ぶすりとして不機嫌を隠そうともしないイングリッドと、それに微妙な笑顔を向けて妙にうきうきした気分のルイズは、ようやくのことで部屋を出た。
扉が完全に閉まったのを確認して、ルイズが扉のあった部分、その向かって右側の端辺りを撫でると、隠された鍵穴が現れる。
彼女がポケットから取り出した鍵をその穴に差し込んで扉を施錠する。かなり大げさな音を立てて錠がかかる音が廊下に鳴り響く。
その音に反応した―――待ち構えていたとしか思えないタイミングで隣の部屋で扉が開き始めたのを見て、機嫌よくイングリッドの右腕をつかみ、足を出しかけたルイズの表情にさっと暗い影がよぎる。
不機嫌な表情の奥で、常と変わらない思慮深さを隠し、周囲に強い警戒を配っていたイングリッドは素早く扉とルイズの間に立ちふさがった。
いつもの「普段の生活」通り、周囲の気配を探っていたイングリッドの予想した範囲内の行動が見られたから、想定通りに彼女は行動していた。その想定があったがために彼女は、その方向に立ち、ルイズをカバーできる立ち位置を取っていたのだ。
そんなイングリッドの行動を理解出来ないルイズは、その予想もしていなかった彼女の動きを目で追って眉を上げる。
イングリッドは一瞬で王妃を守る騎士のような雰囲気を噴出して自分の視界を遮ったと、ルイズは感じた。
開ききった扉から、若干の時間を置いてもったいぶったようにゆっくりと長身の
戦場に踊る様こそが美しいと思わせる、燃え上がるような見事な赤に染まった髪を、自然に垂らしているよう。そうでありながら実のところ、その髪の形状は相当な時間をかけて拘ったセットが施されているのがイングリッドには理解出来る。かなりの手間隙をかけているのだろうと思えた。
うまく横に広げられて形を崩さない髪は、ボリューム感を前面に押し出して、彼女の存在感を強くアピールしている。彼女の髪が視界の片隅に入るだけであっても、周囲の人間は、ひとまず彼女に視線を向けない訳には行かない。そう想像させるほどの存在感がある。
一見したところ、その背は日本人あたりの成人男性の平均身長に近しいと思われ、女性としては長身の部類に入るものであるのがわかる。慎ましやかなルイズとソレよりはボリューム感がある―――おもに筋肉的な意味で、女性としては全体的に一回り大きなシルエットを服装でごまかしているイングリッドも、身長的にはルイズと殆ど変らないのだ。ルイズが細身なのだと言おうか、イングリッドが太って……がっちりしていると言おうか迷うところではあるが、それはともかくとして、扉の影から全身を露にした女性は、こちらの2人を軽々と見下ろしてしまえる身長であった。それは相当に背が高い事実を示している。
ましてやイングリッドの予想(随分と揺らいでいるが)するところの15~19世紀の時代に近しい世界である。食糧事情や栄養事情が『現代』社会並みかそれ以上であるというのであればともかく、そういう時代背景の中では彼女の存在は、唯身長が高いというだけで恐ろしく目を引くに違いない。
情報量がまったく少なく判断材料に乏しい現状では無論、そういう可能性も留意する。食糧事情と言うのは現地の治安情勢に直結する場合が多いので、ルイズを護衛する上では重要な判断材料になるのだ。確認をしなければならない事実が増え続けて一向に解決しない事にイングリッドは溜息を吐きたくなる。
出るところは出て引っ込むところは引っ込む彼女のプロポーションは、イングリッドの彼女自身気が付かない無意識の劣等感を刺激するものであった。だが、彼女の意識は、そのプロポーションが極めて強い意思をこめて創り上げられ、守られてきた後天的な努力の結果である事を確信させる。そこに、慎重に考え抜かれた配慮で選び抜かれた化粧水が、ぎりぎり悪趣味にならない量で散布されているらしく、そこから発せられる香りがイングリッドの鼻腔をくすぐる。彼女の肢体からうける視覚的刺激をうまく強調する絶妙なバランスが好ましいとすら思えた。
自身も同姓であるイングリッドの思考には欠片も影響を与えない感覚だったが、彼女が傾けているであろうそれらの努力が結実して、男性であれば飛びつきたくなるであろうほどの色気が『自然』と発散されている。
コーカソイドに特有の彫りが深い顔は絶妙なバランスを保ってくどいと思える感覚の一歩手前を揺らめいていて、それが有効に作用して印象的な美貌を彼女の顔に与えている。一度見たらなかなか忘れられないであろう陰影を持ったその形状は、女性が女性というあり方そのものを武器とする場合、強力な攻撃力を保障するものだった。
彼女の胸が、そのバランスを崩している。
全体のプロポーションとしては芸術的なバランスを保っている中で、大きく張り出したその胸は、せっかく美しいと思わせるスタイルを崩す余計な付加物と思える。だが、それが人間の女性に配されたモノだと考えると別の感想も持たざるを得ない。絶妙なバランスでプロポーションを崩す二つの脂肪の塊は、そうであるが故に逆に彼女の肢体を強く意識させる。
ルイズの身に着けている制服とデザインが変わらないはずのブラウスは上から1番目と2番目のボタンが外されていて、胸元を覗かせている。何かの意図を持って外されているというより、物理的容量の限界が故にしかたなく外されていると考えたほうが自然とも思える。その本来の役割を放棄した2つのボタンは、使用目的通りの利用が行われた場合、その存在、寿命が極端に短いだろうことが容易く予想される。
そしてそれらすべての感想を覆い尽くしてしまうような、彼女の肌を彩る色。
見事な褐色であった。
『現代』社会であればそれを『健康的』と言うは容易い。だが、どこに近しいか判らないにせよ、封建的雰囲気が色濃く残る古典的、あるいは保守的とも言い換えて良い雰囲気を濃厚に漂わせるこの世界だ。肌の色に『特徴』がある。唯それだけで強力な武器にも、逆に、致命的な弱点にもなりうる、隠し様も無い『特異性』を否が応にも視覚的に強調していた。
すべての面に於いてルイズともイングリッドとも対照的な雰囲気であるが、そのどこからも滲んであふれ出す、彼女が望んで隠したいであろう努力の片鱗がイングリッドに取っては好意的に思えた。この一瞬の邂逅で、その存在がルイズにとってどの方向性にあったとしても、他のすべてをとりあえず置いても認めるべき好ましい結果の発露であると断じた。
その彼女は優雅な仕草でゆっくりとこちらに振り向き、芝居臭い仕草で髪をかき上げてから見下ろす視線で此方を捕らえ、かすかに困惑を表情に表すと、次いで合点が言ったようにイングリッドの上を飛び越えて後ろに視線を移し、ニヤリと笑いかけた。
「ルイズ、おはよう」
その語尾に音符でも飛び跳ねそうな勢いで、想像よりもずっと深みのある声質の音が紡がれた。
完全にその存在を無視されたイングリッドであったが、緊張感を緩めない。ルイズから発散される晴れやかならぬ感情の方向性が彼女の態度のどこに向けられているか判断が付かない以上、第一印象はともかくとしてイングリッドにはこの女性は警戒すべき対象である。
イングリッドが醸し出すその雰囲気を気が付けなかったルイズは、キュルケの視線を真正面から受け止めて、顔を大きく歪めた。表情には隠せない嫌悪感がある。
「おはよう……キュルケ」
ルイズがファースト・ネームと思しき固有名詞と推定される言葉を出した事で、朝に感じたのと同じ種類の痛みが胸を突く感触に気が付いたイングリッド。だがそれに関わることなく、ルイズの前面を守る。
僅かに漏れ出る、この場所には似つかわしくない形の緊張感に当てられて彼女、キュルケは、小さく首を傾げて一瞬、視線をイングリッドに移しすぐさまルイズに戻す。
「あなたの呼び出した使い魔って、これ……?」
その言葉に含まれた予想外に多くの感情に、イングリッドはやや虚を突かれる。
ただ、その言葉の表面上にあるニュアンスだけ取ってみれば、ルイズに対する侮辱を隠さないものであったから、短い交流の中であっても随分と感情豊かであることが知れた、自らの主がどういう反応を示すであろうか容易く想像出来るイングリッドは刹那、慌てた。
予想通りに暗い感情を強く印象付ける雰囲気を纏ったルイズが、イングリッドの後ろで僅かに身を捩った。
「……そうよ」
その言葉に籠められた意識もまた複雑であると気が付く。「望まずそうなってしまった」と言う意味の「そうよ」と、唯単純に肯定を指し示す「そのとおりよ」と言う意味の「そうよ」が微妙に交じり合って溶けた、切り離しがたい意識の混沌が湧き出した「そうよ」であった。
「望まずそうなってしまった」と言う意識が透けた事に、イングリッドは切ない気持ちが胸に広がるのを自覚した。
「ふーん。ほんとに、人間?なのねぇ。すごいじゃない?」
ますます微妙な意識と感情が混濁するキュルケの言葉に、イングリッドは強く警戒する。何を知っておるんじゃこやつは……!
キュルケの言葉に感情を高ぶらせて、眼前の背中を避けて前に出ようとするルイズに、イングリッドは立ち塞がって距離を保つ。感情の起伏を身に纏って、幾度か左右にステップを踏んで前に出ようとしたルイズだったが、イングリッドの背中にことごとく止められてしまい、不満げな息をついて引き下がった。イングリッドの後ろで腰に手をやって溜息を吐いている。
常なるルイズであるならば、イングリッドの身体を突き飛ばしてでも前に出たであろう。そうしなかったのは、無意識な感情であったが、ルイズがイングリッドをそれなり以上に信頼している部分が大きかった。イングリッドがこういう場でふざけたり、意味も無く主たるルイズの邪魔をしないであろうという予測があった。何らかの勘違いである可能性は残っているが、イングリッドが取る今の行動がルイズに対して無意味な物では無いだろうという推測があったのだ。だからルイズは、イングリッドの背中に自身の行動を止められて、不満はあっても引き下がるのを選んだのだ。
そのイングリッドとルイズの仕草を認めて、ごく僅かの笑みを向けてキュルケは視線をルイズに戻す。
本当にごく僅かの間ではあったが、疑いようもなく晴れやかな笑みであった。その意図の不確かさにイングリッドは首を捻る。
「うん。『サモン・サーヴァント』で『人間』を呼んじゃうなんてねぇ……。あなたらしいと思うわ。人と違うことをやるにつけては、思わぬ才能を発揮するわよね。あなた」
小さく肩をすくめて、キュルケは明らかに意識して強めの感情を乗せて言葉を続けた。
「……さすがはゼロのルイズ!」
どこか伺うような表情を片隅に乗せた、妙な笑みを張り付かせて、胸をそらして哄うキュルケ。複雑怪奇な感情が絡み合うその雰囲気の中身を徐々に察して、僅かながら緊張感が薄れるイングリッド。
キュルケの発した言葉の最後の部分を捉えて、見事な白磁を見せていたルイズの表情が強い感情に染まってさっと朱が入る。
「ううううううるさいわ、ねぇ……!」
ルイズは強く両腕の拳を握り締めて唸る。
両者の言葉にまったく持って複雑な感情が入り混じっている事実に、イングリッドはウンザリする。しかもそれらの感情がイングリッドを境にして互いに届いていない。微妙な部分ですれ違っている。随分と面倒なコミュニケーションの取り方をしているものだとイングリッドは思う。
黙っていれば胡散臭い限りだが、口を開けばやや正直すぎる嫌いのある、会話の場を持つに当たっては、その心の奥底にある澱みを表に出そうともしない部分に目を瞑る限り、割かし素直で、晴れやかな頭……意識のありようを持っていたコルベールをイングリッドは思い出す。ただ会話の相手とするのであれば、あちらのほうが気が楽であろう。
「ふふーん」とでも声を出しそうな、胸をそらしたままの態度で、キュルケは笑みを深める。相変わらず無視されているようでありながら、彼女の意識がちらちらとイングリッドに向けられている。イングリッドはソレに気が付いていたが、気が付いているという事をおくびも出さないで、無表情にキュルケを見上げる。
ただ、キュルケとの距離が近いのが困りものである。キュルケの立ち位置はルイズと会話をする上では極常識的な距離と言える。しかしイングリッドはその空間に望んで身を割り込ませたのだ。よってキュルケの表情を伺うにはかなりの角度で顔を挙げておかなくてはいけない。キュルケの鼻の中が見えそうだ。いや、実際に見えてしまう。
鼻毛も赤い色をしているんだなと、どうでもいいことを心の片隅で思ってしまう。
「あたしもね、ちゃーんと使い魔を召喚したのよ!どっかの誰かさんとは違ってね、一発よ。一発!」
キュルケが口にするだけで随分と性的雰囲気が纏わり付いてしまう、言葉の最後の部分を捉えて苦笑いして、イングリッドはルイズの感情の動き、気配に注目する。幸いな事に思ったよりも平坦で、呆れすら混じっている様だった。
イングリッドは知らず、安堵の息を吐く。
キュルケが一瞬眉を跳ね上げるが、次の瞬間にはそれを振り払って微笑を表情に戻し、ルイズに挑発的な視線を送る。
「使い魔ってのはこういうのよねー。やっぱり。
おいでフレイムー!」
勝ち誇った雰囲気を隠す事も無く、キュルケが何かを呼ぶ。固有名詞であるらしいその言葉と、その前の文脈からしてその『フレイム』は、彼女の使役する使い魔の名であろうとイングリッドは推測する。
キュルケの言葉に「のっしのっし」と爬虫類独特の骨格を見せた巨大なトカゲモドキが現れた。随分とイングリッドの中にある力に近い、しかし根本的なところで大きな違いを示す力を内包した巨大な生物は、顎から腹、尻尾の下にかけて、随分と柔らかそうな白い色を見せる以外は、キュルケの髪の毛に負けず劣らない見事な赤を見せて、キュルケの前に鎮座する。
これまたキュルケの撒き散らす色気にも負けず劣らず濃い熱気が、むうんと広い廊下を覆う。狭い場所でこれを浴びれば一瞬にしてサウナだろう。通気に関して相当な配慮を見せる寮塔の構造が幸いした。居室のみならず、廊下についてもかなりの工夫がなされていると思しき造りをしているがために、フレイムから噴出している熱気は、湧き出でる側からどこかへと流れ去って行く。
「ほう……!」
キュルケと相対して初めての声がイングリッドの口から漏れた。キュルケもルイズも驚く。その言葉は明らかに隠せない感嘆の情に彩られていたからだ。
ぐぐいっとルイズの不機嫌指数が急上昇する。キュルケはそれに気が付いて笑みを深めるが、その眼には何故か焦りが混じる。
「どおよ、このヒトカゲ。すごいでしょ。あなた、見るのはじめてかしら?」
初めて明確な意思を言葉と共にイングリッドに視線を向けたキュルケに小さく頷いて、イングリッドは上半身を乗り出してフレイムを見下ろした。好奇心が隠されないまま、その背中に溢れて見える。
ますます不機嫌さを募らせるルイズと冷や汗をたらすキュルケ、それに気が付かずに首を捻るイングリッド。
「ほう……うむ。こやつ、なかなかのモンじゃな」
イングリッドはフレイムの中に太陽の力を幻視した。地球の奥底に眠るマグマ、いやマントルが持つ力である。
惑星が地殻の下に持ち合わせる熱量は、惑星がその存在を成立させた時期に発生させた衝突によって発生する摩擦熱の残滓である。
しかし鉄等の十分な重さを持った物質の液状化した流動エネルギーは惑星が十分な大きさと、恒星からの必要な軌道距離を取った場合、恒星、つまり太陽の引力を受けて流動する。最初は過去の摩擦熱のみであった力の塊は原初がそうであっても徐々に太陽の力が混ざり合い混濁する。そうして大地には太陽の力が蓄えられて満ち溢れる。
それで全ての熱量が補給される訳では無く、実際の熱量の大半は惑星の『核』自体に内包された放射性物質の崩壊熱が大半を担うのだが『地球型惑星』の内部に太陽エネルギーが様々な理由で交じり合っていること自体には間違いが無い。
そういった類の濃厚な力がトカゲモドキの全身から発せられていた。大本の出自からしてしょうがないノイズもまた強く混ざり合うが、全体としてイングリッドに好ましい力が彼女の肌を撫でる。
ただの『火』であり、ただの『炎』であってもイングリッドには大好物な「力」なのだ。イングリッドという存在の力の根源は太陽であり惑星、というか、地球そのものである。イングリッドの存在を規定するのが地球なのではあるが、イングリッドの振るう力は太陽に求められている。太陽とは、そも、炎の塊なのである。根源的に核融合反応の残滓としての『炎』は実際に地上に存在する『炎』とはごくごく僅かな人工的行為の結果として得られる例外を除けば、かすることも無く異なる存在ではあるのだが……「炎」を好むイングリッドのあり方がそれらを嫌うことは無い。
好奇心を全開にしてフレイムを見やるイングリッドの態度を誤解して、ルイズが感情を沸騰させる。明らかに予想していなかった展開に驚いて、キュルケが焦る。
「ああああああなた、あなた……イングリッド!あなたねえ!!」
イングリッドの背に飛び掛らんばかりに感情を高めたルイズの視線の前で、フレイムがイングリッドに親愛の情を見せるようにひっくり返って腹を見せた。
その展開もまた予想外で、キュルケもルイズも驚いて身体を硬直させる。
にんまりと笑ったイングリッドがフレイムの前に腰を落として、躊躇いなくその腹を触る。
「ほうほう。予想通りにやわらかいの。
んふ。気持ち良い肌触りじゃ。主はめんこいの」
イングリッドの手の動きにあわせて目を細めるフレイムの姿に、キュルケは大いにうろたえる。あっけに取られたルイズはどうして良いかわからずにその一人と一匹を眺める。
良く育ったトラ程もある大きな身体が、良く人になれた猫のように身をよじるその様は客観的に言って、酷く滑稽だった。その、自身の視覚情報に入り込む情景が、自身の思考に馴染んで思考が理解に至るとルイズはたまらず噴出してしまった。
「あっはっは。キュルケ!ずいぶんと手なずけたのね。短い間にご苦労様だわ!」
腹を撫でるイングリッドの手の動きに合わせて小さな火炎を噴出すフレイムの姿に、イングリッドも目を細める。驚愕に固まるキュルケを見上げてイングリッドは微笑んだ。
「よい使い魔を得たようじゃの」
その言葉にカチンと表情を歪めたルイズと、小さく笑みを浮かべるキュルケ。
「いいでしょ」
偉そうに顎を突き出して頷くキュルケ。イングリッドはそれに頷き返す。
「んむ。かわいいの」
そういう風に言われるとは思っていなかったキュルケは僅かに目を見開き、ルイズは小さく嗤う。随分と忙しい感情の変遷をイングリッドは自身の背に感じていた。
それには構わず、イングリッドはキュルケに問いかける。
「傍にあって熱くはないのかや」
その言い回しに違和感を覚えつつ、キュルケは頷いて答えた。
「そうね、私にはまだ涼しいぐらいよ」
「で、あろうな」とばかりに納得して頷くイングリッド。その姿に何かを感じたキュルケだが、何かを思う前にルイズの声に思考を遮られる。
「ね、これってさ……えーと」
ルイズは額に指を当ててぐりぐりしながら、記憶を探る様に首を傾げる。
「えー……そうだ!サラマンダーって奴?」
キュルケはその言葉に胸を張る。
「ふふーん、そうよー。ヒトカゲよー。見て見て見て!この尻尾」
背を床に擦り付けて、イングリッドの手の動きに合わせて身を捩り続けるトカゲモドキの大きな尻尾をキュルケは手に取る。
「どーよ、ここまで鮮やかに紅く燃え盛る炎を持った尻尾は、間違いなく火竜山脈に住むサラマンダーの証ね!ブランド物なのよっ。高級品よ。希少価値よっ!好事家に見せたところで値段なんてつけようもないのよ」
その言葉に、苦々しい顔をしたルイズだったが、彼女が声を発する前に、彼女以上に不機嫌さをその身から吹き出したイングリッドが視線を上げる。その手はサラマンダーの顎で止まっており、心地よいイングリッドの腕が急激に硬直した事に気が付いて彼は、心配そうに炎を吹き出した。
左手でその炎を「ぺいっ」とばかりに吹き散らしたイングリッドは、キュルケがたじろぐほどの強い視線を彼女に投げかける。
「……こやつを売っぱらうきかや、主は」
キュルケはその視線に冷や汗を流して大げさな仕草でそれを否定する。
「違うって。そんなことしないって!
強く弁解するキュルケにニヤッと表情を崩して笑うイングリッド。からかわれた事に気が付いて不機嫌に顎を引くキュルケ。そのやり取りに毒気を抜かれて呆れるルイズ。
「まあ、その……さ。素敵でしょ。フレイム。あなたも、そうおもえるでしょ。属性的にもこんなにぴったりなんだから、さ」
力ない言葉で彼を賞賛するキュルケ。
ルイズは自然と頷く。
「そうね。あんたはエレメント属性が『火』だもんね。確かにぴったりだわ」
その言葉に僅かに機嫌を直して笑うキュルケ。何かを誤魔化すように大袈裟な仕草で頷いた。
「そうよ。この『微熱のキュルケ』。心をささやかに焦がす情熱は『微熱』。でーもね。
強く激しく対象を見下して地の底に埋めてスコップの背で叩いて、なお足りずに墓石でも建ててしまいそうなニュアンスが感じられるその物言いに、かすかに疑問を持って、だがイングリッドの腕はサラマンダーの腹をさするのをやめられない。くすぐったそうに身を捩るフレイム。
得意げに胸を張る彼女に対抗してルイズも負けてなるものかと、意味不明な対抗心を燃やして胸を張る。しかし、悲しいかな、哀れさを感じさせるほどにその突き出されて空間を占めるものの大きさに差がありすぎる。イングリッドはうっかり目を逸らす。それに釣られてサラマンダーも目を逸らす。キュルケも付き合いよく目を逸らす。
その事実にルイズは眼を引くつかせたが、それでもなおキュルケをねめつける。素晴らしきは我主ルイズの負けず嫌いよ。
「あああああああんたみたいに
にっこり笑ってキュルケはイングリッドに向き直った。まったく堪えていない。たいしたタマだ。まったくの余裕である。どこかに諦観じみた雰囲気があるがそれを隠して相手に悟らせないところも含めて『たいしたタマ』だと思う。
「ミス。出来ればあなたのお名前を教え願えないかしら」
必要とあれば必要なときに必要な態度を瞬時に切り替えられるキュルケに、イングリッドは初見の印象がそれほど間違いではなかったと思いつつ、立ち上がって相対する。
小さく頭を下げて向き直り、顔を上げて彼女の視線を受け止める。本当はもう少し距離を取りたいところだが、ルイズが後ろにいる状況ではそれどころではない。キュルケの胸の向こうに彼女の顔が辛うじて見えるぐらいの距離感である。
これは距離が近すぎるのか、キュルケの胸が大きすぎるのか……。
イングリッドが何に困っているのかを正確に把握して、キュルケが後ろに身を引き、身体を傾がせる。
安堵と感謝を乗せて、イングリッドは小さく頷く。キュルケはそのまま受け止めるには含むところの多い感情の乗った笑みを浮かべて頷き返す。
「我はイングリッドと言う。唯のイングリッドじゃ。我主、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールの使い魔をやっておる」
寂しそうな表情を浮かべてイングリッドを見上げるサラマンダーに刹那、優しい笑顔を向け、再度首を上げてキュルケを見つめる。
「フレイム共々、精々よろしくしてくれると嬉しいの」
随分と晴れやかな笑顔で見つめ返してくるキュルケ。微かに感じていたキュルケから漂う感情の意味を確信したイングリッドに、キュルケも頷く。
「わかったわ。よろしくしてあげる」
自然な仕草で差し出された右手を握り返してもう一度、今度はイングリッドも確かな感情を表情にこめて視線を合わせる。
「そうしてくりゃれ」
その言葉にキュルケは微かな苦笑いを顔面に浮かべて、さっと手を振り払う。
燃え盛る炎を払い除ける様にして髪をかき上げ、マントを翻し、颯爽とその場を立ち去った。名残惜しそうな表情をイングリッドに送って最初はノタノタと、最後はその姿には似合わない素早い動きでサラマンダーが後を追う。トカゲモドキと言うよりトカゲそのものの素早さであったと、イングリッドはサラマンダーに対する評価を改めた。
イングリッドは心の奥底で、その評価を審議対象の棚に収めた。召喚の場に現れていた「モンスター」達が見た目以上に素早い可能性に留意する。それに伴って第一印象で感じたそれらの強さも評価済み欄から未評価欄に移し変える。評価済み欄には自分の名前しか残っていない現実に溜息を吐きたくなる。
ルイズの身を守るためのハードルが刻一刻と高くなる事実には眩暈すら覚えてしまう。そのハードルはその内に天元突破して大気圏を突き破り、月に
最後に交わされた一連の感情の交換と、イングリッドの悩む姿に気が付かなかったルイズは、拳を強く握り締めて床を踏みしめる。
「くやしいわイングリッド!なによなによなんなのよ、もう!自分がでっかいのを召喚したからって!すごいのを呼び出したからって!」
怒りに酷く混乱したまま言葉を吐き散らすルイズ。すぐそこにある確かな存在を一面で否定する表現を用いながら、否定している筈のその存在に対して同意を求めるという無茶を仕出かした。
自身の吐き出した言葉に、その言葉を受けた対象が、悲しげで切なげな視線を言葉を吐いた自身に向けている事に気が付いてルイズは自分がなんと残酷な言葉を口にしたかを理解し、大慌てで両手を振って否定する。
「違うの!間違ったの!ゴメン!ゆるしてイングリッド!この話は無し。終わり!もうしないから!」
その言葉を受けて瞬間、満足げに頷いてニヤッっと笑いかけてルイズの右手を取るイングリッド。
彼女はルイズを引っ張って階段の方に向かう。されるがままに引きずられるルイズ。
「そうじゃの。我はペットじゃ。せいぜい主に可愛がられる様にがんばる所存じゃ」
怒りとも羞恥とも取れない表情でルイズは焦って声を上げる。
「もう!そんな意地悪しないでイングリッド!違うから。本当に違うから!ごめんね。許して!二度と馬鹿なことを言わないから!あなたは私の大事な使い魔よ!」
ニヤッ!ニヤッ!ニヤッ!っと妙な声を上げながらルイズの先を進むイングリッド。
困った表情であれこれと捲くし立てるルイズ。
階段にたどり着いて、イングリッドは手を離す。
怒りかそれに類する感情故と、それに勘違いしたルイズは更に言葉を重ねようとしてイングリッドに遮られる。
「まあまてルイズよ。階段でじゃれあっては危なくてしょうがないじゃろ。落ち着くのだ」
一転、生真面目な表情を浮かべてルイズを見つめるイングリッド。しかしその眼には隠さない笑みがあった。それで自分がからかわれていたと気が付いたルイズは不機嫌指数を急上昇させたが、それにかまわず振り向いて、階段を下りていくイングリッドの姿にあっけにとられて慌てて追いすがる。
「ああああああなた、あなたね、」
ルイズのほうに振り向かないままイングリッドが答える。
「イングリッドじゃ」
昨日から何度となく交わされたそのやり取りに呆れて、疲れて顔をうつむかせてしまうルイズ。
その前に立ち止まったイングリッドの背があってぶつかる。階段の途中と言う位置関係により、危うく顔面を彼女の後頭部に激突させるところであった。
微動だにしないその身体に壁か城砦かと思い見下ろすと、振り返って此方を見上げる笑顔に自然と笑いかけてしまう。
「ん。その顔が一番じゃ。やはり我主ルイズの顔は笑顔が一番じゃな」
ルイズは呆れた笑顔を浮かべて肩を竦め、幅の広い階段でイングリッドと隣同士になって下を目指す。
「『微熱のキュルケ』か。言いえて妙だの」
ここに来て1年。実際にはそれを僅かに超える期間で唯の一度もこういう風に誰かと並んで歩いた経験がなかったルイズは、笑顔が張り付いたままで表情を戻せず、イングリッドの横を歩む。
昨夜、自身の後ろを子犬のようについて回るイングリッドの姿も、それはそれでなかなかに味わい深いものであったが。
「わかるの?」
うんと頷くイングリッド。その表情は予想外に真面目であり何かに悩む風でもあった。
「んむ。熱いのあれは。魔法もそれなりじゃろ」
ルイズはそれに驚く。ルイズ自身が評価するところでは、それなりと言い留めるには足りない力を持つキュルケである。認めるのは悔しいが、実力は素直に賞賛する。それを「それなり」で済ますのはイングリッドがキュルケを舐めているのかイングリッドの実力が『それなり』なのか。
イングリッドが『平民』にはあずかり知れない「メイジ」の実力を肌で感じてキュルケの力を判断した異常性にルイズは気が付かない。
「実力に見合った『使い魔』じゃったな」
ルイズもキュルケ本人がいない前ではあっさりとそれを認める。あれが間違いなくキュルケの使い魔としてこの上なく似合っている事に異論はない。実際にフレイムの存在に出会った以上は、もはやあれ以外の「何か」をキュルケの横に想像するのは難しい。
「そうね……コルベール先生も言っていたけど、使い魔ってメイジの実力に似合ったものが応えるの。『メイジの実力を知りたくば使い魔を見よ!』って言う言葉もあるし。
実際には『我が使い魔を見よ!』って誰か、偉い人が言った言葉らしくて、でもその真意は良く判らないらしいけどさ」
微かな笑顔を浮かべてルイズに頷くイングリッド。
「我は……どうであろうな。ルイズよ」
それに複雑な表情を向けざるをえないルイズ。
コルベール、タバサ、キュルケは絶対的確信まで持っている訳では無いにせよ、イングリッドの実力を高く評価していた。ところが今、最も近くにいて、これからも最も近くで過ごすであろうルイズにはその評価を決めるべき、判断材料の持ち合わせが無かった。
召喚の場ではとても冷静でいられなかった上に妙な事になったルイズである。契約の場でもとても落ち着いていられなかった。それ以外でルイズがイングリッドを見ていた期間と言うのは3日間、実際にベットに横たわっていた期間は2日弱であったが、妙に愛らしい表情であどけなく眠る顔を見ていたばかり。そこにはイングリッドの実力を評価する材料等、欠片すら転がっていなかった。昨日の歓談であっても、イングリッドが妙に頭の回る、舌禍で対するには手ごわい相手だとルイズは理解したが、口でモンスターを撃破出来る訳では無いので、なんとも評価し辛かった。
だが、その外見を見て、多くの者が下すであろう常識的判断として、イングリッドが無力では無いにしろ、一見して歳相応の力量程度しか持たないであろうという評価を混乱させる事を彼女はいくつか見せ付けていた。
イングリッドが目を覚ましてから、極僅かな時間しか経っていない現状であっても、ルイズが眼にできた中で、実はすごい実力―――少なくとも体力的な意味で、力を持っている可能性を示唆させる経験があったのだが、それも最終的結論を下すに足る量という訳では無かった。
彼女との間に交わされた会話、彼女の行った行為を注意深く観察した中に、魔法の存在を示唆させるものはなく、魔法そのものを知らなかったと思わせる片鱗すらあったから―――自室の扉を開けるのに仰け反って、明かりを灯すのに感嘆していた―――のだから、イングリッドが魔法能力を持たないだろうことは確実だろう。ルイズはそう判断した。
イングリッドが驚いた理由は魔法そのものよりもその結果を導くために、必要以上に凝った魔法が施されているが故の呆れという面が強かったのだが、ルイズにそういった他人の機微を理解せよというのは酷だった。イングリッドが魔法をハルケギニア的な意味での魔法と認識しない形で操る何かであった場合も、そういう判断材料しかそろわない可能性を無視してしまっている部分に関しては、いくら他人の表情を伺うことに優れた―――望まず、優れてしまったとはいえ、やはりルイズの経験不足としか言えないところだろう。なにしろ彼女はわずかに17年間の人生経験しか持っていないのだ。確実に自覚し、経験として咀嚼し、それを身に付け得た時間は更に少ないのである。
いろいろな思惑を持って複雑な感情に縛られたコルベールは、自身が感じたイングリッドに対する評価をルイズに伝えていなかった。また、ルイズがその場から排された会話の場で交わされた中で明らかになった事実は、イングリッドから『ルイズに言うな』と釘を刺されたに等しい。よってコルベールが自身の判断のみでイングリッドをどう評価したかをルイズに言うことはありえなかった。
もっともその判断を行うにあたって彼が基準にしたのは、過去のコルベールの経験に照らしてという面が大きくて、客観的評価を示すのが難しい。困った事に彼もまた純粋な「ハルケギニア的魔法能力」をイングリッドの中から見出せなかった。これではイングリッドに実力があるのだとルイズに強弁できない。ルイズにせよ他の誰にせよ、ハルケギニア人である限りは、魔法能力があるのがそのまま個人の実力として認識されてしまう、抜きがたい常識があった。ハルケギニア人では身を置き難い客観性を持って俯瞰した場合、その考え方は偏見とも言い換えられるものだ。コルベール自身がイングリッドと出会う直前までそうであったから、ますます難しい問題となる。イングリッドの中に『力』があり、尚且つ、それがかなりのものであるとはいっても、それはコルベールにとっては予測であっても確信にたる想像であったが、魔法以外にそういった力があることが知られていない―――コルベールもイングリッドと相対するまでは知らなかった状況では、やはり説明の仕様がない。
タバサの判断評価もコルベールに似たものである。
まずもって、なぜタバサがイングリッドを評価する材料を持っているのだという問題がある。複雑な事情があってタバサがそれを説明できない以上、タバサの下したイングリッドの評価をルイズに伝える事が出来ない。そもそもルイズとタバサの接点が無い。
タバサ自身で言えば、タバサが自身で持っている経験と、それなりに
様々な理由によりタバサはイングリッドに対して興味を抱いていたし、それが故にあの召喚の場で常のタバサとは違う思い切った態度をとっていたのだが、それはイングリッドとの接触であってルイズとの接触では無い。
接触があったといっても、イングリッドにはその記憶がないし、その接触を眼にしていたルイズは視界にそれらが入っていたというだけで、その時の自身の精神状態などの要因により、タバサがイングリッドと接触していた事実を綺麗に記憶から脱落させていたから、ルイズがイングリッドの評価をタバサに尋ねるという選択肢はありえない。ましてや尋ねられたところでタバサが応える事がありえそうもないという問題もある。
キュルケによる評価は難しい。キュルケがイングリッドを評価する最大の理由は『タバサが評価する』から、である。
キュルケ本人の本心を言えばタバサによるイングリッドへの評価に疑念があったが、キュルケはタバサの実力もその人物評にも欠片の疑問を持たない。だからイングリッドがかなり「出来る」存在なんだろうという評価は持っていた。だが、それはキュルケ自身による評価ではない。
よってキュルケの言葉でイングリッドの評価をルイズに説明できない。
自室の前の刹那の交感で、イングリッドへの自身による評価が出来たがそれはそういう気がする、あるいはそうであるらしい程度であって、しかもタバサの見立てに間違いはなかったという評価であったから、真実イングリッドに対するキュルケ本人の評価であるとは言い難い。
現状、イングリッドが判断するところルイズに一番近しい立場にあるキュルケではあるが、イングリッドの力を説明するには最も遠い存在と言うところでもあった。
結局のところ、ルイズはイングリッドの実力を判断出来なかった。
今ルイズがイングリッドを『使い魔』として評価している部分は、第一に自身の魔法の成功例としての存在であり、自分自身のような『無能』のメイジに『応えてくれた』奇特な、恥ずかしい言い回しに言い変えれば、心優しくも、自身のわがままを受け入れてくれる「人」だという面のみである。つまり「実力」ではなく「人格」で評価しているに等しい。
それはそれで人間関係を築く上での評価としては大きな好意的評価結果と言えたが、「使い魔」に対する評価としてはソレはどうなんだという問題がある。
そこに複雑な感情があるのは、イングリッドが自身に対する『同情』で使い魔を受け入れたのではないかと言う疑念がルイズにある事で、イングリッド自身のすべてを投げうって、自身の傍に寄り添う事を同意したイングリッドの底知れぬ優しさに寄りかかっているに過ぎないという感情が渦巻いているところに、ルイズの不幸があった。
自分自身であるならば、突然今住んでいる場所から連れ去られて、突如として『
もしもソレが本心を隠した擬態であるならば。
様々な勘違いや交錯のあった会話の中で、激怒されて突き放されても仕方がない感情の発露をぶつけられて結局それらをすべて許して忘れるイングリッドの底の深さは、ルイズにとって理解出来ない、一種の恐怖ですらあった。イングリッドがそれらに、大して気を向けていないのも不幸であるし、イングリッド自身がそれらを重視していないのも不幸であった。ルイズがイングリッドに対して感じている申し訳なさの材料はイングリッドには考える必要も無い事ばかりであって、それによってなおのこと、イングリッドがルイズの発するそれらの感情を理解する事が出来ないでいる不幸もあった。
対人関係の構築に対して基本的に一期一会か、さもなくば拳で語れを常識にしていたイングリッドは、はっきり言ってそのあたりの空気を読む能力に致命的に劣っているため、ルイズのそういった反応に対して対応出来ていないという不幸があった。
イングリッドがある程度自身の考えでルイズに対してあれこれと配慮をしているつもりになっていたのだが、それらはルイズに伝わっているとは言い難いものがあった。
楽しく仲良く相対しているようで、その実、2人は深い溝を挟んで互いにすれ違っている状態だった。
イングリッドの問いに、ルイズは複雑な笑みを向けて頷くくらいしか出来なかった。
「うん……そうね。一緒にいてくれるだけで嬉しいわ」
小さな花が開いた様な微かな笑みに、イングリッドは大きく頷き返す。
「うむ。まあ、今のところ何をしていいか判らんが。だが、一緒にいることは約束しよう」
うんうんと頷くイングリッドが今度ははっきりとルイズに顔を向けて、笑う。
「主が嫌じゃと言わん限りは絶対に離れんぞ」
その言葉に、ルイズも大きな感情をこめて頷く。
「うん……ありがとう……」
知らず、ルイズは身体の前で何かに祈るように手を合わせた。
最大の不幸は、或いは幸福は、イングリッドがルイズに何を考えて、何をしようとしてもそれを歪めて曲げる何かがイングリッドの中にあったことだった。
それがその後にいかなる影響を与えるかを想像出来る者はいない。