――徐々に明るくなっていく意識の中、覚醒した視界に最初に飛び込んで来たのは金髪紅眼の少年の顔だった。
「気が付いたか。ならいきなりで悪いが、声に出さずに答えてくれ。あんたはあの白い髪の男女の知り合いなのか? そうなら右目を閉じて欲しい」
夜空をバックに、有無を言わせぬ口調で少年は俺に問いかける。
しばし間をおいて、少年の意図に気付くと俺は右目を閉じる。
彼の後ろにはどうやら大人の男がいるらしい。
「ギル、終わったのか?」
「えぇっと……あと少しっす師匠」
「なら早くしろ。先程の男についてこれから学園長の説明があるらしいからな」
――先程の男。
その言葉に俺の頭には弟の顔が浮かぶ。
ずきりと腹が痛む――殴られたのか。
俺は思わず起き上がりそうになるが、胸元に持って来られた少年の手に制された。
「動かねぇでくれ。あんたのことがバレたら困るんだ」
つぶやく少年の声に、俺はひとまず従うことにした。
俺の様子を見て、また少年が問いかけてくる。
「覚えていたいよな、何が起きているか知りたいよな」
俺は強く右目を閉じた。
少年の口元がにやっと悪者めいた風体に持ち上がった。
「俺はこれからアンタに記憶を消す魔法を使わなきゃいけねぇ。そういう決まりだからだ。だけど他の記憶を消すことでさっきの記憶を残すことは出来るんだが――構わないか?」
右目は閉じたまま、左目でじっと俺は少年を見つめる。
そんな俺の態度に少年は両手を額の辺りに持ってくると、何か良くわからない文字列を音にして並べ始めた。
意識がじわじわと食いつぶされていく。
青虫に与えられた葉っぱのように、頭の中に穴があいていくような不気味な感覚だ。
「三日後の18時、喫茶イグドラシルで待っている」
少年のその言葉を最後に、俺の意識はまた闇の中に沈んだ。
――麻帆良学園の象徴でもある世界樹の前に、多数の人々が集められていた。
制服、私服、スーツ、民族衣装。
様々な歳の頃の彼らは、聖地麻帆良に在籍する魔法使いたちだ。
「さて、もうすぐ日が変わるというのに集まってくれた諸君らには感謝する。今この場に来られなかった者たちも電子精霊を通して見ておるかの?」
ひらひら手を振りながら、麻帆良学園最高権力者である学園長の近衛近右衛門は言葉を紡ぎ始めた。
円を描くように集まった魔法使いたちの中心で、学園長はこほんとひとつ咳ばらいをした。
「集まってもらった理由は他でもない。今日は皆に紹介したい者がおっての。彼は多忙な男での、当初来てくれると予定しておった時期からは大きくずれてしもうたが――とにかく、自己紹介を頼むぞい」
学園長の促しに、彼の隣に立っていたその人物は自分の姿を見せびらかすように胸を張った。
腰ほどまである色の抜けた純白の髪が風に揺れる姿は、人間のそれというより幻想の住人に近い印象を見る者たちに与えた。
「天津神零児だ。面倒だがよろしく頼むぜ」
零児の言葉に囲むように様子をうかがっている魔法使いたちの一部で黄色い声があがり、その一部でどよめきの声があがった。
――ぱんぱん。
二拍手し、学園長はまた言葉を紡ぐ。
「知っておるものも多いと思うが彼は『紅き翼』に在籍しておった世界有数の凄腕じゃ。じゃが同時に500万ドルの賞金首でもある」
「俺としてはもうちょっと高めでも良かったんだがな」
「げほんっ! げふんっ! ――まぁともかくじゃこれから彼をよろしく頼むぞい。さて零児くん、お主には麻帆良女子中等部2―Aの副担任をして貰いたいんじゃが頼めるかの」
わざとらしい咳払いの後、空気を巻き戻した学園長は零児に問いかける。
彼は腕を組み、なにかを考えるようなそぶりを見せると鋭い目つきで答えた。
「ネギが、あのバカの息子が来るんだな」
「やはり知っておったかの?」
「当り前だ。まぁあいつとは楽しくさせてもらったし、別にかまわねーぜ。ひっじょ~うにあのバカのガキの面倒をみるって事態は釈然としねーもんがあるけどよ」
深くその朱と蒼の双眸をめんどくささで染め上げて、零児は溜め息をつく。
「うむ。それで次じゃが零児くんと一緒に副担任を務めてもらう予定の者がおるからの、ついでに顔合わせさせておくぞい」
「なん……だと……!」
意味がわからない、といった様子の零児に学園長は至極冷静な口調で返答する。
「お主の知識の深さは知っておるが現場を経験しとらんじゃろ。そんな者たちだけに生徒を預けれる訳なかろうが。――まぁ安心せぃ、ひとりは普通の教師じゃがもう一人は教師としても優秀で、魔法使いとしての実力もこの学園で五指に入るほどじゃ」
学園長の手招きに寄せられたのは、びしりと黒のスーツを着こなした妙齢の女性。
黒い髪につりがちの目付きとが合わさってとげとげしい印象を与えるが、その容姿はなかなかに整っている。
まるで軍人か何かか、規律正しい歩みで二人の前まで出た女性は零児の前で手を差し出した。
「数学教員を務めさせてもらっている星野うさぎです。これからよろしく頼みます」
「おぅ、よろしく」
零児は微かに首を傾げた所作を伴ってうさぎに手を重ねた。
微かに顔を歪ませて――だが直ぐに元の薄い笑みに引き戻したうさぎに対して、零児は変わらず首を傾げていた。
「では最後になるが零児くん、何か言いたいことはあるかの?」
学園長の言葉に肯定の意を示すと、うさぎから手を離して零児はぐるりと辺りを見渡した。
そして堂々と、さも当然のように、恥じることなく、宣言した。
「――俺は正義の魔法使いが嫌いだ」
ざわめきが起こるが零児は止まらない。
声に震えは一切ない。
「立派な魔法使いなんてくだらねー偶像に縛られる馬鹿どもも嫌いだ。悪に走らざるを得なかった誇り高き魔法使いを貶すヤツも大嫌いだ。だけど――どんなに汚らわしいと他人に言われても一本芯の通ったヤツは好きだ――以上」
場はしーんと静まりかえっている。
「あぁ、あとそんな俺の嫌いなヤツらが多い麻帆良に来てやったのは学園長のジジィがどーしてもって頼んだからだ。すげーめんどくさかったけど、ジジィの頼みじゃことわれねーもんな」
言いきったらしい零児は非常にすがすがしい顔をして、何かを探すようにきょろきょろ視線を彷徨わせている。
ひゅるる、冷たい冬の風が吹いた。
「お主を呼んだのは麻帆良出身ということがバレてしもうたからなんじゃがのぅ」
学園長の呟きは誰にも聞かれることなく、暗い夜空へと吹き上がった。
――眼が覚めた時、妙な違和感を俺は感じた。
まず、腰が痛かった。
次に尻が痛かった。
その次は寒さを感じた。
そして現状を理解した。
どうやら公園のベンチに座って眠っていたらしい。
近くには空になったビールの缶がいくつか散らばり、まだ封の開けられていないそれが袋に入って俺の隣に座っていた。
酒に酔って眠ったのか――明日は仕事なのに?
ある程度は酒を嗜む俺であるが、次の日が休日の時くらいしか飲まないことにしている。
一人で晩酌する機会も少ないし、飲むとしても誰かと同僚か友人かとだ。
このありさまを見るとまるでヤケ酒でもしたかのような――
と、そこで俺の脳裏に映像が一つ飛び込んで来た。
飛び込んで来たというより、記憶の底から浮かんできたというべきだろう。
非現実的な舞台で踊る三人の少年少女と巨躯の狼。
そして幕が閉じると突如として現れたのが――俺の弟だ。
弟の浩次――この世界では零児か。
そうだ、俺は零児に会ったんだ。
二十年近く前に俺の前から消えた零児。
今度こそ向き合おうと決めて、前に出ることさえ許してくれなかった俺の弟。
確かあの時俺は零児と話そうと声をかけて――殴られて、意識を飛ばされたんだ。
これでも一応、鍛えていたはずなんだがな。
風がひゅるるると吹いてきた。
――寒い。
かじかむ手を擦り合わせ、ポケットにぐっと突っ込んでやる。
そこではもう冷たくなっていたはずの使い捨てカイロが、ぽかぽかと熱を発していた。
時計を確認すれば午前一時頃。
とりあえず帰ろう。
空き缶をゴミ箱に押し込み、中身の入ったビールはコンビニの袋の中に。
暗い夜道を俺はとぼとぼ家に向けて歩いた。
本当ならば弟と――零児と語り合いながら帰りたかった。
前の世の小学生の時みたいに、中学生の時みたいに。
弟は――変わってしまったのだろうか。
浩次が零児に変わったとき、浩次は零児にすり潰され消えてしまったのだろうか。
もしそうなら俺が逃げないで向き合いたいと願った俺の気持ちは、単なるエゴなんだろうか。
――いや、そんなはずはない。
浩次がたとえ零児の中に消え去ってしまったとしても、俺は零児の兄の一人だ。
俺があいつの兄であるということは、この世界でも真実だ。
なら俺が何も言わずにいなくなってしまった零児を心配する気持ちがあったって、もう一度向かい合って話したいという気持ちがあったって、何の問題もないはずだ。
今の零児と逃げないで向き合いたいという俺の願いは本物だ。
だったらそれだけで十分なはずだ。
弟に会えた、この世界では唯一の肉親である弟に。
とりあえずこれは大きな一歩だ。
残りはまた家に帰って、今日はぐっすり寝て、明日考えよう。
それで少しでも弟のことを知って――あの少年は三日後の18時に喫茶イグドラシルで会おうと持ちかけてくれた。
彼は何かを知っている風な口ぶりだったし、とにかくあの少年に会ってからからまた弟に会って、零児に会って話そう。
ちょうど明日明後日と仕事の方でもヘルプを要請されていたし、俺の気持ちを落ち着けるためにもちょうど良い。
しかし――ふと立ち止まった俺の脳裏に疑問が浮かんだ。
――しかし俺はなんで弟と今日会えるかもしれないと思ったんだ?
去年の暮ごろに新田先生と範馬先生と会って、もしかしたら零児かもしれない男が赴任してくるかもしれないということを聞いたから――だったのか?
違う、そうじゃなかったはずだ。
あの時俺は何らかの情報を基にした希望を持っていたはずだ。
そうかもしれないと思わせる何かがあって俺は――あの時あの場所に―――
駄目だ、全然思いだせない。
腹が減っているからか?
ぐるると鳴る腹は、きっとがらがら今俺の目の前を通っていくラーメン屋台のせいだろう。
明りは残念ながら消えている。
四十代半ばほどの、ラーメン屋の親父に似合わず変に理知的な顔のその男は、がらがらと進んでやがて見えなくなった。
うん、ラーメンを買って帰ろう。
俺の中の決定事項をしっかりと握りしめて、俺は自宅へと歩みを速める。
思い出せないという事は、きっとたいして信憑性のないことだったのだろう。
占いのような類いの胡散臭い話なはず。
零児に会えたのだ――深く追求する必要はないだろう。
俺は俺自身をそう納得させ、しお味噌とんこつ醤油と鼻孔にラーメンの香りを思い出させると、もう一度腹を鳴らした。