錯乱してしまった。当然だろう、姿形は人間と変わらない生命体が身体に穴を開けて血が飛び散り滴り流れたのだ。規制のないグロテスクシーンは少年を深く傷つけてしまった。大声で悲鳴を上げているのを聞いて任務を優先した申し訳なさを大いに感じながらも謝罪は後に今は自分の役目に取り組んだ。

 変化が起きたのはその時だった。少年の悲鳴で息を吹き返したのか、<プリンセス>の身体から血ではない〝黒いナニカ〟が噴出したのだ。弾け、広がり、固まって、その形は球状になり、現在攻撃しているドームとなって鎮座しているのであった。

 

「―――――総員、撃ち方止め!」

 

 これ以上は時間と弾の無駄遣いと判断し、鐐子は通信回線で攻撃中止を指示するとけたたましく響いた銃声が鳴り止んだが、目に見える過程にあたわぬ結果の無さに辟易となった。

 

「これだけやって何の反応も変化も無し………どうしたものかしら………」

 

 天宮市はASTの根廻しによって空間震警報を鳴らし住民の避難を済ましている。だからこそ遠慮なく雨あられと弾丸を打ち込みまくったのだが効果は無し。魔力攻撃の他にも魔力無しの物理・物量攻撃も仕掛けたが、結果は一緒。

 このままでは埒が明かないが、考えうる限りの攻撃はし尽くした。もう自然消滅を待つしかないと思っていると――――

 

「日下部一尉」

「? 折紙…って、っと!?」

 

 呼び掛けと一緒に放り投げられた2本のアンカーユニットをおっかなびっくりと受け取る。1つはワイヤー。もう1つは光の糸が伸びていた物だった。

 

「私があの中に突入する。5分で戻らなかったそれを引っ張って」

「な―――なに言ってんのよ!? さっきまでの見てたでしょ? あの結界モドキ(・・・)は普通じゃないわ。中に入るなんて危険よ!」

「このまま何もせずにいるのはジリ貧でしかない。もしかしたら<プリンセス>が回復する為の代物か、そうでなくとも時間稼ぎに使われている可能性もある」

 

 あんな不可解なナニカの前でも尤もな意見を吐く折紙はどこまでも冷静に現状を打破しようとしている。

 頼もしく思うべきかもしれないが、やはり危険だ。未踏の大地を踏みしめるには情報(データ)が少なすぎる。唯一わかっている〝消えてしまう〟現象が拍車をかけていた。

 

「だからコレを使う」

 

 折紙は2つのアンカーを示す。

 一方は金属の、もう一方は魔力によって作られた代物だ。

 両極端の性質を用意したのはせめてもの不測に備える保険だった。

 

「〝消えている〟といっても恐らく消滅しているのではない。それならあの黒いのに触れた瞬間に消えるはず。でも、アレに攻撃していったものは中に入って(・・・・・)消えていった」

「……ようするに〝来る者拒まず〟で、アレの中には侵入(はいれ)るって言いたいの? ……でもね、入れたとしても〝去る者追わず〟とは限らないわ。ヘタしたら二度と出れない、いいえ……何が起こるのかわからないのよ(・・・・・・・・・・・・・・)? それに消滅じゃないっていったけど、中に入ったら消える可能性だって……」

「勿論、これは唯の推測でしかない。無事でいられる保証は無い。だから私一人で行く。もし自力で帰れず、通信も出来ないようならコレで回収をお願い」

「あっ―――折紙!」

 

 半ば強引に押し切り、制止の声も無視し、折紙は黒いドームへと先行する。本音では鐐子に言ったことは建前でしかない。折紙には一刻の猶予も許されない、やらねばならないことがある。

 アレは危険。全くもって同意見だ。迂闊に飛び込むなんて馬鹿がやることだし、折紙をしてアレには恐怖を感じている。殺されるだとかそういった断絶とは少し違う。巨大で強大で、圧倒的な存在感を前にするように……そう、あの黒い色に塗り潰される(・・・・・・)脅威にひれ伏しそうになっている。

 

 ――――そんな所に五河士道が取り込まれている……っ

 

 <プリンセス>を九死に追い込んだことにより、憎しみで熱しられた頭が徐徐に冷えていった折紙の中では優先順位が<プリンセス>への止めよりも士道(かれ)の安全に変わっていた。それと同時に折紙を燻っているのは後悔だった。

 恨みを晴らすしか頭になかった折紙は、士道の悲鳴を聞いたことによって自分がどれだけ彼のことを蔑ろにしたか、彼のことを考えていなかったのかを思い知った。

 曲がりなりにも人の形をした化物が目の前で血塗れになったのだ。その心情は推して知るべし。あるいは自分の時(・・・・)よりも(・・・)生々しい〝死〟を目撃してしまい彼の心が病んでしまっている可能性がある………生きていれば、だが。

 

〝自分と同じ思いをさせたくない……自分のような人間は増やさない〟

 折紙が戦う理由(ワケ)の一つ。憎悪の割目に潜んでいる良心が責め立てる。

 折紙は、士道が近くにいたら<プリンセス>に殺されるかもしれないから早く撃たなければならなかった、なんて考えていなかった。ただ恨みと憎しみだけだった。他の誰でもない彼(・・・・・・・・)が居たのに……それしかなかった。矛盾をはらんだ行為に苛まれるも、今やるべきは士道の救助。

 彼になにかあったら、謝るのも癒すのも、全身全霊で献身するつもりだが、死んでしまったら、生きていなければ、意味がない。何もかも終わる。

 

「ああもうっ、―――3分よ! それで戻らなかったら即回収するから!」

 

 いつもの冷静さゆえの反動か、折紙が〝やる〟と決めたらとことんやり、聞く耳持たなくなるのを鐐子は知っている。この隊員屈指のじゃじゃ馬を御しきる人間なんていないだろうと隊長にあるまじき発言を心の中でぼやきながら融通と妥協も必要と、折紙の独断を許す。心配するだけして止められない自分を歯がゆく思いながら……

 

「いいわね、おりが――」

 

 ピシリ―――と、一際大きな亀裂音が鐐子の口を止めた。前進中の折紙も急ブレーキを掛けて動きを止める。

 その音は黒いドームからだった。亀裂は次第に大きなクモの巣のように球体全体に広がっていき、音と振動はまるで雛鳥が孵化するようにも、爆発寸前の風船のようにも見え……

 

「くっ―――!」

 

 咄嗟に顕現装置で防性結界を張った直後、ガラス細工が壊れたような甲高い音が暴風に乗ってAST隊員に届いた。数名がその場に耐えきれず吹っ飛ぶが、残りはどうにか耐えきった。

 突発的台風。ふとそんなことが思い浮かんで、確か世界各地に存在を確認されている精霊・<ベルセルク>がそんな被害を出していると聞いたなと、今はどうでもいい事を考えてしまう。

 

「ホンットに、なんなのよっ!! 全員無事!?」

 

 風が収まっていき、愚痴りながら鐐子が部下の安否を確認する。このタイミングでなぜドームが壊れたのか皆目見当もつかないが、折紙が突入する直前でよかったと安堵する反面、なんだかズッコケさせられたみたいな腹立たしい気分になっている。折紙は折紙で誰よりも接近していたのによく耐えていたが、壊れたドームがどうなったかにしか気になっていないようで、目を配ると二つの人影の、内一つの姿を見て再び飛び出していく姿があった。

 

「折紙!? ―――各班、包囲網を展開して上空待機! まだ予断は許されないわ。本部と連携してどこに逃げても追えるように回線は開いておきなさい!」

 

 隊員に指示を出しながら鐐子は折紙の後を追う。念には念をといっても一人が二人になったところで雀の涙程の戦力差かもしれない。だが……

 

 

 目視した限り、遠目でも<プリンセス>の死亡は明らかだった。

 

 

 生きてたとしても戦える身体とは思えないし、最後っ屁の力があるにしても、それは逃亡に使うしかないだろう。使ったとしてもそう遠くへは行けまい。

 既に地に着いていた折紙の傍に降り立ち、眼前に映る一人の少年と少女を見据えた。

 

 

 

 

 

「五河士道、怪我はない?」

 

 折紙はなるべく優しく語り掛けたつもりだったが、聞く者には冷静な表情と変わらぬ冷たい声音にしか聞こえなかった。台詞からして淡々としすぎているのだから尚更だった。

 

 士道は応えない。

 

 無視しているでも、怪我をしていて応えられないわけでもない。折紙が〝クラスメイトの鳶一折紙〟と気付いているのかは微妙だったが……。

 彼は俯いて前髪が陰となり、貌が見えなかったが、ただ呆然としているのだと思った。

 

「……ごめんなさい。謝って済む問題ではないけれど、あなたを巻き込んでしまった」

 

 言いながら、折紙は士道に近づく。士道は横たわっている<プリンセス>の前で両膝をついている。土下座する寸前のような格好に、なにか違和感を感じる。

 

 士道は、応えない。

 

 とにかく無事であることには安堵したが、彼の格好は酷く悲惨だった。胸の辺りから<プリンセス>の血で汚れて下半身のズボンにまで満遍なく染みついている。両の手も同様に真っ赤になって、まるで彼が殺人を犯したような有様だった。

 

 そうしたのが自分だと思うと罪悪感に胸が苦しくなる。

 言い訳などできない。五河士道をこんなにしてしまったのは鳶一折紙だ。

 彼が罵詈雑言を叩きつけるなら甘んじて受けとめる。彼が何がしかを求めるなら自分の全てを捧げる。その覚悟を持って、折紙は事務的にこれからの処置を伝える。

 

「五河士道。今のあなたには酷なことだけど、私と来てほしい。ソレ(・・)とのこれまでの経緯、ソレ(・・)に関する話を、あなたの知っていること全てを話してもらいたい」

 

 理由がなんであれ五河士道をこのまま家に帰すというのは無理だった。精霊をはじめ自分たち魔術師の姿も見ているのだから、一般人に知られてはいけない機密レベルはとっくに超えていた。折紙個人もどうやって<プリンセス>と知り合ったのか、四月一〇日にいたのはやはり士道だったのかを聞きたかった。

 詳しい話を聞いた後は記憶処理が施されるだろう。専用の顕現装置を使えば害無く安全に精霊に関することを忘れられるはずだ。

 士道にしたことを都合よく忘れさせることにどこか卑怯を感じるが、それも士道の為になると思えば、折紙の矜持など無きに等しい。

 

 士道は、まだ応えない。

 

 了承も拒否もない。それすらできないくらいに心の傷を負わせてしまった……しかし、どちらにしても連れていかなければならないと、折紙は士道を立たせようと近づくと……

 

「なあ、鳶一」

 

 士道が応えた。

 

 沈痛していたと思っていた士道が声を掛けた。びくっと強張らせながら折紙は歩みを止める。

 予想に反しての平静な声。雰囲気も荒波立たぬゆるやかな川の流れに似て伸びやかなものだ。

 

「……五河、士道?」

 

 でも、それは血に濡れた姿で出していい声ではない。〝死〟を目撃して出す雰囲気ではない。

 

 なんだ(・・・)これは?(・・・・)

 

 パニックではない。かといってクールでもない。

 もっと混沌としていて、もっと冷め切っている。

 体も心も近寄り難く、触れ難い。

 

「鳶一はさ、精霊と話したことってあるか?」

「………え?」

「ASTが戦ってきた精霊の中の誰でもいい。話をしたことはあるか? 話なんて上等なものじゃなくても、一言二言でもいい。声を掛けたことはあるか?」

 

 士道の態度に困惑すれば、精霊とASTの単語が出てきたことにも、質問にも困惑してしまう。二人の成り行きを見守っていた鐐子も同様だった。

 〝精霊〟は<プリンセス>本人に聞いたとしても、〝AST〟は精霊から聞いたとは思えない。人間社会に適応していない精霊が、人間に害成す精霊が人間の組織名を知りえる手段がある訳がない……人間を殺す精霊がそんなおぞましい行動をするなんて、あっていい訳がない。ましてや会話などもっての外だ。

 反論をしようとして、しかし口が開けない。

 彼の言葉は質問でありながら語り部でもあったから……

 

「俺はある。話したのは昨日と今日だ。昨日はめちゃくちゃ警戒されてさ、右手にデケー傷跡が残る大怪我しちまった。まあ、そうされちまうことを俺はやっちまって、もう一度会うのは難しいかなって思ってたんだけど、今日は向こうから俺に会いに来てくれたんだ。自分の敵がいる世界に、俺に会うためだけに来てくれたんだ。人間の事、世界の事が知りたいって言って、俺とデートもしてくれたんだ。愛想尽かされかけたけど、最後まで俺と付き合ってくれたんだ」

「……………………」

 

 デートと聞いて身体が僅かに震える折紙に気付かず、士道は<プリンセス>の頭を撫でる。血で汚れた手を使うのに戸惑いながらだが、優しく触れる。

 事切れている者に行うとは思えない、愛おしそうにあやす仕草に折紙は目を離せなかった。

 

「うれしかった。それ以上に、楽しかった。

 色んなモン食いまわったけど、中でもきなこパンが気にいったみたいでさ、子供かってツッコミ入れそうになった。……いや、子供だったんだな……本当になんにも知らなくてさ、いちいち驚いてはしゃいで楽しそうにするんだ。ゲームセンターでもそうだった。音ゲーがうまくて、一位になれなくてムキになってたよ。他のゲームもそうで、でも、お菓子取れるやつやったら機嫌が直っていって、単純っていうか、純粋って言うか…………

今日はそれだけだったけど、食べ歩きとゲーセンだけで楽しかった。……俺は見てるだけでもよかった………一緒にいるだけで、楽しかった………一緒に、居なくても…………思い返すだけでも、たのしくなって、さ」

「…………………………………」

 

 詰り躓く声には感情が無い。教科書を音読しているだけみたいに、壊れたボイスレコーダーで、それでも再生し続ける。そうしなければいけない、それしかできない、といった義務感の動作だった。

 

 士道の声は心に響かない。感情云々ではなく、精霊に対することなら折紙自身が響かせようとしない。

 結論から言ってしまえば―――士道の言葉は、ただ徒に折紙を燃え上げさせる燃料にしかならなかった。

 呪いと怨嗟に満ちた黒い炎が、士道への罪悪感を燃えカスにした。内心の炎が、折紙を五年前(・・・)に逆行した気分にさせる。

 

 好意以上の想いを向けている相手が、生ゴミとなった生命体を気にかけるなんて――――

 

「鳶一。今日俺の行動は全部見てたんだろ? おまえから見てどうだった? 俺と一緒にいた精霊は危険だったか? 誰かを殺すような敵に見えたのか? 居るだけで害悪だったか?

………俺みたいな、最低最悪なクズの傍にいてくれて、最期まで俺なんかの為に気を使ってくれた精霊が、悪い奴なのか?

 ……空間震の原因を殲滅するASTの方針も分かるつもりだ。でも問答無用なのはやり過ぎなんじゃないか? だって、俺は生きてる。世界を殺せるなんて大袈裟なこと(・・・・・・)言うけど、人間一人こうやって生きてるんだぞ? そんな危ないのと今日デートしてたんだ。人間と一緒なんだよ。悪い奴だっていれば、良い奴だって絶対いるんだ。

 ……知らないだけなんだ。精霊も人間も、みんな分からないから、お互いの暮らしも価値観も知らないから戦うんだ。話せば分かりあえる筈なんだ。そうすれば戦う必要なんて――――」

「そんなのはありえない」

 

 質問が独白になっていた士道を、折紙はいつもどおりの冷静さで、憎悪と拒絶とが雑じ合った断固の否定を掲げる。……精霊そのものに向けるような怨念を、折紙は士道に向けてすらいた。

「なにをやっている?」「やめろ」という警告が折紙には聞こえるが、止まらない。彼を傷つけてしまったと後悔していたのに、自分は士道を更に傷つけようとしているのが分かる。

 士道の話を聞いてあるいは、そうまでしてでも聞きたくないという意思表示なのかもしれない。

 そうする理由が折紙にはある……

 

「今日はたまたま(・・・・)何も起こらなかっただけ。明日も何も起こらない保障はどこにもない。

精霊に良い奴がいるとして、言っているのがソレ(・・)の事なら、皆口をそろえて言うに決まっている―――〝おまえなんて大嫌い〟だと」

「……っ、折紙……!」

「貴方は勘違いをしている。精霊は人類の敵。絶対不変の真理。ソレ(・・)が死ぬのは当然の報いに過ぎない」

「やめなさい折紙っ!」

 

 度を超える、否、尚越えようとしている発言に鐐子が折紙の肩を抑えて諫める。

 精霊(プリンセス)人間(しどう)の遣り取りをみていたこともあり、この少年が精霊に好意を抱いていたのは彼の言葉面でも明らかで、察するに余りあった。

 そこに訪れた精霊の死。似たような精霊への認識を持ってるとはいえ、いくら折紙の事情を知っているとはいえ、今の状態の士道に言っていいわけがない。クラスメイトというのなら説得と説明は折紙に任せた方が良いと割り込むのを控えたが、悪手になってしまった。

 

「かん、ちがい?」

 

 相変わらず士道の表情が見えないが、声には初めて感情が揺らいでいて、呆然とした気の沈み具合を窺わせていた。

 

「かんちがいって……なにがかんちがいなんだ? むくいってなにがだ? 

空間震のこと言ってるのか? でもあれは、精霊が望んでやってるわけじゃないんだ。ただ……ただ、事故で、起きちまうもので、どうしようもないことで…」

「その通り。それはどうしようもないこと。貴方がどれだけ精霊を庇ったとしても、空間震はどうしようもできない」

「それは……けど、ソレさえ解決すれば、……空間震は、この世界に現れるときに起きるんだから、ずっと、この世界に留まれば、問題は……」

「空間震を抜きにしても同様。……仮に……万が一……百歩譲って……精霊が人間と暮らせる状況になったとしても、世界を殺す力を持っている危険生物を受け入れる人間なんて存在しない。指先一つで人を殺せる生物と一緒に学校に通うなんて誰も望まない。腕を振るっただけで万物を破壊する生物と一緒に勉学に励むなんて出来っこない。そんな(・・・)恐ろしい(・・・・)存在が隣にいることに(・・・・・・・・・・)人間は耐えられない(・・・・・・・・・)。不安は不信に変わり、やがて争いに変わる」

「……………」

「精霊が生きている限り、人間は常に死に怯え、生にも怯えてしまう。貴方の言い分は、唯の夢物語でしかない。精霊は人間の敵。それだけでしかない」

「…………、そん、な……、そんなこと…ない。……せいれい、は……―――」

 

 評論家の批評より自尊心を潰し、政治家の糾弾よりこころを削る。

 それでいて、折紙の主張はどこまでも正論であった。

 生きていたい。死にたくない。

 当たり前のことであり、仕方がないこと。突き詰めればそれだけだ。

 弱肉強食の残酷な世界。精霊と人間の関係はソレに尽き、何の特別でもない、世の中の世情。人が動物の肉を食べるのと同じ、欠かせない生命維持のための手段なだけ。

 

 間違いなどない。

 間違ってるのは、士道の方だ。罪に問われるのも、討った折紙ではなく、庇う士道の方だ。

 

 でも、間違っていても、士道は止められない。

 

 それでも何とか言い返そうとする。

 

 だって十香に頼まれたのだ。他の精霊を救うと。

 

 それが士道に残された生きる糧。かろうじて一歩手前に踏みとどま(・・・・・・・・・・・・・・・)らせている希望でもあるのだ(・・・・・・・・・・・・・)

 なのに、嶮しく困難が約束されている山あり谷ありの茨の道を前に、歩く前に口で負けているなんて駄目なのだ。

 駄目なのに、士道は何も言えない。

 只でさえ思考が働かないから、頭の中がごちゃごちゃになっている。自分が何を考えてるかよくわかっていないが、答えをまとめようとする。

 

 昨日、琴里が言ったこと。

 今日、十香が言ったこと。

 二人に共通することを、いま折紙も言ってきた。

 精霊(十香)と、精霊を殺す者(折紙)と、精霊を守る者(琴里)の、三者同様の言葉に、士道はまず皮肉を感じた。裏表の行動指針を持つ組織が、言っていることが同じだった。それに対応する方法が異なるだけで、精霊への認識はどっちも共通している。本人も認めている。

 次に悲しみを感じた。どうして、それしか意見が合わないだろうと。それしか見ることができない人間の、生物の本能(恐怖)に憂いていた。

 最後に、なんで似た応酬を3回も繰り返しているんだろうという疑問が士道にうかんだ。

 ……それは、具体的な答えを持っていないからではないか?

 デートしてデレさせても、空間震の解決にはならない。士道が精霊に信用されても、信用しても、他の人間は信用していない。

 これでは空間震を解決しても駄目だ。信頼を得て、この世界に留まるよう頼んで空間震が起きなくてもASTが見過ごさない。折紙はさっきそう言った。

 精霊を真に救うなら、〝精霊の力〟をなんとかしなければならない。 

 ASTに観測されないために霊力を抑えるか、少なくするか、封印するかくらいしなければ、精霊は一生狙われ続けるだろう。

 

 

 抑える……少なく……封印……

 

 ……封印………封印、封印。

 

 

 そうだ……封印だ。

 心の中で、士道にはそれができる力があると確信した。

 封印さえすれば精霊は精霊として観測されない。空間震を起こさず、人間として暮らす事ができる。

 天啓を得た士道は、あとはどうやって折紙を、ASTを説き伏せるかが必要だった。

 <ラタトスク>の存在は隠さなければならないのに、中でも隠さなければいけないのはその封印能力ではないか。それを言わずに折紙に反論するにはどうすればいいのか、十香の頼みを叶えるためにも、こんなところで躓いてなんていられない。士道は全ての精霊を救わなければならない。

 

 過ちは繰り返さない。精霊を、

 

 

 

 

 

 

 

 

 …………………………

 

 

 

 精霊を、………救…う。

 

 

 

 

 

 ふと、魔が差した。

 〝救う〟という単語に、嘲笑されたような気の滅入り様を感じた。

 たったいま十香を救えなかった士道の思考として至極当然の流れではあるが、そういうのではない。

 救えるかどうかじゃない。士道は精霊を救わなければいけないのだ。

 十香は言ってくれた。きっと精霊を救えると。

 その言葉を、士道は微塵も疑っていない。

 十香が言ってくれた言葉を、疑ってはいけない。

 これからの未来には出会いがあるのだろう。苦しみ、嘆き、絶望する精霊と士道は対峙するのだろう。その子たちを救い、一緒に日常を生きていくのだろう。

 微笑ましく、輝かしい、苦難を乗り超えた先に在る、比べるべくもない素晴らしい人生が待っているのだろう。

 

 

 

 でも、

 

 他の精霊を救ったとしても、

 

 

 十香は、………いない。

 

 

 十香はそこにいない。

 十香は、過去になった。想い出の中にしかいなかった。

 目の前にいるのに、横たわっているのに、目を瞑って、ただ眠っているだけのようなのに、

 

 もう、いないのだ。

 

 十香は、もう目を開かない。

 十香は、もう歩けない。

 十香は、もう話せない。

 十香は、もう笑わない。

 十香は、もう生きていない。

 

 

 

 

 

 十香は、

 

 

 

 

 

 

 死んでしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

「――――――――――――――あ」

 

 

 

 

 

 止まった。

 士道の裡で、何かが止まった。

 意欲と情熱……かもしれない。

 折紙へ反論を、十香の最期の頼みを叶えようとしたのに、それだけが士道を動かしていたのに、止まってしまった。

 

 気付いてしまった。分かってしまった。理解してしまった。

 

 反論したって、頼みを聞いたところで、意味がない。

 

 十香が生きていなければ、無駄なのだ。

 

 好きだったから。二日しか会っていないのに、二日分とは思えないほどの気持ちの入りようがあり、運命の人に出会えた万感があった。

 

 そんな人が、死んでしまった。

 

 自分が(・・・)全否定されているような気がした(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

 自分が(・・・)もう誰からも愛されないと思った(・・・・・・・・・・・・・・・)

 

「いいかげんにしなさい折紙! 今はそんな議論言ってる場合じゃないでしょ!! 

 ……五河士道君。あなたをAST本部に連行させてもらいます。精霊と関わりを持ったあなたをこのままにしておくことはできません。ですが乱暴な真似はしません、どうか―――」

 

 折紙を押し退けて士道を連れていこうとする鐐子の声が、途中で止まった。

 声だけではなかった。

 鐐子の動き……身体が止まっていた。あたかも金縛りにあったかのように、身動き一つとてしていなかった。

 

 突然の制止に、折紙は訝る様子も、声を掛ける様子も見られなかった。

 彼女の関心が士道にだけしか向いてないからではない。

 なぜなら、折紙も同じように止まっていたのだ。人形のような彼女が本当に人形になってしまったかのようだった。

 

 

 止まっているのは二人だけではなかった。

 

 

 上空に待機していたAST隊員も動きが止まっていた。体も、CR-ユニットの動きも止まって空中で静止していた。

 風が吹くのが止まっていた。

 木々が揺られているままに止まっていた。

 雲の流れが止まっていた。

 夕陽が沈むのが止まっていた。

 

 目に見えるものは当然、目の届かぬもの全てが、止まっていた。

 士道にはそう感じた。

 まるで自分の心と連動したように何もかもが止まってみえた。

 熱くもなく寒くもない。物音一つもしない。命の鼓動も感じない。

 世界が死んでしまった感じ。

 コレは士道にしか感じていないのか、そんなのはどうでもよかった。

 

 士道は、十香のことしかみていなかった。

 

 頬を撫でる。死した後、より艶やかな肌の張りは無くなり、人肌の温もりは消え去っている。

 精霊(ひと)の温度ではない冷たさは痛覚を刺激し貫通し、そのまま心臓に突き刺さるようだった。

 でもこんな痛み、十香の無くなった痛み(・・・・・・・)に比べれば、大したことはない。

 

「十香。おれ言ったよな」

 

 その痛みを治したいと、癒したいと叫んだ。

 ……馬鹿だな五河士道。叫ぶだけで治るワケがないだろうに。

 

「すべての人間がおまえを否定しても、俺が肯定するって。否定してくる奴らの数倍以上に、おまえを肯定するって」

 

 動かなくちゃいけない。

 頭で考えても、心で思っても、言葉にしても駄目ならば、体を動かさなければ駄目なのだ。

 士道は右手を開いて閉じて、握力の具合を確かめる。抜けてしまった気力と膂力を取り戻し溜めこもうと拳を造る。

 

「俺は、おまえは死なせない。肯定ってそういうもんだ。おまえ自身が否定したって聞いてやらねえ。

 今日は初デートなんだぞ? 一緒に楽しめてデートになったのに、こんなデッドエンドが罷り通るなんておかしいだろ」

 

 同意を求めるように言うも返事がくるはずも無く、士道は一方的に語る。

 拳を解き、だらりと腕ごと垂らす。

 振り子のようにふらふらと小さく揺れ、瞬間、瞬きより速く、残像が写る軌跡を描きながら、士道は腕を動かし…………

 

「男に二言はないんだ。だから、生きてくれ、十香」

 

 

 言い訳を述べるように、行動を起こした。

 

 

 

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 ――――数分前。

 

 

 

「なにぐずぐずしてるのよッ!! 解析はまだ出来ないのッ!!?」

 

 怒号が艦橋に轟く。むしゃくしゃと騒ぐ振動は艦全域に響き渡り、微細な地震となって<フラクシナス>を(ひず)ませる。五河琴里も細かに振るえて怒りが高まり、貌を(ゆが)ませる。

 大本はモニターに映る黒いドームであっても、切っ掛け程度のものでしかない。

騎馬と主の揺動が、クルー達を忙しなくさせる。

 

「……すまない。現状は〝分からない〟が限界だ。解析はおろか、観測すら出来ないのではどうしようも―――」

「周辺の空間との比較っ 熱源でも電波でもいいから異常を見つけるのよ!! 出力を最大にして周波数と波長を徹底的に調べなさいッ!!」

「司令、落ち着いてください。御気持はわかりますが…」

「うるさいッ!!! 知った風な口聞くんじゃないわよッ!!! アンタもさっさと調べなさいッ!!!」

 

 罵声を散々に飛ばし、錯乱したと見紛うばかりに琴里は平静を失っていた。

 琴里の言った事柄は既に実行済みだった。<フラクシナス>の有している顕現装置(リアライザ)がASTのそれらの性能を上回ってるのに加え、村雨令音解析官と神無月恭平副司令官は優秀で聡明な人材だ。クルー達はただ平々と頷き、司令直々に指示を出さなければ動けない木偶の坊ではない。それは誰よりも五河琴里司令官が理解し信頼している筈なのに、今はどうだ? 闇雲で見当ハズレな指示はしていないも、独り善がりの…独裁に近い言動で部下たちを働かせている。

 しかし理不尽の一歩手前でも、令音と神無月は粛として受けてめている。令音はいつも通りの平静さで、神無月は上司の責苦に悦に浸らず、他のクル―も憤りも白けもせずに琴里の命令に従っている。

 

 <フラクシナス>の、<ラタトスク>の完全敗北であった。

 みなまで言うまでもなく、保護すべき精霊(十香)が討たれた。行動思想と理念に反してしまった。初陣にして完膚なきまでの敗北の黒星を飾ってしまった。

 

 偏に五河琴里のミスだった。

 途中まで茫然自失となっていた琴里であったが、その後は何とか持ち直して傍観を決め込み、士道と十香の成り行きを見守っていた。兄は初めてにしては中々のエスコートをしていたし、十香の感情パラメーターも良好だった。最後のクライマックスでの告白は遣り過ぎであったが、それもこれからのフォロー、アフターケアでどうとでもなる程度(レベル)だった。

 

 士道にミスは無かった。ミスをしたのはやはり琴里であった。

 ASTがあんな強行策に乗り出すとは想定外だった。思いもしなかった。侮っていた。

 <フラクシナス>のレーダーにはちゃんとASTが二人の周囲に潜んでいる事を探知していた。なのに琴里は無視した。当然だ。令音も神無月も異論は無かった。確かに霊装を解いているほどの隙を見逃すASTではないだろうが、表向きは一般人の士道が傍にいて、その他大勢の天宮市市民が変わらぬ平和な日常を過ごしていたのだ。民間人への被害、なにより機密事項に触れるASTの存在そのものが衆目に曝されるかもしれないのに攻撃を仕掛けるわけがないと、勝手に(・・・)思っていた。

 ASTに大掛かりな人事異動でもあったのか、今までのやり方とは思えない過激な行動だった。

 その結果、十香の死亡。そして―――――

 

(おにーちゃん……っ! …………おにーちゃん……っ!)

 

 楽観視による判断ミス。しかし、琴里の頭の中には反省も何も無い。

 兄の悲痛の貌と悲鳴。琴里を埋めているのはそれだけだった。

 

 ――――私が、おにーちゃんをあんな目に合わせた。

 

 ホッと息を付いていた。

 十香と過ごしていくうちに〝ソレ〟は無くなっていった。代わりに何かおかしな挙動を取ったりしたが〝ソレ〟ではなかったから気に止めはしなかった。気になったのは最後の告白だけだ。合って間もない女の子にあんな大胆発言をするなんて……やっぱり一目惚れだったのかと冷汗を掻いて落ち着かなかった。

 そう思った矢先、十香が撃たれた。血が飛び散り、小さな地獄が士道に降りかかった。

 その時の士道は、思い出すのも辛いくらいの〝ソレ〟に……絶望に染まっていた。それも〝あの時〟以上に、染まっていたかもしれない。

 直後、十香から黒いドームが形成され、琴里はどうすることも出来なかった……今も、だ。

 

 苦しい……心臓がじわじわ嬲られているみたいで苦しい。

 士道が戻ってしまっている(・・・・・・・・・)んじゃないかと思うと(・・・・・・・・・・)、どうなるのか自分でも分からない。

 

 正体不明の黒いドームがどんな物かなどどうでもいい。なんでもいい。士道を、兄を、おにーちゃんを一刻も早く救出しなければならないのに―――

 

 まだか、まだか、まだなのかっ――――!?

 恐怖の絶叫と切実な願いが罵倒になって喉を鳴らす。

 部下たちは調査を続けるも一向に報告は上がらない。自慢の艇でも一切判明しない黒いドームの正体。どの企業、どの世界よりも進んだ顕現装置技術を持ってしても分からない事の重大さを認識していなかった琴里だが、その方が良かっただろう。

 

「司令、アレを!」

「――――ッ!?」

 

 余計な詮索に嵌まらず、二人を確認できそうだったからだ。

 黒いドームは独りでに破壊されていった。バラバラの破片となって消える黒いモノの中に見える二つの影。

 これでやっと様子が分かって――――

 

「…………ぁ」

 

 弾け散る破片はやがて消え、中にいた士道と十香が現れた。

 倒れ伏す十香と、両膝をつき茫然としている士道。

 十香は…………駄目だった。目を閉じ、遠目でも見える体に空いた大きな穴。夥しい血の量。もしかしたらなんて希望的観測なんてなかったが、目の中りにするのとしないのでは受ける衝撃は違った。

 

 目の前で目撃なぞすれば、もっと―――――

 

「………ぉ、に……ち、ゃ……ん」

 

 士道は何ともなかった。制服が血で塗れているだけで、怪我らしい怪我は無い。あったとしても判別し辛いが、苦しんでいる様子はなかった。

 

 

 怪我で苦しんでいる様子は、だ。

 

 

「転送ッ!!! 今すぐ士道と十香を<フラクシナス>(ここ)に転送してッ!!」

「え!? し、しかし、近くにはAST隊員が―――」

「いいから早く!! このままじゃおにーちゃんが、おにーちゃんが……ッ!!」

 

 戸惑う声に琴里は罵声ではなく、悲壮極る涙声で指示を出した。黒いリボンを付けているのに、琴里は白いリボンよりも弱く兄を呼ぶ。かつてないほどの動揺を隠すことも出来ずに少女の顔で懇願する。

 モニターに映るのは士道と十香、そしてAST隊員二名。

 内一人の少女は士道に話しかけている。精霊と関わりを持ったとかで駐屯基地にでも連れていこうとしているのか。

 喋るなと、今の士道に話しかけるなと怒鳴り散らしたかったが、声が上手く出せない。

 それより転送だ。琴里は今すぐ士道の傍に駆けよらなければならない。

 

 駄目だ(・・・)

 

 アレは(・・・)駄目だ(・・・)

 

 ASTに<ラタトスク>の存在が知られるだとか後の因縁に繋がるだとか、いまの士道の前では何の意味もない。

 

 今すぐ士道に会わなければならない。

 あの士道を、止めなければいけない。

 

 あの、自殺でもするんじゃないか(・・・・・・・・・・・・)と疑う顔の士道をなんとかしなければいけない―――っ

 

 だが、

 

「え?」

 

 

 士道の前では何の意味もない。

 

 琴里の言い分は正しかった。

 

 

「え? ……え、……え?」

 

 ただし、それは琴里自身も含まれていた。

 琴里がどれだけ士道を心配しようが、何の意味もない。

 琴里が士道に駆け寄り抱きしめて慰めようが、何の意味もない。

 琴里が士道を救おうとしても、何の意味もない。

 

「おにー、………ちゃん?」

 

 モニターに映っていた士道は、

 

もう終わっていた(・・・・・・・・)

 

 

 

 

○ ○ ○

 

 

 

 

「乱暴な真似はしません、どうか――――」

 

 生々しいナマモノを捏ねたかのような水音と、鉱物を破砕した時に発するような暴音が、鐐子の耳に、折紙の耳に届いた。

 臨戦態勢を瞬時に張ったのは二人が魔術師の中でも優秀だからだろう。鼓膜に飛び散ったかと誤認する陰惨の音は、台所からでも工事現場からでもなく、肉と骨に異常を喫した人体から響いた音だと直ぐに理解した。

 問題は誰の人体から鳴ったかだ。 

 折紙ではない。鐐子ではない。

 <プリンセス>が生きていた? ……ない。アレは完全に死んでいる。動けるはずがない。

 では誰が? そう問うたら指をさされて笑われることだろう。

 公園にいるのは4人だけだ。上空にいる隊員は論外。

 小学生でも出来る消去法で、答えは残りの一人になる。

 

 

 

 音は、五河士道の胸によって出たものだった。

 

 心臓を取り出す際に(・・・・・・・・・)出た音だ(・・・・)

 

 

 

 折紙は、鐐子は、声の出ない悲鳴すら上げられなかった。瞠目し、完全な思考停止に……見ている者全員が落ちる。

 

 この光景を現実として見ることが人間に可能なのか。

 少なくとも普通の人間ではない、人を踏み外した世界を知っている者でも無理だった。

 この場にいるAST全隊員、この場を監視している<フラクシナス>全クル―、誰もが何も言うことができなかった。現実として目に映る非現実を見ているだけしかできなかった。

 士道の右手に乗っている心臓。本来あるべき場所に離れているのに、未だに力強い脈動を刻み、持ち主を生かそうとせっせと働いていた(・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 空洞になった胸からは噴射する血。千切った勢い余って十香に罹ってしまい、ニ、三メートルは超えた先の地面をも血で濡らした。

 十香と同じ致命傷を負った士道だが、その顔には激痛への疑問も苦悶もない。なにせ〝自分で〟抉りだして取ったのだから、あるはずがない。

 

 なぜこんなことを、と聞けば士道はこう言うかもしれない。

 

 ――――漫画やアニメだと心臓って蘇生なんかに使われるのが多いんじゃないかな、と。

 

 気が触れた考えだった。

償いの自傷であり、無能の対価を支払う。懺悔としてもどうかしている。十香の死がここまで士道を追い詰めていたという狂いよう。妄想の産物に縋り頼ってしまう士道は、心臓よりも前に心よりも大切なものに穴が空いていたのかもしれない。

 

「………五河、……士道……。なにを、………してるの………」

 

 手に乗せてある士道の心臓が血を撒き散らすのをやっと現実として見た折紙が混乱しながら震える声を漏らす。

 人間が膂力のみで肉を抉り骨を砕き心臓を掴み出すなんて無理だ。魔術師でもないかぎり不可能だ。でも五河士道は魔術師ではない。顕現装置も随意領域も張ってないし魔力だって感じない。状況を見れば士道は膂力のみで心臓を抉ったとしか言えなかった。

 どこにそんな、どこからそんな力を引きだした。貴方は人間なのに、何故そんなことができる……そんな人外の領域に貴方がいる……理解できない。貴方は何者なのだ。五河士道は何者なのだ。折紙は目の前の少年が本当にあの時の少年(・・・・・・)なのかと疑念に渦巻いていたが、士道は応えず、まだ狂気に動いていた。

 

 自分の心臓を、十香の胸に押し込んだのだ。無理矢理詰め込み、単に空いた穴を埋めているだけの、雑すぎる心臓移植を施していた。

 

 もはや理解してはいけない行動に、士道の正気がとっくに消え去ってしまったと悟るには十分で、それで何が変わるというのか、疑問は輝きとなって返された。

 心臓を埋め込まれた十香の胸が燦然と光り輝いたのだ。

眩い光に胸が白く染め上げられ、血みどろな十香を浄化し、生気が清純と潤って身体を清潔にしていく。肌が火照り、赤みを増して活気づく。力がみるみる満ちていくのがみて分かる。

 これは祝福だった。

 新たに生まれ変わる命へ捧げる賛歌。ようこそ常世へと歓迎する天使の階段に照らされるように、昇るためではなく降りるための美しき光が十香を神秘のベールで覆う。

 

 

 かくして、奇跡は十香を動かした。

 

 

「――――――――――ぅ、っが、は……ッ!」

 

 咳きこみ、息を吐き出し、呼吸を整える。光はもう無く……孔も無かった。来禅高校のブレザーも新調したように汚れも無い、どころではない。ブレザーなのに、高校の制服なのに十香の霊装<神威霊装(アドナイ)十番(メレク)>よりも煌めき神々しく見える。身体もよりきめ細かい肌になり、元からの素材が超級だった十香の容姿が、更に天上知らずの美しさとなって―――目を開けた。

 完璧に、完全に、確実に、絶対に、死んでいた十香が、甦った。

 折紙も、鐐子も、言葉が無い。琴里もそうだった。黄泉帰り。どんな人間も夢想する神の奇跡を目の当たりにしたのだ。家族がいて、恋人がいれば、いずれ誰もが望ずにはいられない願いが眼前で起き、それが人間の手によって果たされたのだから。

 それがどれだけの奇跡か、しかし当の本人は熾した奇跡など手段に過ぎなかった。

 士道は、ただ目的を達成した事実に喜んでいた。

 

「――――十香」

「はっ、はっ………………シドー?」

 

 眠りから覚めた十香は若干の息苦しさを感じさせるも確かに生きていた。

 生きているのだ。動いて、士道の声に返事をくれる。夢じゃない、十香は生き返ったのだ。士道は、十香をゆっくりと抱き起こした。

 

「――――どこか、痛いところとかないか? 気持ち悪いとか、ないか?」

「あ、ああ。………大丈夫……いや、……え、……あれ、………私は、………生きているのか……? でも、……なんで?」

 

 ボヤケ気味だった目がくっきり開いて、漸く十香は身に起きた不可思議の事態に混乱した。胸を触って空いていたと思っていた孔が見る影もなく、心なしか体の調子が頗るいい。軽くて暖かくて気持ちいい。特に、無くなった筈の胸――心臓のあたりから溢れる力強い鼓動に、十香は何物にも代えがたい想いを懐いていた。

 

「……シドー、一体なにが……?」

「――――気にすんな十香……助かった。おまえは助かったんだ。それだけなんだ」

 

 辛抱堪らず、士道は十香を抱きしめた。薄汚い自分が抱きしめてしまうのに躊躇を覚えるも、今は―――十香の羞恥の身動ぎも無視して感触を確かめる。

 

「お、おい、し、シドー…っ…?」

「――――生きてくれ………生きてくれ十香。死んだ方が良いなんて、言わないでくれ。おまえの言ったことは、全部俺がなんとかする。直ぐには無理かもしれないけど、その間は、俺が十香を護る。今度こそ絶対に、どんなことからもおまえを護る」

 

 俺を信じてくれと士道は十香と一つになるように抱きしめた後、距離を置いて見つめ合う。

 

「――――先に謝っとく。こんなのどうかしてるんだけど、十香。まず、おまえの霊力を封印する」

「え、…ふ、……ふう、いん?」

「――――ああそうだ。そのままじっとしてくれ」

 

 まだ混乱から立ち直っていない十香の頬に手を添え、位置と角度を調整する。何をするのか分かっていなくとも、ドリームランドと同様の気配を感じてか、顔が熱くなっているのが手から伝わる。

必要な事とはいえ、また十香を蔑ろにしてしまう士道。許してくれだなんて言えない、士道は、二度も取り返しのつかない過ちを犯した。士道はこれから徹頭徹尾、十香に尽す道を進むのだ。さっきのは(・・・・・)その手始め。十香の幸せ。十香の望み。十香の安全を士道は勝ち取らなければならない。

 これはその為の行為。十香が戦わなくて済むように、その源を断つ。霊力を失ったらまたあの悲劇に襲われるとも限らないのに、士道は大丈夫だと信じて疑っていなかった。

 そして、士道は顔を近づける。逃がさないとばかり顔に固定されている手は思いのほか力を入れてしまっていると感じて士道は力を緩める。避けられるかもと不安に駆られるが十香が嫌がるなら仕方がない。別の方法を講じるだけだ。

 

 ―――そんな軽く気の抜けた気持ちだった。

 手の力を緩める、それだけのつもりだった、のに……士道の手は十香から離れて宙ブラリと垂れてしまった。

 

「――――……?」

 

 うん? ……士道は意に反して力を抜き過ぎている自分の手、腕を奇怪に思いながら再度力を入れてみる。

 だが、全くと言っていいほど力が入らない。

 それだけじゃなかった。手や腕だけじゃない、力が抜けるどころじゃない。全身が、意識が、自分の元から離れていく。

 尋常ではない脱力が、十香に近づこうとした士道を地面に縫い合わせた。

 苦痛の声の代わりに出たのは血の津波。溺れると誤認してしまう血の逆流が口の中に収まりきらず、さながらマーライオンのように(みず)を吐いていた。

 

「……シドー? ………………………シドーっ?!」

 

 生き返ったばかりの十香は倒れた士道と血を見るや、やっとソコ(・・)に気付いた。

 絶え間ない混乱における、最大の混乱が士道の胸に集中する。

 

「………その、胸は………………なにをした? 何をしたんだシドーッ!?」

 

 絶句しかける衝撃を抑えつけて十香が驚愕の大声で問い質す。

 しかしそんな大声を上げているのに、士道の耳には些かの音も聞こえていなかった。何もかもが抜け出る離脱感が耳を遠ざけ、士道を眠りへと引き摺り下ろす。強烈で強引な眠気は、学校の授業の居眠りなんかでは満たされない欲求で、二度寝と似た幸福感を百倍掛ければ近づけるかもといった誘惑だ。

 

「シドーッ、シドーっ!!! 駄目だ! 起きろ!? 目を、目を開けてくれッ!!」

 

 この上なく幸せだった。このまま眠りに着けば実に心地良い夢を見られそうだと抗い難い沈没に、十香が必死に待ったと叫ぶ。申し訳ないと思うが、限界だった。

 少しだけ、少しだけでいいから休もうと、士道は自分を甘やかした。

 敵対するASTが周囲にいるのに、無防備にも休もうとする眠気は、つい士道の瞼を閉じさせる。閉じる寸前に見えたのは何故か(・・・)目に涙を溜めている十香と、いまだに呆然としてこっちを見ている鳶一折紙の姿だった。

 折紙が呆然としているのは置いといて、どうして十香が涙に歪んでいるのかが士道にはわからなかった。

 

 

 ………ああ、そうか。デート中に眠るなんて失礼にも程があるからか。

 でも、ごめん十香。本当に眠くてしょうがないんだ。ちょっとだけ寝かせてくれ。

 二日間、色々あり過ぎて疲れたんだと思う。我ながら体力が無いと笑ってしまいそうだ。

 

 これからは色々と鍛えた方が良いだろうな。十香を護るためにも何か始めるか。

 体力付けるなら毎朝ジョギングがいいかもしれない。千里の道も一歩から。地道が一番の近道って言うし。

 琴里に頼んで特訓メニューを組んでもらうか。体力も精神も、デートのやり方も徹底的に鍛えてもらおう。

 そうすれば、今よりマシな自分に生まれ変われるかもしれない。頑張って、頑張って、自分で成長したなって自慢できるくらいに変わっていけたら……。

 

 そしたら……十香、またデートしてくれないか?

 その時は、今日以上に楽しめるようにする。

 フられたんだけどさ、諦めきれないんだ。

 俺、おまえが好きなんだ。一回フられただけじゃ納得できないんだ。割り切れないんだ。

 

 俺を、おまえの生きる理由に……………。

 

 だからまた、俺にチャンスをくれないか?

 世界に見せつけてやろう。人間と精霊でも一緒にいられるって。生きていけるんだって。

 俺と一緒に、ずっと一緒に生きよう。

 誰にも理解されなくても、俺は十香の味方でいる。

 

 だから十香。

 

 ――――………………………とう、か。

 

 

 ―――――――――――――――――――。

 

 

 

 

 

 夕陽がまだ天宮市を照らしている。茜色に混ざっている夥しい血の色は、恐ろしいが故に歪な美しさを高台公園に生みながら、逢魔時によって死後の世界が再現されているかのように静まり返っている。生き物が眠りに着くまでの時間にはまだ早いのに、公園にいる者、公園を見てる者は十香を除き皆が死んでいるかのように何も言わない。

 どうしていいか分からず、なにが起こったのかが分からず、これを混沌(カオス)と言わず何とすればいいかが分からなかった。

 

 自分自身の混沌を正しながら、この場における〝謎〟は、誰もが共通している認識だった。

 一般人と、人間だと思っていた少年が見せた狂気と奇跡。

 彼は何者なのか、彼が何故こんな事ができるのか、強弱はあれど全員が望んでいる〝謎〟への回答は……それが叶わないことにも強弱があれど、全員が認識している。

 この場の混沌における〝真実〟は、倒れ込んだ死体だけしかないのだ。

 

 だがその死体にしてもちゃんと向き合っているのは十香のみだった。

 大勢の人間に看取られながら、悲しみすら碌に向けられず、死んだ本人すら生への足掻きを見せることもなく、

 

 

 

 

 

 その存在を晦ませたまま―――――――――――五河士道は、息絶えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                  十香リスタート END

 

 


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