NARUTO ―― 外伝 ―― 星空のバルゴ 作:さとしんV3
古くて大きな振り子時計が左右に揺れている。
美しく絢爛な応接室にギムレットは再び居た。
つい最近も来たばかりの居心地の悪い、悪趣味な部屋は精神的な牢獄と言っても過言ではない。
前回と違うのは、傍らに睡眠薬で眠らされた娘が車椅子に座っているという事。
そして、黒いローブをかぶった動物のような面をした死神が同席しているという事。
ギムレットは静かに目を閉じ、この屋敷の主である魔法使いの訪れを待っていた。
前回と同じように、金の獅子のドアノブがガチャリと回り、『魔道書』を大事そうに抱えたジャックという偽名の男が姿を現した。
瞳をゆっくりと開き、見上げるようにジャックへと視線を向ける。
魔道書の影響か、以前よりも数段にも増して邪悪を帯びた気配は、もはや人間の限界を超えているように思える。
このままでは、臨界に達した自らの魔力に、そして膨張した魔道書に、自身が飲み込まれ、暴発し、ヒトの原型すら留める事を許されない程の『大惨事』を招くかもしれないと思ったが、それをあえて口にしないのは、ギムレットが望む穏やか生活を奪う、この男へのせめてもの抵抗なのだろうか。
屋敷の主人が舐めるように客三人を見る。
「やぁ、ギムレット君。今日は、君の娘さんが来ると聞いて、約束通り美味しい茶菓子を用意させたのだが、ああ、どうやら寝てしまっているようだね」
「ええ。しばらくは起きません。何があっても」
「ふむ。それは残念だ。まぁ、いい。ところで、この仮面(マスケラ)を付けた方かね。私に会わせたいという人物は?」
動物の面をした黒衣の人物が音もなく立ち上がる。
「初めまして、魔法使い。私は狢(むじな)と申します」
「狢……。それは偽名、かね?」
「ええ、貴方と同じく」
驚いた事に狢は魔法使いの偽名があるジャックである事も、すでに調べていたようだ。
魔法というのは、存在自体を隠匿する必要がある。
目的は、一般人への混乱を避ける為、が主として挙げられるが、その裏にはある一つの法則が存在する。
固定概念否定の法則。
魔法という神秘は、大衆が持つ固定概念から省かれ、弾かれ、隔離される事により可能範囲が広がる性質を持つ。
例えば、火を起こすのに、現在はライターという着火装置によって簡単に行うことができるが、それが無い時代は、『火が起きる』事自体も原理として理解されておらず『火を起こす』行為は、魔法であり、『火を起こせる』人物は、総じて魔法使いであった。
しかし、魔法という不確かで不確定で不鮮明なモノに、恐怖と畏怖を覚えた大衆は、魔法が奏でる理論に、下世話な理屈を求め、自分たちの常識という手元に置く事で安心を得、同時に『火を起こす』という魔法は、なんでもないただの科学と成り下がった。
それは、『魔法堕ち』と呼ばれる現象である。これによって、単純な『火を起こす』魔法自体は無くならないものの、その行為は魔法ではなくなり、魔法の可能範囲が狭まってしまった事になる。
非常識は、常識によって駆逐される。
それが、世の理であり、大衆が望む真理である。
それに逆らい、時代の進むべき道と逆行するからこその魔法。
故に、魔法使いは闇に隠された真実を白日の下へ晒す、この狢という人物に、敵意と、警戒と、侮蔑を含んだ瞳で睨む。
冷たい沈黙が流れる。
規則正しく聞こえてくる振り子時計がイヤに耳につくような緊張。
一食触発の空気がギムレットの目の前に漂っている。
「まぁ、いい。それより、この魔道書について、何か有益な情報をいただけると聞いたのだが。相違は無いかね?」
「はい。ただし、私が要求する事を呑んでいただけたら、の話ですが」
「要求?」
ジャックの眉がピクリと跳ねる。
「それもそうだな。無償で得られる情報に信憑性なぞまるで無い。いいだろう。言ってみたまえ」
顎に蓄えた髭を擦りながら、仮面の奥を見透かすように目を細める。
「私の要求、というより、このギムレットさんの願いなのですが」
仮面の奥の瞳が車椅子で座っている少女に向けられる。
「あの娘の神経を蝕んでいる『呪い』を、解いて欲しいのです」
狢の言葉に大きく反応したギムレットとは対照的に、ジャックと名乗る偽名の魔法使いは顔色一つ変えない。
「あ……。おい、そりゃぁ、一体どういう事だ?」
堪える事の出来ない動揺が、ギムレットの表情を激しく歪ませる。
「ギムレットさん。あの娘の身体を診て、私の瞳が捉えたのは、『蛇』でした。それも、下半身から徐々に頂上である脳へ伝い、侵食していく無数の蛇が、内部に巣食っています。進行は刻一刻と、今もなお」
「どういう事だ! 一体……、答えろ! 応えろ! ジャック!」
困惑し、怒号とともにジャックの胸倉を掴み、今にも殴りかかりそうな雰囲気。
無機質な瞳でギムレットを見つめ、否定も肯定もしようともしないジャックは、怒りのあまり真っ赤な顔をしているギムレットから視線だけを逸らし、狢へ瞳を移す。
「どうやって見知った?」
一言。
その一言で、狢の言った事を真実であると物語った。
「人の話を聞けぇ!」
堪えきれなくなったギムレットの感情が暴力としてジャックに襲い掛かる。
抵抗もせず、右の頬に渾身の鉄拳が食い込み、壁まで勢いよく叩きつけられる。
口の中が切れたのか、赤く腫上がった頬と、口から一筋の血が流れる。
血を拭いながらも、その瞳は依然として狢を捉えて離さない。
その態度にこちらが折れねば話が先に進まないと観念した狢が、ギムレットを片手で静止し、仮面の奥でため息をする。
「私の瞳は全てを見透かす特別性です、とだけ伝えておきましょう」
「全てを見透かす……。真理の瞳とでもいうのか。なるほど実に興味深い」
「加えて言うのであれば、私はその『魔道書』の奪還に、この異国に馳せ参じた者です」
「これを、奪い返しに来たと?」
「その辺の話は、後ほど。今はあの娘の呪いを解いてもらえるかどうかが、話の主題だったはずです」
無論断れば先の話など無い。
無言の脅迫。
「いいだろう。喜びたまえギムレット君。君の娘は歩けるようになるぞ」
「ジャック……。てめぇは、どこまで人をおちょくりゃぁ気が済むんだ」
怒りに肩を戦慄かせながら、振り上げる拳の行き先を必死に抑えている。
「理由を、聞かせてはいただけませんか?」
狢から意外な一言が発せられる。
元々、ジャックに会わせるという交渉理由でテセアラの症状を看破する約束だったのだが、律儀にもそれを呪いと見抜き、呪いを掛けた本人の前で言い当て、『治す』という確約まで取り付けた。
そこまではいい。
話の流れ、成り行きで結果的に娘が歩けるようになっただけ、とも取れる。
しかし、ジャックがテセアラに呪いを掛けた理由は、狢には関係の無い事だ。
「理由を。魔法使い」
再度、同じ台詞で事態の原因を追究する。
ギムレットには、狢の考えている事が理解出来ないでいた。それを示すかのように、血が滲むほどに握っていた拳の力は抜け、呆然と黒衣の人物を見つめる。
「ふむ。あえて言うなら、保険だな。ギムレット君が裏切らない為の……ね」
身動ぎ一つせず、先ほどと同じように視線だけを動かしギムレットを見る。
「嘘、ですね。真実を話していただけませんか、魔法使い。でないと私も真実を話す事が出来ない」
「君の瞳は言葉の嘘すら見抜くのか?」
ニヤリと口を歪めるジャクの表情に、初めて感情が垣間見えた気がした。
「そうだな。どう、話そうか」
顎の髭を擦り、思案する。
古い振り子時計が、午後三時の訪れを間延びした音で告げる。
「ギムレット君」
「あ?」
「例えば、だ。そういう仮定で聞いて欲しい」
「勿体つけずにさっさと話しやがれ!」
苛立つギムレットが声を荒げる。
おそらく、ジャックがこれから話す事は『例えば』でも、『仮定』でも何でもない、真実だろうというのは、暗黙の了解。
「例えば、私があの娘の親族だとしたら、どうするかね?」
「テセアラの……本当の父親だって事か?」
「まさか。私は、あの娘の叔父なのだよ。あれの母親は、私の妹だ。」
今にも高笑いしそうな面持ちのジャックとは対照的に、目を大きくするだけで、意外にも冷静なギムレット。いや、あまりの衝撃に、嗜好が追いついていないのかもしれない。
しばらく声も出せずに、ジャックの言った事を反芻する。
その表情に満足したのか、ギムレットを鼻で笑う。
「知っての通り、我が一族は魔法使いでね。その身体の内部は、一般の人間と造りが違う。そう、魔法を使う為に膨大な魔力が日々、蓄えられている。テセアラに呪いを埋め込んだのは、蓄えられた魔力を、呪いを介して私に供給させる為だ。一番効率の良い方法が結果として、あの娘の神経の繋がりを鈍くさせ、歩けなくしてしまったのだが、それだけだ。他に他意は無い。この呪いは祓うとしよう」
「……そうですか。判りました」
これも、嘘だ。
狢が仮面の奥で目を細める。
やはり、どの国にも『狸』は居るようだ。
その考えを読み取ってか、ジャックが狢と目を合わせ、哂う。
ようやく廻り出したギムレットの頭脳に、稲妻が走ったかのような閃きがあった。
十数年前、ギムレットが所属する組織に一つの依頼が舞い込んだ。
『倫敦の街に女の吸血鬼が現れた。これを始末して欲しい』
短く、要点しか書き出されていない文章に組織の上層部は、初めは困惑したらしいが、抹殺者を一人派遣し、真偽を確かめる事にした。
結果は当たりで、抹殺者はこれを撃破。
しかし、倫敦の街の管理・守護を名目に戦線を離脱する事となった。
今、目の前に居る男は、魔術の果てに吸血鬼となってしまった自分の妹を、『俺』に始末させたというのか。
「アレの専門は不老不死でね。おそらく魔術の発動中の事故で、偶発的に吸血鬼化してしまったのだろう。朽ち往く己が肉体を、他者の血で補わなければならない欠陥品に……」
魔法使いというのは、魔法使いという人種は、否、この男は、歪んでいる。狂っている。
魔法意外の何かに取り憑かれている。
でなければ、身内の死を、自分の妹の死に様を、こうも嬉々と語る事など出来ない。
「さて、理由は語った。真実も白状した。ギムレット君。私は魔法使いだ。その原則は『等価交換』となる。今の情報の対価を、支払ってもらいたいのだが、いかがだろう?」
正直ギムレット自身、頭がどうにかなりそうだった。
いっそジャックが話した出来事を全て無かった事にして、テセアラと何処か遠いところで暮らしたい。
現実逃避寸前の思考は、何も知らずに薬で眠らされている、愛しい娘の寝顔により引き戻される。
もう、引き返せないトコロまで来てしまった。
今更ながらに後悔の念だけが、ギムレットを支配した。
「あんたは、俺に……何をさせたいんだよ」
疲れきった声で、静かに問いかける。
「最近、私の周りをかぎ回っている輩がいる。それを排除してくれないだろうか」
「ああ、それは私からお願いしている事にかぶりますね」
ジャックの言葉に狢が語尾を付け足す。
狢も言うのだから、『排除』する人物は必然的に限られてくる。
星空 バルゴ。太陽のような金髪に、青空のような碧眼した青年。
自分に拒否する権限など無い。
それは、魔法使いと初めに取り交わした契約。
『自分の依頼を断るな』
裏を返せば、断れば娘の身に危険が迫るという意味である。
もとより、自分に拒否する権限など、無い。
「ああ、判ったよ。その代わり……」
「安心したまえ。先ほども言ったように、テセアラの呪いは解除しよう。つまり、君への依頼はこれで最後となる、と受け取ってもらっても良い」
ギムレットの視界が、まるでネガが反転したかのように白黒に写った気がした。
それは、すなわち……。
「娘は……、テセアラの呪いは、必ず……」
「ああ、契約しよう。悪魔と魔法使いは契約には律儀であるというのは、知っているだろう?」
契約破棄は、命を以って。
それは魔術を使う、あるいは遣う者にとって、絶対の理。
悪魔は契約を取り交わすからこそ力を発揮でき、魔法使いは契約に縛られるからこそ力を行使できる。
大昔、魔法使いの祖が敷いた改竄不能の絶対ルール。
それを口に出したからには、一先ずは安心できる。
「判った。猟犬は猟犬らしく、獲物を狩ってくる」
「よろしい。では、早急に入院の手配を取るとしよう。人目のある場所に置いた方が、色々と安心できるだろう?」
「お願い……します」
そう言って頭を下げる。
思えば、人の親として、この男に頭を下げるのは、これで二度目だ。
「それと、これを持って行きたまえ」
そういって豪華な装飾をした棚から、銀色の筒を取り出す。
初めて見るそれは、紛れも無く笛。形状からフルートと呼ばれる楽器に近い。
だが、魔法使いが差し出すからには、何かしらの魔術が施されたモノであることはいうまでも無かった。
「人除けの魔笛だ。街中で事を行うなら、これで人を遠ざけるといい」
そういって哂う魔法使いの表情は、何処までも黒く、醜く、歪んでいた。
その光景を見ていた狢が仮面の奥で、ただただ無表情で見つめていた。