PERSONA3:Reincarnation―輪廻転生―   作:かぜのこ

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■Fool:0「女帝と死神」

 

 

 

 2002  3/11・月

 “桐条グループ”研究施設

 

 完全に密閉された室内。

 唯一置かれた大ぶりのチェアに、頭部を何十本ものケーブルが接続されたヘッドセットに覆われた少女が横たわっている。

 

「……っ」

 

 起伏の少ない身体を包むスイムスーツのような検査着に施されたプラグにも、たくさんのケーブルが繋がっていた。

 時折、その可憐な桜唇から苦しげな吐息を漏らしながら、少女は精神的な負荷を必死で堪え忍ぶ。

 彼女の名は桐条美鶴。世界に冠たる桐条グループ総統の一人娘にて、自然覚醒したペルソナ能力者である。

 

『――お嬢様、本日の検査はこれで終了です。ご苦労様でした』

「……はい、わかりました」

 

 女性研究員のアナウンスに従い、ヘッドセットを重たげに外した美鶴が息を吐いた。

 試験が終了すると、数人の白衣を着た女性が入室し、機材に群がり作業を開始する。幼い美鶴に配慮して、ここで彼女と接触する職員は皆女性だ。

 ――数ヶ月前、“ペルソナ”能力を発現させて以来、美鶴は検査という名の人体実験を受け続けている。

 ペルソナ能力は未だ不明な部分が多い。顕現の負担の大きさ、困難さ、不安定さは特に問題であり、早急に何らかの解決策が必要だった。

 故に美鶴は、過酷な実験にも耐えているのだ。シャドウを駆逐し、“影時間”を無くす――そのための最善だと信じて。

 

「――……ふぅ」

 

 その日の予定を全て終え、更衣室に移動した美鶴は、女性職員に手伝ってもらって検査着を脱ぎ、白いブラウスに袖を通す。全身にのし掛かる疲労が原因で、その動きは酷く緩慢だった。

 ヘアスタイルのセットを担当する女性――屋敷から同行した、美鶴の身の回りの世話をしている使用人だ――が、美鶴に告げる。

 

「お嬢様、総帥がお見えになっております」

「お父さまが?」

「はい。実験が終わり次第、応接室に来るようにと」

 

 わずかに声を弾ませた美鶴は、表情を輝かせた。

 

「すぐに参ります。父にもそう伝えてください」

 

 先ほどとは打って変わり、テキパキとした手つきで身支度を整えて、足早に部屋を出る。

 カールしたツインテールを揺らして走り去る姿は、年相応の少女そのものだった。

 

 

   †  †  †

 

 

 応接室には、仕立てのいいスーツに身を包み、右目を眼帯で覆った壮年の男性が待っていた。高級な黒革のソファで腕を組み、静かに座している。

 桐条(きりじょう)武治(たけはる)。美鶴の実の父親だ。

 

「お父さまっ」

 

 喜色の混じった声を上げ、美鶴が父の元に走り寄った。抱きつかなかったのは、わずかな自制心が働いた結果である。

 はしたないとは思いつつも、美鶴は浮ついてしまう自分を抑えきれない。幼い精神を酷使する過酷な実験を繰り返す中、知らず知らずの内にストレスを溜め込んでいたのだろう。

 武治は――美鶴やごく親しい人物にしかわからない程度に――目元を緩めた。

 いささか素っ気ない態度に一抹の不満を感じつつも、美鶴は父のように極力感情を抑え、切り出す。

 

「お父様、お仕事はよろしいのですか?」

「いや、今回の訪問は仕事の一環でもある。お前に会わせたい者が居るのだ」

「会わせたい人、ですか」

「そうだ。美鶴、来なさい」

「はい」

 

 父に従い、応接室を出る。

 無機質な印象の廊下を行き、美鶴もまだ立ち入ったことのない区画のとある一室に辿り着いた。

 

「……?」

 

 ガラス窓の向こう側、美鶴と同い年くらいの男の子が部屋に入室する姿が見えた。

 藍色の髪、蒼い瞳、ともすれば少女にも見える柔和な顔立ち。左の瞳には、印象的な泣き黒子がある。

 決して部屋着とは言い難い貫頭着――美鶴も検査の際に何度か着たことのあるものだ――に頓着することもなく、机に向かって何かをしている。勉強か、あるいは読書でもしているのかもしれない。

 

「お父様、彼は?」

「名は如月澪。先代がさせていた“研究”の被験者の一人であり――そして、お前より先んじて力を発現させた史上初めてのペルソナ能力者でもある」

「っ!?」

 

 父の言葉に、美鶴は息を飲んだ。

 ペルソナという異能は、シャドウと同じく“影時間”が発生する以前から提唱、確認されていた。あるいは彼が、その実証例だったのだろう。

 

「史上初の、ペルソナ能力者……」

「先の“事件”の混乱に乗じて脱走し、児童養護施設に保護されていたらしい。先日桐条傘下の病院を利用した際に、適正者として再発見された」

「まさか、力づくで連れ戻したのですか!?」

 

 美鶴が思わず声を荒げる。

 

「いや、事情を説明したところ、本人から協力を申し出されたのだ。交渉の場には私も立ち会ったが……、(つよ)い心根を持った子供だ」

 

 目を細める父に習い、美鶴は再び少年を見る。

 研究の披見体であったなら、彼も人体実験の類を受けているはず。それが、今美鶴の受けているものとは比べものにならないほど悍ましい内容であったことは、想像に容易い。

 にもかかわらず、彼は桐条を信じて力を貸してくれている。そう思うと、美鶴は何故だか眼と鼻の奥がツンとした。

 

「……私は、あの子を引き取ろうと思う」

「お父様?」

「あの子は桐条の被害者だ。わかるな」

「はい」

「だからこそ、私たちが守らねばならない。――美鶴。お前は彼と年が近い、気にかけてやってくれ」

「わかりました、お父様。彼のこと、美鶴にお任せください」

 

 美鶴が父に何かを頼まれたことは、これが始めであった。

 これまでに感じたこともない高揚感と責任感と使命感がない交ぜになった感情に翻弄されながら、美鶴は藍色の髪の少年をじっと見つめていた。

 

 

   †  †  †

 

 

 仕事があるという父と別れた美鶴は、さっそく(くだん)の少年の部屋に赴いた。

 

「こんにちは」

 

 部屋の主――澪が向ける胡乱(うろん)げな視線にわずかにたじろぐ。実は、同世代の人間と深く接した経験があまりない美鶴は、内心ドキドキしていた。

 これは“最初のペルソナ使い”との初接触、ファーストインプレッションはとても大事だ。しくじれば、きっと桐条の計画に影響を及ぼす――美鶴はそう考えて、柄にもなく緊張していたのだ。

 

「……誰?」

「はじめまして、私は桐条みちゅる……美鶴です」

 

 一瞬、空気が氷結した。

 自分のミスを自覚して、かああっ、と耳まで真っ赤になる美鶴。頭の中は大混乱だった。

 

「……」

「……っ」

 

 睨み合いが続く。

 

「……噛んだ」

「噛んでないっ!」

 

 否定してみたはいいものの、眠たげな蒼い双眸に、じぃー、っと見つめられ、美鶴はついに動揺する。

「ぅぅー……」決まりが悪くてうなるしかない美鶴の鳶色の瞳が、じわりと潤む。

 澪は、そんな彼女ににこりと笑いかけた。

 

「僕はレイ、如月澪。よろしく」

「ぁ――、ああ! こちらこそ、よろしく頼む」

 

 紳士的だな。美鶴は彼に対して好印象を持った。

 が、次の瞬間、それも反転することとなる。

 

「――で、君をなんて呼べばいい? ミツル? ミツルちゃん?」

「ちゃん付けだけは、やめてくれ……」

 

 

 

 

 2002  3/20・水

 “桐条グループ”研究施設

 

 美鶴が澪と出会ってから、一週間ほどの時間が過ぎた。

 手続き等が整っておらず、未だに施設住まいの澪の元へ美鶴は検査の度に訪れていた。

 

「美鶴さんが勧めてくれた本、おもしろかったよ。特に、最後のどんでん返しは興味深い」

「そうか、よかった。今度同じ作者の作品を持ってこさせよう」

「うん、お願い」

 

 殺風景な部屋で今日も談笑する二人。最近の美鶴はここで学校の課題をしたり、澪に外のことを話して聞かせたりして過ごしている。

 初めは義務感だったが、口数は少ないが自分に負けず劣らずの知性を持つ人物との会話がとても刺激的で、いつしかここを訪れることが彼女の楽しみになっていたのだ。

 難点を言えば、柔和な顔に似合わず毒舌家であることか。

 とはいえ、未だ肝心のこと――「一緒にシャドウと戦おう」と切り出すことは出来ていないけれど。

 

「……そういえば、君のペルソナはどんなものなんだ」

「僕のペルソナ?」

「うん。私はまだ見たことがないから、一度見てみたい」

 

 相変わらず眠たげな蒼い瞳を、美鶴は好奇心を隠さずにじっと見つめる。彼の“力”がいかほどのものか、純粋に興味があった。

 伝え聞いた話では、澪のペルソナはかなりのものだという。――職員のどこか微妙な態度から察するに、自分以上かもしれないと美鶴は密かに考えている。そう思えば、期待は増すばかりだ。

 

「いいけど。でも、ここじゃ無理だよ」

「わかっている。だから、あらかじめ実験場を使う許可をいただいておいた」

「手回しがいいね」

「当然だ。行くぞ、澪」

「強引だなぁ……」

 

 澪の手を取る美鶴。いつもどこか受け身がちな彼を引き連れて、地下にある試験場へと向かった。

 

 

   †  †  †

 

 

 地下試験場。

 一〇〇メートル四方の広間に、美鶴と澪が向かい合っている。

 おそらく管制棟では、研究員たちが食い入るように二人の様子を観察しているのだろう。

 

「まず、美鶴さんのペルソナが見てみたいな」

「ああ、いいぞ」

 

 澪の求めに応じ、美鶴は瞼を閉じて自己に没入する。

 ――ペルソナを召喚する際に必要なのは、“死”を受け入れるイメージ。それにより、無意識との境界に穴を空け、ペルソナを喚び寄せる。

 初めて力を発現した時の美鶴もそうだった。自分の命に換えても、父を守る――その不退転の意志が覚醒の引き金だ。

 自らの胸を突き刺す鋭利な刃物のイメージをトリガーに、美鶴の足元から青い光炎が巻き上がる。

 

「――《ペンテシレア》っ!」

 

 透明な粉砕音が響く。

 美鶴の背後に一瞬だけ、甲冑を着た女性のような姿が浮かぶ。レイピアと短剣を携えた勇ましい女戦士。

 《ペンテシレア》――タロットカードに(なぞら)えた分類の内、“女帝”のアルカナにカテゴライズされる氷結のペルソナである。

 が、朧気な女戦士の幻像(イメージ)は消えてしまった。

 

「――っ、はぁ、はぁ……やはり、今の私ではこれが限界か」

 

 全身を襲う虚脱感と軽い頭痛に苛まれつつ、美鶴は不甲斐なさに歯噛みした。

 これは未だ美鶴の精神と肉体が未成熟であるためだが、これではとてもではないが戦闘行為には耐えられない。

 

「へぇ……、僕以外の人のペルソナは初めて見たけど、美鶴さんらしい美人なペルソナだったね」

「なっ、馬鹿なことを言うな!」

「じゃあ、僕も行くよ」

 

 恥ずかしげもない賞賛のせりふに動揺する美鶴を華麗にスルーして、澪は淡々と集中に入る。

 美鶴よりもずっと短い集中の後、青い炎のような光が弾けた。

 

「来い、《タナトス》ッ!」

 

 パキン――、何かが砕ける音が響き渡る。

 

「……っ」

 

 美鶴は、あまりの迫力に言葉を失った。

 《タナトス》――“死神”のアルカナに属する怪人のペルソナ。青いコートと、八つの棺桶を背負った恐ろしくも力強い姿。腰に()いた長剣を抜き放てば、瞬く間に彼女を斬り捨てるだろう。

 ――《ペンテシレア》とは明らかに次元(ステージ)が違う。不思議と美鶴にはそれが感じ取れた。

 

「美鶴さん、そんなにおびえなくても大丈夫だよ。《タナトス》は賢いペルソナだから」

「賢い……?」

 

 改めて、蒼い怪人を仰ぎ見る。

 澪の言うとおり、彼のペルソナはただ静かに佇んでいるだけ。吼え猛ることも、ましてや暴れ出す様子など微塵もない。

 完全に制御されたその姿に、美鶴は確かな理性を見た。

 

「制御できないペルソナなんて、シャドウと一緒でしょ?」

 

 今までの研究で、ペルソナとシャドウはどちらも精神の無意識領域から生まれる存在――いわば光と影、コインの表と裏であるということがわかっている。

 澪の言葉は真理を突いていた。

 

「――というか、ペルソナを出したままでも平気なのか?」

「うん」

「……頭痛とか、疲労感はないか?」

「ぜんぜん」

「……規格外なんだな、君は」

「ありがとう」

「褒めたつもりはないんだが」

 

 どこかズレた返答に美鶴は頭を抱える。

 一方澪は、霞のように消えていく《タナトス》をぼんやりと見上げている。

 今なら、一緒に戦ってほしいと切り出せるだろうか。(いびつ)な使命感に突き動かされた美鶴は、どこか焦燥を滲ませて澪に向き直った。

 

「……澪」

「うん?」

 

 無邪気な瞳に気圧される。

 

「……いや、なんでもない」

「そう?」

 

 自分は今、被害者であるはずの澪を利用しようとしている。その行為の悍ましさに戦慄を覚え、美鶴は思わず誤魔化してしまうのだった。

 

 

 

 

 2002  4/ 2・火

 桐条本邸 中庭

 

 澪との出会いから約一ヶ月、ようやく彼を受け入れる準備が整ったこの日。

 研究施設の部屋を引き払った澪を連れ、美鶴は――普段、寝泊まりしている別宅に――帰宅した。

 美鶴は普段の白いブラウスと赤いプリーツスカートだが、澪は子ども用の青いスーツと短パンに赤の蝶ネクタイをしている。よく似合っているが、端から見ると完全に七五三状態だ。

 

「さあ澪、今日からここが君の家だ」

「……広いね」

 

 さすがの澪も、三〇〇坪を優に越える邸宅の敷地の広大さに目を丸くしている。

 何が物珍しのか、きょろきょろと辺りを見回す澪を微笑ましく思い、美鶴はくすりと小さな笑みをこぼした。

 

「気に入ってくれたみたいだね」

「うん。ここなら、心置きなく《タナトス》を呼んで訓練ができそう」

「いや、それはやめてほしいんだが」

 

 眼をキラキラさせて物騒極まりない感想をもらす弟分に、美鶴は冷や汗をかいた。以前、実験中に魔法の試し撃ちと称して試験場を滅茶苦茶にした前科があることを知っていたからだ。

 《タナトス》の得意魔法、核熱魔法(メギド)は《ペンテシレア》の氷結魔法(ブフ)と比べて威力が高く、防御も困難とされる強力な魔法だ。もっとも澪の証言によると、高威力の代償に燃費が劣悪で連発は不可能なのだそうだが。

 

「君の通う学校ももう決まっている。私と同じ所に、な」

「そうなの?」

「私立月光館学園の初等部だ。君もよく知っている場所だよ」

「……“タルタロス”」

「ああ、そうだ」

 

 美鶴が肯定してみせると、途端に澪の表情が消え失せた。

 きっと、あの場所にはよくない思い出しかないのだろう。そう思うと、美鶴は胸が痛んだ。

 澪はペルソナに強い拘りを持っている。本人曰わく「目的を果たすため」と言うが、それにしたって固執しすぎだと美鶴は常々思っている。彼女も来るべき時に備え、自分なりにいろいろと模索しているが彼ほど徹底してはいない。

 

「でも、巖戸台ってここから遠くない?」

「送り迎えは家の者にお願いしている」

「さすがお嬢さま」

「そういう言い方はやめてくれ。私が中等部に進級した後は、向こうの寮に住む予定なんだ」

「そこ、もしかして美鶴さんが住むために新設したり?」

「………………ああ」

 

 やっぱり、といわんばかりの呆れ顔をする澪。天を仰ぐオーバーリアクションがなんとなく不本意で、美鶴は彼を小突いた。

 

「屋敷の中を案内しよう」

「うん」

 

 いつものように澪の手を引いて、美鶴は建物の中に連れ立っていく。

 少し離れた位置に居た使用人や護衛のSPたちが、二人の様子を生温かい目で微笑ましく見守っていた。

 

 

   †  †  †

 

 

 美鶴の先導で屋敷内を探索する二人。気分はダンジョンアタックだ。

 基本的に冷静で無感動な質の澪も、邸宅の調度品や家具などを興味深そうに眺めている。

 

「そういえば、澪はどうしてペルソナ能力に覚醒したんだ?」

「父さんと母さんが事故で死んだときに」

「っ……、すまない」

「いいよ。――四歳くらいのころかな、かなり大きな交通事故だったんだけどね。あのとき《タナトス》が守ってくれなかったら、きっと僕も死んでたと思う」

 

 気にしてない、あるいはどうでもいいと言いたげな澪は一転してしんみりと述懐する。

 彼の、自身のペルソナに対する絶大な信頼はその経験から来ているのかもしれない。

 

「でまあ、胸くそ悪いこともいろいろあって今に至る」

「……本当に、すまない」

「だからいいって。身体をいじられたことは業腹だけど、感謝してる部分もあるし」

「……どういう意味だ?」

 

 発言の真意が読めず、美鶴は小首を傾げる。

 すると澪は、美鶴すら見惚れるほどの微笑を浮かべて言い放った。

 

「おかげで僕は、美鶴さんに会えたんだから」

「……っ!? ばっ、恥ずかしいことを言うんじゃないっ!」

 

 滅多に見せない最高の微笑みの破壊力に、さすがの美鶴も動揺を隠せない。基本的に澪は悪ふざけで彼女をからかうので油断ならない。

 そうしてじゃれあっているうちに辿り着いたラウンジの一つで、二人は眼鏡をかけた長髪の紳士と遭遇した。

 

「やあ、桐条君。お邪魔しているよ」

「理事長、いらしていたんですか」

「うん、ちょっと御当主にご報告することがあってね。それで、その子が例の少年かい?」

 

 色つきの眼鏡の奥、澪を捉えるあからさまな値踏みの視線に、美鶴はわずかに眉をひそめた。

 

「……誰?」

「澪!」

 

 不躾で失礼な態度を叱りつける美鶴。相変わらず、澪は初対面の人間には素っ気ない。人見知りというわけではないらしいが、どうも「愛想」というものを軽視している節がある。

 それでいて、一度親しくなれば雪だるま式に好意を得てしまう不思議な少年だ。

 

「すみません、理事長」

「ハハハ、構わないよ桐条君。彼の生い立ちを考えれば、見慣れない大人を拒絶するのは尤もだからね」

「しかし……」

 

 謝罪する美鶴を手で制し、幾月は澪の方に向く。

 

「私は幾月(いくつき)修司(しゅうじ)、いくつき、って少し言い難いだろう?」

「君も通うことになる、月光館学園の理事長をなさっている方だ。そして、父の右腕とも言えるお立場の方でもある」

「まあ、片腕と言ってもペルソナ方面限定なんだけどね」

 

 私はほら、あくまで学者だから、と苦笑する幾月。子どもを相手にしているからだろう、どこか道化じみた振る舞いである。

 

「…………」

 

 澪が幾月をじっと見ている。

 幾月は子どものすることで一々気分を害するような人物ではないが、美鶴は澪が何か失礼なことを仕出かさないかと内心でハラハラしていた。

 

「…………。よろしく、お願いします」

「うん、こちらこそ宜しく頼むよ」

 

 たっぷりの間を空けて、ようやく澪は歩み出て、幾月に握手の手を差し出した。

 幾月が小さい手を握る。その時、鉄面皮のはずの澪の表情が一瞬歪んだように見えて。美鶴にはその歪みの正体が不快感だと感じ、一抹の不安を覚えた。

 

 

 

 

 2002  8/ 9・金

 鹿児島県 屋久島

 

 夏休み。

 美鶴は父の言いつけで、澪とともに桐条の別荘がある屋久島へとやってきていた。

 

「やくしまー!」

「……きゅ、急にどうした?」

「ん、なんか言わなきゃいけない気がして」

「そ、そうか……」

 

 波止場に着いた途端、棒読みの奇声を上げた澪に美鶴はちょっと退き気味だ。

 引率の大人――美鶴付きの家令やメイドなど――にまわりを囲まれつつ、二人は港から移動し、そのまま送迎の車に乗せられた。

 

「……はぁ」

 

 社内の窓から見える屋久島の風景は長閑(のどか)で、緑に溢れている。

 しかし、美鶴の気分は複雑だった。有り体に言えば曇っていた。

 日々ペルソナの研究に協力している美鶴と澪の労をねぎらいたいとのことで、後ほど桐条氏自身も仕事の合間を縫ってここを訪れるらしい。

 美鶴はそれを聞いたとき、とても気分が高揚した。毎日が待ち遠しく、澪に呆れられほど浮ついていた。

 だが、いざ当日になると――

 

「お父様は、ほんとうに来てくださるのだろうか……」

「心配?」

「あ、ああ……」

 

 珍しく弱気な美鶴に、澪が相変わらず眠たげな視線を送っている。

 おぼろげな記憶の中に、母がまだ生きていた頃、この地を訪れたが残っている。寡黙だが頼もしい父と、優しく綺麗な母――美鶴が一番幸福だった頃の記憶だ。

 

「きっと大丈夫だよ。総帥って、あれでけっこう親バカだから」

「……お父様を“親馬鹿”扱いするのは、お前くらいだな」

 

 相変わらず遠慮のない澪に、美鶴は思わず笑みを浮かべた。

 彼なりに気を使ってくれたのだと思うと、僅かなりとも気分が晴れた。

 

 

   †  †  †

 

 

 無事、何事もなく別荘についた二人。

 旅の疲れもあり、今日はどこにも出歩かずに室内で大人しくしていることにした。

 とはいえ、ただ部屋にいるだけというのも退屈なのでとりあえず別荘内を探検している。美鶴も久々に訪れた場所とあって、新鮮な気持ちで散策していた。

 ちなみに二人はやはり手を繋いでいるが、もはや自然の成り行きであった。

 

「それにしてもすごいね、ここ」

「そうだな。……滅多に使わない場所に資金をかけるのは、いささか無駄に思えるんだが」

 

 内装の凄さに目を丸くする澪の感想に、美鶴はやや苦いものを吐露する。

 

「お金はあるんだから、むしろたくさん使った方がいいんじゃない? それだけ世の中にお金が回るわけだし」

「私が言うのもなんだが、小学生の言葉ではないな」

 

 年不相応なコメントに美鶴がツッコミを入れる。

 どっちもどっちだという指摘をする人間は、幸いこの場にはいなかった。

 

「明日の予定は海に行くんだよね?」

「そうだな。楽しみか、澪」

「うん。海水浴、楽しみだよ。……そういえば、美鶴さんって泳げるんだっけ?」

「む、馬鹿にするな。泳げる……と思う」

 

 澪の疑問に、美鶴はむっつりとしつつもどこか頼りなく答える。言葉を濁したのは、海で泳ぐのがちょっぴり不安だからである。

 足のつく人工のプールであればまだしも、波があり、深さもまちまちな海での水泳は未だ一一歳の美鶴には難易度が高い。そんな場所に挑むというのは、大好きな父が側にいない今の彼女には不安が大きかった。

 

「大丈夫」

「?」

 

 主語のない言葉に、美鶴は小首を傾る。

 すると澪が、ふわりと天使のような笑顔を浮かべた。

 

「もし美鶴さんが溺れても、僕が助けてあげるよ」

「ば、馬鹿っ!」

 

 恥ずかしい台詞を恥ずかしげもなく言い放たれて真っ赤になった顔を、美鶴はぷいと逸らしたのだった。

 

 

 

 

 2002  8/ 10・土

 鹿児島県 屋久島

 

 

 天気は快晴。

 予定通り、美鶴と澪は近くの海水浴場へとやってきた。

 もちろん、子供二人で泳がせるはずもなく、周囲にはライフセーバーの資格を持った監視役のSP――さすがに黒服ではなく、いわゆる監視員スタイルである――がさり気なく配置されている。

 とはいえ二人も慣れたもので、護衛の人たちに挨拶し、その後はいないものとしてバカンスを楽しんでいた。

 

「おお、その水着かわいいね、美鶴さん」

「うん、ありがとう」

「ありゃ、反応いまいち?」

「フッ、そうそう何度もお前に弄ばれているわけにはいかないからな」

 

 腰回りに、ひらひらとしたスカート状の飾りが施された白いワンピースタイプの子供らしい水着を着た美鶴。姿に似合わないニヒルな笑みを浮かべ、わずかに膨らみ始めた薄い胸を張る。

 一方、白いパーカーを羽織り、蒼いファイヤーパターンの入った黒いトランクスタイプの水着を着た澪。うまくからかえなくて、残念そうに肩を竦めていた。

 

「じゃあ、砂のお城でも作ろっか」

「……泳ぐんじゃなかったのか?」

「冗談だよ。とりあえず、シャチのフロート用意してもらったからそれ使って遊ぼうよ」

「ん、いいだろう」

 

 同意すると、澪は僅かに笑みを浮かべた。

 さっそくとばかりにいそいそとパーカーを脱ぐ澪。そのまま投げ捨てる――のではなく、きちんと畳んで近くのデッキチェアに置いておく。

 桐条邸での教育の結果というか、これは単純に本人の性質だろう。居候として体面を考えている面もなきにしもあらずだが、こういった子供らしからぬ面が桐条家で働く一流の大人たちに受けているのだ。

 

「よーし、行こう」

「わっ、こ、こら澪! 引っ張るなっ」

 

 いつもとは逆に、澪が美鶴の手を取って砂浜を駆けていく。

 よほど海水浴が楽しみだったのだろう、大きな普段の無気力さが嘘のようだった。

 

 

   †  †  †

 

 

 ゆらゆらと波間に揺れる。

 シャチを模した大きな浮きにしがみつき、美鶴は一人海を漂っていた。

 

「ふぅ……、いい、天気だな」

 

 仰向けになり、晴れ渡った空を仰ぐ。

 澪は少し前に「ちょっと泳いでくる」と言い残し、どこかへ悠々と泳ぎ去ってしまった。

 その様は、まるで人魚のようだったと美鶴は回想する。

 

「あの馬鹿……」

 

 小さく悪態をつく。

 放置されたことの怒りと、一人きりにされたことの心細さとが混ざり合い、彼女の小さな胸を埋め尽くす。

 思ったよりも波はないが、それでも美鶴はくすぶる不安でフロートから手を離す気には離れなかった。

 とそのとき、不意の大きな波が横合いから美鶴を襲った。

 

「きゃっ!」

 

 波に煽られ、転覆するフロート。

 頭から海水をかぶり、さらに頼りの浮きを見失った美鶴はパニックに陥った。

 “死”の恐怖を感じ、半狂乱でバシャバシャと手足を無茶苦茶にバタつかせる。それが余計に海水を飲んでしまう結果となって、美鶴を追い込んだ。

 

「落ち着いて、大丈夫だよ」

「あ……」

 

 そんな聞き慣れた声が背後から聞こえ、不意に身体が軽くなる。声の主――、澪に支えられているからだ。

 背中越しに温もりを感じると、美鶴のパニックは治まっていた。

 

「ごめんね、一人にして」

「……っ」

 

 普段と変わりない、だがどこか優しげに聞こえる澪の声。彼は器用に立ち泳ぎしながら、咽せて海水を吐き出す美鶴の背中をさする。

 冷静であれば一人で難なく乗り切れた程度のことであるし、危険と判断すればSPが助けに来るだろうに、そこまで思い至らないほど美鶴の混乱は激しかったのだ。――実際、深さはあるが波自体は高くなく浜からもさして離れていなかったのだが。

 

「掴まっててね。このまま、フロートのところまで行こう」

「うん……」

 

 普段の凛々しさはなりを潜め、年相応にしおらしい美鶴。さきほどの恐怖が蘇り、彼女はギュッと強く澪にしがみつく。

 彼の言葉少なな態度が父を想起させ、美鶴にいい知れない安心感と甘い幸福感を与えた。

 

「それにしても、美鶴さんって柔らくていい匂いがするよね」

「なっ、ななななっ!?」

「あはは、動揺した。これで、さっきの借りは返したよ」

「れ、澪……!」

 

 いい雰囲気が台無しだった。

 

 

 

   †  †  †

 

 

 夕食を済ませた二人は、入浴の時間を迎えていた。

 乳白色のお湯で満たされた広々とした浴槽の真ん中に、小さな頭が二つ浮かんでいる。

 

「うー、背中ひりひりする……」

「おおかた日焼けでもしたんだろう。はしゃいで長時間泳いでいるからだぞ」

「美鶴さんはどうなの?」

「私はきちんと節度を持って活動したからな。日焼けなどしていない」

 

 反論に対しつんっと澄まして言い返す美鶴。確かに、彼女の玉のような肌はシミ一つなくまっさらだ。

 

「ちぇっ。美鶴さんの薄皮を剥こうと思ってたのに」

「……そんなことをして、何が楽しいんだ?」

「さあ? でも、海の定番だよ」

「ムム、そうなのか……なら、私が代わりにお前の背中の皮を剥いてやろう」

「うわ、ヤブヘビだった」

 

 一連のやり取りが愉快で、二人は同時に吹き出した。

 美鶴と澪は、普段からこうして入浴の時間も一緒に過ごしている。「家族になるにはまずは裸のつきあいからだ!」といういささかズレた美鶴の発案から始まったこの習慣、なんだかんだ言って二人とも子どもなので、別に相手を意識したりはしない。――と、言うのは建て前で、実は美鶴の方はわりと意識していたりする。

 今でこそそこそこ慣れたが、同年代の異性と一糸纏わぬ姿で相対することに、いざとなって羞恥心を感じたのだ。彼女の下手に高い精神年齢が仇となった格好だった。

 

「ふぃぃ……」

「……」

 

 よほど遊び疲れたのか、たれたれにタレた澪の横顔をちらりちらりと盗み見る美鶴。何度か何かを言い掛けては口を噤む。

 

「……美鶴さん、なにかあるの?」

「む……」

 

 ついに挙動不審を見咎められて、美鶴は言葉に窮した。

 首を傾げるその瞳に見つめられ、昼間不意打ちされた笑顔と恥ずかしい感想を思い出し、別の意味で火照った彼女はそれを誤魔化すように意を決し、とうとう口を開いた。

 

「そ、その、昼間はありがとう。情けないところを見せたな」

「いいよ、あれは僕も迂闊だったし。それに、美鶴さんに万が一があったら総帥に合わせる顔がないし、だいいち僕が困る」

「困る……?」

 

 発言の意図がいまいち理解できず、訝る美鶴。相変わらず、澪は眠たげな眼をして言葉を続ける。

 

「僕にも僕なりに、目的も考えもあるってこと」

「どういう意味だ?」

「教えてもいいけど、言ったらたぶん幻滅するよ、美鶴さん」

 

 だから言わない。そう口を閉ざす澪。眠たげな半眼は何を考えているのか読みとれない。

 これは吐かせるのは無理だな。と思いつつ、美鶴はあえて追求する。

 

「それは、桐条に関することか? それとも私個人?」

「両方正解。でも答え合わせはないから、あしからず」

 

 それきり澪は黙りを決め込んだ。

 美鶴はそんな頑なな態度に一抹の不安を感じつつも、彼の側からは離れようとしなかった。

 ――その雰囲気が、どこか危うく感じられたから。離れてしまったら、もう分かり合えないような気がしたから。

 なお、長風呂をして軽く湯当たりし、二人して叱られたのは余談である。

 

 

 

 2002  8/ 11・土

 鹿児島県 屋久島

 

 旅行、三日目。

 

「お父様、ようこそいらっしゃいました」

「息災のようだな、美鶴」

「はい!」

 

 ついに、美鶴の父が現地入りした。

 美鶴の喜びようは大層なもので、傍らの澪が生暖かい視線を送っている。

 

「澪、不自由はしていないか?」

「はい、おかげさまで。美鶴さんや桐条の家のかたたちにはとてもよくしていただいてます」

 

 日々の生活についての問いに、礼儀正しく答える澪。さすがの彼も、養父とも言える相手に普段のふてぶてしい態度に出る気はないようで、美鶴は殊勝な弟分に感心し、彼に対する評価を上げた。

 だが桐条氏は美鶴にしかわからない程度に目を細め、ついで窘めるような言葉を告げる。

 

「澪、そう他人行儀にするな。私はお前を、本当の息子として扱っているつもりだ」

「ですが……」

 

 蒼い少年は、表情を曇らせてジッと桐条を見上げる。

 美鶴は、黙ってしまった父と弟分をはらはらしながら見つめていた。

 暫しの間そうしていた澪はふと口元に笑みを浮かべた。

 

「わかりました。でも、敬語は直しませんよ?」

「フッ……仕方のない奴だな、お前は」

 

 今度こそ他人にもわかるくらいに笑みを浮かべた父と、言葉遣いこそ丁寧だがどこか不遜な雰囲気を漂わせる澪。言葉少なにもかかわらず何やら通じ合った様子の二人を見て、美鶴はホッと胸をなで下ろした。

 ここで、「自分が特別だからよくしてくれるのか」などと卑屈なことを言い出さないないのが澪のいいところであると、美鶴は思う。

 そんなものは言うまでもないし、どう答えてもお互いにしこりが残るに違いない。それは単に、不幸な身の上を慰めてほしいという誘い受けの気持ちでしかないのだから。

 

 閑話休題、それから。

 桐条氏は、短い滞在期間にも関わらず美鶴たちを趣味の海釣りに連れ出した。この屋久島の別荘も、あるいは釣りを楽しむために所有していたのかもしれない。

 なお、桐条氏の服装はスーツとかではなくきちんとした釣り人スタイルである。――上から下まで全身真っ黒だが。

 

「でも意外だな。総帥にこんな趣味があったなんて」

「そうか?」

 

 澪の呟きに美鶴が首を傾げる。

 

「お父様は、ああ見えて多趣味な方なんだぞ」

「例えば?」

「お前が好きそうなところで言うとオペラやオーケストラの観賞、とかな」

「へぇ……、それはイメージ通りかも。そういえば、屋敷にやけに本格的な音楽機材とかたくさんのレコードがあったけど、あれってそういうこと?」

「うん、たまの休日にクラシックを聴いてらしてるよ。それに私も、何度かコンサートなどに連れて行っていただいたこともあるしな」

 

 フフン、と美鶴は得意げに腕を組み、胸を反らした。自分のことでもなく、

 きちんと親子やってるんだ、などと失礼なことを呟いた(おとうと)にはもちろんお仕置きをしてやった。

 

 

   *  *  *

 

 

 夕方、釣果を用いた料理に親子()()は舌鼓を打った。

 三人とも口数が少ないタイプであったが、たまの団欒ということでそれなりに会話もあり。その話題は子供たち二人の近況についての報告が主だった。

 そんなささやかな晩餐会を挟み、「見せておきたいものがある」と言う桐条に案内されたのは、島内の私有地にある秘密研究所。美鶴と澪はそこで、()()と出逢った。

 

「これはロボット、ですか……?」

 

 大量のコードと接続された厳めしい機械式の椅子(メンテナンスベッド)に身体を横たえ、瞼を閉じて微動だにしない少女を見上げ、美鶴が疑問混じりに呟く。

 

「そうだ。“対シャドウ特別制圧兵装シリーズno.Ⅶ”アイギス七式――、かつてのエルゴ研によりシャドウに対する抑止力として製作された“機械の乙女”だ」

 

 娘の疑問に父が簡潔に答える。

 それを受け、美鶴は改めて彼女――アイギスを見た。

 光り輝く見事なブロンドに、透き通るような白い肌。顔立ちは驚くほど整っており、まさしく西洋人形(ビスクドール)のように美しい。

 だが、美鶴が彼女を「機械人形」と評した理由は他にある。

 露出した両足の間接部は明らかに機械式であり、頭部にはカチューシャにもヘッドホンにも見える排気口を両耳の代わりに備えている。また、緩やかな曲線を描いた胴体は暖かみのある白い革張で、確かに女性らしさこそ醸し出しだしているものの、人間のそれとは言い難い。

 

「アイギス……」

「彼女を知っているのか、澪」

 

 白き乙女を呆然と見上げていた澪が零した呟きを聞きつけ、美鶴が問う。

 彼は僅かに表情を曇らせ、躊躇いがちに口を開いた。

 

「うん……エルゴ研にいたころに、ちょっとね」

「そうか……」

 

 濁したような返答に、美鶴は生返事をして口をつぐむ。

 彼女には、澪の過去について聞き出すことに強い忌避感がある。罪悪感と言ってもいいだろう。

 彼の存在はある意味桐条の罪そのものであり、同時に美鶴の希望であった。

 未だ切り出すことは出来ていないが、きっと彼ならばこの影時間(悪夢)を終わらせることが出来る――そう確信させる何かが、澪と《タナトス》にはあったから。 

 だからこそ彼女は拒絶されるのが恐ろしくて、彼に協力を願い出ることが出来ずにいたのだ。

 

「例の事件以来、アイギスは機能を停止させたままだ。――彼女が目覚めれば、あるいは事の真相の一部でも掴めるやも知れぬのだが……」

「難しいのですか、お父様」

「ああ。専門家に因れば、目覚めぬ原因は不明であるとの事だ」

 

 父と会話を交わしながら、美鶴は再び無言となった少年の様子を横目でちらりと窺う。

 ――その蒼い瞳はじっと、物言わぬ機械の乙女を見つめていた。

 

 

   †  †  †

 

 

 その日の夜、影時間。

 ふと物音で目が覚めた美鶴は、訝りながらベッドを抜け出して部屋のドアを開いた。

 しんと静まり返った廊下。

 陰時間特有の不気味な緑色の暗がりに見え隠れするのは、自分とさして背の変わらない小さな後ろ姿。それがいったい誰なのかなど、わかりきったことだ。

 

「……澪?」

 

 美鶴は小さく呟き、眉をひそめた。

 

 

   †  †  †

 

 

 別荘にほど近い海岸。

 昼間はあれほど美しかったというのに、影時間のそれはあまりにもおどろおどろしい。

 

「澪」

「……美鶴さん?」

 

 血のように紅い海を望む砂浜に座り込む寝間着姿の少年に、美鶴は声をかけた。

 

「“こんな時間”に一人で歩くなんて、危険だぞ」

「大丈夫だよ。そこらの野良シャドウなんて、《タナトス》の敵じゃない」

 

 そう淡々と言う澪の背後に、蒼い影が揺らめいた。

 相変わらずの自由奔放さと妙な自信に美鶴は呆れ果てる。そういう問題ではないと言いたいところだが、とりあえずシャドウが敵ではないのは事実なので注意だけに止めておく。

 

「隣、いいか?」

「うん。あ、ちょっと待って」

 

 隣に腰を下ろそうとする美鶴を澪が制止し、何故か持ち歩いていたらしいハンカチを取り出して砂浜の上に敷く。

 

「どうぞ」

「フフ、ありがとう」

「どういたしまして」

 

 促されてハンカチの上に腰を落ち着けた美鶴は、紳士的な行為に満更ではなく笑みをこぼした。

 

「……」「……」

 

 暫し、沈黙が二人の間に広がる。

 その沈黙は決して気まずいものではなかったが、美鶴はどこか落ち着かない気分になる。

 影時間の不気味な静寂(しじま)に、寄せては返す波音か響く。

 そうした時間が一分ほど続いたとき、澪がようやく口を開いた。

 

「……僕がエルゴ研からあの事故のどさくさに紛れて脱走した、って話し聞いてるでしょ?」

「うん」

「でもあれ、本当はちょっと違うんだ」

 

 淡々と話す澪の語り口にはしかし、どこか“痛み”を帯びていた。

 

「僕がずいぶん前からペルソナ使いだったってことは、美鶴さんも知ってるよね。そんな危険な力を持っている存在を、それもあまり協力的じゃない子どもを()()に出入りができるようなところに置いておく?」

「……いや、あり得ないな。仮に私が同じ立場なら、力が使えないよう制限を加えると思う」

「うん、そのとおり。実際、僕がいた“檻”もそうだったんだよ。……特殊な合金で固められた、暗くて狭い独房みたいな場所だった」

「……っ」

「でもそのおかげで暗闇が怖くなくなったんだから、無駄な経験じゃなかったけどね」

 

 澪の、幼い見た目にそぐわないニヒルな笑み。美鶴の胸に苦い幻痛が走る。

 いくら《タナトス》が強力無比なペルソナであったとしても、物理的に出来ることと出来ないことがある。例えば、《タナトス》の巨体が収まりきらない閉所では召喚が困難となってしまう。

 もっともこれは、《タナトス》に限った話ではないが。

 

「……あのとき、“特別なシャドウ”が暴走したあのとき。爆発した研究所とそのまま運命を共にしていたかも知れない僕を、彼女が、アイギスが助けてくれたんだ」

 

 その声はいつものように淡々としていたが、美鶴には常にないほど感情的にな聞こえて。

 

「「あなたは、こんなところにいてはいけない」――最後にみた、普段よりずっと“ヒト”らしい彼女の表情が、今でも瞼に焼き付いてるんだ」

 

 美鶴は、淡々と語る澪の言葉に秘められた熱い想いに気がついた。

 常日頃から冷淡で、無関心無感動が服を着ていると言っていいほど感情を表に出さない彼にそんな面があったのだと驚き、そして同時にそんな彼にそれほどまで想われているアイギスに対して、生まれて初めて嫉妬を覚えた。

 

「恨まれてると、思ってた」

「恨まれてる? 彼女にか?」

 

 うん。弱々しく頷く澪。

 真意が掴めず聞き返した美鶴は、続く言葉をじっと待った。

 

「アイギスはシャドウと戦うために造られたのに、子どもの僕の方がずっと強かったからね。存在意義を脅かす」

 

 それはそうだろう。美鶴は澪の話を黙って聞きながら思う。

 彼のペルソナ《タナトス》は別格だ。

 現状、比較対照が自分しかいないとはいえ、その驚異的に高い性能(ステータス)と強力な魔法(スキル)は特筆に値する。澪自身の異常性もあって、美鶴には最強のペルソナに思えた。

 

「実験と称して、生まれて間もない彼女と戦わされたこともあったよ」

「結果はどうだったんだ?」

「僕の完勝、勝負にもならなかった。そのせいで、一部の心無い開発者たちから理不尽な誹謗中傷を受けてたみたいなんだ……アイギスは何も悪くないのに」

 

 やはりか。美鶴は小さく漏らした。

 澪とアイギスの戦いの結果もそうだが、それ以上に予想通りだったのはエルゴ研の研究者たちの所行だった。

 あのような醜悪な研究に携わっていたのだ、良心を残していた者など数えるくらいしかいなかっただろう。かつて、半ばモルモットとして扱われていた澪によくしてくれていたという“とある研究員”などは、例外中の例外と言える。

 

「それなのに、アイギスは僕を助けてくれた。だからもう一度会って、彼女にお礼が言いたかったんだ。僕に自由をくれてありがとう、って。でも――」

 

 それきり、澪は俯いてしまう。

 常にない感傷的で弱々しい彼の様子に、美鶴は困惑を隠せなかった。あるいは、命の恩人(アイギス)が機能停止したままでいることが余程ショックだったのかもしれない。

 美鶴はこのとき初めて、澪の心の奥を――彼の抱えた闇に触れた。

 

「いつか……、いつかアイギスは目覚めるさ。その時に礼を言えばいい。彼女は“壊れて”はいないんだからな」

 

 下手な慰めにしかならないとしても、何ら根拠がないとしても。それでも美鶴は声をかける。

 ――自分の言葉が、僅かでも彼の救いになることを願って。

 

「……うん、そうだね」

 

 澪は儚く微笑んだ。

 左目の泣き黒子がそのまま涙のように見えて、美鶴は思わず澪を抱き寄せた。

 ぴくりと彼の肩が揺れ、抵抗するように僅かに身じろぎするが美鶴の包容から逃れられないと悟ると大人しくなる。この年頃は、男児よりも女児のほうが体格がよく力も強いのだ。

 

「……ありがとう、美鶴さん」

「うん」

 

 柔らかな温もりと優しさに触れ、幾分か顔色がよくなった澪に、美鶴はようやく安心を覚える。

 と、自分が恥ずかしいことを現在進行形でしており、さりとて慌てて離れるのは何だか情けない。様々な考えが頭をよぎり、凍りついたように動きを停止してしまう。

 

「ムム……」

 

 遂には眉間にしわを寄せ唸り出す美鶴。いくら大人びていたとしても、根本的なところではまだまだ幼く拙い。

 クスリ。密かな笑みをこぼした澪が葛はそんな葛藤を感じ取り、助け船を出してきた。

 

「もう少し、こうしてくれる?」

「ああ、いいぞ」

 

 求めに応じて、美鶴はギュッとそれまでよりも強く澪を抱きしめる。

 そして小さく呟いた。

 

「……私で、お前の“傷み”を癒せるのならいくらでも」

 

 ――緑色の闇が降りた浜辺。

 肌寒い影時間の闇から身を守るように、紅い少女と青い少年はいつまでも身を寄せ合っていた。

 

 

 

 

 2003  3/30・日

 “桐条グループ”研究施設

 

 澪との出逢いから約一年の歳月が過ぎ、美鶴と澪はそれぞれ一二歳と一一歳になった。

 桐条邸での澪の生活は、おおむね順調だ。

 当初は「どこの馬の骨ともしれない子供が」などと影ながら罵られもしたが、おとなしくて行儀がよく、子どもらしからぬ聡明さを持つ澪はすぐに桐条の家に馴染んでいった。

 また、彼は家長である武治に特に気に入られている。

 お互いに寡黙であるにも関わらず何やらわかり合っているらしく、時折共通の趣味である音楽を()()で楽しんでいるようだが、美鶴にはいささか理解不能な世界だ。父を奪われたと、嫉妬を感じようもない。

 無論、美鶴も澪のことを弟のように――いや、それ以上に大切に思っている。きっかけは父の依頼だったが、積み重ねた時間は“繋がり”を真実に変えていた。

 ――あるいは如月澪という少年には、人々を惹きつけるカリスマが備わっているのかもしれない。

 

『それではお嬢様、試験開始をお願い致します』

 

「わかりました」

 

 美鶴はアナウンスに従い、手に持った銀色の物体を見る。それは拳銃に酷似していた。

 “召喚器”。桐条エレクトロニクス兵器開発部が新たに開発したペルソナ能力の補助装置だ。

 当初はとても持ち運ぶには堪えない形状だったが、開発者たちの努力と美鶴たちの幾度となく行ったテストによりダウンサイジングを達成、現在は懐に収まるサイズまでにスリムアップされている。

 それでも、未だ一二歳の小さな美鶴の掌には余る代物だったが。

 

「……」

 

 ごく、と唾を飲み、美鶴は銃口をこめかみに当てた。

 召喚器に込めるべき弾丸はない。「拳銃を自分に向けて、引き金を引く」という一連の行為によって疑似的な“死”を体験し、閾値境界に空けた穴へと“鎖”を打ち込んでペルソナを引きずり出す。その行程は、補助器なしでの召喚と何ら変わりない。

 ようは、“死”を受け入れればいいのだ。

 

「――ッ!」

 

 美鶴は覚悟を決め、引き金を引いた。

 粉砕音と、微かに聞こえる鎖が引かれる音が耳朶を打つ。

 

「……できた」

 

 管制棟から歓声が湧き上がった。

 振り返れば背後に、集合的無意識の海より実体化した《ペンテシレア》の姿。今までの召喚よりも、心なしか像がはっきりしているように思える。

 さらに意識を先鋭化させてみると、常温に保たれた試験場にはあり得ない冷気が降り、数メートル離れた地面から鋭く尖った氷柱が突き立った。

 《ペンテシレア》の魔法、“ブフ”である。

 

「やったね、美鶴さん」

「ああ……! これなら私も、戦える……!」

 

 感極まり、うち震える美鶴。今まで碌にペルソナを使えていなかった彼女は、これでやっと父の悲願が果たせることに言いようのない歓喜を感じていた。

 

「じゃあ、僕も」

 

 一方、特に逡巡もなく、澪もまたこめかみに召喚器の銃口を突きつける。そして表情を一切変えることなく、引き金を引いた。

 その瞬間、美鶴には、彼の頭部から薄いガラスのような破片が飛び散ったのが見えた。

 

「……確かに、召喚しやすい」

 

 手に持った召喚器をしげしげと見やり、使い心地の感想をこぼす澪。彼の背後にはやはり、蒼いコートの怪人が静かに侍っている。

「――《タナトス》!」澪は、やにわに顔を上げて自らの半身に指示を出す。

 刹那、抜剣した《タナトス》が跳躍し、ターゲット代わりのドラム缶を一刀の下に斬り捨てる。

 その断面は極めてすべらかで、力のみで切り裂いたわけではないことが読み取れた。

 

「……うん、まあまあかな」

 

 何がまあまあなのかは不明だが、澪も召喚器の出来映えに一定の評価を与えたようだ。どこか満足そうに《タナトス》が消えていく。

 ――澪の、ペルソナ能力に対する強い拘り。その根底にある所以は、一年の間付き合いを重ねた美鶴にもわからなかった。

 

「これで来月からの中学生活も安心だね、美鶴さん」

「ああ。やっと本格的に、タルタロスの調査が開始できるな」

 

 澪の言葉通り、美鶴は四月から月光館学園中等部に進級することが決まっている。

 また、廃業したホテルを買い上げて仕立て上げた「巖戸台分寮」も完成しており、二人はそこを拠点にタルタロスの探索を本格的に開始する予定だ。

 

 ――ようやくだ。ようやく始められる。

 

「……こんなにも早く召喚器(コレ)が完成したのは、君が協力してくれたおかげだな」

「そうかな。僕が居なくても、美鶴さんだけで完成させていたと思うけど」

「いや、君が居てくれたからこそさ」

「……」

「フフ、そう照れるな」

 

 ぷい、とそっぽを向く澪に美鶴は相好を崩した。

 気の置けない、気安い関係――美鶴には、友人と呼べる存在が居た(ためし)がない。高すぎる精神年齢と知性、家柄の良さが災いし、学校のクラスメートたちとあまり上手くいっていない。身も蓋もない言い方をするなら、彼女はクラスで浮いていた。

 澪曰わく、美鶴は「ぼっち」である。

 その俗語(スラング)の意味がわからなかった美鶴は、後に調べてショックを受けたものだ。

 そんな彼女に初めて出来た友が、澪であった。

 

「……澪」

「うん?」

 

 自分を見詰める眠たそうな蒼い眼差しの奥には、美鶴には想像できない様々なものが秘められているのだろう。

 時に前を行き、時に後を支えてくれる藍色の少年の存在は美鶴の中で大きくなっていた。なりすぎていたと言ってもいいだろう。

 もはや彼なしの日々を考えられないほどに――

 

 ――打ち明けるなら、今しかない。

 

 美鶴は意を決する。

 

「私と……私と一緒に、シャドウと戦ってほしい。君の力を貸してほしい。私は、“影時間”を無くたいんだ。“桐条の娘”として」

 

 美鶴は澪と真正面に向き合い、真摯に懇願した。

 彼女は無意識に求めていた。未だ終わりどころか、始まってすらいない五里霧中の中、共に困難に立ち向かってくれる仲間を。

 そしてその仲間は――、如月澪(かれ)をおいて他にはいないのだ。

 

「いいよ」

「ああ、わかっている。今無理に答えを出さなくても……え? そ、そんなあっさり決めてもいいのか?」

「うん、もともとそのつもりだったから。というか、すごく今更だよね、それ」

「……」

 

 あっけらかんと協力を受諾した澪の態度に、美鶴は完全に肩すかしを食らってぽかんとした。

「そういえば、こういう奴だった……」なんとか精神を再起動して頭を抱える美鶴。しかし、いつでもどこまでも自然体な澪に自分の心は救われているのだと、この時彼女は理解した。

 

「とりあえずまぁ……、コンゴトモヨロシク」

「なんだそれは……こ、こちらこそ、よろしく」

 

 どや顔で差し伸べてくる弟分の手を握り返し、美鶴はぎこちなく、だが確かな笑みを咲かせた。

 ――こうして桐条美鶴は、生涯の同志を手に入れたのだった。

 


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