ZEROの使い魔 太陽の少女   作:伊豆擱 里弧芦

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ZEROのルイズ(2)

 生理現象を済ましてすっきりしたイングリッドは、すぐさま階段室に足を向けた。やや重い、だが素早い足取りでルイズの部屋を目指す。

 日が昇るにつれて逆に寒々しい空気が濃厚に漂い始めたかというような錯覚を覚える階段を、足音一つ立てることなく駆け上がって行く。何しろ寮塔の各フロアは天井が高い。建築構造上、いかなる造りをしているかに大いなる疑問があるが、フロア床、或いは天井を構成する構造が分厚いのもあって、単純に6階に行くのがかなりの重労働である。

 

 魔法が使えないが故に、毎日、この階段を上り下りし続けたルイズはかなり頑強な身体をしているのではないか。イングリッドはそういう想像してしまう。

 

 実際に貴族が利用していない現状があるとはいえ、建前としては、貴族が利用することを前提とした構造である。「通常の階段」と比べるならば相当に緩やかな構造で1段1段の幅も広い。塔自体の構造が円筒形であり、背骨のように塔の中心を貫くエレベーターシャフトに沿って作られた階段であるから、当然のごとく階段も弧を描いて上を目指す。中心に近い部分の幅は狭く、外に向かって扇方に面積が増し、外周部はこれを階段であると言うにはかなり勇気が必要な程に踏み代が広い。

 この様な構造では、ぼけたんとしてなんとなく足を踏み出せば、次の段に足がかかることなくけつまずいて池田屋落ちを体験する羽目になろう。中心側であってすら緩やかであるから、それほど酷い事態にはなりそうも無いが。

 階段を「昇降する」と言う面では楽な構造と言えなくは無いが、絶対的な歩行距離は相当なもので、コレを毎日となると、女性としては(人間としても、だが)ありえないほどに頑強頑丈なイングリッドであっても想像するだけで顎が出そうである。

 

 それを毎日、である。ルイズは真面目で優秀な生徒だとコルベールは何度も強調していた。「真面目」で「優秀」な基準は、学校と言う体裁を取る「学院」に席を置いてはまず何を置いても「成績」であろうが、次いで重視されるのは「態度」であろう。

 「態度」の中で重視される筆頭に上がるのは、出席日数である。「真面目」で「優秀」だと手放しで賞賛されるのであれば……。

 

 毎日毎日、たった1人だけで孤独に階段を上り下りする日々。

 

 想像してしまう。

 

 勉強道具、授業道具を持って、この寒々しい階段を1人で。

 薄桃色の金髪を揺らし、ただまっすぐ前をむいて、口を結んで、ただただ階段を進むルイズ。

 足音だけがそれに着いて行く。天井全体が発光しているかのような照明によって、人にとって最も近しい隣人である影は散らされてはっきりしない……。

 

 イングリッドはいつの間にか自身の足が、踏み出すことを忘れてしまっている事に気付く。

 哀しみを感じる情景を頭を振って振り払い、気を取り直して上を目指す。

 

 

 誰かが来る可能性は無く、誰かが利用した気配も殆ど無く、それにもかかわらず、毎日の清掃が行き届いて清潔なあの場所。西洋風のつくりで、落ち着きがある調度といい、酷く肌触りのいい象牙製と思われる座る場所の感触とあいまって、非常に気持ちが良かった。

 トイレット・ペーパーが備えられているのにはさすがに驚かされた。ロールタイプではなく、積み上げられた正方形の紙であったが、間違いなくトイレット・ペーパーだった。たぶん。

 思ったよりも柔らかくて肌触りが良く、しかも白い。処分に関してはどうすれば良いか見当もつかなかったのだが、トイレの個室には便器とレバー以外に何も見当たらなかった。そのためイングリッドは躊躇いつつも便器に投げ入れて流してみた。詰まって逆流ともなればそれこそどうしていいかわからないが、幸いにも問題なく流れた。この世界の技術的発展の方向性の揺らぎにはもはや驚くことを通り越して呆れるばかりである。現代地球でも大都市圏であるならばともかく、先進国であっても汚物以外は流せない水洗便所というのは結構あるのだ。汚物にしても、あまりにも大量に投下する事が予測される場合には数度に分けて流すことが求められる場合もある。そういうものなのだ。

 さすがに貴族のための学院だから、であろうと思いたい。一般庶民も含めてこの生活が維持されているならばこの世界に対する評価を大幅に上方修正しなければならないだろう。

 ちゃんと便器に臭気避けの水がたまっていたのもポイントが高いし、自身の予想よりもずっと勢い良く水が流れたのは最高に気分が良かった。

 

 想像以上に悲惨な情景を幻視したことを忘れるために、そんな益体も無い事をイングリッドは考えた。

 

 

 その複雑な気分のまま更に急いで3段飛ばしに階段を上がっていくイングリッド。「普通」の階段ならば10段分はある幅を、普通に3段分ある高さと共に1歩で踏み抜いて駆け上がるその姿は、既に人間の範疇を踏み外していたが気にしない。無意識に気配を探り続けるイングリッドには、階段室に接近する誰か等は感じられない。階段室に誰かが来る可能性は今のところ無いのだ。遠慮する謂れは無い。

 そうして走るイングリッドは、多くの気配が活動を始めた寮塔の中にあっても、一切の人間に出会わない事に当惑もするし、納得もしていた。本当に誰も近づこうとしないのだ。ルイズから受けた説明が正しいのであれば、今、この段階で、階段で他の生徒に出会う事は無いだろうし、これからもよほどのことがない限りありえないのだろう。それでも若干の疑問は募る。

 

 本当に、空を飛んでいるんだろうか?

 

 実はイングリッドは、この世界の理の根幹にある魔法と言うものを未だにはっきりと見ていない。

 

 

 

 召喚の儀によって現出した『鏡』は正直なところ、余りにも異常なものであって、あれが人の『力』であるというのはイングリッドには俄かに頷けないところがあった。

 意志の介在があったのは認めるが、その結果を得るためにあの『鏡』が行った、少年を『攻撃』したあの姿。あれは、どちらかと言うと魔法という人間の力が介在した『力』の発現と言うよりも、あれ自体が一種のクリーチャーであったと言われたほうが、まだ納得の出来るモノだった。あれ自体が『使い魔』を得るために地球に遣わされた『使い魔』であったとすら思える。

 判断するにはあまりにも材料が少ないし、自分が存在する以上は2度と発現しないのだと言われれば、それを調べるのも難しいので、とりあえずは保留する他無い。だが、やはりあれを『魔法』という、人間が行使した『術』と見るのにはかなりの疑問があった。

 

 コントラクト・サーヴァントも結局のところ、メイジという『力』の行使者がサモン・サーヴァントと共に一生に数度行うかどうかと言う魔法である。使いようによっては強力な武器、或いは武器になるであろう存在を呼び出せる筈の、召喚の儀。サモン・サーヴァントと実質セットになっているそれを一生涯使わずに過ごしてしまうメイジも多いという。

 確かにドラゴンを呼び出して使役出来得れば、それだけでメイジの格は固定されたも同然の結果を得らよう。だが、当代一流のメイジが、一流の血筋が呼び出した使い魔が、アリンコでした。などとなればいろんな意味で面目丸つぶれあろう。そういったリスクがあるのであれば、確かにその使用は躊躇わざるを得ない。

 またそういうことがあるかどうかは知る由もないが、魔法を知らない者としては当然の如く考える想像として。

 

 サモン・サーヴァントは成功しました。

 ハウザーを召喚しました。

 コントラクト・サーヴァントは失敗しました。

 ハウザーに喰われました。

 

 などと言う可能性もありうるのでは?と、思ってしまう。

 特に「キス」という魔法行使の形態はいただけない。使役状態に至っていない、中途半端な「呼び出されただけ」の状態にある猛獣に近づいて「キス」。非常にリスキーな行動だ。

 「常識的な想像」をめぐらせればバックりやられてお終いであろう。そのあたりの「常識」が随分と乖離して普通に思っているフシがあって、イングリッドは困惑するところしきりである。

 凶暴なケモノでも現れて、暴れましたとなれば魔法で麻痺させるとか瀕死の重傷を負わせるとか何とかしているんだろうか?そのためにコルベールの様な者が、召喚の儀を行う場所にいるのかとまで邪推してしまう。ソレはそれで使役する段で深刻な状況を招来しそうだが。そんなんで信頼関係を結べるとでも思っているのだろうか?

 そこまで考えてイングリッドは思わず笑ってしまう。出来る。他でもない。その実例がここにあるではないか。

 

 コントラクト・サーヴァントが基本的には積極的に他人に危害を加える類のモノでは無いのは確かな様である。すなわち、現状における最優先事項となっている自分の主たるルイズの身に及ぼす危険が無いという点では、あまり調査優先順位が高くない。

 

 翻ってサモン・サーヴァントに関しては『元の世界』に与えた影響の未知数と、サモン・サーヴァントが『元の世界』で観測されたであろう事が確実と言う情勢での「その後」の影響が未知数と言う部分で無視し得無いため、本来は極めて調査優先順位が高いのだが、調査のしようが無いというのが悲しい所ではある。

 

 イングリッド自身に浴びせかけられた『攻撃』も判断が難しい。コルベールやルイズの言を信じるならば、極めて稀なと言うか、他に類例の無い『現象』であるという。そうであるならば、あれを受けたイングリッドの経験は、現状ではルイズ以外の他の魔法行使者に対する判断材料には使えない可能性が高いと判断せざるを得ない。

 他ならぬ重要護衛対象であるルイズの『力』であるから、アレによりルイズの実力を測って、危急におけるルイズの行動如何を判断する材料として一つの指標にはなろう。けれども、今のところはあれ1回のみであるし、判断材料となるケースを増やさなくてはルイズが何を出来て何が出来ないかもわからない。

 

 そも、ルイズが魔法を失敗すると言われても、それこそイングリッドは判断が付かない。判断のしようが無い。

 失敗だと言われた爆発も「攻撃」として見れば大した威力で実際、イングリッドは危うく命を落としかけたのだ。あの発現プロセスがわからない攻撃を自由自在に狙ったところに起こせるのならば、自身の知る闘争の場では最強に近いだろう。デミトリやジェダ辺りでも瞬殺では無いかと思える程の力の収束を見た。死ななかったのが本当に奇跡に思える。

 さらに、実際に召喚「される元」で起きた出来事に疑問符があるとはいえ、結果だけを見ればサモン・サーヴァントは「成功」している。

 コントラクト・サーヴァントも成功している。実際に成功しているかどうかは、他の例を知らないので比べようもなく、イングリッド自身に判断が付かないのだが、コルベールは成功と断じた。彼との会話で彼が様々な理由により、積極的にサモン・サーヴァントに立会い、その副次的結果としてコントラクト・サーヴァントを多数見届けている上で経験からの意見と言うならば、まあ信じるに足るであろう。

 イングリッドにはつまり、何が本当の意味で『魔法の成功』であり、何が本当の意味で『魔法の失敗』なのかすらわからないのだ。

 

 実は、この3つのみなのである。イングリッドが実際に観測しえた「魔法」という現象は。

 イングリッド自身に影響を与えた魔法はそれ以外に、レビテーションと秘薬という、魔法をブーストする役割を持った薬に水の魔法を併用した治療行為があったというのだが、双方ともイングリッド自身の意識の埒外であったし、双方とも後遺現象が一切残っていなかったため(治療の結果としてイングリッドの負傷が全快したという意味では後遺現象が「あった」とも言えるが)、なんとも判断に苦しむ面がある。

 自身にあったかなり大きな負傷を治療したらしい『水の魔法』の行使は、その能力のあり方としてある種、恐ろしいものがあったが、実際の負傷程度もわからなかったから(何しろ跡形もなく治療されていた)結果がすさまじいと理解出来るだけで、どのような力の行使があったか判らないという点では、結局、無知のままである。

 

 それ以外の魔法に関しては、話に上るだけでイングリッドとしては留意事項として心に留めて保留するだけであったからこれまた判断材料が無い。特に、ルイズに食らわされた一撃以外の「攻撃魔法」がいかなるものか、実際に見ていないという事実はイングリッドに焦りを感じさせる結果となった。

 自身が()()()()()()()()と決めたルイズを、現状、もっとも危険にさらす可能性のあるのが『魔法』である。魔法を行使して当たり前という存在が溢れかえっていて、しかも、それらを普段から当たり前のように生活に密着させている。

 イングリッドが特段にそれらに脅威を感じるのは、それが「拳銃」では無く「包丁」であるという点だ。

 拳銃であれば、それを扱うのには様々な葛藤が生まれる。シリアルキラーでもない限りは、普段からそれを振り回すことなんてありえない。

 しかし包丁は違う。身近な道具だ。普段の生活で包丁を使うことを躊躇するものは、先端恐怖症の者か、余程の不器用者だろう。ここで問題になるのは、普段の生活に密着している故に、些細な理由でそれが持ち出されかねないという事だ。それはつまり、喧嘩とかである。

 拳銃が持ち出される喧嘩、なんていうものも日常茶飯事な国があるが、それは国レベルでのイレギュラーであって、人間社会全体でいえば普通ではない。

 しかし包丁やアイスピック、カッターに彫刻刀といった生活に身近な道具が顔を出して、他人を殺傷したという事件は世界中で枚挙に暇が無い。

 イングリッドが恐怖するのはつまり、魔法がそういった存在であるように思えるこの世界のあり方である。しかも、イングリッドが体験した限りに於いては「拳銃以上の威力を持った包丁」。そうなってしまう。これを恐怖しない理由は無い。

 それらの実際の正体が不明であっては、ルイズを守るどころの話ではない。早急に確認したいところが本音である。

 

 

 

 あれこれ考えながら、走っている内にルイズの部屋の前にたどり着いてしまう。

 実際に寮の外、空中にいくつかの気配が『飛んで』いるのが感じられたから、魔法で空を飛ぶ事が出来るのであろうと言う納得は得られたが、早急に目で見て肌で感じる必要性がある事には違いない。

 「空を飛ぶ」事。それ自体は攻撃ではないし、イングリッド自身の経験から言っても、「空を飛ぶ」事、それ自体は珍しいモノではない。わりと普通にみなさん空を飛んでいらっしゃる。

 イングリッド自身も長距離は難しいが「それなりに飛ぶ」事、それ自体は可能だ。能力制限無しでよければ、太平洋を一跨ぎ、なんていう事も「不可能ではない」。そんな事をすれば確実にNORADを混乱させるため、余程の緊急事態が無い限りは禁じ手だが。

 しかし「空を飛ぶ」事を行いつつ何が出来るか、何をする事が出来るかを理解し、確認する優先度は非常に高い。それにのみ拘泥して、他の事柄から目をそらすのは無論、危険であるが、本当に飛んでいるモノがいるらしい事実がそこにあるようだと言うなら、早く確認したいという思いは強い。

 

 ただ、現状に於いての優先事項はもう一つある。しかもそれが最上位であるから、その目的を達するべく、ルイズの部屋に入る。

 

 ルイズを起こすのである。

 

 

 自身の背後で音も無く閉まりつつある扉を感じつつイングリッドは、ベットに近寄り、ルイズを見下ろす。見ているほうも幸せになれそうな表情が微笑ましい。これでよだれに塗れているとかあれば酷く興ざめであろうが、幸いにもそういう状況にはなってはいなかった。ひどく自由な体勢で布団の上に身体を投げ出してなお、育ちのよさがにじみ出ているように思えるのは身びいきか。みだれたシーツや布団からはみ出した両腕も微笑ましく見える。

 いつの間にか自身の表情が随分緩んでいることに気が付いて、イングリッドは小さく咳払いをして、自身をごまかす。詮方ない行為をした自身を恥じつつ、穏やかな寝息を立てるルイズに顔を近づける。

 どうやって起こそうかと思っている内に、イングリッドの気配に気が付いたのか、ルイズ自身が自分の意志で目を覚ましてしまった。鳶色の瞳をゆっくりとまぶたの間から表して、イングリッドを見上げるルイズ。

 イングリッドが自分自身の意思でルイズを起こすことが出来なかった。そのことに予想外の残念を感じた自身の気持ちに気が付いて、なぜか頬が紅潮させる。自分はそういった類の危ない趣味の人間であったのかと、妙な混乱に包まれて身体を硬直させてしまった。

 ルイズに覆いかぶさるように身体を傾げるイングリッドに、緩やかに起き上がったルイズは、なぜかそのままイングリッドに抱きついて、その顔を、その人並み程度にはあるとイングリッドが自己採点している胸にうずめた。

 イングリッドは自身の顔がすさまじい勢いで熱くなるのが理解できた。頭から蒸気が噴出しそうだ。

 ルイズがイングリッドの胸の中でもぞもぞと顔を振って口を動かす。そのこそばゆさにイングリッドの口がおかしな形に歪む。目じりからなぜか涙が出そうだった。イングリッドはルイズを抱きしめようと両腕をのろのろと持ち上げて背中に回そうとする。

 

「ちい姉さま……おはよう。今日の朝食は何かしら……」

 

 一種の幸福感にも似た感情に包まれていたイングリッドはその言葉を聞いて、意味を咀嚼し、そしてその言葉の中に自身の知らない人物の固有名称が含まれている事に気が付いて、急速に気持ちが醒めるのがわかった。一瞬の激情で、背中に回そうと上げた腕に力をこめて、ルイズを突き飛ばしそうになったが、その激情とは別の部分で醒めたイングリッドの心が、そのようなことをすれば『主』を傷つけてしまうと強く警告を発した。

 結局、一瞬の激情に身を震わせはしたがイングリッドは、努力してそれを収めると、目を閉じて深呼吸をした。その鼻にルイズの頭から発せられる香りが入ると、またもや急激な幸福感がよみがえって、そういう自身の気持ちの激しい変遷に大いに戸惑ってしまう。

 イングリッドは努力して混乱を収め、ベットの上で膝をついて腰を落とし、無理やりに―――だが優しく、ルイズを引き剥がして視線を顔に合わせた。

 

「我が主ルイズよ。朝であるぞ」

 

 しょぼしょぼとした目を瞬かせて「ぽけっ」とでも音のしそうな仕草で首を傾げるルイズは可愛い。

 イングリッドは、なんでかルイズに対する感情が術からず自動補正されているような気がしたが、あくまで気のせいだと、首を振って無理やりごまかす。

 その間にようやく覚醒状態になったのか、ルイズはベットの上で大きく伸びをした。

 

「……イングリッド……おはよう。ちゃんとおこしてくれたのね……」

 

 「ほにゃほにゃ」と顔を歪めて両手でぐりぐりと目をこする。先ほどの呟きは無意識であったのか、はたまた夢の続きであったのか。ルイズ自身は気が付いていないように見える。

 その仕草もまた……と思考が揺らぐ様に気が付いてイングリッドは大きく首を振った。意味不明な自身の感情の揺らぎに大きな動揺を抱えたままベットから飛びのき、クローゼットの方向に後ずさる。

 

 なんじゃ。なんじゃこの感情は……!

 

 それに気が付かないルイズも、ネグリジェのすそを無意識に引っ張りながら、ベットの天蓋を支える柱に手をかけて、ゆっくりとベットから降りる。

 その柱にかけられたハンガーを手にして、ネグリジェを脱ごうとし、当然のことながらハンガーとそれを握った手が邪魔でネグリジェを脱げないでいるが、ソレを理解出来ていないようで首を捻る。何度かそのままで脱ぐ努力を繰り返して、ハッとした表情でハンガーに視線を向けて、次いで自身の身体に目を落とし、何かに気が付いてプルプル震えながら顔をゆっくりと動かして視線を這わせ、室内を見回す。そうしてルイズは、ついにイングリッドの姿を見つけた。

 クローゼットを背に身体を預けたイングリッドは「ぽかん」という音の聞こえそうな表情でルイズを見つめ返し、次いでルイズと視線が合ったことに気が付いて首を捻り、最後にルイズの行動に合点が行って、その顔をじわじわと歪めていった。

 それを見つめるルイズの顔を朱というにはなお赤い色が染め上げて、ついにその口から声にならない怒声が突き抜けた。

 

 「……!……!!」

 

 両手を大きく振り回して何かを叫ぶ。当然、手にしたハンガーが猛烈な勢いで空中を渡り、イングリッドを襲う。イングリッドは素早く身を翻し、しかし避けてしまっては投げられたハンガーそのものか、はたまたハンガーの軌道の先にあるクローゼットか、或いはその両方に甚大な被害が出る可能性に気が付いて、身を引きつつ左手を突き出してハンガーをキャッチするという妙な格好を取る羽目になった。

 風車をつけたベルトを巻いていれば、次にジャンプして変身するのだと言われても信じてしまいそうな珍妙なポーズだった。その体勢をとるために酷く身体が捻れたが、幸いにしてそれにより脱臼とか阿呆な被害を自身に発生させることもなく、思ったよりも強力な投擲能力をルイズが持っている事実に感心するだけですんだ。

 ひとしきり両手を振って落ち着いたのか、或いは疲れたのか。大きく肩を上下させて息をするルイズ。イングリッドはハンガーを壁際の床に置きつつ、我慢できずに小さく吹き出した。先程とは明らかに違う種類の涙が自分の瞳に表れた事に気が付いて更に大きく表情を歪める。

 そのイングリッドの様子を見たルイズが再沸騰しそうな状況を知った彼女は瞬間焦って、一瞬にしてルイズに近寄り、その両肩に手を置いた。

 混乱が収まりきらない内にルイズの妙な仕草を目にしたイングリッドは冷静な判断を欠いて、そのまま混乱状態を継続してしまった。一瞬が生死を分ける闘争の場に身をおき続けたイングリッドとしては極めて致命的な状況である。そのため、何か考えがある訳でもなく、反射的にルイズに接近しただけであったが、風を巻き起こして突然自分の前に現れたイングリッドに驚いて、呆けたルイズは両手を胸の前に置いてびくりと身体を震わせる。

 無表情にそれを見つめたイングリッドはだが次の瞬間に、ルイズが先程見せた痴態を思い出して抑えきれずにまた吹き出してしまう。

 目の前でイングリッドの表情の変化を見せ付けられたうえにイングリッドの口から跳んだ唾を浴びせられて、ルイズは再度、身体を震わせる。だが、それを遮るように「ぽんぽんっ」とばかりに頭を撫でられて、顔に付いた水滴をぬぐうイングリッドの左手を目で追うと、刹那に震えを収めて顔を上げる。

 

「とりあえず、着替えかや。ルイズよ」

 

 柔らかな笑みを浮かべたイングリッドの表情を浴びせられて毒気が抜かれたルイズは、はあと息を吐いて、いつの間にか緊張で固まっていた身体から力を抜いた。

 

「そうね……」

 

 ゆるゆると今度こそネグリジェを脱ぐルイズ。

 

「朝から疲れたわ……今日は休もうかしら……」

 

 クローゼットの前で片膝をついて引き出しを開け、その中から目的のものを取り出すイングリッドが呆れたように声を上げる。

 

「馬鹿なことをいわさるなルイズよ」

 

 パンティとキャミソールを手に取り、それを片手にまとめて、先程脇に避けたハンガーを持ち、ルイズに近寄る。

 ルイズがパンティとキャミソールを手に取り、代わりにネグリジェを手渡した。それを受け取ったイングリッドは、ハンガーにネグリジェをかけ、昨夜見た、ベットの柱についているフックにそれをかけた。

 

 パンティを履きながらルイズはテーブルの脇にあったはずの籠が無い事に気が付いた。イングリッドに問いかける。

 

「洗濯は済んだのかしら」

 

 クローゼットから制服のブラウスとスカートを取り出していたイングリッドはぎくりと肩を震わせる。キャミソールを頭から被ってもぞもぞしていたルイズはそれに気が付かない。

 

「あー、そのな、ルイズよ」

 

 イングリッドのすまなさそうなしおらしい声に疑問符をつけながら、ルイズはキャミソールから頭を出して手を伸ばす。

 まずイングリッドはスカートを手渡し、それを受け取ったルイズが足を上げて通す。

 

「メイドに取り上げられてしまったわ」

 

 イングリッドは、ばつが悪そうに視線をルイズから逸らせて鼻を掻く。

 スカートの位置を合わせて、留め具をかけ、スカートの腹回りを調整する。

 

「??どういうこと」

 

 問題が無い事を確認したルイズが再度手を伸ばしたので、イングリッドはブラウスを手渡す。

 

「うむ。素人に洗濯されると迷惑だから、勝手なことをするなと怒られたわ」

 

 手ぶらになったイングリッドがテーブルを回り込んでベットに向かう。柱のフックにかけられたマントを手に取る。

 

「えっ!そんなことを言われたの!」

 

 ルイズはブラウスのボタンを留める手が止まり、若干の怒りを表してイングリッドに振り返る。

 イングリッドは慌てて手を振ってそれを否定する。

 

「違うのじゃルイズよ。そんなに強く叱責されたわけではない」

 

 その言葉に首を傾げながらブラウスのボタンを留める作業を再開するルイズの背に回って、イングリッドはマントをルイズの小さな、しかし、妙にがっちりした肩にかける。

 

「まあしかし、道理じゃの。使用人の仕事を奪うわけにもいくまい」

 

 イングリッドに手伝ってもらいながらマントを肩に固定するルイズ。その顔には不満が表れていた。

 

「……場所を借りて、洗濯すれば良いじゃない」

 

 その言葉に疑問を浮かべるイングリッド。小さく首を傾げて一つ、頷くと、勉強机の上にある杖を手にする。

 その姿をルイズは腰に手をあてたまま見つめる。その表情は不満がありありと浮かんでいる。

 

「ルイズや。洗濯はどこでやるか知っておるかや」

 

 イングリッドはルイズに杖を差し出したが彼女はその杖を手にすることなく、不満顔のまま首を捻る。杖を持った腕が行き場をなくして宙を彷徨う。

 ルイズは自分が生まれて、それから短くは無い期間を過ごした自分の自宅とそこにある設備を思い出してた。

 ……そうやって学院の施設を思い出さない辺りに、使用人の仕事に対する興味の無さ、無理解があるところに気が付かない。

 

「ランドリーでしょ」

 

 イングリッドがその答えに呆れたように鼻を鳴らした。

 

「なんじゃ。知っておったのか」

 

 その言葉に瞬間で激昂して、勢い良くイングリッドの持った杖をつかみ引き寄せようとして……ルイズは目的を果たす事が出来なかった。微動だにしない。綱引き状態にすらならなくて、本当の意味で真実、微動だにしない。そのことに驚愕する。まるで彫像の腕を引っ張っているようだった。

 その姿にイングリッドは内心、忙しい人じゃのなどと溜息を吐いたりする。

 

「洗濯物がどれぐらいあるか知っておるのかや?」

 

 ルイズは腰を落として必死な表情で杖を引っ張るが、まったくその努力が実りそうにない。彫像の腕どころか実家の庭に置いてある大きな岩を引っ張っている気分になるルイズ。それを表情を変えぬまま見つめるイングリッド。

 

「朝と……夕方に……」

 

 その言葉にかぶせるように呆れた声がイングリッドの口から漏れた。

 

「なんじゃ。知ってはおらなんだか」

 

 イングリッドが力を緩める気配を見せたため、慌てて引っ張るのをやめるルイズ。そのまま力いっぱい引っ張っていたら、ルイズの身体は壁まで吹っ飛んでいただろうと思える。

 

「大量じゃよ。大量にあるんじゃ。24時間、四六時中じゃ」

 

 ルイズは微妙に疲れた表情を顔に浮かべながら杖を受け取って、スカートに作りつけられたホルスターに杖を収め、表情に疑問符を重ねてイングリッドを見つめる。

 

「え?私たち、そんなに洗濯物を出さないわよ?」

 

 息を吐いて、眼を伏せたイングリッドは振り返り、微かに目を開いて再度机の上に視線を彷徨わせる。

 

「掃除、洗濯、それをするのにメイドたちはスッパで……裸で作業するのかえ?」

 

 ルイズは「すっぱ」と言う言葉の意味が判らなかったが、言い直した言葉で、それが裸を意味する彼女の「方言」だと知った。

 

「でも……着替えぐらい」

 

 イングリッドはその言葉も遮って自身の言葉をかぶせる。

 

「どれだけ広いとおもっとるんじゃ。正直我も全体はしらんが……」

 

 何かを見つけてそれを手に取るイングリッド。

 

「服も相当汚れようぞ」

 

 その言葉にルイズは頭を捻る。

 

「でも、そのまま掃除をするんでしょ」

 

 大きく溜息を吐き出された。イングリッドがやれやれとばかりに首を振る。

 

「汚れた服のまま自分の部屋の掃除をされたいんか、主は」

 

 その言葉にようやく僅かばかりの理解をする。

 イングリッドはルイズの背に回る。

 

「1部屋ごとに着替えんといかんの。1部屋1部屋じゃ」

 

 首に手を回し、ペンタグラムをあしらったネックレスを首にかけて整える。後ろから回されたイングリッドの手が意図せず、肌に触れるたびに、妙な熱が自分の頬に宿ることにルイズは気が付いた。

 

「シーツとかも代えんといかんしの。掃除するにも雑巾を使うであろ」

 

 イングリッドはルイズの正面に回りこんで、しゃがみこみスカートを整える。その姿を正視出来ずにルイズは視線を逸らしてしまう。

 

「個室だけでないの。教室も掃除するであろうし……」

 

 イングリッドが立ち上がって皺が寄っているブラウスを綺麗に整える。

 

「食堂も掃除するであろ」

 

 ルイズは巨大で豪奢な食堂の内部を思い浮かべて身震いする。どうやって掃除すれば良いのか見当も付かない。

 イングリッドがブラウスの袖を引っ張り形を整える。

 

「他にも掃除するところはいっぱいであろ」

 

 ルイズのブラウスのすそを引っ張り、少し戻して形を整えるイングリッド。やたらと手馴れている風だった。

 

「テーブルクロスとか、カーテンとか、ハンカチに、ナプキンと、マットとか……まあ、洗うべきものは幾らでもあるの」

 

 ルイズの豊かで美しい薄桃色の金髪を肩からはらい、手で素早く梳いて、整えるイングリッド。なぜかイングリッドの手がものすごく熱くなっていると錯覚したルイズだった。

 手で梳いただけなのに、見事に決まった髪の毛に気がつけない。湯気が立ち上っているイングリッドの手もルイズは見逃してしまった。

 

「無論、彼女、彼らの下着等も」

 

 イングリッドは1度、僅かばかりの距離を取って正対し、ゆっくりとルイズの周りをぐるりと回る。視線をルイズの頭の先端から足のつま先まで這わせる。

 

「戦場じゃよ。24時間の」

 

 イングリッドがルイズの正面に戻って、再度、上から下まで視線を撫で付ける。

 

「んなところに素人が紛れ込んでは……」

 

 イングリッドは満足げに頷き、ルイズの肩を叩いた。

 

「まっ、こんなところじゃろ。準備は完了じゃ」

 

 四六時中ひきも切らない洗濯物の山が持ち込まれるランドリーで忙しく立ち働く使用人たち。その片隅で、1人が付き切りでイングリッドに洗濯のやり方を教える。ルイズの想像する前提としてイングリッドが洗濯のやり方を一切知らないという形になっているが、こんなに偉そうな少女が、その道のプロフェッショナルたる使用人たちの手を借りずに手早く洗濯を済ます姿が想像もつかない。

 ついでに考えてみれば、この少女が箒やちりとりを持って部屋掃除したり、バケツを担いだり雑巾を絞る姿は生まれ変わってもありえなさそうだった。

 

 ルイズは肩を落として大きく溜息を吐いた。

 

「じゃま、ね」

 

 僅かに傾いだ顔に、一瞬切なそうな表情を見せて、しかし、イングリッドも頷く。

 

「そうじゃろ」

 

 息を吐いて、両手を垂らし、肩をならすルイズ。その姿をイングリッドは苦笑いで追う。

 ルイズは朝食の後に慌てる事が無いように、今のうちに勉強道具を整えようと、机に近づき視線を左右に動かす。

 

「そうすると……どうしようかしら」

 

 目当てのものが見つからないことに僅かに焦りを深めながら、ルイズは呟く。

 

「イングリッドの仕事」

 

 ルイズは首を傾げて探し物のありかを思い出そうとする。

 イングリッドはばつが悪そうに頭を掻く。足で床をけりそうな勢いだ。

 

「ああー……、我は役立たずじゃの……」

 

 ルイズは顎に手を添えてくすりと笑う。

 

「服を整えてくれたじゃない」

 

 イングリッドは肩を落とした。

 

「それじゃあ鏡じゃ……」

 

 ルイズは自分の探し物の行方を思い出して小さく嘆息した。肩を竦めてイングリッドのほうへ振り返る。

 

「そうね、私の側で私を慰めてくれれば良いわ」

 

 イングリッドは背を丸めた。

 

「それじゃあペットじゃ……」

 

 くすくす笑いながらイングリッドの右腕をつかんで引き寄せて、しおらしく下を向いた頭を右手で「いいこいいこ」するように撫でた。

 

「我はごくつぶしじゃ……」

 

 今にも泣き出しそうなイングリッドのしょぼくれた声に、ルイズは遂にその頭を抱え込んで胸に掻き抱き、抱きしめた。

 ルイズはイングリッドの背中を撫でつけながら、今までの短い人生の中で感じたことのない感覚に包まれていた。

 

 

 

 かわいい……かわいいわイングリッド!

 

 

 


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