――昔会ったラーメン屋の兄さんの言葉を全面的に信じた訳じゃない。
ただ俺自身が俺自身の考えで弟から逃げないために努力しただけ。
肉体的にも、精神的にも強くなろうと足掻いてみただけの、どこにでもある話。
あの日から俺はずっと弟を探している。
だが二十年近く弟は見つからず――図らずともラーメン屋の兄さんの言っていた2003年にもうすぐ突入する。
――2003年1月14日に麻帆良女子中等部2―Aの副担任として弟は赴任してくる――そう言っていた。
その日付に付いて少し調べてみると、麻帆良学園の冬休みが空けて一週間経った頃だった。
つまりそのひと月ほど前から、弟はきっと引き継ぎや諸々の事情で麻帆良を訪れているはず。
そう考えた俺は12月頃から女子中等部の新任教師について探りを入れて来た。
幸い、高校を卒業してから長らく麻帆良の掃除をする業者に勤めている俺は、教師の方々との交流がある。
俺は時間を気にしながら、中等部から少し出たところに設置された灰皿の前で、出てくるであろう目当ての先生を今か今かと待ち続けていた。
「おお、君か。久しぶりだね」
日が落ちるのも随分と早く、街灯の下で照らされていた俺に向けて手を振ってくれる新田先生。
その隣にはスーツをぴちぴちにした筋肉質の大男がいる。
彼は俺の顔をみるとペコリと会釈して、新田先生のと一緒に灰皿の前へとやって来た。
懐から煙草を取り出して、火を付けて吸い込む。
――げふん、げほん。
妙な咳が出た。
「慣れないなら合わないのだろう。身体に良い物でもないし、無理に吸う必要はないだろう」
「あ、どうぞ」
「おお、すまない」
ライターを取り出して新田先生の煙草に火を付ける彼――確か範馬先生という名前だったか?
彼の姿を横目で見ながら、苦い顔の俺はまたせき込む。
俺は煙草を吸わない。
毎朝走り、体力をつけようと励む俺にとって煙草は無用の長物だからだ。
だが吸うのは――こうやって新田先生と話す機会を作るため。
コミュニケーションツールのひとつという訳だ。
しかしそろそろ――
「そう、ですね。俺はお茶の方が好きみたいです」
「ああ、それが良い。……まぁ喫煙者の私が言ったところで説得力のない話だがな」
ははっと笑う新田先生の口から洩れる白い靄は、煙草の煙か、それとも息か。
今日はふわふわと粉雪が降っている。
「仕事帰りかね?」
「はい。終わったのでこれから少し汗を流そうかと思っていたところです」
「そうか――範馬先生、彼の仕事ぶりを知っているか?」
「いえ、何分自分のことでいっぱいいっぱいですので、申し訳ないです」
「はっはっは。謝ることはない、君が頑張っているのは近くで見ている私が良く知っている。だが余裕を持って広く物事を見る事もまた、君には必要だと私は感じるよ――と、つい説教臭くなっていかんな」
ニヤッと眼鏡の奥の瞳が緩んだ。
新田先生の言葉に範馬先生はたはは、と苦笑い気味。
だが何かを考えるように目を閉じた範馬先生は――きっと良い先生なんだろう。
「まぁ機会があれば一度見てみると良い。私は彼ほど真摯に仕事に取り組んでいる男をなかなか知らんよ」
そう言って見つめられる度、どうにも照れてしまう俺がいる。
俺はただ、逃げずに目の前の仕事や問題に向き合っているだけだ。
当り前のことを当たり前のように行っているつもりだが――やはりそう言ってもらえるのはひどく嬉しい。
――と、本来の目的を忘れていた。
利用するようで少し心苦しいが、尋ねるべきことは尋ねなけれれば。
「そう言えばそろそろ新任の先生が引き継ぎに来られる時期なのではないですか?」
「まぁそうだが――それがどうかしたのかね?」
首を傾げるようにして新田先生は俺の方を向く。
ここは、正直に話しておこう。
下手に取り繕って悪い印象を与える必要などないだろう。
俺の気持ちを、俺の思うがままに。
「実は人づてに聞いた噂なんですが、自分の弟がここに新任教師として配属されるかもしれないと」
「そう言えば君の弟さんは――」
「はい、自分たちが五歳の時に失踪しました。――ですからあくまで聞いた噂ですし、人違いかもしれませんけど、自分たちは珍しい苗字で弟は目立つ容姿をしていますから、もしかしたらと思いまして」
俺の言葉に新田先生はふむ、と腕を組み、範馬先生は何か言葉でも探すように口をパクパクさせていた。
なるほど、やさしい人だ。
「範馬先生、気にしなくても良いですよ。もう二十年近くも昔のことですし、自分の胸の内で割り切っていますから。もちろん、弟に会いたいという気持ちも、探し出してやるという気持ちもありますが」
「……強い、ですね」
「いえ、ただ馬鹿なだけです」
鬼の目に涙、とはこんな状況を言うのだろうか。
強面の顔の、鋭い瞳を潤ませて、範馬先生はくるりと後ろを向いた。
肩は微かに震えていた。
「弟さんの名前はなんだったかな」
あたたかい視線が範馬先生から俺の方へと移されて、新田先生はそんな事をぽつりと言った。
「こう――いえ、天津神零児です。自分、天津神一人の双子の弟です」
「……成程。今のところそんな名前の男を私は知らないな。力になれなくてすまない」
ぺこと頭を下げた新田先生に、自分の身体が委縮するのを感じた。
俺の我が儘で尋ねたことだというのに、この人はなんて――
「ただ、この2月からとある者が教師として赴任してくるのだが――彼のサポートとして三人の教師が就くことが決まっている。その内の一人に私は範馬先生を推薦したのだが……なんでも学園長が直々に呼び寄せた外部の人間を入れるということで枠が埋まってしまったのだよ」
「外部の人間ですか?」
「ああ、信頼できる者だと学園長は言っておられたが――実際にサポートの地盤を固めるために1月の上旬から仕事を行って貰うというのに顔を見せるどころかまだ連絡の一つもない。そんな男が君の弟だとは思えないのだが――」
むぅと難しい顔で新田先生は、ほんのりうるんだ眼の範馬先生の肩に手を置く。
「やはり君に就いて欲しかったよ私は」
「まだまだ自分は若輩ですので」
「――そんな君だから、就いて欲しかったのだよ」
元々ズボラなところはあったが、この世界での弟は輪をかけてめんどくさがり屋だったのを覚えている。
社会人としてはどうかと思える態度だが、もしかしたらその枠を埋めた外部の人間は弟かもしれない。
俺のこの考察は、きっとそうだったら良いという俺の願望を多大に含んでいるのだろう。
だがこの考察が間違っているとは限らない。
だったら――確かめるために動いてみることが大事だ。
「あの、ちなみに2月なんて中途半端な時期にどんな方がこられるんですか?」
「ああ、なんでも10歳の少年が担任を持つ教師として赴任してくるらしい」
10歳の少年だとは――
「まぁそんなこともあるんですかね」
「そういうことだな」
「そんな訳なのでしょう」
――古い年に別れを告げて訪れた新しい年。
2003年に入って十日ほど経ったある夜のこと。
俺は麻帆良にある森の中を彷徨っていた。
月明かりが俺の姿を影として地面に張り付ける。
夜中にここに来るのは初めて――始めて――はじめてのはずだ。
森の中でひっそりと弟が暮らしている――などとは思わないが、なんというか胸の奥からわき上がる大きな意志のようなものに導かれて、俺は足元に注意しながら進んでいた。
双子だから感じ合えるものがあるのか、前の世ではそんな事はなかったが、本当に心が訴えかけてくるような感覚だ。
それだけ俺は今、弟のことを思っているからなのだろうか。
ぼこぼこと地面を盛り上げる木の根や蔓のように行く手を塞ぐ長い草をかき分けて、俺は誘われるように進む。
――と、そこで俺の身になにか劈く声のようなものが飛び込んで来た。
類似するものを上げるとすれば動物園で見たことのあるライオンか、トラか、その辺りの肉食動物のそれが該当するだろう。
俺は姿勢を低く木陰に身を潜め、ゆっくりゆっくり声の下へと身体を近付ける。
密集する木々の割合が減ってきている気がする。
この先には恐らく開けた場所があるのだろう。
先程以上に心を落ち着け歩みに乗せ、俺はまた踏み出す。
俺の視界に広がった光景は、俺の現実から遥かに逸脱したものだった。
目の前の舞台には四人の役者が立っていた。
一人は身の丈のほどもある日本刀を手にしたサイドテールの少女。
一人は月に照らされ黒光りする銃器を持った長身の少女。
一人は無骨な両刃の西洋剣を掲げた金髪の少年。
そして最後の一人は――いや、それは一人ではなく一匹だった。
一匹は黒い剛毛を逆立て、唸り声とともに三人を威嚇する狼。
体躯は牛か、あるいは熊ほどあるだろうか。
俺の知っている狼よりもずっと大きな重量感を俺に訴えかけている。
剥き出しになった歯は普段使う包丁よりも鋭利で、眼はこれまでに見たどんなものよりも敵意に満ちていた。
――ふと、俺は声を上げそうになる。
目の前の俺より幼い彼らに向けて――逃げろ、と。
そう俺は叫んだはずだ。
しかし、俺の声は俺の耳に届かなかった。
そこで自分の足が震えていることに気付いた。
非現実的過ぎる光景――映画の撮影なのかとあたりを見渡してみても、彼ら以外は気配すら感じさせなかった。
木の影からこっそりと顔を覗けたままに、俺はその異質な世界を見つめる。
――舞台は一気にクライマックスへと向かった。
地面の砂を四本の肢が掴み、跳ね上がるように飛び出そうとした瞬間、こぼれんばかりの敵意に満ちた眼は小さな筒から放たれた鉄の塊によって蓋された。
鼓膜を震わし、心の根っこを直接つかみ取られるような雄叫び。
ずざりと体勢を崩した狼に、東洋と西洋、二種類の刃が深々とめり込んだ。
やがて辺りに木霊していた声が消えるのと同時に狼の姿は空間に溶けるようにして瓦解した。
心臓が、俺のろっ骨を壊さんばかりにはねているのがわかる。
熱い息が口から洩れ、頭の中でめまぐるしく先程の光景が何度も何度も再生される。
アレはなんだったのだろうか?
俺の見たこともない、俺の知ったこともない、俺の考えたこともない、アレは――
――と、そこまで思考がゆっくりながら回転し始めたところで、これまで以上に大きく胸を打った。
「いやいや、なかなかの戦いっぷりだったぜ」
ぱちぱちと、見世物でも見た後かのような不抜けた拍手が言葉といっしょに流れてきた。
「だけどまだまだだな。めんどくせーけど指摘すんならお前らにはまだまだ覚悟が足りねーな」
大砲のような心臓の鼓動が俺の身体を芯まで揺らす。
頭は湯でも注ぎ込まれたかのように熱い。
俺はゆっくりと、ゆっくりと、木陰から異次元の舞台へと視線を進めた。
第二幕は上がっていた――俺の弟を中心に。
「何者だ貴様っ!」
弟に向けて日本刀を構えた少女の鋭い指摘が飛ぶ。
「近衛の姫様を攫いに来た者」
「なっ――」
「なーんて冗談だよ。マジになんじゃねーの、真面目なヤツだな。ま、そこがお前の美点だとは思うけどよ」
たははっと一瞬女性と見間違うような容姿をした弟はうすく微笑む。
そして今度は凛と顔を締まらせたかと思うと低い、威圧するような声を出した。
「だが俺がもし本当の誘拐犯だったとしたら、今頃仲間が女子寮に忍びこんで居るかもしれねー。お前は気を張り過ぎなように見えるから、もー少し余裕を持てや」
言いたいことは言い終えたのか、白い歯を見せてニカッと笑ったかと思うとゆっくり三人の方へと近付いていった。
「おっと、動かない方が身のためだよ」
銃口を突き付けた長身の少女が弟に言葉を向ける。
弟はそれに臆した様子もなく、おどけた口調で長身の少女に語りかける。
「敵じゃねーんだが。それにお前は俺のこと知ってるかと思ってたんだけどよー」
「頭の片隅に貴方かもしれない人物の情報は引っかかっているが、今私にとってそれは何の問題にもならないのさ。私は与えられた仕事をこなすだけだ」
「俺が誰かわかっていても、か?」
「プロだからね」
「くふふっ、やっぱかっこいーじゃねーか」
弟はまるで長身の少女のことを―だけでなくサイドテールの少女のことも―知っているような口調で彼女に言葉を投げかけた。
――現在の状況が、俺はまるで把握できていない。
弟が何故二人を知っているのか。
それだというのに何故その二人は訝しがるような視線を弟に向けているのか、俺にはまるでわからない。
だが一つだけ確かなことは、俺の目の前にずっと会いたかった弟がいるということ。
痛いほどに打つ心臓と熱くなった目頭が、これを現実だと俺に教えてくれる。
飛び出そうと、話をしようと、俺は木陰から身を乗り出そうとした。
しかし乾いた笑いが俺の足をとどまらせた。
「ハッ、おぉ、マジか……マジかよ」
「ギルっ、コイツは得体が知れない! 構えろっ!」
「――ギルだと! てかお前なんか知らねーぞ。モブじゃねーのかよ」
サイドポニーの少女の言葉に、弟はひどい目付きで金髪の少年を睨みつける。
朱と蒼の瞳が混じり合い注がれる。
金髪の少年はぐるり周囲を見渡すと、びしりと指差し声高らかに宣言した。
「そうだ! 俺の名前は田中ギルガメッシュ! 日本人とイラク人のハーフで歴史好きの親父から付けられたこの名前に何か文句あんのか!」
妙に説明臭い言い回しに弟は舌打ちを一つ落とした。
「モブかよ。邪魔すんなよ」
そしてぼそりと何かをつぶやくと、くいくいっと手招きした。
「まーとにかくだ、めんどくせーが遊んでやるよ。ありがたく思いな」
そう言った弟は拳を握る――拳を握る?
つまり弟はこの少年たちを殴るつもりなのか?
それは――兄として許可出来ない。
昔の俺なら後で謝りに行く準備をしていたのかもしれないが、俺はもう逃げないと誓ったのだ。
――踏み出した一歩は確かなもので。
――真っ直ぐ弟を見つめる視線はぶれることなく。
――俺は弟の前に躍り出た。
「やめろ。子供を殴るなんて真似、大人がするもんじゃない」
周囲から飛んでくる驚きの感情が俺の肌を叩くが、そんなもので今の俺が動くことはない。
薄い笑みが呆然とした顔に変わる弟をただ見つめながら、俺はやさしい口調で話しかけた。
「そんなことせずに――そうだ、俺の家にでも来てくれ。まぁボロいアパートだがお前が飲むって言うなら酒でも買おう。うん、それが良い。兄弟水入らず――昔みたいに、気兼ねなかった頃みたいに語り合おうじゃないか」
弟からの返事はない。
「なぁ、行こうぜ浩次――」
と、そこまで言ったところで俺の腹に貫くような衝撃が走る。
――視界が霞んでいく。
ふわりと白いなにかが俺の前を流れ、俺の意識は暗い闇の中へと沈んでいった。